第二章 アデル 一
## 第二章 アデル
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水無瀬駅は、思っていたより小さかった。
改札を抜けると、すぐに外に出た。ロータリーがあって、タクシーが二台止まっていて、ベンチに老人が一人座っていた。それだけだった。駅舎の時計は午後二時十分を示していた。五月の午後の光が、アスファルトに平たく落ちていた。
アデル・ヴォワザンは、キャリーケースを引きながら、少しの間そこに立っていた。
駅前の広場から、街の輪郭が見えた。低い建物が続いていて、その向こうに山があった。山は近かった。都市に住み慣れた人間には、少し圧迫感を覚えるほど近い。しかしアデルには、そうは感じなかった。むしろ、山が街を守っているような、そういう印象を受けた。
良い場所だ、と思った。
左足首に巻かれた五本のリボンが、風に揺れた。黒、青、緑、赤、白。絹のような細いリボンが、アデルの黒い肌の上で、それぞれの色を主張している。サンダルを履いているため、歩くたびに見える。水無瀬の人間には、まだ意味がわからないだろう。それで良かった。
アデルはキャリーケースを引いて、歩き始めた。
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旧中央商店街までは、駅から徒歩で十分ほどだった。
道を歩くと、人々の視線を感じた。
アデルはそれに慣れていた。身長二百センチメートル。黒い肌。短く刈り込んだ銀色の髪。金色の目。フランス人の母とアルジェリア人の父を持つ彼女の顔立ちは、もともと彫りが深く、鼻が高く、輪郭が明確だった。庭師になる前から、人目を引く外見だった。庭師になってからは、さらにそれが増した。
水無瀬では特にそうだった。
すれ違った中学生の男の子が、露骨に二度見した。自転車で通り過ぎた女性が、ハンドルを少しぶらした。商店の軒先に出ていた老人が、口を半開きにしてアデルを見送った。
アデルは気にしなかった。
正確には、気にならなかった。庭師になる前の自分なら、これほど視線を集める場所では、少し身を縮めていたかもしれない。背が高いことを、目立つことを、どこかで申し訳なく思っていた時期があった。パリの建築事務所で働いていた頃の話だ。
今は違う。自分の体が自分のものだと、はっきりわかっている。それだけのことだ。
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商店街のアーケードに入ると、空気が変わった。
屋根があるぶん、光が遮られる。外より少し暗く、少し涼しい。しかしその暗さは、閉塞感というより、落ち着きに近かった。古い商店街特有の、時間がゆっくり流れる感じ。
シャッターが多かった。
左右に並ぶ店舗のうち、半分以上は金属の扉が下りたままになっていた。埃をかぶったシャッターに、色褪せたポスターが貼ってある店もあった。営業時間の書かれた看板が、もう何年も使われていないまま、ぶら下がっている店もあった。
それでも、生きている店はあった。
青果店。文房具屋。小さな居酒屋。理容室。それらの間に、閉じた店が混じっている。生きているものと、眠っているものが、交互に並んでいるような通りだった。
アデルはアーケードを歩きながら、角地を探した。
あった。
商店街の中ほど、少し道が広くなっている角の位置に、それはあった。
二階建ての建物。一階の窓は大きく、外からの光が入りやすい構造になっている。扉は木製で、古びてはいるが、傷んではいない。隣の閉まったシャッターと、向かいの青果店に挟まれた、その場所。
看板はまだ出ていなかった。前の店——漢方薬局だったと聞いていた——の痕跡が、入口の上に薄く残っていた。文字は読めなかった。長い間、雨と日光に晒されて、消えかけていた。
アデルは扉に手をかけた。
鍵は開いていた。不動産の担当者が、先に来て開けておいてくれたらしい。
中に入る。
空気が、静かだった。
床は板張りで、歩くと少し軋む。壁は白く塗られているが、角のあたりが少し黄ばんでいた。天井は高く、古い木の梁が渡っている。窓から入る光が、埃の粒子を照らして、空気の中に光の帯を作っていた。
アデルは部屋の中央に立って、ゆっくりと一回転した。
良い。
