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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第一部 根
4/22

第四章 桐島 一

## 第四章 桐島


---


東京は、五月でも蒸していた。


桐島朔のアパートは、中央線沿いの駅から徒歩十二分の、木造二階建ての一室だった。六畳と四畳半の二間に、台所と風呂が付いている。三十六歳の男が一人で暮らすには、広くも狭くもない。ただ、雑然としていた。


デスクの上に資料が積み重なっていた。床にも積み重なっていた。本棚には本が入り切らず、床に平積みされていた。台所のシンクに、昨日の夜の茶碗が一つ、洗われないまま置いてあった。


桐島はデスクの前に座って、ノートパソコンの画面を見ていた。


画面には、エデンズフィールのウェブサイトが開いていた。


黒と空色を基調としたシンプルなデザイン。トップページには、空色の液体が入ったガラス瓶の写真と、短いコピーが書いてあった。


*自然とともに、あなた本来の姿へ。*


桐島はそのコピーを、三秒ほど見た。それから、別のタブを開いた。


---


水無瀬総合病院の内科医、村瀬からメールが来たのは、三日前だった。


桐島とは、以前に別の案件で知り合っていた。製薬会社の臨床試験データの不正を取材した時に、情報提供者として村瀬が名乗り出てきたのだ。記事になって、しばらく経ってから、村瀬から礼の連絡があった。それ以来、時々連絡が来る。


今回のメールの件名は「少し変わったことがあります」だった。


桐島は三回読んだ。


*説明のつかない回復事例が三件、ここ半年で出ています。一件目は末期の膵臓癌の患者で、六ヶ月前に余命三ヶ月の宣告をしました。先月の検査で、腫瘍が消えていました。二件目は十年来の関節リウマチの患者で、炎症反応が完全に消失しています。三件目は幼少期からの脊髄損傷で、運動機能が部分的に回復しています。三人に共通しているのは、エデンズフィールという店のハーブティーを半年以上飲み続けていることです。成分の分析を提案したところ、三人全員に断られました。*


メールはそこで終わっていた。


桐島はノートパソコンのキーボードの上で指を止めた。


末期癌の消失。関節リウマチの完全回復。脊髄損傷の改善。


どれか一つなら、誤診か自然回復の可能性を考える。三つが同じ店の客に起きているなら、話が変わってくる。


---


エデンズフィールのファイルを開いた。


二ヶ月前に別の案件を調べていた時に、少し気になって作ったファイルだった。当時はまだ、深く追う気にはなれなかった。今日、改めて開いてみた。


店舗数は全国に三十二。この三年で急速に拡大している。三年前は七店舗だった。


本社が存在しない。運営主体として登記されている法人はあるが、代表者の情報が最小限しか公開されていない。株主情報もない。


従業員の離職率がほぼゼロ。業界団体への加盟なし。広告出稿の記録がほぼない。SNSのアカウントはあるが、投稿は控えめで、商品の写真と短いコメントだけだ。


財務状況は健全どころか、異常に良い。公開されている決算情報を見ると、売上に対する利益率が、同業他社と比較にならないほど高い。コストが極端に低い。仕入れ費用が低いのはわかる。しかし人件費の低さが、説明がつかなかった。


従業員が何人いるのか、正確にはわからない。しかし各店舗に一人か二人しかいないらしいことは、口コミから読み取れた。その一人か二人が、一日中店に立っているようだった。


不思議な企業だ、という印象は、二ヶ月前から変わっていなかった。


違法な点が、見つからない。それが一番、引っかかっていた。


---


桐島は立ち上がって、台所に行った。


冷蔵庫を開けた。缶ビールが二本と、コンビニで買ったままの惣菜パックがあった。惣菜パックの消費期限は昨日だった。捨てた。缶ビールも、今日は飲む気になれなかった。閉めた。


