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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第一部 根
3/22

第三章 菜摘 一

## 第三章 菜摘


---


引っ越しのトラックが来たのは、五月の第二土曜日だった。


午前九時に水無瀬のマンションの前に着いて、作業員の男たちが段ボール箱を運び始めた。菜摘は玄関口に立って、箱が運ばれるたびに「そこに置いてください」「それは奥の部屋です」と指示を出した。声は落ち着いていた。段取りも整っていた。菜摘はそういうことが得意だった。


ひかりは黙って、自分の荷物だけを自分で運んだ。


中学一年生の娘は、この引っ越しについて、一度も文句を言わなかった。転校することも、友達と離れることも、水無瀬という知らない街に来ることも。それが菜摘には、少しだけ辛かった。文句を言ってくれた方が、まだ楽だった。


「ひかり、重くない?」


「大丈夫」


短い返事。ひかりは段ボールを抱えたまま、自分の部屋になる六畳間に消えた。


菜摘は玄関先に立って、通りを見た。


水無瀬市。人口十二万人。本州中部の盆地にある、地方都市。菜摘にとっては、夫の赴任先というだけで、縁もゆかりもない街だった。引っ越してくる前に地図で調べた。商店街があって、川があって、山があった。それ以上のことは、まだわからない。


わかっているのは、ここにエデンズフィールの支店があるということだけだった。


---


誠が手伝いに来たのは、昼過ぎだった。


インターホンが鳴って、菜摘がドアを開けると、夫が立っていた。


日向誠は四十四歳で、もともと中背の、どこにでもいるような体型の男だった。髪は短く、眼鏡をかけていて、生徒から「先生みたいな先生」と言われるような、穏やかで真面目な人間だった。菜摘が二十六歳の時に結婚して、今年で十五年目になる。


今の誠は、少し違った。


肌が黒みを帯びていた。日焼けとは違う。もっと均一で、もっと深い黒だった。髪の根元から、銀色が滲み出してきていた。全体の三分の一ほどが、もう銀色になっていた。身長が、少し伸びたように見えた。もともと百七十センチ程度だったのが、今は百七十五か、それ以上あるように見える。


左手首に、四本のリボンが巻かれていた。


黒、青、緑、赤。


絹のような細いリボンが、重なって揺れている。


「来たよ」と誠は言った。声は変わっていなかった。あの穏やかな、少し低めの声。「荷物、まだある?」


「ある」と菜摘は言った。「上がって」


誠が玄関に入った。菜摘は誠の左手首から目を離して、廊下の奥を示した。「台所の箱、お願い」


「わかった」


誠は靴を脱いで、廊下を歩いていった。菜摘はその背中を見た。


背が、また伸びた気がした。


---


三人で夕飯を食べた。


菜摘がコンビニで買ってきたおにぎりと、インスタントの味噌汁。引っ越し初日だから仕方ない、と菜摘は思っていたが、誠は「良いじゃないか」と言って、普通に食べた。ひかりも黙って食べた。


テレビはまだ繋いでいなかった。三人で、段ボールに囲まれた狭いリビングに座って、黙って食べた。


「学校、どんなところかな」とひかりが言った。誰にともなく言ったような口調だった。


「良いところらしいよ」と誠が言った。「近くの中学校の先生、何人か知ってる。みんな良い人だ」


「そう」とひかりは言った。それきり黙った。


菜摘は味噌汁を飲んだ。薄かった。インスタントだから仕方ない。しかし今夜はその薄さが、なんとなく染みた。


大阪の家には、菜摘が選んだ食器があった。菜摘が気に入っていたカーテンがあった。十年かけて、少しずつ作り上げた場所だった。それを全部箱に詰めて、ここに持ってきた。同じ家具でも、違う部屋に置けば違うものになる。引っ越しのたびにそう感じてきたが、今回は特にそれが強かった。


