第十章 アデル 三
## 第十章 アデル
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七月の水無瀬は、蒸し暑かった。
山に囲まれた盆地の夏は、熱が逃げない。日中は三十五度を超える日もあった。アーケードの中でも、空気がよどんでいた。しかし夜になると、山から冷たい風が下りてきた。昼と夜の温度差が大きかった。
アデルはその温度差を、体で感じていた。
感じていた、というより、観察していた。暑さも寒さも、庭師になってからは以前ほど体に響かなかった。三十五度の昼間に外に出ても、苦しくなかった。山から冷たい風が来ても、寒くなかった。体が、気温に合わせて自律的に調整していた。
それでも、暑いとか涼しいとかは、わかった。
感じなくなったのではなく、振り回されなくなった。それだけのことだ。
アデルは裏のハーブ園で、朝の手入れをしながら、そういうことを考えていた。
エデニア・ノクティスは、七月に入って成長が速くなっていた。茎が伸びた。葉の数が増えた。銀色の縁が、前より明確に光っていた。開花期に入りかけていた。蕾が、いくつか見えていた。
アデルは蕾の一つを指で軽く触れた。
まだ固かった。開くのは、もう少し先だ。
右手の親指を切って、根元の土に血を与えた。植物が揺れた。今日の揺れは、いつもより大きかった。成長期の植物は、血をよく吸った。応えも早かった。
アデルは立ち上がって、空を見た。
七月の空は、水無瀬では特に高く見えた。山の稜線の上に、入道雲が育っていた。白く、巨大で、動かないように見えて、ゆっくりと形を変えていた。
良い天気だ、と思った。
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七月の常連客は、六月より増えていた。
透は変わらず週に三回来ていた。老夫婦が週に一度来るようになっていた。中学生のグループは、部活が始まって来られなくなったが、代わりに別の客が来るようになっていた。商店街の店主が数人。スーパーのパートから帰る途中に寄るらしい女性が一人。
その女性が、菜摘だと気づいたのは、七月に入ってからだった。
最初は店の前を通りすぎるだけだった。立ち止まって、ガラス越しに見ることもあった。しかし入ってこなかった。
七月の第一週のある午後、その女性がついに扉を押した。
アデルはカウンターにいた。女性が入ってきた。少し躊躇した様子があった。アデルを見て、一瞬だけ止まった。しかし今回は、止まったままにならなかった。
「いらっしゃいませ」とアデルは言った。
「あの」と女性は言った。「Sサイズ、一つもらえますか」
「どうぞ」
アデルはボトルを取り出した。手の甲をリーダーにかざしてもらった。初回のアイコンが刻印された。百円を受け取った。
女性はボトルを受け取って、「ここで飲んでいいですか」と聞いた。
「もちろんです」とアデルは言って、イートインのスペースを示した。
女性は窓から少し離れたテーブルに座った。透がいつも座る窓際のテーブルとは、別のテーブルだった。
ボトルを開けた。香りを嗅いだ。少し間を置いてから、口をつけた。
アデルはカウンターの仕事をしながら、女性を観察した。
飲んだ後、女性は少し目を閉じた。何かを確かめるような顔をしていた。怖がっている顔ではなかった。困惑している顔でもなかった。ただ、確かめていた。
しばらくして、女性はアデルを見た。
「美味しい」と言った。言ってから、少し驚いたような顔をした。自分でも、美味しいと思うとは思っていなかったのかもしれない。
「ありがとうございます」とアデルは言った。
女性はそれきり、何も言わなかった。ボトルを飲み終えて、立ち上がった。帰り際に「また来るかもしれません」と言った。
「いつでも」とアデルは言った。
女性が出ていった後、アデルはその背中を見た。
誠の妻。日向菜摘。
来た。
急かしたわけではなかった。来るべき時に来た。それだけのことだ。しかしアデルには、その一歩がどれほど重かったかが、わかった。重かったから、六月はずっと前を通りすぎるだけだった。その重さを、自分で乗り越えて、今日来た。
それで十分だった。
