第十六章 桐島 四
## 第十六章 桐島
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八月の終わりに、桐島は記事を書いた。
書いた、というより、書き始めた。何度も止まった。何度も消した。書いては消し、消しては書いた。ホテルの狭い部屋で、ノートパソコンの前に座って、三日間それを繰り返した。
完成しなかった。
しかし書いた。
それが八月だった。
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八月に入って、取材の密度が上がっていた。
アデルとの面談は、週に三回になっていた。村瀬との情報交換も続いていた。菜摘とは川沿いで何度か話した。田中ふじ江にも、もう一度会いに行った。
新しい情報源もできた。
水無瀬市の環境課の木村係長だった。
川の水質データを取り寄せた時に、直接話を聞きに行った。木村は四十代の、実直そうな男だった。「最近、川の調査プロジェクトに市役所の若い職員が参加し始めて、助かっています」と言った。
「どんな方ですか」と桐島は聞いた。
「総務課の鷺沼くん。二十八歳。変わった子ですよ。最近、髪が銀色になってきて」
桐島はノートに書いた。
エデンズフィールの客だ、とわかった。何度かエデンズフィールで見かけていた。窓際のテーブルに座って、黙ってお茶を飲んでいた男性。
「その方は、水質改善の原因について、何か言っていますか」と桐島は聞いた。
「それが」と木村は言って、少し考えた。「うまく説明できないけど、関係していることはある、と言うんですよ。何が関係しているかは言わない。ただ、続けていれば、もっと良くなると言っていて」
「信じましたか」
木村は少し笑った。「信じたというか、実際に数字が良くなっているから、否定する理由もなくて」
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八月の第二週、桐島はアデルに最後の核心的な質問をしようと決めた。
エデンズフィールに入ると、珍しく他の客がいなかった。平日の昼間だった。アデルが一人でカウンターにいた。
桐島はいつもの椅子に座った。
Sサイズのボトルを受け取って、飲んだ。
温かくて、涼しかった。
「今日は一つ、核心的なことを聞かせてください」と桐島は言った。
「どうぞ」とアデルは言った。
「エデンズフィールは、世界を変えようとしていますか」
アデルは少し間を置いた。「変えようとはしていません。ただ、元に戻そうとしています」
「それは同じことじゃないですか」と桐島は言った。
アデルは考えた。「そうかもしれません」
「変えることと戻すことの、違いは何ですか」
「変えることは、今と違う何かを目指すことです」とアデルは言った。「戻すことは、失われたものを取り返すことです。方向が違います」
「何を失ったと思っていますか」
「川の澄み方を」とアデルは言った。「山の緑を。生き物の種類を。そして人間が、自然の一部であるという感覚を」
桐島はノートに書いた。「それを取り戻せると思っていますか」
「思っています」
「根拠は」
「川が澄んでいます」とアデルは言った。「それが根拠です」
桐島はペンを止めた。
川が澄んでいる。それが根拠だ。
数字でも、論文でも、専門家の証言でもなかった。川が澄んでいる、という事実だけが根拠だった。しかしその答えに、桐島は今日、反論しなかった。できなかったのではなく、しなかった。
「一つだけ、個人的なことを聞いていいですか」と桐島は言った。
「どうぞ」
「あなたは、今、幸せですか」
以前も聞いた質問だった。アデルは前回「幸せかどうかを考えなくなった」と言っていた。
今日のアデルは少し違う答えをした。
「今夜、新しい庭師が来ます」とアデルは言った。「その方のイニシエーションがあります。そのことが、楽しみです」
「楽しみ、というのは、幸せということですか」
「幸せかどうかより、正しいことが続いているという感覚があります」とアデルは言った。「その感覚が、幸せに近いものかもしれません」
桐島は書き留めた。
「今夜のイニシエーション、取材させてもらえますか」と桐島は聞いた。
「それはできません」とアデルは言った。迷いなく言った。
「なぜですか」
「その方の、最も個人的な瞬間だからです」
桐島は少し間を置いた。「わかりました」と言った。
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その日の夕方、桐島は川沿いを歩いた。
エデンズフィールから出て、商店街を抜けて、川沿いの道に出た。
八月の夕方の川は、光を受けて輝いていた。
桐島はいつもの場所で、足を止めた。
川を見た。
六月に来た時と、確かに違った。水の色が変わっていた。川底の石が、以前より見えやすくなっていた。透明ではなかったが、濁りが薄くなっていた。
桐島は川面を見ながら、菜摘の言葉を思い出した。
*問題があるのかどうかも、わからない。*
三ヶ月間、この案件を追っていた。
被害者がいなかった。強制がなかった。違法な点が見つからなかった。しかし何かが確実に起きていた。川が澄んでいた。山の緑が戻っていた。病気が消えていた。人が変わっていた。
これは問題なのか。
問題ではないのか。
答えが出なかった。
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ホテルに戻って、桐島はデスクに座った。
ノートパソコンを開いた。
先週から書いていた文書を開いた。タイトルは「水無瀬で起きていること」のままだった。