「美味しい」と誠が言った。コンビニのおにぎりに向かって、本気でそう言っていた。


菜摘は誠を見た。


嘘をついているわけではない。誠はそういう人間だ。食べ物の好き嫌いがなく、出されたものを美味しいと思える。それは美徳だと、菜摘はずっと思っていた。


でも今は、少しだけ、腹が立った。


なぜ腹が立つのか、菜摘にはわかっていた。誠が変わってしまったことへの怒りではなかった。誠が変わっても、こうして普通に座って、普通におにぎりを食べて、美味しいと言える。その穏やかさへの、理不尽な怒りだった。


自分が揺れているのに、誠が揺れていない。


それが、菜摘には耐えがたかった。


---


誠が帰ったのは、夜の八時頃だった。


「また明日来る」と言って、静かに帰った。扉が閉まる音がした。菜摘はしばらく、閉まった扉を見ていた。


「お母さん」とひかりが言った。


「何」


「パパ、また背伸びてた気がする」


菜摘は答えなかった。


「変だよね」とひかりは続けた。責めるでもなく、不思議がるでもなく、ただ確認するように。「でも、パパだよね」


「そうね」と菜摘は言った。


ひかりは「うん」と言って、自分の部屋に戻った。


菜摘は一人でリビングに残った。


段ボールに囲まれた部屋。知らない壁。知らない窓。知らない街の夜。


椅子に座って、テーブルに肘をついた。


大阪を出る前に、友人の真由に電話した。「なんで一緒に行くの」と真由は言った。「ついていかなくていいんじゃないの」。菜摘は「そうかもしれない」と言った。「でも、目を離したくない」。真由は少し間を置いてから「それはあなたのためなの、誠のためなの」と聞いた。菜摘は答えられなかった。


今でも、答えられない。


スマートフォンを手に取った。検索アプリを開いた。


「エデンズフィール 危険」


検索ボタンを押した。


結果が出た。


批判的な記事がいくつかあった。「謎のカルト集団か」「肉体改造の実態」「家族が変わってしまった」。しかしそれと同じくらい、肯定的な記事もあった。「人生が変わった」「体調が劇的に改善」「自然と共に生きるということ」。


どちらを信じればいいのか、わからなかった。


被害者の証言が、見つからなかった。脅されたとか、お金を取られたとか、逃げ出せないとか、そういう話がなかった。あるのは「家族が変わってしまって怖い」という、菜摘と同じような困惑ばかりだった。


菜摘はスマートフォンを伏せた。


窓の外に、水無瀬山のシルエットが見えた。暗くて、ただの黒い塊として、空に浮かんでいた。


---


翌日から、菜摘は水無瀬での生活を始めた。


ひかりを新しい学校に送り出して、誠が中学校に出かけるのを見送って、一人でマンションの中に残る。段ボールを開けて、荷物を片付ける。食器棚に皿を並べる。本棚に本を入れる。カーテンを取り付ける。大阪で使っていたものが、少しずつ、水無瀬の部屋に馴染んでいく。


馴染むのは、ものだけだった。


菜摘は、馴染めなかった。


スーパーに買い物に行くと、レジの女性が「引っ越してこられたんですか」と聞いてきた。「ええ」と答えると、「どちらから」と聞かれた。「大阪から」と答えると、「まあ、遠いところから」と言われた。菜摘は笑って「そうですね」と言った。


その笑顔が、家に帰ると消えた。


仕事をしていない。大阪ではグラフィックデザイナーとして働いていたが、引っ越しと同時に辞めた。フリーランスで仕事を続けることも考えたが、今は無理だと思った。ひかりのこと、誠のこと、この街のこと、全部が新しくて、仕事まで頭が回らなかった。


貯金はある。しばらくは大丈夫だ。


でも、何もしていない時間が、こんなに重いとは思っていなかった。


---


誠は毎日のように来た。


中学校の仕事が終わると、エデンズフィールに寄ってから来ることもあった。手にエデンズフィールの空色のボトルを持って、「おみやげ」と言って渡してくることもあった。菜摘は受け取って、テーブルに置いた。飲まなかった。


夕飯を一緒に食べることもあった。誠は料理が得意で、台所を借りて作ってくれることもあった。しかしある夜、誠が夕飯を断った。


「食べてきた」と誠は言った。


「どこで」と菜摘は聞いた。


「エデンズフィールで、ハーブを少し。それで充分だから」


菜摘は黙った。


誠の食事が変わっていることは、知っていた。一年前から少しずつ、肉を食べなくなり、加工食品を食べなくなり、外食をしなくなっていた。今では、エデニア・ノクティスのお茶か、ハーブをそのまま食べるだけで一日を過ごしているという。