シンクの茶碗を洗った。洗いながら、窓の外を見た。アパートの窓から見えるのは、向かいの建物の壁だった。五月の夕方の光が、その壁に斜めに当たっていた。


胃が、少しだけ痛んだ。


慢性的な胃の不調は、三年ほど前から続いていた。内視鏡で調べたことがある。異常なし、と言われた。ストレスか、不規則な食生活か、あるいはその両方だろうと言われた。薬を処方されたが、飲んだり飲まなかったりしていた。今も、どこかに置きっぱなしのはずだ。


桐島は茶碗を伏せて、デスクに戻った。


椅子に座って、ノートパソコンの画面を見た。エデンズフィールのウェブサイト。空色の瓶の写真。


*自然とともに、あなた本来の姿へ。*


桐島はその文字を、もう一度見た。


「本来の姿」、か。


---


翌朝、桐島は掲載先の編集者に電話した。


「エデンズフィールっていう店、知ってるか」


「ハーブティーの店だろ。最近よく聞く名前だ」と編集者が言った。「なんかあるのか」


「あるかもしれない。まだわからない」


「カルト系か?」


「わからない。違うかもしれない」


「記事になりそうか」


桐島は少し間を置いた。「水無瀬に行ってみる」


「水無瀬ってどこだ」


「本州中部。地方都市だ。一番古い支店がある」


「経費で落とせるのは、記事になる確証があってからだぞ」


「わかってる」と桐島は言って、電話を切った。


---


新幹線のチケットを取ったのは、その日の昼だった。


水無瀬への経路を調べると、新幹線で二時間、在来線に乗り換えてさらに四十分だった。東京からの距離としては、遠くもなく、近くもない。


出発は二日後にした。それまでの間に、できる限りの事前調査をしておく。


エデンズフィールの口コミを、片っ端から読んだ。


「体調が良くなった」「よく眠れるようになった」「肌艶が変わった」「人生観が変わった」。肯定的なものが多かった。否定的なものは少なく、「効果を感じなかった」「値段の割に普通」という程度だった。深刻な被害を訴えるものは、見つからなかった。


気になったのは、「外見が変わった人がいる」という投稿がいくつかあったことだ。「髪が銀色になった」「目の色が変わった」「背が伸びた気がする」。写真付きの投稿もあった。


桐島はその写真を見た。


カラーコンタクトかもしれない。染髪かもしれない。しかし何枚か見ていくうちに、そうではないものがあった。肌の色が、明らかに変わっている写真があった。日焼けとは違う。均一で、深みのある黒さだった。


桐島はその写真を、しばらく見た。


それから、フォルダに保存した。


---


翌日、桐島は国立図書館に行って、いくつかの資料を調べた。


エデニア・ノクティスという名前が、どこかに出ていないか。出てこなかった。植物学の文献にも、医学の文献にも、名前がなかった。


楽園再造、という言葉を調べた。旧約聖書の注釈書に、関連する記述があった。エデンの園、失楽園、人間の堕落。桐島はその箇所を読んだ。


*神は人間を園に置き、そこにある全ての木の実を食べることを許された。ただし、善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと命じた。人間はその禁を破り、楽園を追放された。*


追放された後、人間は労働と苦しみの中で生きることになった。聖書はそう言っている。


桐島はその箇所に付箋を貼って、図書館を出た。


---


新幹線の中で、桐島はノートに書き出した。


既知の事実。疑問点。確認すべきこと。


**既知の事実**

全国三十二店舗。三年で急拡大。本社なし。広告費ほぼゼロ。離職率ゼロ。利益率異常に高い。水無瀬店が最古の支店。説明のつかない回復事例が水無瀬で三件。外見が変化した客がいる。


**疑問点**

資金源は何か。従業員はなぜ辞めないのか。コストがなぜこれほど低いのか。外見の変化はなぜ起きるのか。成分分析を全員が断ったのはなぜか。運営の意思決定はどこでされているのか。


