第十五章 菜摘 四
## 第十五章 菜摘
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八月のある夜、菜摘は誠に、全部を聞くことにした。
決めたのは、その日の昼間だった。
パートから帰る途中、商店街を歩いていた。エデンズフィールの前を通った。ガラス越しに、アデルが見えた。客と話していた。客は若い男性で、銀色の髪をしていた。左手首に、黒いリボンが一本あった。
透だ、と菜摘は思った。名前は知らなかったが、以前から何度か見かけていた。いつも同じテーブルに座って、窓の外を見ながらお茶を飲んでいた。最近、髪が銀色になってきていた。
その横顔を見ながら、菜摘は立ち止まった。
この人は、選んだのだ。
自分の意志で、エデンズフィールに来て、お茶を飲んで、リボンをつけた。誰かに頼まれたわけでもなく、脅されたわけでもなく、選んだ。
誠も、選んだ。
菜摘は三年間、それを知っていた。知っていても、受け入れられなかった。受け入れることと、知ることは違う。頭で知っていても、体が追いついていなかった。
しかし今日、ガラス越しに透を見ながら、何かが少しずれた。
この人も、この先どうなるかを知って、それでも選んだ。
誠も、知って、選んだ。
それを、菜摘はまだ正面から受け取っていなかった。
今夜、受け取ろう、と思った。
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誠が来たのは、夕方六時だった。
インターホンが鳴って、菜摘がドアを開けた。誠が立っていた。
肌の黒さが、また深くなっていた。髪はほぼ全部が銀色になっていた。身長が、また少し伸びていた。左手首に、四本のリボンが揺れていた。黒、青、緑、赤。
しかし顔は、誠の顔だった。
眼鏡。眉の形。口元。誠の顔だった。
「今日、ゆっくり話せる?」と菜摘は言った。
誠は少し間を置いてから、「ひかりは?」と聞いた。
「美月ちゃんの家に泊まりに行っている」
誠は頷いた。「話せる」と言った。
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二人でリビングに座った。
エデンズフィールのお茶を淹れた。菜摘の分と、誠の分。誠は今でも食事はほとんどしなかったが、お茶は飲んだ。
テーブルに向かい合って座った。
菜摘は少しの間、お茶のカップを両手で持っていた。温かかった。
「全部、聞いていいかな」と菜摘は言った。
「ああ」と誠は言った。
「庭師のこと。楽園再造のこと。あなたが今どういう状態で、これからどうなるのか。全部」
「全部、話す」と誠は言った。「聞きたかったんだろう、ずっと」
「聞いていたよ」と菜摘は言った。「でも、聞けていなかったと思う。今日、初めて聞く気になった」
誠は頷いた。
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誠は話した。
楽園再造の思想から、話し始めた。
旧約聖書のエデンの園。人間が楽園を追放されてから、生きるために他の生き物を殺すようになった。文明を作り、自然を壊してきた。導師は、その前に戻ろうとしている。生き物を殺さずに生きられる体に。自然の食物連鎖の中に戻れる人間に。
「導師は、その思想をどこから持ってきたの」と菜摘は聞いた。
「わからない」と誠は言った。「ただ、導師がそう信じているのは、本当だと思う」
「信じているから、あなたも信じる?」
「エデニア・ノクティスのことが、信じさせた」と誠は言った。「体が変わった。疲れなくなった。病気がなくなった。信じない理由がなかった」
菜摘は頷いた。続きを待った。
誠は五つの段階を説明した。各段階で何が変わるか。黒種、青芽、緑葉、赤花、白実のこと。イニシエーションの形式。導師の血のこと。
「導師の血を飲んだの?」と菜摘は聞いた。
「飲んだ」と誠は言った。「最初のイニシエーションで」
「それで、体が変わり始めた?」
「そうだと思う」
菜摘はカップを持ったまま、少し考えた。
「エデニア・ノクティスの効果は、導師の血液から来ているって、知っている?」と菜摘は聞いた。
誠は少し驚いた顔をした。「どこで聞いた」
「アデルさんに、少し聞いた。詳しくは教えてもらえなかったけど、大体のことはわかった」
誠は「そうか」と言った。「俺も、途中で気づいた。明確に教えられたわけじゃなかったけど、考えればわかった」
「怖くなかった?」
「怖かった」と誠は言った。正直に言った。「でも、既に体が変わっていたから。怖くても、止める理由が見つからなかった」
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菜摘は少し間を置いてから、ずっと聞きたかったことを聞いた。
「あなたは、何になろうとしているの」
誠はその言葉を、少し時間をかけて受け取った。
「楽園の人間になろうとしている」と誠は言った。
「それは、人間じゃなくなるってこと?」
「人間だ」と誠は言った。「ただし、今の人間とは違う。今の人間が、本来の姿から変わってしまったなら、その前に戻ることが、本来の人間に近づくことだと思っている」
「本来の姿って、どんな?」
「自然の中にいる。他の生き物を殺さずに生きられる。環境を壊さない」