言葉にすれば、それだけだった。しかしアデルの中では、もっと多くのことが動いていた。ここで何が始まるか。ここに何が根付くか。その感覚が、静かに、しかし確かに広がっていた。
二階への階段を上った。個室が二つある。一つは占いの庭になる。もう一つは、イニシエーションのための部屋になる。どちらも今は空だった。床に、四角い日光の染みが落ちていた。
アデルは窓から外を見た。
商店街が見えた。青果店のおじさんが、キャベツを並べている。自転車が一台、通り過ぎた。遠くに、山の稜線が見えた。
ここで良い、とアデルは思った。
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裏口から外に出ると、小さな土地があった。
三メートルほどの奥行きで、左右に四メートルほど。コンクリートで固められておらず、土のままだった。雑草が生えていた。日当たりは良い。排水も問題なさそうだった。
アデルはしゃがんで、片手で土を触った。
指が土に沈む。柔らかい。湿り気が適度にある。少し温かった。土の中の微生物が生きている証拠だ。建築の知識があるアデルは、かつて土壌についても調べたことがあった。しかし今アデルが感じていることは、知識ではなかった。もっと直接的な、体の感覚だった。
庭師になってから、土に触れるたびにこうなる。土が語りかけてくる、と言えば大げさかもしれない。ただ、土の状態が、指を通して伝わってくる。ここの土は、何かを育てたがっている。そういう感じがした。
アデルは立ち上がり、指についた土を払った。
ここにハーブ園を作る。エデニア・ノクティスを植える。毎日血を与えて育てる。収穫して、抽出して、店で売る。それがここでの仕事だ。
仕事、という言葉が、少し違う気がした。アデルにとってそれは、生きることと区別がつかない何かだった。
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精神ネットワークに、触れる。
目を閉じなくてもできる。呼吸を整えるような感じで、意識の深いところに手を伸ばす。すると、繋がる。
パリの庭師の声が、感覚として届いた。言語ではない。温かさと、軽い問いかけ。*どうだった?*
アデルは答えた。言語ではなく、感覚で。*良い場所だ。始められる。*
パリから、肯定が返ってきた。続いて、ロンドンから。東京から。ラゴスから。それぞれの庭師の気配が、遠くから触れてきた。言葉ではない。ただの、存在の確認。あなたがそこにいることを、私たちは知っている。そういう感覚だった。
アデルは目を開けた。
裏の土地に、夕方の光が斜めに差していた。雑草の影が長く伸びていた。
来週から、準備を始める。まず雑草を抜いて、土を耕す。苗を取り寄せる。エデニア・ノクティスの苗は、すでに東京の庭師が手配してくれていた。届くのは三日後だ。
アデルは空を見上げた。
水無瀬の空は、パリより低い気がした。山が近いからかもしれない。雲が山に引っかかっているように見えた。
悪くない空だ、と思った。
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アパートは、商店街から歩いて五分ほどの場所にあった。
二階建ての木造アパート。六畳一間、台所付き。不動産屋が「古いですが、きれいに使われていましたよ」と言っていた言葉通り、部屋は小さいが清潔だった。窓からは水無瀬山が見えた。
アデルはキャリーケースを開けて、荷物を出した。
服は少なかった。黒と白と空色のものだけを持ってきた。庭師になってから、他の色の服を着る必要を感じなくなっていた。身体が変化する中で、自分の外見に何を合わせるかを考える感覚が、自然と変わっていった。
洗面用品。本が数冊。小さな道具入れ。エデニア・ノクティスの種をいくつか。
種は、アデル自身の肉体から作ったものだ。右腕の、肘の内側あたり。三ミリほどの肉を、能力を使って変化させる。痛みはない。種は黒く、硬く、小さい。見た目は普通の植物の種と変わらない。しかし庭師以外の人間が育てようとしても、芽は出ない。
アデルは道具入れの中から、小さなガラス瓶を取り出した。中に種が七粒入っていた。東京の庭師から届く苗が来るまでの間、この種からも育てることができる。
窓の外を見た。水無瀬山が、夕暮れの光の中で、輪郭を濃くしていた。
アデルは窓を開けた。
