第十八章 アデル 五
## 第十八章 アデル
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九月の水無瀬は、静かに変わっていた。
夏の熱が引いて、山からの風が冷たさを増していた。朝のハーブ園に出ると、空気が澄んでいた。八月とは違う澄み方だった。夏の蒸気が抜けて、輪郭がはっきりした空気。エデニア・ノクティスの葉についた朝露が、その澄んだ空気の中で光っていた。
アデルは毎朝、その光を見てから一日を始めた。
開花期を終えたエデニア・ノクティスは、結実期に入っていた。花が散った後に、小さな実がついていた。まだ緑色だった。完熟すると黒くなる。今はまだ、途中だった。
アデルはしゃがんで、実を一つ指で触れた。
固かった。まだ時間がかかる。
右手の親指を切って、根元に血を与えた。植物が揺れた。九月の揺れは、八月より落ち着いていた。成長の速度が、季節とともに変わっていた。
立ち上がって、空を見た。
九月の空は高かった。雲が少なかった。山の稜線が、澄んだ空気の中でくっきりと見えた。
良い朝だ、と思った。
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九月の常連客は、さらに増えていた。
透は週に三回から四回来るようになっていた。以前のように窓の外を見るだけでなく、アデルと話すことが増えていた。川のこと、環境課のこと、予算申請のこと。透は動いていた。六月に初めて来た時の、存在感の薄い男とは違っていた。今の透は、そこにいることが自然にわかった。
菜摘も、週に二回ほど来るようになっていた。
最初の頃は、一番奥のテーブルに座って、静かにお茶を飲んで帰っていた。九月に入ると、アデルに話しかけてくることが増えた。誠のこと、ひかりのこと、水無瀬での生活のこと。話し方が、七月の最初に来た時より、落ち着いていた。揺れ方が、整理されてきていた。
桐島は、九月に入って取材の頻度が落ちていた。
記事を書いていると、アデルには感じられた。何を書いているかは、聞かなかった。しかし来るたびに、質問の種類が変わっていた。核心を突こうとする質問から、全体を見ようとする質問に変わっていた。
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九月の第二週のある午後、アデルは店を閉めた後、裏のハーブ園に出た。
夕方の光が、エデニア・ノクティスの葉に斜めに当たっていた。実が少しずつ大きくなっていた。まだ緑色だったが、色が濃くなってきていた。
アデルはしゃがんで、実を見た。
あと二週間か、三週間か。
熟すのを、待つしかなかった。急かすことはできなかった。血を毎日与えて、水をやって、ただ待つ。それだけのことだ。
精神ネットワークに触れた。
導師に、今日の状態を報告した。
エデニア・ノクティスの生育状況。透の変化。菜摘の来訪。桐島の取材が記事に近づいていること。
導師から、感覚が返ってきた。
*水無瀬の根が深くなっている。良い兆候だ。*
以前と同じ言葉だった。しかし今日の感覚は、以前より少し違った。深い、という言葉の意味が、重くなっていた。
アデルは受け取った。
*透は、次の段階が近いかもしれません。*
導師から、少し間があった。
*彼が感じた時に、来る。急かさなくていい。*
*わかっています。*
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その夜、アデルは夢空間に入った。
個人エリアの庭。
エデニア・ノクティスが茂っていた。現実の庭より、少し先の状態だった。夢の庭では、実がすでに黒く熟していた。光の当たり方によって、銀色に輝いていた。
アデルは白い鷺の仮面をつけた。黒いローブをまとった。胸元の五色のリボンを確かめた。
共用エリアに移動した。
今夜は、いつもより多くの庭師が集まっていた。
鹿の仮面。狐の仮面。鳥の仮面。兎の仮面。蝶の仮面。熊の仮面。蛇の仮面。魚の仮面。世界中から、それぞれの庭師が来ていた。
誠がいた。蛸の仮面。今夜は胸元のリボンを確かめると、五本になっていた。
