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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第五部 実
17/22

第十七章 透 五

##第五部 実


## 第十七章 透


---


九月の水無瀬は、少しずつ秋の色になっていた。


八月の熱が引くのは、この街では緩やかだった。昼間はまだ暑かったが、朝と夕方に山から下りてくる風が、八月とは違う温度になっていた。冷たい、というほどではなかった。ただ、夏ではない何かが混じっていた。


その風の中に、草の匂いがした。


山の草が、季節の変わり目に放つ匂いだった。透はそれを、毎朝川沿いを歩きながら感じていた。以前は気づかなかった匂いだった。今は、朝の最初の呼吸でわかった。


変化は、こういう小さなところにも来ていた。


---


左手首の黒いリボンは、九月になっても外れなかった。


風呂に入っても、仕事をしても、川沿いを歩いても、外れなかった。アデルが結んだ通り、ちょうどよい締まり具合のまま、手首にあった。


市役所では、最初の週に何人かが聞いてきた。


「それ、何ですか」と若い同僚が聞いた。


「もらいものです」と透は言った。


「どんな意味があるんですか」


「少し、個人的なものです」と透は言った。


同僚は「そうですか」と言って、引いた。それ以上聞かなかった。


田所さんは見ただけで、何も聞かなかった。ただ、「きれいな色だね」と言った。「ありがとうございます」と透は言った。


---


九月に入って、体の変化は続いていた。


髪は、ほぼ全部が銀色になっていた。黒い部分は、後頭部の奥に少し残っているだけだった。光の当たり方によっては、全部が銀色に見えた。


目は、完全に金色になっていた。


茶色は消えていた。琥珀色に近い、深みのある金だった。光の中では、金属のように輝いた。暗い場所でも、金色は消えなかった。鏡で見ると、知らない人間の目のようだった。しかし見慣れてきていた。


身長が、少し伸びていた。


八月の終わりに、部屋のドア枠で測ってみた。百七十三センチだった。以前は百七十センチだった。三センチ伸びていた。まだアデルの二メートルには程遠かった。しかし確実に、伸びていた。


肌は、まだ大きく変わっていなかった。日焼けに近い、わずかな変化があるかもしれなかったが、鏡でははっきりわからなかった。


第一段階の変化は、こういうものだ、とアデルは言っていた。まず疲れが取れる。精神が安定する。外見の変化は、最初は髪と目から始まる。皮膚の変化は、段階が進むにつれてはっきりしてくる。


---


疲れは、ほとんどなかった。


朝、目が覚めた時の体が、軽かった。以前は、目が覚めても疲れが残っていた。布団から出るのが億劫だった。今は、目が覚めると、起きたいと思った。


市役所の仕事も、変わらなかった。書類を処理して、回覧を回して、電話を取る。内容は同じだった。しかし仕事をしながら、別のことを考える余裕が生まれていた。


水無瀬川のことを考えた。


環境課の水質調査プロジェクトに参加して、二ヶ月が経っていた。毎月一度のサンプル採取に加えて、透は個人でも川を観察し続けていた。毎日、川沿いを歩いた。同じ場所で、水の色を見た。川底の石の見え方を確かめた。


数字と目で見たものが、一致していた。


少しずつ、澄んでいた。


---


九月の第一週の月曜日、透は環境課に行った。


木村係長のデスクに近づいた。「おはようございます」と言った。


木村が顔を上げた。透の銀髪と金の目を見て、一瞬だけ止まった。しかし木村はすでに慣れていた。「おはよう」と言った。「今日は何かあった?」


「少し話したいことがあって」と透は言った。


「いいよ、座って」


透は木村の向かいに座った。


「川のことなんですが」と透は言った。「水質改善の原因について、調査する予算を申請できないでしょうか」


木村は少し驚いた。「原因の調査か。今のプロジェクトは、データの記録だけで、原因分析はしていないな」


「はい。でも、改善しているなら、なぜ改善しているかを調べる価値があると思います。同じことを他の場所でもできるなら、そっちの方が意味があるので」


木村はしばらく考えた。「総務課から、そういう提案が来るのは珍しいな」


「環境課の仕事じゃないのはわかっています。でも、気になっていて」


木村は腕を組んだ。「予算の申請は、来年度になる。今から書類を作れば、間に合うかもしれない。手伝えるか?」


「はい」と透は言った。


木村は少し笑った。「銀髪の総務課員が、川の調査をしたいと言ってくる。水無瀬も変わったな」


透も笑った。「変わっています」と言った。


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その日の仕事帰り、透はエデンズフィールに寄った。


週に三回の習慣は、九月になっても続いていた。火曜日、木曜日、土曜日だったものが、今は曜日に関係なく、行きたい時に行っていた。週に三回か四回だった。


アデルがカウンターにいた。


「いらっしゃいませ」と言った。


透はいつものテーブルに座った。お茶を受け取った。


飲んだ。


温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。この味に、今は完全に慣れていた。慣れながら、毎回少し驚いていた。矛盾した味だと、いつも思った。慣れることと、驚くことは、同時にあった。