夕方の風が入ってきた。草と土の匂いがした。山の匂いだ。パリにはない匂いだった。リヨンで子供の頃に嗅いだ匂いに、少し似ていた。
アデルはリヨンで生まれた。母はフランス人で、父はアルジェリア移民の二世だった。二人は穏やかな人たちで、アデルが建築を学びたいと言った時も、パリに出たいと言った時も、反対しなかった。パリの建築事務所に就職した時は、父が電話口で泣いた。
あの頃のアデルは、疲れていた。
仕事は面白かった。設計は好きだった。しかし何かが、少しずつ削られていく感じがした。締め切りと、クライアントと、上司と、締め切りと、クライアントと。それが繰り返されるうちに、自分が何のために設計をしているのか、わからなくなっていた。
三十歳の冬に、燃え尽きた。
ある朝、会社に行けなくなった。体が動かないのではなく、行く理由が見つからなかった。布団の中で、天井を見ていた。一日中。それが三日続いた。
休職した。
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エデンズフィールのパリ店に初めて入ったのは、休職して二週間目のことだった。
特に理由はなかった。セーヌ川の近くを一人で歩いていて、空色の看板が目に入った。ハーブティーの専門店、と書いてあった。寒い日だった。温かいものが飲みたかった。それだけだ。
店に入ると、ハーブの香りがした。カウンターに、黒い肌の男性がいた。背が高く、銀髪で、金色の目をしていた。アデルは最初、何か特殊なコスプレか、アート系のパフォーマンスだと思った。しかし男性は普通に「いらっしゃいませ」と言って、普通に「何になさいますか」と聞いた。
Sサイズのボトルを頼んだ。
飲んだ。
その夜、久しぶりによく眠れた。夢も見なかった。ただ、深く、静かに眠れた。
翌日も行った。翌々日も。
一週間後、アデルは「また来ました」と言ったら、カウンターの男性——後にアデルはその人がアントワーヌという名の庭師だと知った——が、静かに頷いて「知っていました」と言った。
「知っていた?」
「あなたが来ることを」
アデルはその言葉の意味を、その時はわからなかった。しかし不思議と、怖くなかった。
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イニシエーションを受けたのは、三十二歳の時だった。
一年以上、通い続けた後のことだった。急かされたことは一度もなかった。アントワーヌは、アデルが聞いたことには答えたが、何かを勧めることはしなかった。アデルが「庭師になりたい」と言った時、アントワーヌは「もう少し待ってください。あなたが本当に決めた時に来てください」と言った。
さらに三ヶ月待った。
そして、ある朝、決めた。
個室でイニシエーションが行われた。アントワーヌと、アデルの二人だけ。しかし部屋には、二人以外の何かがあった。精神ネットワークを通じて、導師と、何人かの庭師が立ち会っていた。アデルには最初、それが見えなかった。しかし目を閉じると、仮面をつけた人々の輪郭が感じられた。
導師の血を飲んだ。
アントワーヌが、黒いリボンをアデルの左足首に結んだ。
「おかえり」とアントワーヌが言った。
その言葉の意味を、アデルはその時に理解した。新しい場所に来たのではない。戻ってきたのだ。どこに? 言葉ではうまく言えない。ただ、帰ってきた、という感覚だった。
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窓の外が、暗くなっていた。
アデルは窓を閉めた。台所でお湯を沸かした。エデニア・ノクティスの乾燥葉をポットに入れて、お湯を注ぐ。抽出されると、液体が薄い空色になる。
カップに注いで、窓際に座って飲んだ。
温かく、涼しい。甘く、苦い。飲むたびに、同じ矛盾した感覚がある。慣れることはない。それが良いとアデルは思っている。慣れてしまったら、感じなくなるから。
精神ネットワークに、また触れた。
世界中の庭師たちの声が、感覚として流れてきた。ロンドン。ラゴス。ソウル。サンパウロ。ニューヨーク。それぞれの街の、それぞれの庭師が、今夜もどこかで生きている。川のそばで、山の中で、街の角で。静かに、ただそこにいる。
導師からも、感覚が届いた。
言葉ではない。ただの、確認。*水無瀬、着いたか。*