**確認すべきこと**

店舗の内部。従業員への直接取材。回復事例の当事者への取材。村瀬医師からの詳細な情報。外見が変化した人物への取材。


書き出しながら、桐島は自分がこの案件に引き込まれていることを感じていた。


引き込まれる感覚は、良い取材の予感だ。十年以上この仕事をしてきて、そのことは体でわかっていた。薬害の案件の時も、食品偽装の案件の時も、最初にあったのはこの感覚だった。


ただ、今回は少し違った。


引き込まれる理由が、純粋な職業的好奇心だけではない気がした。


何が違うのか、うまく言えなかった。ノートを閉じて、窓の外を見た。新幹線は山の中を走っていた。トンネルに入って、窓が暗くなった。暗い窓ガラスに、桐島の顔が映った。


無精髭。目の下の隈。くたびれたジャケット。


三十六歳だった。


気づけば、三十六歳になっていた。


離婚したのは五年前だった。元妻の名前は理恵といった。三十歳で結婚して、三十一歳で離婚した。子供はいなかった。理恵は桐島の仕事の仕方に、最初から何も言わなかった。文句も、要求も、ほとんど言わなかった。ある日、「限界です」と言った。桐島は「何が」と聞いた。理恵は少しの間、桐島を見てから、「あなたがここにいないんです、いつも」と言った。


桐島は反論できなかった。


そういう夫だった。


トンネルを抜けた。窓の外に、田んぼが広がった。五月の田んぼは、水が張られて、空を映していた。


桐島は窓から目を離して、ノートを再び開いた。


---


水無瀬駅に着いたのは、午後三時過ぎだった。


改札を出ると、ロータリーがあった。タクシーが二台。ベンチに老人。それだけだった。


桐島はスマートフォンでビジネスホテルの場所を確認した。駅から徒歩七分。ルートを見ると、商店街を通ることになっていた。


歩き始めた。


街は静かだった。


車通りが少ない。人通りが少ない。商店街に入ると、シャッターの多さが目についた。生きている店と、眠っている店が交互に並んでいる。アーケードの屋根から、五月の光が斑に落ちていた。


