第十四章 アデル 四
## 第十四章 アデル
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八月の夜は、昼間の熱を蓄えていた。
日が沈んでも、アスファルトからは熱が上がってきた。商店街のアーケードの中でも、夜になると空気がよどんだ。しかし水無瀬山から下りてくる風は、夜が深くなるにつれて冷たくなった。昼間の熱と、山からの冷気が、夜の水無瀬で混ざり合った。
アデルはその混ざり方を、肌で感じていた。
感じながら、裏のハーブ園の手入れをしていた。
八月に入って、エデニア・ノクティスは開花期の盛りを迎えていた。鈴型の花が、いくつも開いていた。白から淡い空色へのグラデーション。夜になると、花が大きく開いた。露を滴らせながら。香りが、昼間より濃く漂った。ミントに似た清涼感ではなく、夜の草原のような甘く重い芳香だった。
アデルは小さなガラス瓶を持って、花の下に当てた。
露が、一滴ずつ落ちた。
今夜の露は、よく集まった。瓶の底に、十滴ほど溜まった。空色の液体が、月光の中で静かに揺れた。
アデルは立ち上がって、瓶を空に向けて透かした。
月が、液体を通り抜けた。空色の光が、アデルの黒い手の甲に落ちた。
今夜、透がイニシエーションを受ける。
アデルはその事実を、静かに持っていた。
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透が戻ってきたのは、夕方の七時を過ぎた頃だった。
昼間に一度来て、「今日決めました」と言って出ていった。母親に話をしに行ったのだと、アデルにはわかった。話してから戻ってくる。それは透らしかった。一人で決めるのではなく、大切な人に話してから動く。
扉が開いた。
透が入ってきた。
顔が、昼間と少し違った。昼間も定まっていた。今は、もっと落ち着いていた。揺れていなかった。母親と話して、何かが確認できたのだろう。
「戻ってきました」と透は言った。
「知っています」とアデルは言った。
透は少し笑った。その言葉にもう慣れていた。
アデルは看板を片付けた。シャッターを半分下ろした。店の鍵をかけた。外からは閉まっているように見えた。
「二階に来てください」とアデルは言った。
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二階の個室は、静かだった。
窓がないから、外の音が届かない。商店街の音も、車の音も、虫の声も。ただの静けさがあった。
小さなテーブル。向かい合う二つの椅子。
二人が座った。
アデルは少しの間、透を見た。
銀色の髪。金色の目。黒いリボンはまだついていない。左手首は、まだ普通の手首だった。今夜、それが変わる。
透は緊張していなかった。それがアデルには、良く見えた。緊張していないのは、準備ができているからではなかった。緊張する理由がないからだった。怖くないのではなく、正しいことをしているから、怖さが来なかった。
アデルは目を閉じた。
精神ネットワークに、手を伸ばした。
意識の深いところから、もっと深いところへ。呼吸を整えるような感覚で、ネットワークに触れる。繋がる感覚が来た。温かさの層に入った感じ。
導師に呼びかけた。
言語ではなかった。感覚で呼びかけた。*水無瀬に新しい庭師が来ます。立ち会ってください。*
少し間があった。
導師から、応答が来た。肯定の感覚。同時に、導師がネットワークを通じてこちらに向かってくる気配があった。来る、というより、意識が近づいてくる感じだった。
続いて、証人となる庭師たちを招いた。
世界中のネットワークに、呼びかけた。*水無瀬でイニシエーションがあります。立ち会える方は来てください。*
応答が来た。
一人、二人、三人。どこかの街から、どこかの街から、どこかの街から。次々と気配が集まってきた。鹿の仮面の庭師。狐の仮面の庭師。鳥の仮面の庭師。兎の仮面の庭師。蝶の仮面の庭師。それぞれの動物が、それぞれの場所から、意識だけを送ってきた。
部屋の空気が変わった。
密になった。
二人分の空気ではなくなった。もっと多くの何かが、この小さな部屋に満ちてきた。
「繋がりました」とアデルは静かに言った。目を開けないまま。「導師がいます。それから、何人かの仲間も」
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「目を閉じてみてください」とアデルは言った。
透が目を閉じた。
アデルは精神ネットワークの中を、少しだけ透に向けて開いた。
庭師でない人間が、精神ネットワークに完全にアクセスすることはできない。しかしイニシエーションの瞬間は、扉が薄くなる。導師との接触を受けた人間は、その薄くなった扉越しに、何かを感じ取ることができる。
透が、何かを感じているのが、アデルにはわかった。
体が、少し変わった。力みがなくなった。呼吸が深くなった。
アデルはネットワークの中を見た。
導師が中央にいた。黒い猫の仮面。白いローブ。リボンなし。周囲に、庭師たちが円を作っていた。それぞれの仮面が、それぞれの表情を映していた。今夜の表情は、温かかった。新しい庭師を迎える夜の、静かな喜びがあった。
誠もいた。蛸の仮面。胸元に四本のリボン。アデルに気づいて、仮面が少し頷いた。水無瀬の仲間が来る、という感覚が、誠から伝わってきた。
導師が、透の方を向いた。
