第十二章 桐島 三
## 第十二章 桐島
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七月の水無瀬は、桐島の体に少しずつ馴染んでいた。
東京に戻るタイミングを、何度か考えた。六月に一度、荷物を取りに帰った。編集者に会って、進捗を報告した。「まだ何もないのか」と言われた。「ある。ただ、まだ形にならない」と答えた。編集者は「金にならないなら早く切り上げろ」と言った。桐島は「もう少しかかる」と言って、水無瀬に戻った。
水無瀬に戻る新幹線の中で、なぜ戻るのかを考えた。
記事になる確証はなかった。被害者もいなかった。違法な点も見つからなかった。ジャーナリストとして追うべき案件かどうか、まだわからなかった。
しかし水無瀬を離れると、何かを見落とす気がした。
その感覚だけで、桐島は戻った。
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七月の取材は、六月より広がっていた。
アデルへの取材を続けながら、周辺への調査も広げた。水無瀬川の水質データを環境課から取り寄せた。水無瀬山の植生調査の記録を図書館で調べた。水無瀬総合病院の村瀬と定期的に会った。
川のデータは、確かだった。
過去二年で、BOD値が十五パーセント改善していた。透視度が上がっていた。魚の種類が増えていた。環境課の担当者に話を聞くと、「理由が特定できていない」と言った。工場の排水規制が変わったわけでも、浄化設備が新設されたわけでもなかった。
山の植生も、変わっていた。
図書館の司書が、古い調査記録を出してくれた。十年前、五年前、去年の記録を比べると、山の緑が濃くなっていた。外来種の割合が減って、在来種が増えていた。理由は、記録にはなかった。
桐島はこれらのデータを並べた。
エデンズフィールが水無瀬に来た時期と、変化が始まった時期が、一致していた。
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アデルへの取材は、七月に入って少し変わっていた。
六月は核心に向かって正面から当たっていた。七月は違う聞き方をしてみた。直接ではなく、周囲から。
「エデンズフィールが水無瀬を選んだ理由は何ですか」
「川と山があったからです」とアデルは言った。「水と土と緑があれば、始められます」
「何を始めるんですか」
「根付かせること」とアデルは言った。「植物と同じです。良い土に、良い種を植える」
「水無瀬の土が良いと」
「今はまだ。でも、良くなっています」
桐島はノートに書いた。「川が澄んでいることと、関係していますか」
「直接的には関係していません」とアデルは言った。「ただ、ここにいる人間が変われば、周囲も変わります。川を汚す行動をしない人間が増えれば、川は自然に澄んでいく」
「それだけで、数字が変わるものですか」
「時間がかかります。しかし変わります」とアデルは言った。迷いなく言った。
「確信があるんですか」と桐島は聞いた。
「あります。信じているからです。楽園が本来ここにあると」
桐島はペンを止めた。
六月の自分なら、「信じているだけでは根拠にならない」と返していた。今日は返さなかった。アデルの言葉を、そのままノートに書いた。
アデルが少し首を傾けた。「今日は反論しないんですか」
「していません」と桐島は言った。「反論できなかったわけではないですが」
「なぜ」
桐島は少し考えた。「川のデータを見たからかもしれない」
アデルは何も言わなかった。ただ、微かに笑った。
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その日の帰り道、桐島は川沿いを歩いた。
取材の後、川沿いを歩く習慣が、七月に入ってからできていた。意識してそうしているわけではなかった。気づけば、川の方に足が向いていた。
夕方の川に、光が落ちていた。
桐島はいつも止まる場所で、足を止めた。
川を見た。
六月に来た時より、水の色が変わっている気がした。気のせいかもしれなかった。しかしデータを見た後では、気のせいとも言い切れなかった。川底の石が、以前より少しだけ見えやすくなっていた。濁りの色が、薄くなっていた。
桐島はしばらく、川を見た。
川を見ながら、記事の構成を考えようとした。しかし考えがまとまらなかった。いつもは取材の帰りに記事の骨格が見えてくる。今日は見えなかった。
見えない理由は、わかっていた。
何が問題なのか、まだ言語化できていなかった。危険なのか、危険でないのか。有益なのか、有害なのか。記事にすべき案件なのか、すべきでないのか。