アデルは驚いた。精神ネットワークで、確かめた。
*誠さん、五段階目に入ったんですか。*
誠の仮面が、静かに頷いた。*昨日、水無瀬の集まりで。*
水無瀬に、アデル以外にも庭師がいた。第五段階を終えた庭師が、誠のイニシエーションを執り行ったのだ。
*おめでとうございます。*
*ありがとう。*
誠の仮面が、温かく笑った。
五本のリボンを持つ誠。現実では、誠の外見が完全に変わっていく段階に入っていた。菜摘が、それをどう受け取るか。アデルは少し考えた。しかし菜摘は、八月の夜に誠と正面から話していた。受け取れる、とアデルは思った。揺れながらでも、受け取れる。
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導師が中央にいた。
黒い猫の仮面。白いローブ。リボンなし。
今夜の導師は、何かを伝えようとしていた。
共用エリア全体に向けて、感覚を流した。
言語ではなかった。しかし今夜は、いつもより具体的な感覚だった。
*世界中の根が、深くなっている。各地で川が澄み始めている。山に緑が戻っている場所がある。新しい庭師が、各地で増えている。しかし急がなくていい。楽園は、一日では作れない。ただ、確実に近づいている。*
庭師たちが受け取った。
それぞれの場所で、それぞれのやり方で受け取った。ロンドンの庭師が、静かな確信として受け取った。ラゴスの庭師が、喜びとして受け取った。ソウルの庭師が、さらに動く意志として受け取った。
アデルは、穏やかな確認として受け取った。
続けていい。今やっていることを、続けていい。
それが伝わった。
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導師から、今夜はさらに何かが来た。
共用エリア全体にではなく、アデルに直接だった。
*鷺の庭師。あなたに聞く。*
アデルは応えた。*はい。*
*水無瀬での仕事は、どうか。*
*根が張っています。透は変化が進んでいます。菜摘は、揺れながらも来ています。桐島は記事を書いています。川も、山も、少しずつ変わっています。*
*あなた自身は、どうか。*
アデルは少し間を置いた。
導師が、仕事の状況ではなく、アデル自身を聞いていた。それは珍しかった。
*この街が好きになっています。*とアデルは答えた。*しばらく、ここにいたいと思っています。*
*それで良い。*と導師は言った。*あなたがその街を好きになることは、その街にとっても良いことだ。*
*どういう意味ですか。*
*庭師がその土地を好きになると、根が深くなる。愛着は、言葉より先に土に伝わる。*
アデルはその言葉を、受け取った。
愛着は、言葉より先に土に伝わる。
裏のハーブ園のエデニア・ノクティスが、水無瀬の土でよく育っていることを思った。アデルが水無瀬を好きだから、植物も良く育つのかもしれなかった。
*もう一つ聞く。*と導師が言った。
*はい。*
*仮面を、そろそろ外してみたらどうか。*
アデルは止まった。
第五段階の庭師は、夢空間で仮面を外すことができる。アデルはそれを知っていた。しかし今まで、外さなかった。外すタイミングは自分でわかると思っていた。
*まだ早い気がしていました。*
*なぜ。*
アデルは考えた。なぜ外さないでいたのか。
怖いわけではなかった。準備ができていないわけでもなかった。ただ、外す必要を感じていなかった。しかし、それは本当だろうか。
*外す必要がないと思っていました。でも、今考えると、それは違うかもしれません。外さない理由が、ないのかもしれません。*
*そうだ。*と導師は言った。*外すかどうかは、あなたが決めることだ。ただ、外せる時に外さないことは、何かを保留にしていることだ。*
アデルは沈黙した。
保留にしていること。
なぜ保留にしていたのか。
仮面を外すことは、全てをさらけ出すことだった。夢空間で、自分の顔を見せること。黒い肌。銀髪。金の目。そしてフランス人の母とアルジェリア人の父から受け継いだ顔立ちを。全部をさらけ出すこと。
それを、アデルは保留にしていた。
なぜか。