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桐島は、七月も来ていた。
週に二回か三回、取材のために来店した。毎回、アデルに質問した。アデルは答えられることを答えた。答えられないことは答えなかった。
桐島は諦めなかった。
しかし七月に入って、桐島の質問の性質が少し変わっていた。
六月の頃は、財務のこと、従業員の生活のこと、成分分析のことを繰り返し聞いていた。核心に向かって、正面から当たっていた。
七月になると、違う種類の質問が増えた。
「エデンズフィールが水無瀬に来た理由は何ですか」
「この街の、どこを見て選んだんですか」
「川の水質改善と、エデンズフィールは関係していますか」
「山の緑が戻っているのは、なぜだと思いますか」
正面からではなく、周囲から探り始めていた。それはつまり、桐島が観察するようになっていた、ということだった。見ていなかったものを、見るようになっていた。
アデルは、それを良いと思っていた。
「川の水質改善と、エデンズフィールは関係していますか」という質問には、アデルは「直接的には関係していません」と答えた。
「間接的には」と桐島が聞いた。
「ここにいる人間が変われば、周囲も変わります」とアデルは言った。「私たちが川を浄化しているわけではない。ただ、川を汚す行動をしていない。それだけのことです」
桐島はノートに書いた。「消極的な関与ですか」
「積極的な不干渉、と言う方が正確かもしれません」
桐島はその言葉を書き留めた。「それが積み重なって、川が澄むと思いますか」
「時間がかかります。でも、そうなります」
桐島はペンを止めた。「確信があるんですか」
「あります」とアデルは言った。迷いなく言った。
桐島は少し間を置いてから、「なぜそれほど確信があるのか」と聞いた。
「信じているからです」とアデルは言った。「楽園が本来ここにあると」
桐島はその答えを、ノートに書いた。書きながら、少し考えていた。反論しなかった。
以前の桐島なら、「信じているだけでは根拠にならない」と言っただろう。今日は言わなかった。
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透の変化は、七月に入って確実に見えるようになっていた。
ある火曜日、透が来た時、アデルは透の髪を見た。
銀色が、増えていた。六月の終わりに気づいた時は、毛先にわずかに混じっていた程度だった。今は、全体の三分の一ほどが銀色になっていた。光の当たり方によっては、半分近く見えた。
目も、変わっていた。茶色の中の金色が、はっきりしてきていた。
透は今日も窓際のテーブルに座って、窓の外を見ていた。いつもと同じ姿勢で、同じように座っていた。しかし以前より、背筋が伸びていた。以前より、視線が定まっていた。存在感が変わっていた。
存在感が薄い人間だった。透は最初、そういう人間だった。部屋に入ってきても、いるのかいないのかわからないような。今は違った。いる、とわかった。そこにいることが、自然にわかった。
アデルはお茶を透のテーブルに持っていった。
「ありがとうございます」と透は言った。
「髪、また変わりましたね」とアデルは言った。
透は自分の髪を少し触った。「気づきますよね、やっぱり」
「気にしていますか」
「気にしていない、と言えば嘘になりますが」と透は言った。「でも、それより」と言って、少し間を置いた。「川のことが気になっています」
「川」
「水質改善のデータを調べたんです。過去十年分。確かに変わっています。ここ二年で」
アデルは座った。「どうでしたか、数字を見て」
「やっぱり変わっているんだ、と思いました。自分が毎日見ていた感覚と、数字が一致していた」と透は言った。「環境課の木村係長に話を聞いたんですが、原因がわからないと言っていました。自然回復の可能性があるとは言っていましたが、確証がないと」
「あなたはどう思いましたか」
透は少し考えた。「エデンズフィールと関係していると思っています。でも、どう関係しているかは、まだわかりません」
アデルは透を見た。
調べていた。観察していた。考えていた。誰かに言われたわけではなく、自分から動いていた。六月の透は、「なりたかった自分がいたかどうかもよくわからない」と言っていた。今日の透は、自分の足で動いていた。