菜摘はその言葉を、しばらく考えた。「それは、理想だよね」
「理想だ」と誠は言った。「でも、体が変わっているのは、現実だ。川が澄んでいくのも、現実だ。理想が、少しずつ現実になっている」
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「あなたが消えるわけじゃないの?」と菜摘は聞いた。
ずっと聞きたかった言葉だった。
誠は菜摘を見た。
「消えない」と誠は言った。「ただ変わる」
「どこまで変わるの」
「体は、もう一段階変わる。外見も、肌も、髪も、今より変わる。アデルさんみたいになる」
菜摘はアデルの顔を思い出した。身長二メートル。黒い肌。銀髪。金の目。彫りの深い顔立ち。
「あの外見に、なるの」
「なる」と誠は言った。「ただし、顔は変わらない。俺の顔のままで、あの外見になる」
菜摘は誠の顔を見た。
眼鏡。眉の形。口元。九年間、いや十五年間、見てきた顔。
その顔のまま、あの外見になる。
「見た目で、わかる?」と菜摘は聞いた。「あなただって、わかる?」
「わかると思う」と誠は言った。「アデルさんには、アデルさんの顔がある。俺には、俺の顔がある。変わるのは、肌と髪と目と身長だけだ」
菜摘はその言葉を、体に入れようとした。
うまく入らなかった。頭ではわかった。しかし体が、まだ追いついていなかった。
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「菜摘は嫌いか」と誠が言った。
菜摘は少し驚いた。「何が」
「俺がこうなっていることが」
菜摘は正直に答えようとした。嫌いか。好きか。どちらでもないか。
「嫌いじゃない」と菜摘は言った。「怖い、の方が近い」
「何が怖い?」
「あなたが、私の知らない場所に行ってしまうことが」
誠は少しの間、黙った。
「行かない」と誠は言った。「変わっても、ここにいる。ひかりのそばにいたい。菜摘のそばにいたい。それは変わらない」
「変わらない?」
「変わらない」と誠は言った。「精神が穏やかになっても、俺が俺であることは変わらない。菜摘のことが好きなのも、ひかりが大事なのも、変わらない」
菜摘はその言葉を聞きながら、目が少し熱くなった。こらえた。
こらえながら、「じゃあなんで」と言った。
声が、少し割れた。
「じゃあなんで、こうなったの。私や、ひかりがいるのに。なんで、こんなに変わっていくの」
誠は菜摘を見た。
「楽園が、本当にあると思うから」と誠は言った。
その言葉は、以前も聞いたことがあった。しかし今夜聞くと、以前とは違う重さがあった。
楽園が、本当にあると思うから。
理屈ではなかった。信仰に近かった。しかし盲目的な信仰でもなかった。体が変わった。川が澄んだ。それが根拠だった。体で知っているから、言えた言葉だった。
菜摘は目をこらえるのをやめた。
泣いた。
声は出なかった。ただ、涙が出た。何に泣いているのか、自分でもわからなかった。悲しいのか、怖いのか、安心したのか、怒っているのか、全部が混ざっていた。
誠は席を立って、菜摘の隣に座った。
何も言わなかった。ただ、隣にいた。
左手首の四本のリボンが、菜摘の視界に入った。黒、青、緑、赤。
誠の手が、テーブルの上に置かれた。
菜摘はその手を見た。
肌が黒かった。指が長かった。しかし手のひらの形は、変わらなかった。結婚した時から知っている、誠の手だった。
菜摘はその手を、掴んだ。
温かかった。
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しばらく、二人は黙っていた。
菜摘が泣き止んでから、誠が静かに言った。
「やめてほしいか」
菜摘は少し間を置いた。
「やめてほしい、とは言えない」と菜摘は言った。「あなたが苦しんでいるわけじゃないから。あなたが悪いことをしているわけじゃないから」
「でも、困惑している」
「している」と菜摘は言った。「ずっと、している」
「俺の責任だ」と誠は言った。「困惑させている」
「あなたの責任じゃないかもしれない」と菜摘は言った。「あなたは、あなたが正しいと思うことをしている。それを止める権利は、私にはない」
「でも」と誠は言った。
「でも、辛い」と菜摘は言った。「理解できないから、辛い。受け入れられないから、辛い。でも、止めろとは言えない。それが、正直なところ」
誠は頷いた。
「ありがとう」と誠は言った。
「何が」
「正直に言ってくれて」
菜摘は少し間を置いた。「感謝されるようなことじゃない」
「感謝する」と誠は言った。「正直に言うのは、難しいから」
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菜摘はカップを手に取った。お茶が冷めていた。
飲んだ。
冷めていても、温かかった。矛盾した感覚。しかし今夜は、その矛盾が自然に感じられた。
「一つ、聞いていい?」と菜摘は言った。
「何でも」
「第五段階が終わったら、あなたはどうしたい?」
誠は少し考えた。「水無瀬にいたい」と言った。「ここで、川を見て、山を見て、ひかりと話して、菜摘と話して、学校で生徒たちを教えて、そういう生活をしたい」
「変わらないの、そこは」
「変わらない」
菜摘はその言葉を聞いた。
変わらないこと。変わること。
誠は変わる。しかし変わらないこともある。
その両方が、本当のことだった。