桐島はキャリーケースを引きながら、商店街を歩いた。


角地に、店があった。


黒と空色の看板。ガラス越しに、空色の瓶が整然と並んでいる。明かりがついていた。


エデンズフィール、と看板に書いてあった。


桐島は立ち止まった。


ガラス越しに、中を見た。カウンターに、人がいた。


背が高かった。二メートルはある。肌が黒い。髪が銀色だった。


桐島は五秒、その人物を見た。


その人物が、こちらを向いた。金色の目が、桐島を見た。


目が合った。


桐島は視線を外した。キャリーケースを引いて、歩き続けた。


---


ホテルにチェックインして、荷物を置いた。


シングルルームは狭かったが、清潔だった。窓から商店街の一部が見えた。エデンズフィールは、この角度からは見えなかった。


桐島はジャケットを脱いで、椅子に座った。


スマートフォンで村瀬に連絡を入れた。「水無瀬に着きました。明日、伺えますか」


すぐに返信が来た。「明日の午後二時、病院で待っています」


桐島はスマートフォンを置いた。


窓の外を見た。水無瀬の空が、夕方の色になっていた。山の稜線の上に、雲が一つあった。


先ほど、エデンズフィールの店内で見た人物を思い出した。


身長二メートル。黒い肌。銀髪。金の目。


写真で見ていた。口コミで読んでいた。しかし実物を目にすると、写真とは違う何かがあった。


怖いわけではなかった。


異質、という感じもなかった。


ただ——そこにいた。完全に、その場所にいた。桐島がガラス越しに見た時、その人物は自分がそこにいることを、何の疑いもなく知っていた。そういう立ち方だった。


桐島は立ち上がって、ジャケットを羽織った。


夕飯を食べに出ようとして、手が止まった。


デスクの上に、資料を広げた。明日の取材の準備をしておく必要があった。夕飯は後でいい。コンビニで何か買えばいい。


胃が、また少し痛んだ。


---


翌日、午前中に桐島はエデンズフィールに向かった。


村瀬との約束は午後二時だった。それまでの間に、店の様子を見ておきたかった。


十時に店の前に立った。


昨日と同じ看板。昨日と同じガラス。しかし昨日とは逆に、今日は入るつもりで来ていた。


扉を押した。


ハーブの香りが来た。


ミントに似ているが、もっと深い。夜の草原のような、土の匂いが混じっている。桐島は思わず、少し息を吸い込んだ。


店内は想像より広かった。左側に棚があって、空色の瓶が並んでいた。Sサイズ、Mサイズ、Lサイズ。百円、二百円、四百円。値段の安さに、少し驚いた。右側にイートインのスペースがあって、木のテーブルと椅子が四組あった。窓から商店街が見えた。


カウンターの奥に、昨日の人物がいた。


近くで見ると、昨日より細部がわかった。


身長は二メートルを超えていた。黒い肌は、均一で、深みがあった。銀髪は短く、耳にかかる程度に刈り込まれていた。顔立ちは彫りが深く、フランス系か、あるいは北アフリカ系か。金色の目が、桐島を見た。穏やかな目だった。警戒もしていないし、媚びてもいない。ただ、見ていた。


左足首に、五本のリボンが巻かれていた。黒、青、緑、赤、白。


「いらっしゃいませ」と、その人物は日本語で言った。少しアクセントがあった。


「取材をしたいんですが」と桐島は言った。


「どうぞ」


桐島は一瞬、拍子抜けした。断られると思っていた。あるいは、担当者に確認するとか、本社に問い合わせるとか、そういう返答を予想していた。


「お話を聞かせてもらえるということですか」


「はい。何でも答えます」とその人物は言った。「ただ、お茶を飲みながら話しましょう」


桐島はカウンターに近づいた。「お名前を聞いてもいいですか」


「アデル・ヴォワザンです。この店の管理をしています」


「フランスの方ですか」


「リヨン出身です」


桐島はノートを取り出した。「桐島朔と申します。フリーのジャーナリストです。エデンズフィールについて取材しています」


「存じています」とアデルが言った。


「存じている?」


「あなたが来ることを」


桐島は手を止めた。「どういう意味ですか」


アデルは微かに笑った。答えなかった。


代わりに、カウンターの下からSサイズのボトルを取り出した。空色の液体。「どうぞ」と言って、桐島の前に置いた。


桐島はボトルを見た。


「これを飲まないと、話してもらえないんですか」


「そんなことはありません」とアデルが言った。「ただ、飲んだ方が、わかることがあると思います」


桐島はボトルを手に取った。軽かった。液体の色は、近くで見ると、空より少し深い青だった。


警戒しながら、少し飲んだ。


温かかった。涼しかった。甘かった。苦かった。


矛盾した感覚が、同時に来た。


桐島は黙った。


「美味しいですか」とアデルが聞いた。


「……悪くない」と桐島は言った。


---


取材は一時間ほど続いた。


アデルは、聞いたことには答えた。店の歴史。商品の概要。水無瀬に来た理由。従業員の生活。


しかし導師のことを聞くと、「それはお答えできません」と言った。


「なぜですか」


「私が答えられる立場にないからです」


「運営の意思決定は、どこでされているんですか」


「導師が判断します」


「その導師に会えますか」


「今は難しいです」


「いつなら会えますか」


「わかりません」


桐島は少しだけ、苛立ちを感じた。答えているようで、答えていない部分がある。しかしアデルの態度は、隠蔽しているというより、本当にそれ以上のことを話す気がない、という感じだった。


「なぜ隠すんですか」と桐島は言った。


「隠してるんじゃなくて、あなたにはまだ必要のない情報だと思っています」とアデルが言った。


「必要かどうかを決めるのは私です」


「そうですね」とアデルは言った。否定しなかった。ただ、それ以上は言わなかった。


桐島はノートに書き込みながら、アデルを観察していた。


嘘をついている感じがしなかった。計算している感じもしなかった。ただ、自分の言えることと言えないことの境界が、はっきりしていた。その境界線を、桐島が押しても、揺れなかった。