書いた。
*六月から三ヶ月間、水無瀬市でエデンズフィールの取材を続けた。この店は全国三十二店舗を展開するハーブティー専門店で、急速に拡大している。財務状況は異常なほど健全で、従業員の離職率はほぼゼロだ。広告費はほぼゼロだが、口コミで広がっている。*
書いて、読んだ。
事実は正確だった。しかしこれは記事ではなかった。記事の導入部でもなかった。ただの事実の羅列だった。
続きを書いた。
*取材を通じて、以下の事実を確認した。水無瀬総合病院で、説明のつかない回復事例が複数報告されている。回復した患者は全員、エデンズフィールの常連客だった。一部の客の外見が変化している。肌の色。髪の色。目の色。これらが、日本人の標準的な外見から変化している。*
書いて、読んだ。
これも事実だった。しかし書いていて、何かが足りない気がした。
何が足りないのか。
桐島は画面から目を離して、窓の外を見た。
八月の夜の水無瀬。街灯が灯っていた。商店街のアーケードの端が、この角度から見えた。エデンズフィールの方角に、明かりがあった。
今夜、イニシエーションがある。
アデルが言っていた。新しい庭師が来る。
取材はできなかった。しかし今夜、どこかで、誰かが変わっていた。
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桐島は続きを書いた。
*これらの変化は、エデンズフィールの飲料、通称「エデニア・ノクティス」という植物の抽出液に関係していると思われる。しかしその成分は、患者や客の拒否により、分析されていない。*
*取材を通じて、最も強く感じたことは、「被害者がいない」という事実だった。経済的な被害がない。身体的な被害がない。精神的な被害を訴える人間がいない。あるのは「家族が変わってしまった」という困惑と、「体調が改善した」「人生が変わった」という肯定的な証言だけだ。*
書いて、止まった。
ここまでは書けた。しかしここから先が、書けなかった。
結論がなかった。
「危険だ」とは書けなかった。根拠がなかった。「安全だ」とも書けなかった。確証がなかった。「調査が必要だ」とは書けた。しかしそれは結論ではなかった。
桐島は画面から目を離した。
椅子に深く座り直した。
天井を見た。
三ヶ月間、何を取材してきたのか。
事実を集めた。証言を集めた。データを見た。しかし記事にならなかった。記事の形にならなかった。
なぜか。
答えが出ないからだ。
この案件には、答えがなかった。少なくとも、今の桐島には見えなかった。問題があるのかどうかもわからない案件を、記事にするとはどういうことか。
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翌日、桐島は編集者に電話した。
「進捗はどうだ」と編集者が言った。
「書いています」と桐島は言った。「ただ、当初考えていたものとは違う記事になっています」
「どう違う」
「告発記事にはならない」と桐島は言った。「被害者がいないので」
「じゃあ、何の記事だ」
桐島は少し間を置いた。「記録です」
「記録?」
「水無瀬という街で起きていることの記録です。川が澄んでいること。山の緑が戻っていること。説明のつかない回復事例があること。外見が変わる人間がいること。しかし誰も強制していないこと。誰も傷ついていないこと」
「それは記事になるのか」と編集者が言った。
「結論がないので、掲載できないかもしれません」と桐島は言った。
「結論のない記事は記事じゃない」
「そうかもしれません」と桐島は言った。「でも、書きます」
「なぜ」
桐島は少し考えた。「書かないことが、間違っている気がするので」
編集者は少し間を置いた。「掲載は保証できないぞ」
「わかっています」
電話を切った。
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アデルとの最後の本格的な取材は、八月の第三週だった。
エデンズフィールに入ると、アデルがカウンターにいた。今日は少し様子が違った。穏やかさはいつもと同じだったが、何か満ちているような感じがあった。
昨夜、イニシエーションがあった翌日だった。
「昨夜は、どうでしたか」と桐島は聞いた。
アデルは少し微笑んだ。「良い夜でした」
「詳しくは聞けませんか」
「詳しくは」とアデルは言った。「ただ、新しい庭師が来た。それだけで十分です」
桐島はノートを出した。
「今日、最後の質問をしたいと思っています」と言った。
「どうぞ」とアデルは言った。
「エデンズフィールは、どこへ向かっていますか」
アデルは少し間を置いた。「どこへ、というより、何へ、ですね」
「何へ向かっていますか」
「楽園へ」とアデルは言った。「地上が、少しずつ楽園に近づいていくことを目指しています」
「それはいつ実現しますか」
「わかりません」とアデルは言った。「百年後かもしれない。千年後かもしれない。実現しないかもしれない」
「実現しないかもしれないのに、続けるんですか」
「川が澄んでいます」とアデルは言った。三度目だった。「今日より明日、少しだけ澄む。それが積み重なれば、いつかはわからないが、確実に近づく」
桐島はその言葉を、今日はゆっくりと書いた。
「全部調べていい、とあなたは言いました」と桐島は言った。「三ヶ月、調べました。わかったことはあります。しかしわからないことの方が、ずっと多い」
「そうでしょう」とアデルは言った。
「それでも記事を書こうとしています」
「どんな記事ですか」
「結論のない記事です」と桐島は言った。「水無瀬で起きていることの記録。判断は読者に委ねる形の」