「私は」と菜摘は言った。「庭師にはならない」
「わかっている」と誠は言った。「強制しない」
「でも」と菜摘は続けた。「エデンズフィールには、行く。お茶は飲む。それくらいは、できる」
誠は何も言わなかった。
しかし手の温かさが、少し変わった気がした。力が入ったような。
「ひかりのことは」と菜摘は続けた。「ひかりが十八歳になるまで、イニシエーションは勧めない。それを、約束してほしい」
「約束する」と誠は言った。迷わなかった。
「ひかり自身が決めたいと言ったら、その時は話す。でも、誘導はしない」
「しない」
「わかった」と菜摘は言った。
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二人でしばらく、黙っていた。
テーブルの上に、二つのカップがあった。両方、空になっていた。
誠が「また淹れようか」と言った。
「いい」と菜摘は言った。「もう遅いから」
誠は頷いた。立ち上がった。帰る準備をした。
玄関で、誠が振り返った。
「菜摘」と言った。
菜摘は誠を見た。
「ついてきてくれて、ありがとう。水無瀬まで」
菜摘は少し間を置いた。
「ついていきたかったわけじゃない」と言った。「でも、来てよかったかもしれない」
誠は頷いた。「わかった」と言った。それ以上は言わなかった。
扉が閉まった。
菜摘は閉まった扉を、しばらく見た。
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一人になって、リビングに戻った。
テーブルに、空のカップが二つあった。
菜摘はそれを片付けずに、椅子に座った。
窓の外に、水無瀬山が見えた。八月の夜の山は、暗く、重く、空に浮かんでいた。
菜摘は山を見た。
今夜の山は、圧迫感がなかった。守られているような感じがした。
やめてほしいとは言えない。
その言葉が、自分でも少し驚きだった。三年前、誠が最初にエデンズフィールに通い始めた時、菜摘はやめてほしかった。はっきりと、やめてほしかった。しかし言えなかった。言えないことへの怒りと、言えない自分への怒りが、混ざっていた。
今夜は違った。
やめてほしいとは言えない、と言えた。その言葉の意味が、三年前とは変わっていた。言えないのではなく、言う必要がないと思っていた。
言う必要がない理由が、わかっていた。
誠は苦しんでいない。誠は消えていない。誠はまだ、誠だ。
それが、菜摘の中でようやく、体に入ってきた。
頭では知っていた。しかし今夜、体が受け取った。
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スマートフォンを手に取った。
真由に、電話しようと思った。大阪の友人。水無瀬に来る前に電話して、「なんでついていくの」と言われた友人。
発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴った。
「どうしたの、こんな時間に」と真由の声がした。
「少し話したくて」と菜摘は言った。
「何かあった?」
「あった、というか」と菜摘は言った。「少し、わかったことがあって」
「わかったって、何が」
菜摘は少し間を置いた。
「誠が、まだ誠だってこと」と菜摘は言った。
真由は少し間を置いた。「そんなことわかってたんじゃないの、最初から」
「頭ではわかってた」と菜摘は言った。「でも今夜、体がわかった」
真由はまた間を置いた。「それ、どういうこと」
「うまく説明できない」と菜摘は言った。「でも、前進した気がする」
「そっか」と真由は言った。「それは良かった」
「ありがとう」と菜摘は言った。
「何が」
「話を聞いてくれて」
「まだ何も聞いてないけど」と真由は言って、笑った。菜摘も笑った。
二人でしばらく、笑った。
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電話を切った後、菜摘は窓を開けた。
八月の夜の空気が入ってきた。蒸し暑かった。しかし山からの風が混じっていた。
夜の水無瀬山が、そこにあった。
大きく、暗く、静かに。
菜摘はその山を見た。
守られているような感じが、また来た。
圧迫感ではなかった。今夜は、確かに守られているような感じだった。
菜摘は深く息を吸った。
山の匂いがした。草の匂いがした。川の匂いがした。
水無瀬の夜の匂いだった。
まだ、この街に馴染んでいるとは言えなかった。しかし今夜、少しだけ、この街の匂いを好きだと思った。
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眠る前に、菜摘は誠の左手首のリボンのことを考えた。
黒、青、緑、赤。
四本。
もう一本が加わると、五本になる。
五段階が終わると、誠は完全に庭師になる。
その時が来た時、菜摘はどう感じるだろう。
今はわからなかった。
しかし今夜のように、正面から見られると思った。
今夜、菜摘は初めて正面から見た。やめてほしいと言えなかった自分を、受け入れた。困惑していると正直に言えた。それで前進した気がした。
その前進の仕方を、続ければいい。
わからないまま、でも正面から見る。
それが菜摘のやり方だった。
目を閉じた。
誠の手の温かさが、まだ手のひらに残っていた。
眠れた。