全部が、宙に浮いたままだった。
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菜摘との二度目の面談は、七月の第二週だった。
川沿いのベンチではなく、今回は近くの喫茶店にした。菜摘が指定した店だった。水無瀬の古い喫茶店で、昭和の雰囲気がそのまま残っていた。コーヒーが濃くて、美味しかった。
菜摘は少し落ち着いていた。六月の最初に会った時より、顔が定まっていた。まだ迷っているが、迷い方が整理されてきている、という感じだった。
「エデンズフィールに行きました」と菜摘は言った。
桐島は少し驚いた。「飲んだんですか」
「何度か。娘と一緒に行ったこともあります」
「どうでしたか」
「美味しかった」と菜摘は言った。「それ以上でも、それ以下でもない。今のところは」
「今のところは、というのは」
「変化があれば、また違う答えになるかもしれないということです」
桐島はノートに書いた。「誠さんの変化は、今どういう状態ですか」
「肌がかなり黒くなっています。髪はほぼ銀色です。身長が、会うたびに少し伸びている気がする」と菜摘は言った。「でも、誠は誠です。それは変わらない」
「受け入れてきている感じですか」
菜摘は少し間を置いた。「受け入れる、という言葉は違う気がします。まだわからない。でも、わからないままここにいることにした、という感じです」
「なぜそう決めたんですか」
菜摘はコーヒーカップを手に持った。「娘が、時間がかかってもきれいになればいいって言ったんです。川のことを言ったんですが、私には川のことだけじゃない言葉に聞こえた」
桐島は書き留めた。「お子さんは、どういう状態ですか」
「適応が速い」と菜摘は言った。「子供は見えているものを見るから、と言われました。アデルさんに」
「エデンズフィールのアデルさんと、話したんですか」
「少し。感謝していると言われました。誠から聞いていると」
桐島は菜摘を見た。
六月の最初に会った菜摘は、困惑が全面に出ていた。今日の菜摘は、困惑の中に何か別のものが混じっていた。諦めではない。受容でもない。もう少し複雑な何かだった。
「記事は書きますか」と菜摘が聞いた。
「まだわかりません」と桐島は言った。「書くとしたら、どんな記事を書いてほしいですか」
菜摘は少し考えた。「前も言いましたが、正確に書いてほしい。被害者がいない、ということを。でも困惑している人間がいる、ということも。その両方が本当のことです」
「難しい記事ですね」と桐島は言った。
「そうでしょうね」と菜摘は言った。「あなたが書いているものは、答えのある記事ですか」
桐島は少し驚いた。「というと」
「問題があって、原因があって、解決策がある。そういう記事を書いてきたんじゃないですか」
「そういう記事が多かったです」
「これは、そういう構造じゃない」と菜摘は言った。「問題があるのかどうかも、わからない」
桐島はその言葉を、しばらく考えた。
「おっしゃる通りです」と言った。
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喫茶店を出た後、桐島は川沿いを歩いた。
夕方だった。
歩きながら、菜摘の言葉を繰り返した。
問題があるのかどうかも、わからない。
桐島は十年以上、ジャーナリストをやってきた。問題を見つけて、追って、記事にする。それが仕事だった。問題のないところに記事は生まれない。
しかしこの案件は違った。
問題が見つからなかった。問題のように見えるものはあった。説明のつかない回復事例。外見の変化。組織の不透明さ。しかしどれも、被害に直結していなかった。
記事にできない。
その結論は、七月に入ってから、少しずつ固まっていた。
しかしそれで終わりにしていいのか、という疑問も、同時にあった。
何かがある。確実に何かがある。記事にできないだけで、何かは起きている。川が澄んでいく。山の緑が戻る。病気が治る。人が変わる。街が変わる。
これを書かないことが、正しいのか。
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ホテルに戻る途中、桐島はエデンズフィールに寄った。
閉店間際だった。アデルが店の片付けをしていた。
「遅い時間にすみません」と桐島は言った。
「構いません」とアデルは言った。「お茶、飲みますか」
「ください」
Sサイズのボトルを受け取って、カウンターの椅子に座った。
飲んだ。温かくて、涼しい。甘くて、苦い。この味に、七月の間に少し慣れていた。慣れながら、毎回少し驚いていた。矛盾した味だと、いつも思った。
「少し聞いていいですか」と桐島は言った。
