第十一章 菜摘 三
## 第十一章 菜摘
---
七月になっても、菜摘は水無瀬に馴染めなかった。
馴染めない、というより、馴染もうとしているのかどうか、自分でもわからなかった。スーパーのパートには慣れた。レジの操作も、商品の場所も、同僚の名前も、覚えた。商店街を歩けば、顔見知りが増えた。森田さんが声をかけてくれた。青果店のおじさんが野菜の値段を教えてくれた。
生活の表面は、滑らかになっていた。
しかし内側では、何かがまだ固まっていなかった。
朝、窓を拭きながら水無瀬山を見る。大阪では、朝に山を見ることがなかった。山があることに、まだ慣れていなかった。近すぎる山が、時々、圧迫感を与えた。時々、守られているような感じを与えた。どちらの日が多いかは、その日の菜摘の状態によった。
---
ひかりの変化は、菜摘には少し意外だった。
松本美月と友達になってから、ひかりは少しずつ変わっていた。帰宅した時の顔が、違った。疲れた顔ではなく、何かを持ち帰った顔だった。夕飯の時に、学校の話をするようになった。先生がどうだとか、授業でこういうことがあったとか、美月ちゃんがこう言ったとか。
ひかりが自分から話すのを、菜摘は聞いていた。
「美月ちゃんのお父さん、今日学校で会った」とひかりが言ったのは、七月の第一週だった。
「どんな人だった」と菜摘は聞いた。
「背が高くて、髪が白かった。でも、普通に先生だった。美月ちゃんのお父さんって感じがした」
「先生として教えているの、その方も」
「理科の先生だって。美月ちゃんが言ってた。授業が面白いって」
誠と同じ理科教師だ、と菜摘は思った。同じ学校ではないが、同じ教科を教えている。庭師の理科教師が、水無瀬に二人いる。
「美月ちゃんは、お父さんのこと、怖くないの」と菜摘は聞いた。
ひかりは少し考えた。「怖くないと思う。普通のお父さんだって言ってた。ただ、ちょっと変わってる、って」
「変わってる」
「見た目が、普通じゃないから。でも、だから怖いってわけじゃないみたい」と言って、ひかりは箸を動かした。「うちのパパも、同じだよね」
菜摘は「そうね」と言った。
---
誠は七月も、週に三回ほどマンションに来た。
来る時は、ひかりと話した。宿題を見たり、テレビを一緒に見たり、夕飯を一緒に食べることもあった。食べない日も、まだあった。ハーブだけで充分、と言う日が続いていた。
ある夜、誠がひかりを送り出してから、菜摘と二人になった。
「少し話せるか」と誠は言った。
「いいよ」と菜摘は言った。
二人でテーブルに向かい合って座った。誠の左手首に、四本のリボンが揺れていた。
「仕事、どうだ」と誠が聞いた。
「パートは慣れた」と菜摘は言った。「デザインの仕事は、まだ気が向かない」
「急がなくていい」と誠は言った。
「急がなくていい、って最近よく言うよね」と菜摘は言った。責めているわけではなかった。ただ、気づいていた。
「そうか」と誠は言った。「急かしているつもりはなかったけど」
「急かしてるわけじゃない。ただ」と菜摘は言って、言葉を探した。「あなたが穏やかすぎて、時々、怖くなる」
誠は少し間を置いた。「怖い?」
「何かに怒ったり、焦ったりしないでしょ、最近。以前はそういうこともあったのに」
「以前は、それが辛かったんだ」と誠は言った。「怒ることも、焦ることも」
「今は辛くないの」
「辛くない」と誠は言った。「ただ、そういう感情がなくなったわけじゃない。腹が立つことはある。焦ることもある。ただ、それに引きずられなくなった」
菜摘はその言葉を考えた。
「引きずられなくなる、というのは、どういう感じなの」
誠は少し考えた。「川を見ていて、水が流れているのがわかる。でも流されない。そういう感じかな」
川、という言葉が出た。菜摘は窓の外を見た。水無瀬川は、ここからは見えなかった。
「エデンズフィールに、行ってみた」と菜摘は言った。
誠は少し驚いた顔をした。「いつ」
「七月に入ってから。一度だけ」
「どうだった」
菜摘は少し間を置いた。「美味しかった」
誠は何も言わなかった。押しつけなかった。それが菜摘には、少し楽だった。
「また行くかどうかは、わからない」と菜摘は言った。
「それでいい」と誠は言った。
---
エデンズフィールに二度目に行ったのは、七月の第二週の水曜日だった。
パートの帰り道、商店街を通った。いつもと同じルートだった。エデンズフィールの前を通るのも、いつもと同じだった。
しかし今日は、自然に扉を押していた。
前回のように躊躇しなかった。ただ、気づいたら入っていた。
アデルがカウンターにいた。「いらっしゃいませ」と言った。菜摘の顔を見て、一瞬だけ、何かを確認するような目をした。しかしすぐに普通の表情に戻った。
「Sサイズをください」と菜摘は言った。
ボトルを受け取って、前回と違うテーブルに座った。窓に近いテーブル。外が見えた。
飲んだ。