アデルは答えた。*着いた。良い場所だ。*
導師から、何かが返ってきた。言葉にすれば「そうだろう」に近いものだったが、それより少し温かく、少し深かった。
アデルはカップを両手で包んだ。
窓の外の水無瀬山は、もう暗くなって見えなかった。空に、星が出始めていた。水無瀬の空は、パリより星が多かった。光害が少ないからだろう。
明日から、準備を始める。
雑草を抜いて、土を耕して、苗が来たら植える。毎日、血を少量与える。エデニア・ノクティスは、ゆっくりと育つ。急かすことはできない。急かす必要もない。
店が開くのは、来週の予定だ。
最初は客が来ないだろう。それで良い。来るべき人間は、来るべき時に来る。夢の中で接触した人間の気配を、アデルはすでにいくつか感じていた。この街に、種が蒔かれている。芽が出るのを、ただ待てばいい。
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眠る前に、アデルは夢空間に入った。
目を閉じる。精神を、夢の層に滑り込ませる。
個人のエリアに入る。アデルの夢空間は、広い庭だった。手入れの行き届いた庭。エデニア・ノクティスが青々と茂っている。夜の庭だが、暗くはない。植物が微かに光っている。根が、土の中で白く輝いている。
アデルは白い鷺の仮面をつけた。黒いローブをまとった。胸元に、五色のリボンが結ばれている。
共用エリアに移動する。
そこには、今夜も世界中の庭師たちがいた。鹿の仮面。狐の仮面。鳥の仮面。蝶の仮面。それぞれの動物が、それぞれの表情を映している。胸元のリボンの本数が、一人ずつ違う。一本の庭師、三本の庭師、五本の庭師。
中央に、黒い猫の仮面をつけた人物がいた。白いローブ。リボンはない。
導師が、静かにこちらを見ていた。
言葉はない。共用エリアでは、言語は使わない。感覚が、そのまま伝わる。
アデルは、今日感じたことを、そのまま流した。土の感触。空の低さ。山の近さ。商店街のシャッター。小さな土地の、育てたがっている土。そして、夢の中に種を蒔かれた、この街の誰かの気配。
導師が、受け取った。
何かが返ってきた。言葉にすれば「始めなさい」に近かった。しかしそれより静かで、それより深かった。
アデルは頷いた。仮面の下で、少し笑った。
鷺の仮面が、その表情を映した。
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夢の中で、アデルは庭を歩いた。
エデニア・ノクティスの葉が、足元で揺れた。風はないのに揺れた。根が光っていた。花がいくつか開いていた。夜に開く花。露を滴らせながら、小さな鈴型の花が、暗い庭の中で白く輝いていた。
どこかで、水の音がした。
川だ、とアデルは思った。
夢の庭の端に、川があった。底まで透き通った川。水無瀬川が、本来こうであったはずの姿で、庭の端を流れていた。
アデルは川のそばに立った。
水面を見ていると、向こう岸に人影が見えた。遠かった。顔が見えなかった。ただ、細く、背の低い人間だった。こちらを見ているようだった。
まだ、仮面をつけていない。
まだ、ローブも着ていない。
ただ、川の向こうに立って、こちらを見ていた。
アデルは、その人影に向かって、手を振った。
向こう岸の人影が、少し動いた。
それだけだった。
アデルは踵を返して、庭の中心へ戻った。
エデニア・ノクティスが、足元で揺れ続けていた。
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翌朝、アデルは日の出とともに起きた。
台所でお湯を沸かした。ハーブティーを淹れた。窓を開けた。水無瀬山が、朝の光の中で、くっきりと見えた。昨夜より近く感じた。
今日は裏の土地の草を抜く。
それだけのことだ。
しかしアデルは、それだけのことが、始まりだと知っていた。草を抜いて、土を耕して、種を植えて、血を与えて、待つ。それだけのことの積み重ねが、やがてこの街を変えていく。
急がなくていい。
楽園は、一日では作れない。
アデルはハーブティーを飲み干した。カップを洗った。エプロンをつけた。
裏口を開けると、朝の空気が入ってきた。土の匂い。草の匂い。山の匂い。
アデルはしゃがんで、最初の雑草に手をかけた。
引き抜く。
根から、土がついてくる。
水無瀬の土は、柔らかかった。