「どうぞ」とアデルは言って、片付けを続けながら答えた。
「あなたたちは、この先どうなると思っていますか。エデンズフィールが広がって、庭師が増えて、その先に何があると思っているんですか」
アデルは手を止めた。桐島を見た。
「地上が、楽園に近づく」とアデルは言った。
「具体的には」
「川が澄む。山の緑が戻る。生き物が増える。人間が、生き物の一つとして、食物連鎖の中に戻る」
「文明はどうなりますか」
「捨てるのではありません」とアデルは言った。「使い方が変わる。自然を壊すために使うのではなく、自然と共に生きるために使う」
「それは、理想ですか」
「理想です」とアデルは言った。「でも、理想だから不可能ではない」
桐島はボトルを持ったまま、少し間を置いた。「あなたは、その理想が実現すると思っていますか」
「思っています」
「根拠は」
「川が澄んでいます」とアデルは言った。「それが根拠です」
桐島はその言葉を、ノートに書かなかった。書かずに、覚えた。
川が澄んでいる。それが根拠だ。
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ホテルに戻って、桐島はデスクに座った。
ノートパソコンを開いた。新しいドキュメントを作った。タイトルを入力しようとして、止まった。
何のタイトルをつければいいか、わからなかった。
「謎のカルト集団」ではなかった。「奇跡のハーブ」でもなかった。「新人類の誕生」でも、「環境回復の秘密」でも、なかった。
桐島は何も入力せずに、ドキュメントを閉じた。
代わりに、ノートを開いた。
七月に書いたメモを読み返した。川のデータ。山の植生。田中ふじ江の証言。菜摘の言葉。アデルの言葉。透と思われる人物の観察記録。水無瀬の街の変化。
全部を並べた。
並べて、見た。
何かが、見え始めていた。
記事ではなかった。記事の形をしていなかった。問題と原因と解決策の構造を持っていなかった。
しかし何かが、見え始めていた。
桐島はノートに書いた。
*水無瀬は、変わっている。川が。山が。人が。誰も命令していない。誰も強制していない。しかし変わっている。*
書いてから、少し考えた。
*それを何と呼ぶか。*
答えは出なかった。
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その夜、桐島は早く眠った。
七月に入ってから、睡眠が変わっていた。眠れる時間が、六月より早くなっていた。胃の痛みが、減っていた。完全になくなったわけではなかったが、以前ほど常にあるものではなくなっていた。
エデンズフィールのお茶を、毎日飲んでいた。
最初は取材の一環だった。飲んでみることで、体験を記録できる。そういう理由だった。しかし七月の半ばを過ぎると、取材のためではなく、飲みたいから飲んでいた。その変化に、桐島は気づいていた。気づいていて、特に問題だとは思わなかった。
それが少し、気になっていた。
問題だと思わない自分が、正常なのか、変わっているのか。
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夢を見た。
川だった。
澄んだ川。桐島は岸辺に立っていた。川底の石が、はっきりと見えた。水が、光を通していた。
川沿いに、人がいた。
上流の方に、背の高い人物がいた。銀髪。黒い肌。アデルだ、とわかった。川を見ていた。こちらを見ていなかった。
近くに、もう一人いた。
細い、背の低い人物。川に手を伸ばしていた。水に触れようとしていた。その人物の髪が、半分ほど銀色になっていた。
桐島は近づこうとした。
足が、動いた。しかし近づいた気がしなかった。川沿いを歩いているのに、距離が縮まらなかった。
立ち止まった。
川の向こう岸を見た。
向こう岸に、誰かがいた。こちらを見ていた。誰なのか、顔が見えなかった。
川を渡ろうとした。
水が、思ったより冷たかった。足を踏み入れた瞬間に——。
目が覚めた。
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午前四時だった。
部屋が暗かった。
桐島は天井を見た。
夢の細部が、薄れていった。川。澄んだ水。銀髪の人物。向こう岸の誰か。
川を渡ろうとした。
その感覚だけが、残った。
桐島は起き上がって、水を飲んだ。
デスクに座った。
暗い部屋の中で、ノートパソコンを開いた。画面の光が、部屋を青白く照らした。
新しいドキュメントを開いた。
今度は、タイトルを入力した。
*水無瀬で起きていること*
それだけ入力して、止まった。