理屈はわかった。誠から何度か説明を受けた。体が変化しているから、それだけで充分な栄養が摂れるようになっている。空腹を感じない。疲れない。


でも。


菜摘は夕飯を一人で食べながら、思った。


料理を作るのが、好きだった。誠が美味しいと言うのが、好きだった。食卓を囲むのが、好きだった。それが、なくなっていく。


---


ある夜、誠が帰った後、菜摘は誠の左手首を思い出した。


四本のリボン。黒、青、緑、赤。


一番最初に黒いリボンをつけて帰ってきた夜のことを、菜摘は覚えている。一年半前。大阪の家の食卓だった。ハーブティーを飲み始めて三ヶ月が経った頃。誠は「イニシエーションを受けてきた」と言った。「最初の段階だ」と。


菜摘は「それは何」と聞いた。


誠は説明した。楽園再造の会のこと。庭師のこと。五つの段階のこと。


菜摘は聞きながら、頭の中で「カルト」という言葉が点滅していた。しかし誠の話し方は、信者特有の熱狂とは違った。穏やかで、落ち着いていて、押しつけがなかった。「こう思っている」と言うだけで、「あなたも来るべきだ」とは一度も言わなかった。


その後、青いリボンが増えた。緑が増えた。赤が増えた。


一本増えるたびに、菜摘は誠を観察した。おかしくなっていないか。操られていないか。人格が変わっていないか。


変わっていなかった。


誠はずっと誠だった。穏やかで、ひかりに優しくて、菜摘の話を聞いて、家のことを気にかけた。むしろ以前より、穏やかだった。以前より、丁寧だった。怒らなくなった。焦らなくなった。


それが一番、不気味だった。


わかりやすく壊れてくれていたら、もっと簡単だったかもしれない。


---


引っ越しから一週間が経った夜、誠がエデンズフィールのSサイズのボトルを持ってきた。


「これ」と言って、テーブルに置いた。


「また持ってきたの」と菜摘は言った。前にも渡されたことがある。飲まずに捨てた。


「飲んでみて、とは言わない」と誠は言った。「ただ、もし気が向いたら」


それだけ言って、誠はひかりの部屋に向かった。ひかりと話す声が、扉越しに聞こえた。学校のこと、友達のこと、好きなマンガのこと。普通の父親と娘の会話だった。


菜摘はボトルを見た。


空色の液体。百円のSサイズ。


飲んだら、どうなる。


おかしくなる? 誠みたいになる? それとも、ただ美味しいだけ?


答えはわからなかった。わからないまま、菜摘はボトルをテーブルの隅に追いやった。


---


三日が経った。


ボトルはテーブルの隅に置かれたままだった。菜摘は毎朝、そこにあるのを確認した。捨てなかった。捨てる気にもなれなかった。


四日目の夜のことだった。


夕飯の後、ひかりが宿題をしていた。菜摘は洗い物をしていた。台所の窓から、水無瀬山のシルエットが見えた。


「お母さん」


振り返ると、ひかりがテーブルのボトルを手に持っていた。


「それ、飲んでみたい」


菜摘は手を止めた。「ダメ」と言った。


「なんで」とひかりが言った。


責めているわけではなかった。ただ、純粋に聞いていた。なんで、ダメなの。


菜摘は答えられなかった。


危ないから、と言おうとした。しかし「危ない」という根拠が、菜摘にはなかった。誠が変わったことは確かだ。でも誠は苦しんでいない。病気になっていない。正気を失っていない。ただ、変わった。