「最後に一つだけ」と桐島は言った。「あなたの足首のリボン。何ですか、あれは」


アデルは少し間を置いた。「段階を示すものです」


「何の段階ですか」


「それは、もう少し取材が進んでからお答えします」


桐島はノートを閉じた。「また来ます」


「いつでも」とアデルは言った。


---


午後二時、桐島は水無瀬総合病院に向かった。


村瀬は待合室で待っていた。四十代の男で、白衣を着ていた。眼鏡をかけていて、疲れた顔をしていた。


「来ていただいてありがとうございます」と村瀬は言った。「立ち話もなんですので」と言って、小さな会議室に案内された。


二人で向かい合って座った。


村瀬が話した。三件の回復事例の詳細。膵臓癌の患者は七十二歳の女性で、画像診断で腫瘍の消失が確認されていた。関節リウマチの患者は五十代の男性で、十年間続いていた炎症反応が完全に陰性になっていた。脊髄損傷の患者は四十代の女性で、十五年間動かなかった左手の指が動くようになっていた。


「三人に共通しているのは、エデンズフィールのハーブティーを継続して飲んでいることだけです」と村瀬は言った。「他に変えたことはないと、三人とも言っています」


「成分分析を断られた理由は聞きましたか」


「聞きました。三人とも、同じことを言いました。『分析しても、成分にはわからないことがあります』と」


桐島は眉を上げた。「患者がそう言ったんですか」


「ええ。同じ言葉で」


桐島はノートに書いた。


「他に気づいたことはありますか」


村瀬は少し間を置いた。「三人とも、外見が変わっています」


「どのように」


「肌の色が、少し濃くなっています。髪が、白みがかっています。目の色が、茶色から、少し金色がかっています」


桐島はノートを見た。


「それを医学的にどう説明しますか」


「できません」と村瀬は言った。「だから、あなたに連絡したんです」


---


ホテルに戻ったのは、夕方六時だった。


桐島はジャケットを脱いで、ベッドに座った。


今日得た情報を、頭の中で整理した。


アデルは取材に応じた。しかし核心は話さなかった。村瀬の証言は具体的だった。三件の回復事例と、外見の変化。


被害者がいない。


これが一番の問題だった。取材を進めるためには、何らかの被害が必要だった。経済的な被害、身体的な被害、精神的な被害。しかし今のところ、何もなかった。


桐島はデスクに座って、ノートを開いた。


書き出した疑問点を見た。


一つ一つ確認していく必要がある。しかし確認するための糸口が、まだ少なかった。


視線が、デスクの上のものに止まった。


エデンズフィールのSサイズのボトルが、そこにあった。アデルに渡されたものだ。持ち帰るつもりはなかったが、帰り際に「良ければ」と言われて、断れなかった。


桐島はボトルを手に取った。


液体が揺れた。空色。


少し飲んだ。


温かくて、涼しい。甘くて、苦い。


午前中に飲んだ時と、同じ感覚だった。不思議な味だった。しかし確かに、悪くなかった。


桐島はボトルをデスクに戻して、ノートパソコンを開いた。


今夜は眠れないだろうと思っていた。取材の初日は、だいたいそうだった。頭が回り続けて、朝まで考え続ける。


しかしその夜、桐島は十一時に眠った。


眠れた。


深く、静かに。


夢を見た。


理恵の夢だった。結婚していた頃の、何でもない日の夢だった。二人でテーブルに座って、何かを食べていた。何を食べていたか、夢の中ではわからなかった。ただ、理恵が笑っていた。桐島も笑っていた。


目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。


時計を見た。午前六時だった。七時間、眠っていた。


桐島は天井を見た。


胃が、痛くなかった。


---


朝の光の中で、桐島はノートを開いた。


新しいページに、一行だけ書いた。


*何かが、ここにある。*


それ以上は、まだ書けなかった。


窓の外で、水無瀬山が朝の霞の中に立っていた。


桐島はその山を、しばらく見た。


それから、今日の取材の計画を立て始めた。

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