「水無瀬川の水質調査プロジェクトに、参加しようと思っています」と透は続けた。「環境課の仕事ではないですが、市役所の中で、そういう活動をしているグループがあって。木村係長が教えてくれました」
「参加するんですか」
「申請してみようと思います」と透は言った。「やってみたいと思うことが、久しぶりにあって」
久しぶりに、という言葉に、アデルは注目した。
やってみたいと思うことが、久しぶりにある。
それが何を意味するか、アデルにはわかった。透の中で、何かが動き始めていた。疲れが取れて、精神が安定して、外を見るようになって、行動したいと思うようになった。順序通りに、変化が進んでいた。
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その夜、精神ネットワークに触れた。
導師に、今日の出来事を流した。
透のこと。菜摘がついに店に来たこと。桐島が変わり始めていること。エデニア・ノクティスの開花が近いこと。
導師から、感覚が返ってきた。
*水無瀬の根が深くなっている。良い兆候だ。*
アデルは受け取った。それから、もう一つ伝えた。
*透は近い。イニシエーションの話をしても良いですか。*
少し間があった。
*彼が聞く前に話してはいけない。彼が聞いた時に話しなさい。*
*わかりました。*
導師の感覚が引いた。
アデルはネットワークから離れた。
裏のハーブ園に出た。夜だった。蒸し暑かったが、山から時折、冷たい風が来た。エデニア・ノクティスの葉が、風に揺れた。蕾が、また少し膨らんでいた。
アデルはしゃがんで、蕾を見た。
開花まで、あと何日か。
開花期のエデニア・ノクティスは、夜に開く。露を滴らせながら、小さな鈴型の花が開く。その露を集めると、効能が最も純粋な形で得られる。
アデルは立ち上がった。
空を見た。七月の夜空に、星が出ていた。入道雲は消えていた。
星を見ながら、アントワーヌのことを思った。
パリのエデンズフィール店で、アデルにイニシエーションを行った庭師。白い鷺の仮面ではなく、白い虎の仮面をつけていた庭師。アデルの左足首に黒いリボンを結んで、「おかえり」と言った人。
アントワーヌは今、マルセイユにいた。精神ネットワークで、時々声が届いた。
あの時の「おかえり」という言葉が、今でもアデルの中にあった。
新しい場所に来たのではなく、戻ってきた。どこに。言葉ではうまく言えない場所に。しかし確かに、帰ってきた感覚があった。
透も、もうすぐそれを感じる時が来る。
アデルは、その時が楽しみだった。
楽しみ、という言葉は、以前より静かな意味を持つようになっていた。興奮ではなく、確かさに近い感覚。来るべきことが、来る。それを知っている静けさ。
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七月の第三週、透がイニシエーションのことを聞いてきた。
「庭師になるとは、どういうことですか」
アデルは、この言葉を待っていた。
透の聞き方は、慎重だった。答えが怖いわけではなく、正確に理解したいという慎重さだった。
アデルはカウンターを離れて、透の向かいに座った。今日は、今まで話していなかったことを話す日だ、と思った。
「今日は少し長い話になります」とアデルは言った。「時間はありますか」
「あります」と透は言った。
アデルは話した。
五つの段階。それぞれの段階で何が変わるか。肉体の変化。精神の変化。エデニア・ノクティスのこと。ハーブが体に何をするか。楽園再造の思想のこと。なぜ人間を変えようとするのか。なぜ自然に戻ろうとするのか。
導師のことは、少しだけ話した。存在を伝えた。しかし詳細は話さなかった。
精神ネットワークのことも、話した。庭師同士が夢空間を通じて繋がっていること。第五段階を終えると、現実でも精神的に繋がれること。
透は黙って聞いていた。
時々、質問した。「エデニア・ノクティスは、どこから来るんですか」「体が変わることで、できなくなることはありますか」「導師とは、直接会えますか」