前回と同じ味がした。温かくて、涼しくて、甘くて、苦い。矛盾した味。しかし今日は、その矛盾が最初より自然に感じられた。体が、少し知っている味として受け取っている感じがした。
窓から、商店街が見えた。
夕方の商店街。人が少なかった。シャッターが降りている店が多かった。その向こうに、山の稜線が見えた。
菜摘はその景色を、初めてちゃんと見た気がした。
毎日通っているのに、見ていなかった。歩きながら、誠のことを考えていた。ひかりのことを考えていた。大阪のことを考えていた。商店街を、目に入れながら見ていなかった。
今日は、見えていた。
シャッターの錆び方が、店ごとに違った。錆びていないシャッターもあった。青果店のおじさんが、店先で残り物の野菜を箱に片付けていた。理容室の灯りが、アーケードの中で暖かく見えた。
悪くない街だ、と菜摘は思った。
それが意外だった。
---
三度目に来たのは、その週の土曜日だった。
今度はひかりを連れてきた。
ひかりは「エデンズフィールに行くの?」と少し驚いた顔をした。「いいよ」とすぐに言った。
二人で入ると、アデルが「いらっしゃいませ」と言った。ひかりを見て、「初めてですか」と聞いた。
「はい」とひかりは言った。アデルを見上げた。ひかりの身長は百五十センチ程度だった。アデルと並ぶと、頭一つ以上、差があった。ひかりは怖がらなかった。「大きいですね」とひかりは言った。
「大きいです」とアデルは言った。
ひかりは笑った。菜摘も、少し笑った。
二人でSサイズを頼んで、テーブルに座った。ひかりが飲んで、「美味しい。変な味だけど美味しい」と言った。菜摘は「そうでしょ」と言った。
「パパが好きな理由がわかった気がする」とひかりは言った。
菜摘は少し黙った。「そうね」と言った。
ひかりは窓の外を見た。「川、見えないね」
「川はもう少し向こうだよ」
「歩いていけるかな」
「歩いていけるよ」
「今度、川まで歩こう」とひかりは言った。菜摘を誘うように言った。
「いいよ」と菜摘は言った。
---
帰り際、アデルが菜摘に声をかけた。
「少しよろしいですか」
ひかりが先に外に出た。菜摘はカウンターの前に立った。
「何ですか」
「誠さんから、よく話を聞いています」とアデルは言った。「奥さんが水無瀬に来てくれたと。ご苦労をかけていると」
菜摘は少し固まった。誠がアデルに、自分のことを話している。当たり前のことだが、改めて聞くと、少し複雑だった。
「誠は、私のことをどう言っているんですか」と聞いた。
「頑張っていると言っています」とアデルは言った。「理解しようとしてくれていると」
菜摘は黙った。
理解しようとしている。できているかどうかは別として、しようとしていることは、誠にはわかっているらしかった。
「あなたに感謝していました」とアデルは続けた。「ついてきてくれたことを」
菜摘は、その言葉を聞きながら、目が少し熱くなった。こらえた。ここで泣くつもりはなかった。
「私は」と菜摘は言った。「まだ、受け入れられているわけじゃないです。ただ、どうしていいかわからなくて、ここにいる」
「それで充分です」とアデルは言った。
「充分なんですか」
「来ていますから」とアデルは言った。シンプルに、しかし明確に。「ここに来ることが、あなたの答えの一つです」
菜摘はアデルを見た。
金色の目が、菜摘を見ていた。穏やかだった。押しつけていなかった。ただ、そこにあった。
「娘さん、良い子ですね」とアデルは言った。
「ええ」と菜摘は言った。「私より、ずっと柔軟です」
「子供は、見えているものを見ます。大人は、見えているものの意味を考える。どちらも必要です」
菜摘はその言葉を、すぐには返せなかった。
「また来ます」と言った。
「いつでも」とアデルは言った。
---
外に出ると、ひかりが商店街の端で待っていた。
「何話してたの」とひかりが聞いた。
「少し話しただけ」と菜摘は言った。
「アデルさん、良い人だね」とひかりは言った。
「そうね」と菜摘は言った。
二人で商店街を歩いた。夕方の光が、アーケードの屋根の隙間から落ちていた。光の帯が、濡れたアスファルトに模様を作っていた。
ひかりが「川、行ってみよう」と言った。
「今日?」
「近くでしょ」
「少し歩くよ」
「いい」とひかりは言って、歩き始めた。
菜摘はひかりの後について歩いた。
川沿いの道に出ると、夕方の光が川面に落ちていた。濁った水が、光を受けて鈍く輝いていた。
ひかりが川を見た。「思ったより大きい川だね」
「そうね」
「きれいじゃないね」とひかりは言った。正直に言った。
「昔はきれいだったらしいよ」と菜摘は言った。「工場が多かった頃に、汚れたって」
「今はきれいじゃないの?」
「少しずつ、きれいになってきているって聞いた」
ひかりは川を見た。「どのくらいかかるの、きれいになるのに」
「わからない。時間がかかると思う」
