第十三章 透 四
##第四部 花
## 第十三章 透
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八月の水無瀬は、燃えるように暑かった。
盆地特有の熱の籠り方で、昼間は体を動かすだけで汗が出た。アーケードの中でも、空気がよどんで、立っているだけで額に汗が滲んだ。市役所の冷房は効きすぎていて、外に出るたびに温度差で頭がくらっとした。
透はその暑さを、以前より平気に感じていた。
苦しくないわけではなかった。暑いとはわかった。しかし暑さに追い立てられる感じが、なかった。以前の八月は、熱さと疲れが重なって、夏が終わる頃にはぐったりしていた。今年の八月は、暑くても、体の底に余裕がある感じがした。
それが変化の一つだと、透は知っていた。
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髪は、八月に入るとさらに銀色が増した。
全体の半分以上が、銀色になっていた。光の当たり方によっては、ほぼ全部が銀色に見えた。黒い部分は、後頭部の奥の方にわずかに残っているだけだった。
目は、金色がはっきりしてきていた。
茶色はほとんど残っていなかった。琥珀色に近い、深みのある金色になっていた。光の中では、金属のように輝いた。
市役所の同僚たちは、慣れてきていた。
七月の最初の頃は、まだ「コンタクトですか」と聞く人がいた。七月の終わりには、聞かなくなった。ただ、少し遠巻きにする人が増えた。悪意があるわけではなかった。どう接すればいいかわからない、という戸惑いが、距離になっていた。
透はその距離を、気にしなかった。
以前の透なら、気にしていたはずだった。距離を置かれることで、自分が何か悪いことをしているのではないかと、小さく傷ついていたはずだった。今は、そういう感覚がなかった。相手が距離を置くなら、その距離を尊重した。それだけのことだと思えた。
田所さんだけは、変わらなかった。
「鷺沼くん、今日も暑いね」と言った。「顔色いいじゃない」と言った。透の髪が銀色になっても、目が金色になっても、田所さんは普通に話しかけてきた。
「ありがとうございます」と透は言った。
「なんか、最近きれいになったよね」と田所さんは言った。「男の人に使う言葉じゃないかもしれないけど、そういう感じがする」
透は少し笑った。「ありがとうございます」
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水無瀬川の水質調査プロジェクトへの参加申請が、通った。
八月の第一週に、環境課の木村係長から連絡が来た。「総務からの参加は初めてだけど、歓迎します」と言われた。活動は月に一度、川沿いで水のサンプルを採取して、簡易検査をする。専門的な知識は必要なかった。データを記録して、報告書を作る。それだけだった。
最初の活動日は、八月の第三週の土曜日だった。
朝の六時に集合した。まだ日が低く、川沿いに影があった。参加者は十人ほどだった。市役所の職員が四人、市民ボランティアが六人。
透は一番若かった。
川沿いに並んで、指定された場所でサンプルを採取した。透明なボトルに川の水を入れた。採取した水を、光に透かして見た。
六月に初めて川に来た時より、確かに水が澄んでいた。ボトルの中の水は、川底の砂粒が沈んで見えるほどだった。完全に透明ではなかった。しかし以前よりずっと、光を通していた。
「きれいになってますよね」と隣に立っていたボランティアの男性が言った。六十代くらいの、地元に長く住んでいそうな男性だった。
「そう思います」と透は言った。
「昔はもっときれいだったんだよ」と男性は言った。懐かしむように言った。「子供の頃は、この川で泳いでいたから。底まで見えて、魚がいっぱいいた」
透は父と一緒に川に来た記憶を思い出した。父が死んだのは、透が十二歳の時だった。その頃の川も、今より少し澄んでいた気がした。
「また、そうなりますよ」と透は言った。
言ってから、少し驚いた。確証があるわけではなかった。しかし言えた。言いながら、確かにそうなる気がした。根拠のない確信ではなく、毎日川を見ていて、データを見て、変化を知っているから言えた言葉だった。
男性は「そうなるといいね」と言って、サンプルのボトルを袋に入れた。
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八月の第二週の火曜日、透はエデンズフィールに行った。
いつものテーブルに座って、お茶を飲んだ。
今日は、アデルに聞きたいことがあった。
七月に、イニシエーションの説明を聞いた。一週間、考えた。「やってみたいです」と言った。アデルに「もう少し待ってください」と言われた。体で決めた時に来てください、と言われた。
あれから、三週間が経っていた。
三週間、考えた。
頭で考えた時間と、体で感じた時間があった。頭で考えると、リスクのことが浮かんだ。戻れるかどうかわからない。体が変わり続ける。社会的な影響がある。母のことが心配だ。
しかし体の感覚は、違うことを言っていた。