アデルは答えられることを答えた。答えられないことは、「今は答えられません」と言った。
一時間ほど話した。
最後に、透は少し間を置いてから言った。「やってみたいです」
アデルは頷いた。
「もう少し待って」とアデルは言った。「あなたが本当に決めた時に来てください。今夜じゃなくていい」
「なぜ今夜じゃないんですか」と透は聞いた。
「聞いたばかりの話で決めると、頭で決めることになります。体で決めてから来てください」
透は「体で決める」という言葉を、繰り返した。
「わかります、その感覚」とアデルは言った。「頭で考えた時と、体が決まった時は、違います。あなたはもうそれがわかる段階にいます」
透は頷いた。「考えてみます」
「急がなくていいです」とアデルは言った。
透が帰った後、アデルは裏のハーブ園に出た。
エデニア・ノクティスの蕾が、今日はさらに膨らんでいた。
明日か、明後日か。
開花は近かった。
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三日後の夜、アデルは店を閉めた後、精神ネットワークに触れていた。
世界中の庭師の声が流れていた。ロンドン。ラゴス。ソウル。サンパウロ。
誠の声が届いた。蛸の仮面の庭師。今日は少し心配している感覚があった。
*菜摘が、また来た。*
アデルは受け取った。*知っています。今日も来ました。*
*彼女は揺れている。*
*揺れていていい。揺れながら来ている。*
誠から、少し安心した感覚が返ってきた。
アデルはネットワークを離れた。
裏のハーブ園に出た。
暗かった。月が出ていた。
エデニア・ノクティスの蕾が、月光の中で、少し開いていた。
開き始めていた。
アデルはしゃがんで、その花を見た。白から淡い空色へのグラデーション。小さな鈴型の花。まだ完全には開いていなかった。しかし開き始めていた。花の内側に、露の粒が光っていた。
ラクリモサ、とアデルは思った。
涙を滴らせるように、露を落とす花。
アデルは小さなガラス瓶を取り出した。花の下に当てた。露が、一滴、落ちた。
その一滴が、瓶の底で光った。
月明かりの中で、空色に光った。
アデルはその光を、しばらく見ていた。
世界中で、同じことが起きているはずだった。それぞれの街の庭師が、それぞれのハーブ園で、それぞれの植物の世話をしている。血を与えて、育てて、収穫して、人に渡す。
川が少し澄む。山に緑が戻る。人が少し楽になる。
急がなくていい。
楽園は、一日では作れない。
アデルは立ち上がった。
瓶の中の一滴を、空に向けて透かした。
月光が、液体を通り抜けた。
空色の光が、アデルの黒い手の甲に落ちた。
明日、透が来るかもしれない。
来なくてもいい。
しかし来る気がした。
体で決めた時の人間は、来る時に来る。そしてその時の顔は、頭で決めた時とは違う。
アデルはそれを、何度も見てきた。
アントワーヌの店に、自分が戻ってきた時のことを思った。
あの朝、布団から起き上がった時に、もう決まっていた。頭ではなく、体が知っていた。パリの街を歩いてエデンズフィールに向かいながら、これが正しいと、体全体が言っていた。
透も、そういう朝が来る。
アデルは瓶を手に持ったまま、月を見た。
水無瀬の夜空に、月が高かった。
山の稜線の上に、月があった。
静かだった。
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翌朝、アデルは日の出前に起きた。
裏のハーブ園に出た。
エデニア・ノクティスの花が、一夜かけて、いくつか開いていた。
夜明け前の、一番暗い時間だった。
オルトロス、と呼ばれる時間帯。夜明けの前の闇。その時間に、エデニア・ノクティスは最もよく育つ。香りが最も強くなる。
アデルはしゃがんで、開いた花を見た。
白から空色へのグラデーション。露が滴っていた。香りが濃かった。
指先で、花びらの端を触れた。
柔らかかった。
植物が揺れた。
アデルは立ち上がった。
東の空が、少しだけ明るくなり始めていた。
今日も始まる、とアデルは思った。
店を開けて、お茶を淹れて、誰かが来るのを待つ。
待つことは、苦ではなかった。
来るべき人は、来るべき時に来る。
アデルはそれを、知っていた。