アデルは少し考えてから、言った。「それが正確な記事だと思います」
「掲載されないかもしれません」
「掲載されなくても、書いた意味はあります」とアデルは言った。
桐島はその言葉を書いた。
「一つだけ、最後に」と桐島は言った。「あなたは私のことを、どう見ていましたか。三ヶ月間」
アデルは少し間を置いた。「変わっていく人を見ていました」
「私が変わっていた?」
「六月に来た時と、今では、違います」
「どう違いますか」
「六月は、答えを探していました」とアデルは言った。「今は、問いを持っています」
桐島はその言葉を、しばらく考えた。
答えを探すことと、問いを持つこと。
「それは、良いことですか」と桐島は聞いた。
「問いを持つことは、見ていることです」とアデルは言った。「見ていることは、始まりです」
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帰り際、アデルがLサイズのボトルを差し出した。
「これを」と言った。
桐島は受け取った。Lサイズは初めてだった。四百円。八百ミリリットル。
「なぜLサイズを」と桐島は聞いた。
「東京は遠いので」とアデルは言った。
桐島は少し笑った。「また来ますか、と聞くつもりでしたか」
「聞くつもりでした」
「わかりません」と桐島は言った。「でも、また来るかもしれません」
「いつでも」とアデルは言った。
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ホテルに戻って、桐島はデスクに座った。
Lサイズのボトルをデスクの端に置いた。
ノートパソコンを開いた。
「水無瀬で起きていること」という文書を開いた。
続きを書いた。
*取材を通じて、私は一つの問いを持つようになった。これは問題なのか、という問いではない。人間とは何か、という問いだ。文明を持ち、自然を壊し、他の生き物を食べて生きることが、人間の本来の姿なのか。それとも、エデンズフィールの人々が目指すように、自然の中に溶け込んで、他の生き物を傷つけずに生きることが、本来の姿なのか。*
書いて、読んだ。
これは記事ではなかった。エッセイに近かった。ジャーナリズムとしては弱かった。しかし書いた。
続けた。
*答えを出すことは、私にはできなかった。ただ、水無瀬の川が、三ヶ月前より少し澄んでいることは確かだ。山の緑が、少し戻っていることは確かだ。末期癌と宣告された女性が、腫瘍のない体で庭の手入れをしていることは確かだ。家族の変化に困惑しながら、それでもここにいることを選んだ女性がいることは確かだ。自分の意志で変化を選んだ人間が、川の水質調査に参加していることは確かだ。*
*彼らは地上を楽園に戻そうとしている。私はその是非を判断できなかった。ただ、水無瀬の川が、先月より少し澄んでいることは確かだ。*
最後の一文を書いて、止まった。
読み返した。
「水無瀬の川が、先月より少し澄んでいることは確かだ」
二回繰り返していた。意図していなかった。しかし消さなかった。これが、桐島が三ヶ月間で唯一、確かだと言えることだったからだ。
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翌日、桐島は編集者に記事を送った。
一時間後、電話が来た。
「結論がない」と編集者は言った。
「はい」と桐島は言った。
「掲載できない」
「わかっています」
「三ヶ月の取材費は、どうするんだ」
「自腹にします」と桐島は言った。「この記事は、自分のウェブサイトに載せます」
「売れないぞ」
「売るためじゃないので」と桐島は言った。
編集者は少し間を置いた。「お前、変わったな」
桐島は少し驚いた。「そうですか」
「六月に来た時と、声が違う。何があったんだ」
桐島は少し考えた。「問いを持つようになりました」
「何の問いだ」
「人間とは何か、という問いです」
編集者は長い沈黙の後、「ジャーナリストじゃなくて哲学者になったのか」と言った。
「そうかもしれません」と桐島は言った。
電話が切れた。
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その日の夜、桐島はウェブサイトに記事を公開した。
タイトルは「水無瀬で起きていること」のままにした。
公開した後、ボトルを手に取って、少し飲んだ。
温かくて、涼しかった。
スマートフォンに、通知が来た。
記事への反響だった。
最初の一時間で、百件を超えた。
読んだ。批判も、賛同も、半々だった。
「結論がない記事は記事じゃない」という批判があった。「初めて正直に書いた記事を見た」という賛同があった。「エデンズフィールって怪しい」という反応があった。「水無瀬の川が澄んでいくのなら、何かが正しいんじゃないか」という反応があった。
桐島は全部読んだ。
読みながら、アデルの言葉を思い出した。
*問いを持つことは、見ていることです。見ていることは、始まりです。*
桐島は反響のメールに返信しなかった。
ただ、読んだ。
スマートフォンを置いて、窓の外を見た。
水無瀬の夜。商店街の明かりが見えた。山のシルエットが、夜空に浮かんでいた。
桐島は明日、東京に戻る予定だった。
荷物を整理しなければならなかった。
しかし今夜はまだ、ここにいた。
Lサイズのボトルを手に取った。
残りの液体を、光に透かした。
空色が、光を通した。
桐島はその色を、しばらく見た。
何かが始まった、という感覚があった。
何が始まったのかは、まだわからなかった。
しかし何かが、確かに始まっていた。