全部変わった後の自分を、まだ十分に受け取っていなかったからかもしれなかった。
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共用エリアで、アデルは少しの間、考えた。
庭師たちが、それぞれの会話を続けていた。誠が別の庭師と話していた。鹿の仮面の庭師が、遠くから頷いた。
アデルは自分の手を見た。夢空間でも、黒い手だった。左足首に、五色のリボンがあった。
仮面に手をかけた。
白い鷺の仮面。
外した。
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顔が、空気に触れた。
特別な感覚はなかった。冷たくもなく、温かくもなく。ただ、覆われていたものが、なくなった。
アデルは仮面を手に持ったまま、立っていた。
周囲の庭師たちが、気づいた。
言葉はなかった。しかし感覚が来た。それぞれの庭師から、それぞれの温かさが。
誠の仮面が、笑った。蛸の仮面の表情が、温かく笑った。
導師が、中央からアデルを見ていた。
言葉はなかった。しかし今夜の導師の視線には、いつもと違う何かがあった。
認める、という感覚だった。
あなたがあなたであることを、認める。変わった後のあなたを、認める。そういう感覚だった。
アデルは仮面を持ったまま、しばらく立っていた。
仮面をつけていた時と、何が違うのか。
同じだった。
アデルはアデルだった。仮面があっても、なくても、アデルだった。しかし仮面がないと、それがより直接的に感じられた。覆いがないから、直接的だった。
アデルは仮面を、ローブの中にしまった。
今夜は、このままでいる。
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夢空間から出た後、アデルはしばらく部屋に座っていた。
アパートの窓から、水無瀬山が見えた。九月の夜の山は、暗く、重く、静かだった。
仮面を外した。
その事実を、静かに持っていた。
リヨンで生まれた。パリで建築を学んだ。疲れ果てて、エデンズフィールに入った。アントワーヌと出会った。イニシエーションを受けた。五段階を経て、変わった。水無瀬に来た。
全部が、今夜に繋がっていた。
仮面を外すことは、その全部を受け取ることだったのかもしれなかった。どこかで、受け取りきれていない何かがあった。導師がそれを、感じていた。
今夜、外した。
受け取った。
お茶を淹れた。エデニア・ノクティスの乾燥葉を抽出した。空色の液体をカップに注いだ。
飲んだ。
温かくて、涼しかった。
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翌朝、アデルは裏のハーブ園に出た。
朝の光が、エデニア・ノクティスの葉に当たっていた。
実を見た。
昨日より、少し色が変わっていた。緑の中に、黒みが入り始めていた。もうすぐだった。
アデルは右手の親指を切った。血が滲んだ。根元の土に触れた。
植物が揺れた。
今日の揺れは、いつもと少し違った。大きくはなかった。しかしはっきりしていた。確かに応えていた。
アデルは立ち上がった。
精神ネットワークに軽く触れた。
世界中の庭師の声が、朝の感覚として流れていた。ロンドン。ラゴス。ソウル。サンパウロ。ニューヨーク。それぞれの朝が、それぞれの場所にあった。
誠の声が届いた。今日の誠は、何かが違った。第五段階に入った翌朝の、清々しさとでも言うべき感覚だった。
*おはようございます。*とアデルは送った。
*おはよう。*と誠が返した。*今日は少し、体が変わっている気がする。*
*これから、変わっていきます。*
*そうか。菜摘に、ちゃんと話さないといけないな。*
*話せると思います。彼女は、受け取れます。*
*そうだといいが。*
誠の声に、少し緊張があった。穏やかな庭師でも、大切な人への告白には、緊張する。それが、アデルには少し好ましかった。緊張は、愛着の証だった。
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店を開けると、午前中から客が来た。