毎朝目覚めた時に感じる軽さ。川を見る時の、これが正しいという感覚。環境課の木村係長に話しかけた時の、初めて動いた感覚。「また澄みますよ」と言えた時の確かさ。
頭が迷っていても、体は知っていた。
透はそれを、アデルが言った「体で決めてから来てください」という言葉と重ねた。体で決めた時はわかる、とアデルは言っていた。
今日の朝、目が覚めた時に、わかった。
今日だ、と思った。
論理的な理由はなかった。ただ、今日だと思った。
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アデルがカウンターから透を見た時、何かを感じ取ったらしかった。
透がお茶を飲み終えないうちに、アデルはカウンターを離れて、透の向かいに座った。
「今日ですか」とアデルが言った。
透は少し驚いた。「わかりましたか」
「顔が違います」とアデルは言った。「頭で決めた時の顔と、体で決めた時の顔は、違います」
透は自分の顔を確かめようとして、できないことに気づいた。鏡がなかった。しかしアデルに言われると、確かに今日の自分の顔は何かが違う気がした。以前より、定まっている感じがした。
「決めました」と透は言った。
「急がなくていいですよ」とアデルは言った。「まだ一週間待ってもいい」
「待つ必要がない気がします」と透は言った。「体が、今日だと言っています」
アデルはしばらく、透を見た。
それから、頷いた。
「では、今日にしましょう」
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一つだけ、やらなければならないことがあった。
母に話すことだった。
イニシエーションを受ける前に、母に話しておきたかった。決意を揺るがすためではなかった。ただ、母に黙ったまま進みたくなかった。
エデンズフィールを出て、実家に向かった。
実家は市役所から自転車で十分ほどの、古い一戸建てだった。透が生まれた家だった。父が死んでからも、母と二人でここに住み続けていた。
玄関を開けると、台所から母の声がした。「お帰り」
「ただいま」と透は言った。「少し話せますか」
「いいよ」と母は言った。台所から出てきた。エプロンをつけていた。透の髪と目を見て、「また少し変わったね」と言った。
「そうです」と透は言って、リビングに移った。
二人でテーブルに向かい合って座った。
透は話した。
エデンズフィールのこと。エデニア・ノクティスのこと。庭師のこと。五つの段階のこと。イニシエーションのこと。これから自分の体がどう変わっていくか。楽園再造の思想のこと。
全部ではなかった。説明しきれないことはあった。しかし、今の透が言える範囲で、正直に話した。
母は黙って聞いた。
話し終えると、しばらく黙っていた。台所から、何かが煮える音が聞こえた。
「あなたが決めたことなの?」と母は聞いた。
「はい」と透は言った。
「誰かに頼まれたわけじゃなくて」
「誰にも頼まれていません。自分で決めました」
母はまた黙った。透の顔を見た。銀色の髪と、金色がかった目を、じっと見た。
「あなたの目、お父さんの目に似てきたね」と母は言った。
透は少し驚いた。「そうですか」
「お父さんの目は、こんなに金色じゃなかったけど。でも、なんか似た感じがする。よく見ていたから」
透は父の顔を思い出そうとした。写真は何枚か残っていた。顔立ちは覚えていた。しかし目の色まで、正確に覚えていなかった。
「あなたが決めることだ」と母は言った。「私にはわからないことだから、止める理由もない」
「止めたくはないですか」
母は少し考えた。「止めたい気持ちがないと言えば嘘になる。でも」と言って、続けた。「あなたが六年間、水無瀬でなんとなく過ごしているのを、ずっと見ていたから。何かに向かっている今の方が、私には安心できる」
透はその言葉を、しばらく受け取っていた。
六年間、なんとなく過ごしているのを、母は見ていた。透が気づいていなかったことを、母は見ていた。
「ありがとう」と透は言った。
母は「ご飯食べていく?」と言った。
「今日は後で」と透は言った。「帰ってきます」
「待ってるよ」と母は言って、台所に戻った。
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エデンズフィールに戻ったのは、夕方五時を過ぎた頃だった。
店はまだ開いていた。客は一人もいなかった。アデルがカウンターで何かを書いていた。
透が入ると、アデルは顔を上げた。
「戻ってきましたね」と言った。
「母に話してきました」と透は言った。
「どうでしたか」
「止められませんでした。というより、止めようとしませんでした」
アデルは頷いた。「準備ができていますか」
透は少し間を置いた。
準備、という言葉を考えた。完全な準備など、あるのだろうか。体が決めた、という感覚はあった。しかし準備が万全かどうかは、わからなかった。
「完璧ではないかもしれないです」と透は言った。「でも、今日じゃないと言う理由もありません」
「それで充分です」とアデルは言った。