「お父さんが飲んでいるものだから」と菜摘は言った。「あなたはまだ早い」


「なんで早いの」


「……大人になってから」


「何歳になったらいいの」


菜摘は答えられなかった。


ひかりは菜摘の顔を見て、少し間を置いてから、ボトルをテーブルに戻した。「わかった」と言って、宿題に戻った。


菜摘は洗い物を続けた。


手が、少し震えていた。


何歳になったら。


菜摘は、その問いへの答えを、まだ持っていなかった。


---


その夜、菜摘は一人で考えた。


ベッドの中で、天井を見ながら。隣の部屋からは、ひかりの寝息が聞こえていた。


誠と結婚した時、菜摘は二十六年間大阪で生きてきた。仕事をして、友達と飲んで、恋愛をして、失敗して、また仕事をして。そういう普通の人生を送っていた。


誠と出会ったのは、共通の友人に紹介された飲み会だった。地味な男だと思った。面白いことを言うわけでも、かっこいいわけでも、お金持ちなわけでもなかった。ただ、話を聞くのが上手だった。菜摘が何かを話すと、ちゃんと聞いていた。相槌を打つだけでなく、次の質問をしてきた。菜摘のことを、知りたがっていた。


それが嬉しかった。


結婚して十五年。ひかりが生まれて、菜摘は一度仕事を辞めて、また始めた。誠は単身赴任が多かった。それでもうまくやってきた。


エデンズフィールに通い始める前の誠は、少し疲れていた。中学校の仕事の話をする時、声が重かった。家に帰っても、どこか遠いところにいるような顔をしていることがあった。


エデンズフィールに通い始めてから、その顔が消えた。


軽くなった。穏やかになった。眠りが深くなった。食事が減った。外見が変わり始めた。


菜摘には、どこで喜べばよかったのかが、わからなかった。


誠が楽になったことは、良いことだ。夫が苦しんでいるより、楽な方が良い。しかしその楽さの代償として、夫の外見が人間ではないものに近づいていく。夫が食事をしなくなる。夫が自分の理解の外に出ていく。


どこで喜んで、どこで悲しめばいい。


菜摘は目を閉じた。


眠れなかった。


---


翌朝、菜摘は商店街に出かけた。


スーパーで買い物をして、帰り道に商店街のアーケードを通った。シャッターの多い通り。老人が数人、歩いている。宅配のバイクが止まっている。


通りの奥の方に、明かりが見えた。


エデンズフィール。


菜摘は立ち止まった。


黒と空色の看板。ガラスの向こうに、空色の瓶が並んでいた。店の中は、この距離ではよく見えなかった。人がいるのかどうかも、わからなかった。


菜摘は五秒、立っていた。


それから、踵を返した。


今日は入らない。


なぜかはわからない。ただ、今日ではない、という感じがした。準備ができていないというのとも違う。ただ、今日ではない。


菜摘は歩き出した。


しかし十歩ほど歩いたところで、振り返った。


エデンズフィールの窓の内側に、人が見えた。背の高い人間。黒い肌。銀髪。金色の目がこちらを見ていた。


庭師だ、と菜摘は思った。


視線が合った。


菜摘は固まった。逃げるのも、近づくのも、どちらもできなかった。


庭師は、静かに頭を下げた。


菜摘は、反射的に頭を下げた。


それだけだった。


菜摘は前を向いて、歩き続けた。心臓が、少し速く打っていた。怖かったわけではなかった。ただ、何かを見てしまったような、そういう感じがした。


マンションに帰って、エプロンをつけて、夕飯の支度を始めた。


テーブルの隅に、空色のボトルがあった。


菜摘はそれを見た。しばらく見た。


それから、棚の奥に片付けた。


捨てなかった。


---


夜、ひかりが寝た後、菜摘は一人でリビングに座った。


電気を消して、窓から外を見た。水無瀬山が暗闇の中にある。星が出ていた。大阪では、こんなに星は見えなかった。


誠のことを考えた。


四本のリボン。あと一段階で、五本になる。五段階が終わったら、何が起きるのか。誠は「体が完全に庭師の姿になる」と言っていた。黒い肌、銀髪、金の目、身長二メートル。


今の誠は、まだ途中だった。


途中の誠は、まだ誠に見えた。


途中が終わった誠は、まだ誠だろうか。


菜摘は窓の外を見続けた。


星が、動かなかった。


水無瀬山が、動かなかった。


菜摘だけが、揺れていた。

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