老夫婦が最初に来た。毎週来る夫婦だった。夫の膝の調子が良い、と妻が言った。先月より歩きやすくなった、と夫が言った。アデルは「それは良かったです」と言った。
次に来たのは、中学生の女の子が二人だった。以前来た三人組の中の二人だった。「また来ました」と言った。「いらっしゃいませ」とアデルは言った。二人はSサイズを頼んで、いつものテーブルに座った。話しながら飲んでいた。
午後に、透が来た。
入ってくる時の、今日の透の顔は、少し違った。何かを決めてきた顔だった。体で決めた時の顔に似ていたが、それよりも落ち着いていた。
「いらっしゃいませ」とアデルは言った。
「こんにちは」と透は言って、いつものテーブルに座った。
お茶を持っていった。
透は飲んで、窓の外を見た。少しの間、黙っていた。それからアデルを見た。
「少し話せますか」と言った。
「どうぞ」とアデルは言って、向かいに座った。
「水無瀬が好きになりました」と透は言った。
アデルは少し驚いた。「それを言いに来たんですか」
「言いに来たわけじゃないですが、言いたかったので」と透は言った。「水無瀬で生まれて、水無瀬にいる。以前は、ただいた。今は、いたいと思っている」
アデルはその言葉を受け取った。
昨夜、導師が言っていた。愛着は、言葉より先に土に伝わる、と。
透は今、水無瀬を好きだと言った。その言葉が出てくる前から、透の愛着は土に伝わっていたのかもしれなかった。川沿いを毎日歩いて、水質調査に参加して、予算申請を手伝って。全部が、愛着の形だった。
「それは大きな変化です」とアデルは言った。
「そう言ってもらえると、少し嬉しいです」と透は言った。
「先の段階のことを、少し話しますか」とアデルは言った。
透は頷いた。
「第二段階に進む時が来たら、体でわかります。今と同じように」とアデルは言った。「ただ、今より準備が必要になります。自分の体から、エデニア・ノクティスの種を作る能力を使います。そのための練習が必要です」
「種を体から作る、というのは」
「今は、詳しくは話さない方がいいです」とアデルは言った。「ただ、来た時に話します。今は、今できることをしていてください」
「今できることは、川を見ること」と透は言った。
「そうです」
「ずっとそう言いますね」と透は言った。笑いながら言った。
「ずっとそうだからです」とアデルも言った。笑いながら言った。
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夕方に、菜摘が来た。
入ってくると、少し様子が違った。顔が定まっていた。揺れていなかった。揺れていないことと、問題がないことは違う。しかし今日の菜摘は、揺れの中に軸ができていた。
「いらっしゃいませ」とアデルは言った。
「こんにちは」と菜摘は言って、テーブルに座った。
Mサイズのボトルを頼んだ。以前はSサイズだったが、九月に入ってからMサイズになっていた。
飲んでから、アデルに話しかけてきた。
「誠の外見が、また変わりました」と菜摘は言った。
「気づきましたか」
「ええ。昨日、会って。肌がかなり変わっていました。髪もほぼ全部銀色で。身長も、また伸びていて」
アデルは少し間を置いた。「誠さんは、昨日五段階目に入りました」
菜摘は止まった。「五段階目」
「はい」
「最後の段階」
「はい」
菜摘は少し間を置いた。カップを両手で持った。「じゃあ、これからもっと変わるんですね」
「はい。ただし、顔は変わりません。誠さんの顔のままで、変わっていきます」
菜摘はカップを見た。空色の液体が揺れていた。
「前に聞きましたね」と菜摘は言った。「あの外見になっても、誠だってわかるかって」
「覚えています」
「今は、わかると思っています」と菜摘は言った。「前は、頭でわかっていた。今は、体でわかっている気がします」
アデルはその言葉を、静かに受け取った。
体でわかっている。透も同じ言葉を使っていた。エデニア・ノクティスを飲み続けることで、体が変わっていく。変わっていく体は、物事を体で受け取るようになっていく。
菜摘は庭師にならないと言っていた。しかしエデニア・ノクティスを飲み続けている。その変化は、少しずつ来ていた。