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アデルが店の看板を片付けた。
「閉店にします」とアデルは言った。「今日は二人だけで」
シャッターを半分下ろした。外からは、閉まっているように見えた。店の中は、薄暗くなった。しかし奥の照明はついていた。
アデルが透を二階に案内した。
階段を上りながら、透は自分の呼吸を確かめた。乱れていなかった。心臓は少し速く打っていたが、恐怖からではなかった。
二階の個室に入った。
部屋には何もなかった。小さなテーブルと、向かい合う二つの椅子だけ。窓はなかった。照明が一つ、天井にあった。床は板張りで、軋む音がした。
「座ってください」とアデルが言った。
二人が向かい合って座った。
テーブルの上には何もなかった。
アデルが目を閉じた。
透は待った。
部屋が、静かだった。外の音が届かなかった。アーケードの向こうの街の音も、遠くの車の音も、何も聞こえなかった。ただ、静かだった。
しばらくして、空気が変わった。
温度ではなかった。音でもなかった。圧力のようなもの、とでも言えばいいのか。部屋の空気が、少し密になった感じがした。二人分の空気ではなく、もっと多くの何かが、この部屋に満ちてきた。
「繋がりました」とアデルが静かに言った。目を開けないまま。「導師がいます。それから、何人かの仲間も」
透には、見えなかった。
しかし感じた。
部屋が広くなったような気がした。壁の向こうに、広大な何かが続いているような。この小さな部屋が、どこか遠いところと繋がっているような。
「目を閉じてみてください」とアデルが言った。
透は目を閉じた。
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暗闇の中に、何かがあった。
最初はただの暗闇だった。しかし少しずつ、輪郭が見えてきた。
人の形をした輪郭が、円を描くように並んでいた。
黒いローブ。白い仮面。
鹿。狐。鳥。兎。蝶。蛇。熊。それぞれの動物の仮面が、静かにそこにあった。仮面は表情を持っていた。笑っているもの、静かなもの、温かいもの。動物の形をしていながら、確かに表情があった。
胸元に、リボンがあった。一本のもの、三本のもの、五本のもの。色が違った。
円の中央に、一人だけ違う人物がいた。
白いローブ。黒い猫の仮面。リボンはなかった。
導師だ、と透は思った。
見えない、はずだった。精神ネットワークの中にいるのだから。しかし目を閉じた透の意識の中に、その輪郭は確かにあった。夢の中で見た庭の感覚に似ていた。現実ではないが、確かに存在している何かを、感じる感覚。
導師が、こちらを見ていた。
言葉はなかった。
しかし何かが、伝わった。
温かさ、だった。言葉にすれば温かさだが、もっと複雑な何かだった。確認するような温かさ。あなたがここにいることを、知っている。あなたが来たことを、待っていた。そういう感覚が、透の中に入ってきた。
透は怖くなかった。
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目を開けた。
部屋はそのままだった。アデルが正面にいた。
アデルが小さなガラス瓶をテーブルに置いた。
エデニア・ノクティスの空色とは違う色をしていた。もっと深い、暗い赤みがかった液体だった。光を受けて、微かに揺れていた。
透はその瓶を見た。
「導師の血が入っています」とアデルが言った。「飲む前に、一つだけ聞かせてください」
「はい」
「あなたは自分の意志でここに来ましたか」
「はい」と透は言った。迷わなかった。
「これを飲んだ後、あなたの体と心は変わり続けます」とアデルは言った。「すでに変わり始めていますが、これからさらに変わる。戻れないわけではないですが、簡単ではない。それでも飲みますか」
透は瓶を見た。
液体が、微かに揺れていた。
戻れないかもしれない変化を、選ぶ。それは確かに、大きなことだった。しかし今の透には、怖いという感覚より、正しいという感覚の方が大きかった。
今朝、目が覚めた時に感じた確かさ。川を見る時の確かさ。母に話した時の確かさ。全部が、同じ方向を向いていた。
「飲みます」と透は言った。
アデルが瓶を透の前に滑らせた。
透は瓶を手に取った。
軽かった。掌の中に収まる大きさだった。
口をつけた。
飲んだ。
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味は、言葉にならなかった。
エデニア・ノクティスの味に似ていた。温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。しかしそれより深かった。味というより、感覚だった。体の中心から、何かが広がる感じがした。熱くも冷たくもない。ただ、広がった。
飲み終えると、透はテーブルに瓶を置いた。
体の中で、何かが動いていた。具体的に何かが変わったというより、何かが始まった感覚があった。種が土に入った瞬間のような。芽が出るのはこれからだが、すでに何かが始まっている。
アデルが黒いリボンを取り出した。