書き始める言葉が、出てこなかった。何から書けばいいかわからなかった。しかし書けない理由は、材料がないからではなかった。材料は、七月の間に十分に集まっていた。
書けない理由は、まだ終わっていないからだった。
この話は、まだ終わっていなかった。自分がまだ、途中にいた。取材対象の途中ではなく、自分自身が何かの途中にいた。
桐島はドキュメントを保存せずに閉じた。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
水無瀬の夜明けは、静かだった。
鳥の声が、どこかから聞こえた。一羽が鳴くと、別の一羽が応えた。
桐島は窓を開けた。
七月の朝の空気が入ってきた。涼しかった。山から下りてくる空気だった。
遠くに、水無瀬山の稜線が見えた。
夜明けの光が、山の端から滲み出していた。
桐島はその光を見ながら、理恵のことを思った。
理恵は今、どこで何をしているだろう。再婚したと、共通の知人から聞いたことがあった。子供がいるとも聞いた。それ以上は聞かなかった。
あなたがここにいない、と理恵は言った。
いつもここにいない。仕事のことを考えていて、次の取材のことを考えていて、どこか遠いところにいる。
水無瀬に来て、一ヶ月以上が経っていた。
今の桐島は、ここにいた。
珍しいことだった。どこかへの取材の途中に、ここにいると感じることは、以前はなかった。常に次のことを考えていた。この取材が終わったら、次は何を書くか。この記事が出たら、次はどこへ行くか。
今は、次を考えていなかった。
水無瀬にいた。川が澄んでいく街に。山の緑が戻っている街に。理由のわからない回復事例がある街に。外見が変わっていく人間がいる街に。
ここにいた。
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その日の午後、桐島は田中ふじ江に電話した。
「少し伺ってもいいですか」と聞いた。
「どうぞ」と田中は言った。
田中の家に行くと、庭に新しい植物が増えていた。前回来た時より、種類が増えていた。
「最近、植物を増やしているんですか」と桐島は聞いた。
「庭に出る時間が増えましてね」と田中は言った。「体が元気だから、外に出たくなるんですよ」
居間に通されて、お茶を出された。今日は緑茶ではなく、空色の液体だった。
「エデンズフィールのお茶ですか」と桐島は言った。
「そうです。毎日飲んでいます」と田中は言って、自分のカップに口をつけた。「あなたも飲みますか」
「いただきます」と桐島は言った。
飲んだ。温かくて、涼しかった。
「前回から、体の変化は続いていますか」と桐島は聞いた。
「続いています」と田中は言って、自分の手を見た。「肌が、また少し変わりました。髪も。目も、鏡で見ると、色が変わってきていて」
「怖くないですか、やはり」
田中は少し笑った。「怖い、という感覚が、最近薄くなっています」
「なぜですか」
「癌が消えたんです」と田中は言った。「それより怖いことが、これからあるとは思えなくて」
桐島はその言葉を、書き留めた。
帰り際、田中が庭まで送ってくれた。
庭の植物を見ながら、田中が言った。「あなた、ここに来るたびに、少し変わっていますね」
「変わっていますか」と桐島は聞いた。
「六月に初めて来た時より、顔が穏やかになっています。エデンズフィールのお茶、飲んでいるんじゃないですか」
桐島は少し驚いた。「飲んでいます」
「そうでしょう」と田中は言って、庭の植物を見た。「良い顔になっています」
桐島はその言葉を、どう受け取ればいいかわからなかった。
「ありがとうございます」と言った。
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ホテルに戻って、桐島は鏡を見た。
洗面台の鏡。
くたびれた顔の男が映っていた。無精髭。目の下の隈。くたびれたジャケット。
しかし、田中が言った通り、何かが変わっていた。
目の下の隈が、薄くなっていた。肌の荒れが、七月に入ってから減っていた。顔色が、六月よりいくらか良かった。
桐島は自分の顔を、少し長く見た。
エデンズフィールのお茶を飲んでいる。毎日飲んでいる。取材対象の飲み物を、毎日飲んでいる。
ジャーナリストとして、それは正しいのか。
考えた。
答えは出なかった。
しかし、やめようとは思わなかった。
桐島はジャケットを脱いで、椅子に座った。
ノートを開いた。
新しいページに、一行だけ書いた。
*川を渡るためには、川に入らなければならない。*
書いてから、少し考えた。
これが何を意味するのか、まだわからなかった。
しかし、何かを意味していると思った。
窓の外に、夜の水無瀬山が見えた。
暗い山が、静かにそこにあった。