何も言わなかった。ただ、向いた。その向き方だけで、何かが伝わった。あなたが来ることを、知っていた。あなたを、待っていた。
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「目を開けてください」とアデルは言った。
透が目を開けた。
部屋はそのままだった。しかし透の表情が、目を閉じる前と少し違った。何かを見てきた顔だった。見てきたものを、まだ整理している顔だった。
アデルは小さなガラス瓶をテーブルに置いた。
今夜のために用意していた瓶だった。導師から送られてきたものだった。中の液体は、エデニア・ノクティスの空色よりずっと深い色をしていた。暗い赤みがかった色。光の角度によって、深紅にも見えた。
「導師の血が入っています」とアデルは言った。「飲む前に、一つだけ聞かせてください」
透がアデルを見た。
金色の目が、落ち着いていた。
「あなたは自分の意志でここに来ましたか」
「はい」と透は言った。
「これを飲んだ後、あなたの体と心は変わり続けます」とアデルは言った。「すでに変わり始めていますが、これからさらに変わる。戻れないわけではないですが、簡単ではない。それでも飲みますか」
透は瓶を見た。
液体が、微かに揺れていた。
アデルは透を見た。迷いがあれば、今日は止める。しかし透の顔に、迷いはなかった。揺れていなかった。体で決めた時の顔だった。
「飲みます」と透は言った。
アデルは瓶を透の前に滑らせた。
透が瓶を手に取った。両手で持った。しばらく、液体を見ていた。見ながら、何かを感じているようだった。
口をつけた。
飲んだ。
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透が飲んでいる間、アデルはネットワークの中を見ていた。
導師が、微かに動いた。
言語ではなかった。感覚だった。何かが送られた。透に向けて。導師から直接、透に向けて、何かが流れた。
透の体が、少し変わった。
目には見えなかった。しかしアデルには感じられた。体の内側で、何かが動き始めた感覚。種が土に入った瞬間のような。芽吹くのはこれからだが、すでに始まっている何かがあった。
庭師たちの間に、静かな喜びが広がった。
言葉ではなかった。感覚が、輪の中を巡った。新しい仲間が来た。水無瀬に、また一人。
誠から、特別な温かさが来た。この街に住む仲間が、また一人増えた。その喜びだった。
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透が瓶を置いた。
テーブルに静かに置いた。
しばらく、何も言わなかった。体の内側で起きていることを、感じているようだった。アデルは待った。急かさなかった。
しばらくして、透が顔を上げた。
「不思議な味でした」と透は言った。「でも、正しい感じがしました」
「正しい感じ」とアデルは繰り返した。
「体が、そう言っている感じです」
アデルは頷いた。それ以上は言わなかった。
黒いリボンを取り出した。
今夜のために用意していたリボンだった。導師から事前に送られてきたものだった。細く、絹のような光沢があった。黒が深かった。光の当たり方によって、少し青みがかって見えた。
「手首と足首、どちらにしますか」
「手首」と透は言った。
アデルは立ち上がって、透の左側に回った。
透が左手首を差し出した。
アデルはその手首を両手で持った。
細い手首だった。白い肌だった。もうすぐ、この肌も変わっていく。しかし今夜は、まだ今のままだった。
リボンを、手首に当てた。
一巻き。二巻き。結ぶ。
きつくなく、緩くなく。外れない強さで、しかし圧迫しない締まり具合で。
アデルは自分の左足首に、最初のリボンを結ばれた瞬間を思い出した。アントワーヌの手が、温かかった。あの感覚を、アデルは今も覚えていた。
透の手首を、少しの間、そのまま持っていた。
結び目の上に、軽く指を置いた。
黒いリボンが、照明の光の中で、深く光った。
アデルは手を離した。
透を見た。
「おかえり」とアデルは言った。
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透は、その言葉を受け取った。
すぐには動かなかった。言葉の意味を、体の中に収めているようだった。おかえり、という言葉が、透の中で何かを動かしたのが、アデルにはわかった。
目が、少し潤んでいた。
泣いてはいなかった。しかし、そこまで来ていた。
アデルは何も言わなかった。待った。
透がゆっくりと息を吐いた。
「ただいま」と透は言った。
小さな声だった。自分に言い聞かせるような声だった。しかし確かに言った。
アデルは頷いた。
ネットワークの中の庭師たちが、それを受け取った。誠の仮面が、笑った。他の庭師たちの仮面も、それぞれの表情で受け取った。温かさが、輪の中を巡った。
導師が、最後に何かを送った。
言語ではなかった。感覚だった。言葉にすれば「よく来た」に近かった。しかしそれより深く、それより静かだった。
それから、導師の気配が引いた。
庭師たちの気配も、一人ずつ、静かに引いた。
部屋が、また二人分の空気になった。
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透が立ち上がった。
左手首のリボンを見た。黒いリボンが、手首に巻かれていた。
「これをつけたまま、生活するんですか」と透は聞いた。