「ひかりさんは、どうですか」とアデルは聞いた。
「元気です。松本さんの娘さんと、仲が良くて」と菜摘は言った。「ひかりのおかげで、私も少し楽になりました。子供は、本当に正直に見る」
「ご自身は」
「まだ、わからないことが多いです」と菜摘は言った。「でも、わからないなりに、ここにいようと思っています。水無瀬に」
「それで十分です」とアデルは言った。
菜摘は頷いた。「アデルさん、今日少し違いますね」と言った。
アデルは少し驚いた。「どう違いますか」
「なんか、すっきりした感じがします。以前より」と菜摘は言った。うまく言葉にできない様子で、「なんとなく、ですが」と付け加えた。
アデルは少し考えた。
昨夜、仮面を外した。夢空間でのことを、菜摘は知らないはずだった。しかし何かが伝わっていた。
愛着は、言葉より先に土に伝わる。
もしかすると、内側の変化も、言葉より先に伝わるのかもしれなかった。
「昨夜、少し変わりました」とアデルは言った。
「何が変わったんですか」
「保留にしていたことを、受け取りました」
菜摘はその言葉を、少し考えた。「良かったですね」と言った。
「ありがとうございます」とアデルは言った。
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店を閉めた後、アデルは川沿いに行った。
夜の川。街灯が川面に映っていた。
アデルは川のそばに立った。
九月の川は、夏の川より澄んでいた。水が少なかった。流れが遅かった。しかしその分、川底が見えやすかった。街灯の光が届く深さまで、石の輪郭が見えた。
アデルはしばらく、川を見た。
パリにも川があった。セーヌ川。エデンズフィールに初めて来た日、セーヌ川沿いを歩いていた。寒い日だった。温かいものが飲みたくて、入った。
あの日から、ここまで来た。
今は、水無瀬の川の前に立っていた。パリの川より小さかったが、この川の方が、アデルには近かった。毎日見ていたから。毎日の変化を知っていたから。
川が、少しずつ澄んでいく。
それを、アデルは毎日見ていた。
急がなくていい。楽園は、一日では作れない。
しかし確実に、近づいている。
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精神ネットワークに触れた。
今夜の誠の声が届いた。
*菜摘と話した。*
*どうでしたか。*
*受け取ってくれた。全部じゃないかもしれないけど、受け取ってくれた。*
アデルは、昼間の菜摘の顔を思い出した。体でわかっている、と言った菜摘の顔を。
*そうですね。受け取れると思っていました。*
*アデルさんが言った通りだった。*
*彼女は強い人です。揺れながら、ここまで来た。*
誠から、温かい感覚が返ってきた。感謝に近いものだった。
アデルはネットワークから離れた。
川を見た。
夜の川が、流れていた。
アデルは深く息を吸った。
水の匂いがした。土の匂いがした。山の匂いがした。
水無瀬の匂いだった。
この街の匂いを、アデルは好きだった。リヨンの匂いでも、パリの匂いでもなかった。水無瀬の匂いだった。この街だけの匂い。
しばらく、ここにいる。
導師がそれを、認めた。
アデル自身も、それを認めた。
水無瀬は、良い場所だった。
川が澄んでいく場所。山の緑が戻りつつある場所。新しい庭師が来た場所。揺れながらも受け取ろうとしている人がいる場所。
ここで、続ける。
急がなくていい。
アデルは川から目を離して、空を見た。
九月の夜空に、星が出ていた。
水無瀬の星は、パリより多かった。
その多さが、今夜は特にはっきりしていた。
アデルは星を見た。
子供の頃、父と一緒に庭に出て、星を見た夜のことを思った。砂漠の夜は、星が地面まで下りてくるみたいだ、と父が言った。
水無瀬の夜空も、星が多かった。
地面まで下りてくるほどではなかった。
しかし、近かった。
父が見た砂漠の夜空に、近かった。
アデルはしばらく、星を見た。
それから、アパートに向かって歩き始めた。
川の音が、後ろから聞こえた。
水が流れる音。石の上を渡る音。
それが、歩く間中、続いていた。