「木村係長に、川の原因調査の提案をしました」と透は言った。


アデルがカウンターから透を見た。「どうでしたか」


「来年度の予算申請を手伝ってほしいと言われました」


「それは良かった」とアデルは言った。


「アデルさんは、川が澄んでいく理由を知っていますか」と透は聞いた。


アデルは少し間を置いた。「知っています」


「教えてもらえますか」


「今のあなたには、直接は教えられません」とアデルは言った。「でも、調べていけば、わかります」


「なぜ直接教えられないんですか」


「体験として知ることと、言葉として知ることは、違います」とアデルは言った。「あなたには、体験として知ってほしい」


透はその言葉を、少し考えた。


以前の透なら、「じゃあ教えてください」と押していたかもしれない。今は、アデルの言い方の中に理由があることがわかった。急かす必要がなかった。段階がある。その段階を、飛ばすことはできない。


「わかりました」と透は言った。「調べながら、体験します」


アデルは頷いた。


---


九月の第二週の土曜日、透は水質調査プロジェクトの活動日だった。


朝六時に、川沿いに集合した。


参加者は今月も十人ほどだった。先月と同じメンバーに、今月は二人が増えていた。一人は高校生だった。もう一人は、透より少し年上の女性だった。


サンプルを採取しながら、先月と比較した。


透明度が、また上がっていた。


川底の石が、先月より明確に見えた。特定の石の模様を、先月から記録していた。先月は輪郭しかわからなかった石が、今月は表面の凹凸まで見えた。


「また良くなってますね」と隣の男性が言った。六十代の、いつも来ているボランティアだった。


「そうですね」と透は言った。


「なんでだろうね、本当に」と男性は言った。


透は川を見た。


なぜ川が澄んでいくのか。アデルは知っていると言った。透には、まだ体験として知る前だった。しかし何かがわかりかけていた。


庭師が増えることで、川を汚す行動が減る。それだけではないかもしれなかった。もっと直接的な何かがある気がした。エデニア・ノクティスを育てる血液が、土に入る。その血液が、土を変える。土が変われば、土から川に流れ込むものが変わる。川が変わる。


体験として知る、ということは、まだ先のことだった。しかし方向は見えていた。


「わかっていることと、わかっていないことがあります」と透は男性に言った。「でも、良くなっているのは確かです」


「それで十分だよ」と男性は言った。


---


九月の第二週の火曜日の夜、透は母に会いに行った。


イニシエーションを受けた夜以来、実家には何度か寄っていた。しかし今夜は、少し話したいことがあった。


実家の玄関を開けると、台所から夕飯の匂いがした。


「お帰り」と母が言った。


「ただいま」と透は言った。


夕飯を一緒に食べた。


母が作った鶏の煮物だった。透はよく食べた。エデニア・ノクティスだけで生活できるようになるのは、もっと段階が進んでからだった。今はまだ、普通の食事もしていた。しかし量は減っていた。


「今日は何か話があって来たの?」と母が言った。


「少し」と透は言った。「川の話です」


「川?」


「水無瀬川の水質調査プロジェクトに参加しているんですが、来年度の予算申請を手伝うことになりました」


母は少し驚いた顔をした。「総務課なのに」


「そうです」と透は言った。「でも、やりたいと思って」


「やりたいと思ったのなら、良かった」と母は言った。


「母さんが言っていましたよね」と透は言った。「六年間、なんとなく過ごしているのを見ていたって」


母は少し間を置いた。「言ったね」


「そうでしたね」と透は言った。責めているわけではなかった。確認していた。「なんとなく、でした。ずっと」


「今は」


「今は、なんとなくではないです」と透は言った。「川を澄ませたい、と思っています。なぜかはうまく説明できないですが、そうしたい」


母は透の顔を見た。銀色の髪と、金色の目を見た。


「お父さんが生きていたら、何て言うかな」と母は言った。


透は少し驚いた。父の話を、母から出てきたのは久しぶりだった。


「川で泳いでいた話、していましたね、お父さん」と透は言った。


「よく話してたよ。昔の川は澄んでいて、底まで見えたって」


「夢の中で見ます」と透は言った。「澄んだ川を」


「夢で」


「はい。最初から見ていました。エデンズフィールに行く前から」


母はしばらく、透の顔を見ていた。「それで、川を澄ませたいと思っているの」


「それだけじゃないですが」と透は言った。「一つの理由かもしれません」


母は「そう」と言って、お茶を飲んだ。「良いことだと思う。お父さんが聞いたら、喜ぶんじゃないかな」


透はその言葉を、胸の中に置いた。


---


実家から帰る途中、透は川沿いを通った。


九月の夜の川は、月が出ていると川面が光った。今夜は月が出ていた。


透はいつもの場所で、足を止めた。


川を見た。


月光の中で、川が光っていた。昼間より、川底が見えた。月の光は直接的で、散乱しなかった。川底の石の輪郭が、月光の中で揺れていた。


透は手すりに手をかけた。


左手首の黒いリボンが、月光を受けて、少し光った。


父が泳いでいた川。


透が子供の頃に来た川。


今、透が毎日見る川。


この川が、夢の中の川になる日が来るのだろうか。底まで透けて、魚が泳いで、光が格子を作る、あの川に。


来る気がした。


すぐではない。しかし、来る。


確証はなかった。しかし確かな感じがした。川が澄んでいく過程を、毎日見ていたからかもしれなかった。数字を見ていたからかもしれなかった。あるいは、体の中で何かが変わって、そういう感覚が生まれているからかもしれなかった。