「時間がかかってもきれいになるならいいじゃん」とひかりは言った。
菜摘はひかりを見た。
時間がかかってもきれいになるならいい。
その言葉が、川のことだけを言っているとは、菜摘には思えなかった。
「そうね」と菜摘は言った。
二人で、川を見た。
夕暮れの光の中で、川が流れていた。濁っていたが、流れていた。止まっていなかった。
---
その夜、誠が来た。
夕飯を三人で食べた。誠は今日は少しだけ食べた。ひかりがエデンズフィールに行った話をした。「美味しかった」と言った。誠は「そうだろう」と言って笑った。
ひかりが自分の部屋に入った後、菜摘と誠は二人でテーブルに座った。
「エデンズフィールのアデルさんと話した」と菜摘は言った。
「そうか」と誠は言った。驚かなかった。
「あなたが私のことを話していると聞いた」
「話している」と誠は素直に言った。「秘密にするつもりはなかったけど、言っていなかった。ごめん」
「謝らなくていい」と菜摘は言った。「ただ、知りたかった」
誠は頷いた。
「アデルさんが言っていた」と菜摘は続けた。「あなたが、私に感謝していると」
誠は少し間を置いた。「している」と言った。「ついてきてくれたことを」
菜摘は「ついていきたかったわけじゃない」と言った。「監視したかったわけでも、ないとは言えないけど」
「わかっている」と誠は言った。
「でも」と菜摘は言った。「来てよかったかもしれない、と少し思い始めている」
誠は何も言わなかった。
それで良かった。「そうか」とも「良かった」とも言わなかった。ただ、聞いていた。
誠のそういうところが、菜摘には昔から好きだった。話を聞く時、結論を急がなかった。相手が話し終わるまで、ただ聞いていた。それは庭師になる前からそうだった。変わっていない部分の一つだった。
「ひかりが川に行きたがっていた」と菜摘は言った。「今日、一緒に行った」
「どうだった」
「濁っていた。でも、ひかりが時間がかかってもきれいになればいいって言って」
誠は少し笑った。「ひかりはそういうことを言う」
「そうね」と菜摘は言った。
二人でしばらく、黙っていた。
テーブルの上に、エデンズフィールのお茶が一本あった。菜摘が自分で買ってきたものだった。今日の帰り道に、エデンズフィールに寄って、Mサイズを買ってきた。
誠がそれを見て、「飲むのか」と聞いた。
「飲んでいる」と菜摘は言った。「少しずつだけど」
誠は頷いた。何も言わなかった。
菜摘はボトルを手に取って、少し飲んだ。
温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。
窓の外に、水無瀬山が暗く見えた。
---
翌朝、パートに出かける前に、菜摘はひかりの部屋をノックした。
「入って」とひかりの声がした。
ドアを開けると、ひかりが机に向かっていた。学校の課題をやっていた。
「ちょっといい?」と菜摘は言った。
「何」
菜摘は部屋に入って、ひかりの隣に立った。「少し聞いていいかな。エデンズフィールのことと、お父さんのことを、正直に話したいと思って」
ひかりは振り返った。真剣な顔をした。「うん」
菜摘は話した。
エデンズフィールが何をしているか。楽園再造の会とは何か。庭師とは何か。五つの段階。肉体の変化。誠が今どの段階にいるか。第五段階を終えると、どんな姿になるか。
隠さなかった。
ひかりは黙って聞いた。時々、「それってどういうこと」と聞いた。菜摘は答えた。
全部話し終えると、ひかりはしばらく黙っていた。
「怖い?」と菜摘は聞いた。
「少し」とひかりは正直に言った。「でも、パパが苦しそうじゃないから」
「そうね」
「美月ちゃんのお父さんも、同じなんだよね。美月ちゃんが言ってた。最初は怖かったけど、今は慣れたって」
「ひかりは、どう思う」と菜摘は聞いた。
ひかりは少し考えた。「私には、まだよくわからない。でも、パパはパパだし、美月ちゃんのお父さんは美月ちゃんのお父さんだから」
「うん」
「お母さんはどう思うの」と今度はひかりが聞いた。
菜摘は少し間を置いた。「まだ、わからない」と言った。「でも、わからないなりに、ここにいようと思っている」
ひかりは頷いた。「それでいいと思う」
「そう?」
「うん。わからないのに、わかったふりするよりいい」
菜摘はひかりを見た。
十三歳の娘が、菜摘に言った言葉だった。しかしその言葉は、正確だった。わからないのに、わかったふりするよりいい。
「そうね」と菜摘は言った。「ありがとう」
「何が」とひかりは言って、また机に向かった。
菜摘はひかりの部屋を出た。
廊下に立って、少しの間、目を閉じた。
わからなくていい。今は。
ここにいる。ひかりがいる。誠がいる。川がある。山がある。
それで、今日は充分だ。
菜摘はコートを手に取って、玄関に向かった。
窓から、水無瀬山が見えた。
今日の山は、守っているように見えた。