細かった。絹のような光沢があった。黒が、濃くて深かった。
「手首と足首、どちらにしますか」とアデルが聞いた。
「手首」と透は言った。迷わなかった。
アデルが透の左手首を持った。
その手は温かかった。大きかった。しかし持ち方が丁寧だった。
リボンが、透の左手首に巻かれた。アデルが結んだ。きつくなく、緩くなく、ちょうどよい締まり具合だった。
結び終えると、アデルは透の手首を少しの間、そのまま持っていた。
それから、手を離した。
「おかえり」とアデルが言った。
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その言葉を、透は最初、意味として受け取らなかった。
おかえり。
帰宅した人間に言う言葉。家に戻ってきた人間に言う言葉。
しかしアデルの口から出た時、その言葉は違う意味を持っていた。
新しい場所に来たのではない。戻ってきたのだ。
どこに。言葉では言えない場所に。しかし確かに、戻ってきた感覚があった。ずっと遠いところにいて、ようやく来た場所ではなく、本来いるべき場所に、ようやく辿り着いた感覚。
ただいま、と言いたくなった。
声には出なかった。しかし透の中で、確かにそう思った。
ただいま。
左手首のリボンが、照明の光の中で、黒く光った。
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エデンズフィールを出たのは、夜の七時を過ぎた頃だった。
商店街はほとんど人がいなかった。シャッターが降りている店が多かった。街灯が灯っていた。
透は歩いた。
川沿いの道に出た。
夜の川は、昼間より静かだった。水の音が聞こえた。水無瀬川が、暗い中を流れていた。川面に、街灯の光が揺れていた。
透は立ち止まった。
いつもの場所だった。柵に手をかけた。
左手首に、黒いリボンがあった。
川を見た。
暗くて、昼間より見えなかった。しかし川の音が聞こえた。水が流れる音。石の上を水が渡る音。その音が、今夜は昼間より大きく聞こえた。
透は目を閉じた。
川の音を聞いた。
体の中で、何かが続いていた。飲んだ液体が、体の中で広がり続けていた。具体的な変化ではなかった。ただ、何かが動いていた。
目を開けた。
川を見た。
暗い水が、流れていた。
夢の中の川には、まだ遠かった。
しかし透には、今夜の暗い川が、少しだけ夢の川に近い気がした。
見えている水が変わったのではなかった。自分が変わったのかもしれなかった。
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その夜、透は実家に帰った。
母が「お帰り」と言った。
「ただいま」と透は言った。
「ご飯できてるよ」と母は言った。
二人で食卓に座った。いつもの夕飯だった。味噌汁と、魚の煮付けと、漬物。
透は食べながら、左手首のリボンを見た。
母がそれに気づいた。「それ、もらってきたの」
「はい」と透は言った。
母は少し間を置いてから、「きれいな色だね」と言った。
それだけだった。
深く聞かなかった。ただ、きれいな色だね、と言った。
透は「ありがとうございます」と言って、味噌汁を飲んだ。
美味しかった。
母の作る味噌汁の味が、今夜は特に、はっきりと感じられた。
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その夜、透は夢を見た。
庭だった。いつもの庭だった。しかし今夜の庭は、少し違った。
以前は庭の入口に立っていた。入り口の外から、中を見ていた。今夜は、庭の中にいた。
足元の土が、柔らかかった。エデニア・ノクティスの葉が、足に触れた。銀色の縁が、夢の光の中で輝いていた。
庭師たちがいた。
黒いローブ。白い仮面。それぞれの動物の仮面が、それぞれの表情を映していた。彼らは透に気づいた。近づいてくるわけではなかった。しかし見ていた。温かい目で、見ていた。
中央に、導師がいた。
黒い猫の仮面。白いローブ。リボンなし。
導師が、こちらを向いていた。
近づいてこなかった。透も、近づかなかった。
ただ、見ていた。互いに。
導師の仮面が、少し動いた。
笑ったのかもしれなかった。猫の仮面が、そう見えた。
透は左手首を見た。
夢の中でも、黒いリボンがあった。
透は顔を上げた。
空が、見えた。夢の空は、現実より高かった。星が、地面まで落ちてきそうなほど多かった。
どこかで、川の音がした。
庭の端に、川があった。
澄んだ川。底まで透けていた。水の中で、魚が泳いでいた。石が、光の格子の中に揺れていた。
透は川のそばに立った。
手を伸ばした。
水に触れた。
冷たかった。しかし気持ちよかった。水が、指の間を流れた。
透明だった。
目が覚めた。
指先に、水の感触が残っていた。
朝の光が、部屋に入っていた。
透は起き上がって、左手首を見た。
黒いリボンがあった。
現実だった。
透は立ち上がった。
窓を開けた。
水無瀬の朝の空気が入ってきた。
山が見えた。
川の方角が、見えた。
今日も、川は流れているはずだった。
透は深く息を吸った。
始まった、と思った。