どれかはわからなかった。


全部かもしれなかった。


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九月の終わりに、透は市役所に一つの書類を提出した。


水無瀬川水質改善原因調査プロジェクト、来年度予算申請書だった。


木村係長と一緒に、三週間かけて書いた書類だった。環境課の仕事ではない総務課の職員が関わるという異例の形だったが、木村が上司に話を通してくれた。


申請書には、過去二年間の水質改善データが添付されていた。透が記録してきたデータも含まれていた。


「うまくいくといいね」と木村係長が言った。


「うまくいかなくても、やる意味はあったと思います」と透は言った。


木村は少し笑った。「そういう考え方、最近できるようになったの?」


透は少し考えた。「最近です」


「何かあったの」


「色々と」と透は言った。「少しずつ変わりました」


木村は透の銀髪を見た。金色の目を見た。「見ればわかるよ」と言った。笑って言った。


透も笑った。


---


九月の最後の日曜日、透はエデンズフィールに行った。


午後の遅い時間だった。他の客はいなかった。


アデルがカウンターにいた。


透はいつものテーブルに座った。お茶を受け取った。


飲んだ。


「少し話せますか」と透は言った。


「どうぞ」とアデルは言って、向かいに座った。


「第一段階で、外見はどこまで変わりますか」と透は聞いた。


「髪と目は、ほぼ変わり切っています」とアデルは言った。「肌の変化は、まだ始まりかけです。身長は、もう少し伸びます。ただし第一段階では、完全には変わりません」


「次の段階に進むには、何が必要ですか」


「体が準備できた時に、わかります」とアデルは言った。「頭で決めることではなく、体が知る時が来ます」


「それは、今と同じですか。イニシエーションの時のように」


「同じです」


透は頷いた。「今の段階で、できることは何ですか」


「見ていること」とアデルは言った。「川を見て、山を見て、街を見て、人を見て。見ていることが、全部の始まりです」


「ずっとそう言いますね」と透は言った。


「ずっとそうだからです」とアデルは言った。


透はお茶を飲んだ。


窓の外に、夕方の商店街が見えた。人が少なかった。シャッターが降りている店が多かった。しかし明かりのついている店もあった。エデンズフィールの明かりも含めて。


「この街が、好きになりました」と透は言った。


アデルは少し驚いた顔をした。「以前は、好きではなかったんですか」


「好きでも嫌いでもなかったです。ただ、ここにいた。水無瀬で生まれたから、ここにいた」


「今は」


「今は、ここにいたいと思っています」と透は言った。「水無瀬で生まれて、水無瀬にいる。それが、今は自分で選んでいることになっています」


アデルはその言葉を、少しの間、受け取っていた。


「それは大きな変化です」と言った。


「そうですか」


「いた、ということと、いたい、ということは、全く違います」


透は頷いた。確かに、違った。六年間、ここにいた。いたいと思っていたわけではなかった。ただいた。今は、いたいと思っている。その差は、言葉以上のものがあった。


---


エデンズフィールを出て、透は川沿いを歩いた。


九月の夕方の川が、光を受けていた。


透はいつもの場所で足を止めた。


川を見た。


夕方の光の中で、川底の石が見えた。先月より、はっきり見えた。今月より、また少し澄んでいた。


透は左手首のリボンを見た。


黒いリボンが、夕光の中で深く光った。


夢の中で見た川を思い出した。底まで透けていた川。魚が泳いでいた川。光が格子を作っていた川。


まだ遠かった。


しかし確実に近づいていた。


毎日、少しずつ。


透は川から目を離して、空を見た。


九月の空は、八月より高かった。雲が少なかった。青が深かった。


山の稜線の上に、夕焼けが広がっていた。


赤と橙と、少しの紫。


透はその色を、しばらく見た。


今まで、夕焼けをこんなに長く見たことがあっただろうか。思い出せなかった。ただ、今日は見ていた。見ていたいと思っていた。


色が変わっていった。


赤が薄れて、橙が残って、紫が濃くなった。


透は川に目を戻した。


夕暮れの川が、紫の光を受けていた。


濁っていたが、流れていた。


止まっていなかった。


透も、止まっていなかった。


水無瀬で生まれて、水無瀬で変わっていく。


それで、良かった。


川沿いの風が来た。


山の匂いがした。草の匂いがした。秋の始まりの匂いがした。


透は深く息を吸った。


それから、歩き始めた。


上流に向かって。


川沿いを、上流に向かって歩いた。


どこまで歩くかは、決めていなかった。


ただ、歩きたかった。


それで十分だった。

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