「外れないようにつけてあります」とアデルは言った。「自分で外すこともできます。ただ、外す必要はないと思います」
「お風呂に入っても大丈夫ですか」
「大丈夫です。水には強い素材です」
透は頷いた。「職場で、何か言われるかもしれないですね」
「なんて答えますか」と聞いた。
透は少し考えた。「もらいもの、と言います」
アデルは笑った。「正確ですね」
透も笑った。
二人で笑ったのは、初めてだった。
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透が帰った後、アデルは一人で店に残った。
椅子に座って、お茶を淹れた。自分のために。エデニア・ノクティスの乾燥葉を抽出した。空色の液体をカップに注いだ。
飲んだ。
温かくて、涼しかった。
精神ネットワークに触れた。
導師に、報告した。言語ではなく、感覚で。終わりました。水無瀬に、新しい庭師が来ました。
導師から、感覚が返ってきた。
*知っている。よくやった。*
それだけだった。それで十分だった。
ネットワークから離れた。
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裏のハーブ園に出た。
夜が深くなっていた。月が高かった。
エデニア・ノクティスの花が、月光の中で開いていた。露を滴らせていた。香りが濃かった。
アデルはしゃがんで、花を見た。
今夜の花は、いつもより多く開いていた。三十輪近くが、同時に開いていた。それぞれの花が、それぞれの露を滴らせていた。
アデルは小さなガラス瓶を取り出した。
花の下に当てた。
露が、一滴、落ちた。
空色に光った。
アデルはその光を見ながら、アントワーヌのことを思った。
パリのエデンズフィールで、アデルに「おかえり」と言った庭師。アデルは今夜、透に同じ言葉を言った。
この言葉は、最初の庭師から始まった。導師が最初のイニシエーションで使い、以来全ての庭師が引き継いでいる。どれほど多くの庭師が、どれほど多くの夜に、この言葉を言ってきたか。
おかえり。
言うたびに、アデルは自分が「おかえり」と言われた夜を思い出した。アントワーヌの手が、足首にリボンを結んだ。あの温かさ。あの言葉の重さ。
今夜、透がそれを受け取った。
そして透は「ただいま」と言った。
アデルは、その言葉を、誰かが言うのを初めて聞いた。
おかえり、に対して、ただいまと返した庭師を、アデルは知らなかった。みんな、黙って受け取るか、「ありがとうございます」と言うか、涙ぐむかだった。
透は「ただいま」と言った。
それが、何故かアデルには、一番正確な返し方のように思えた。
おかえり、に対する答えは、ただいまだ。帰ってきたのなら、ただいまと言う。それだけのことだった。しかしそれだけのことを、今夜初めて誰かがやった。
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夢空間に入った。
個人エリアの庭。エデニア・ノクティスが青く茂っていた。花が多く咲いていた。現実の裏庭と同じくらい、多く咲いていた。
アデルは白い鷺の仮面をつけた。黒いローブをまとった。胸元の五色のリボンを確かめた。
共用エリアに移動した。
今夜は多くの庭師が残っていた。イニシエーションの後、共用エリアに残って話す庭師が多いのだ。新しい仲間が来た夜は、いつもそうだった。
鹿の仮面の庭師が、アデルに話しかけた。感覚で。*水無瀬の新しい庭師、若いですね。*
アデルは答えた。*二十八歳です。良い庭師になると思います。*
蝶の仮面の庭師が言った。*ただいまと言ったそうですね。*
ネットワークは、その瞬間の感覚を共有していた。透が「ただいま」と言った瞬間を、立ち会っていた庭師たちは知っていた。
*そう言いました。*
蝶の仮面が笑った。*初めて聞きました。でも、正しい返し方ですね。*
他の庭師たちも、それぞれの感覚で同意した。
導師は中央にいた。今夜は、いつもより長く共用エリアにいた。
導師から、何かが流れてきた。
言語ではなかった。感覚だった。今夜の感覚は、いつもより少しだけ温かかった。言葉にすれば「今夜は良い夜だった」に近かった。
アデルは受け取った。
*はい、良い夜でした。*
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アデルは共用エリアから個人エリアに戻った。
庭を歩いた。
エデニア・ノクティスの葉が、足元で揺れた。花の露が、夢の光の中で空色に光っていた。
庭の端に、川があった。
澄んだ川。底まで透けていた。
アデルは川のそばに立った。
向こう岸を見た。
今夜は、向こう岸に誰もいなかった。
透は、もうこちら側に来ていた。庭の中に、来ていた。向こう岸ではなく、こちら側に。
川の向こうには、また別の誰かが、いつかやってくる。
アデルはその川を、しばらく見た。
水が澄んでいた。底の石が見えた。魚が泳いでいた。
夢の川の底に、現実の水無瀬川の底が重なって見えた。
現実の川も、少しずつ、この川に近づいている。
急がなくていい。
楽園は、一日では作れない。
アデルは踵を返した。
庭の中を、歩いた。
エデニア・ノクティスが、足元で揺れた。
花の香りが、夢の空気の中に漂っていた。
夜明けまで、まだ時間があった。
しかし今夜は、良い夜だった。
アデルは、そう思いながら、庭を歩き続けた。




