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水無瀬の庭師  作者: ふらう
第五部 実
19/22

第十九章 菜摘 五

## 第十九章 菜摘


---


九月の水無瀬は、少しずつ菜摘のものになっていた。


なっていた、という言い方が正確かどうかはわからなかった。しかし六月に来た時とは、確かに違った。商店街を歩いていると、顔見知りが声をかけてきた。森田さんが「日向さん、今日も暑いですね」と言った。青果店のおじさんが「これ、今日安いよ」と言った。理容室の前を通ると、店主が会釈した。


知っている街になっていた。


大阪のように、深く知っているわけではなかった。しかし水無瀬を知っていた。道を知っていた。匂いを知っていた。朝の山の見え方と、夕方の山の見え方の違いを知っていた。


それだけで、少し楽だった。


---


誠の変化は、九月に入って速くなっていた。


第五段階に入ったからだ、と誠は言った。最後の段階に入ると、変化が加速する、と。


肌が、かなり黒くなっていた。七月の頃の、日焼けに近い変化とは違った。深みのある黒さだった。アデルの肌の色に、近づいていた。


髪はほぼ全部が銀色になっていた。根元から毛先まで、銀色だった。眼鏡をかけた顔の上に、銀髪があった。誠の眼鏡は、変わらなかった。その眼鏡が、変化した外見の中で、誠らしさを主張していた。


身長が、また伸びていた。


マンションのドアを入る時、誠が少し頭を下げるようになっていた。以前はしなかった動作だった。ドア枠に頭が当たりそうになるからだった。


菜摘は、そのたびにその動作を見た。


慣れていなかった。しかし、驚かなくなっていた。


---


九月の第二週の水曜日、誠が来た夜のことだった。


三人で夕飯を食べた後、ひかりが自分の部屋に入った。菜摘と誠が、リビングに二人で残った。


誠がテーブルに向かい合って座って、「少し話せるか」と言った。


「いいよ」と菜摘は言った。


誠は少し間を置いてから、「五段階目に入った」と言った。


「アデルさんから聞いた」と菜摘は言った。


誠は少し驚いた。「もう聞いたのか」


「昨日、エデンズフィールに行って」


誠は頷いた。「どう思った」


菜摘は少し考えた。「正直に言う」


「ああ」


「怖い」と菜摘は言った。「体が、もっと変わっていくことが。最終的にどんな姿になるのかが、まだ頭の中でしか想像できないから」


「そうだな」と誠は言った。「俺も、最初は想像できなかった」


「でも」と菜摘は続けた。「八月に話した時から、少し変わった。やめてほしいとは言えない、と言えるようになった。言えないのではなく、言う必要がないと思えるようになった」


誠は菜摘を見た。


「あなたが苦しんでいないから」と菜摘は言った。「消えていないから」


「消えていない」と誠は言った。「ここにいる」


「わかっている」と菜摘は言った。「わかっているから、言う必要がない」


---


誠が帰った後、菜摘は一人でリビングに座った。


テーブルの上に、エデンズフィールのお茶があった。Mサイズのボトル。九月から、SサイズからMサイズに変えていた。量が増えていた。飲む量が増えていた。


飲んだ。


温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。


この味に、慣れていた。慣れながら、毎回少し驚いていた。


窓の外に、水無瀬山が見えた。


九月の夜の山は、暗く、静かだった。


菜摘は山を見ながら、大阪のことを思った。


大阪には、山がなかった。正確にはあったが、こんなに近くなかった。空の半分を山が占めるような感じは、大阪にはなかった。最初は圧迫感があった。今は、守られているような感じがすることの方が多くなっていた。


水無瀬が、少しずつ自分の場所になっていた。


---


ひかりの変化は、菜摘には少し意外だった。


九月に入って、ひかりは水無瀬の生活を楽しみ始めていた。


美月と仲が良くなっていた。週に何度か、どちらかの家に行き来していた。学校での話を、夕飯の時にするようになっていた。誰がどうだった、先生がこう言った、体育でこんなことがあった。


大阪にいた時より、話していた。


大阪では、少数の親しい友人と深く付き合っていた。その友人たちと離れて、転校して、新しい学校になじめないかもしれない、と菜摘は心配していた。しかし美月という友人ができて、ひかりは水無瀬で新しい場所を見つけていた。


ある夜、ひかりがお風呂から出てきて、「美月ちゃんのお父さん、昨日学校来てたよ」と言った。


松本さんだ、と菜摘は思った。誠と同じ理科教師の庭師だった。


「どんな感じだった」と菜摘は聞いた。


「かっこよかった」とひかりは言った。「背がすごく高くて、肌が黒くて。髪が銀色で。美月ちゃんがお父さんって呼んだら、振り返って」


「振り返って、どうだった」


「すごく普通のお父さんの顔だった」とひかりは言った。「美月ちゃんのお父さんって感じがした」


普通のお父さんの顔。


菜摘はその言葉を、しばらく考えた。


変わった外見でも、その人のその人らしさが、顔に残っている。ひかりは、それを普通のお父さんの顔、と言った。


誠も、同じだ。肌が変わっても、髪が変わっても、身長が伸びても、顔は誠の顔だった。


「うちのパパも、そうだよね」とひかりは言った。菜摘が考えていることを、見透かしたように言った。


「そうね」と菜摘は言った。


ひかりは「おやすみ」と言って、自分の部屋に入った。


菜摘はリビングに一人で残って、お茶を飲んだ。


温かかった。


---


九月の第三週の土曜日、菜摘はひかりと一緒に川沿いを歩いた。


八月に一度歩いた時から、何度か来ていた。ひかりが川を好きになっていた。川沿いに来るたびに、「また少し澄んだ気がする」と言った。


今日の川は、前回より確かに澄んでいた。


菜摘には、数字でわかるわけではなかった。しかし毎回来るたびに、川底の石がもう少し見えるようになっている気がした。


「ねえ、お母さん」とひかりが言った。


「何」


「この川、いつかパパが言ってたみたいにきれいになるかな」


誠が、子供の頃の水無瀬川の話をしたことがあったらしかった。底まで見えて、魚がいっぱいいた、と。


「なると思う」と菜摘は言った。


「いつ頃」


「わからない。でも、なると思う」


ひかりは川を見た。「私が大人になるまでに、なるかな」


「そうなればいいね」と菜摘は言った。


ひかりは「うん」と言って、川沿いを歩き始めた。


菜摘はひかりの後についていきながら、川を見た。


濁っていたが、流れていた。止まっていなかった。


---


その日の帰り道、菜摘はエデンズフィールに寄った。


ひかりは「私も行く」と言った。


二人で入ると、アデルが「いらっしゃいませ」と言った。ひかりを見て、少し表情が和らいだ。


「川、歩いてきました」と菜摘は言った。


「どうでしたか」とアデルが言った。


「また澄んでいた気がします」


アデルは頷いた。


ひかりがMサイズを頼んだ。菜摘もMサイズを頼んだ。二人でテーブルに座って飲んだ。


「アデルさん」とひかりが言った。


「はい」


「水無瀬川、いつかすごくきれいになりますか」


アデルは少し間を置いてから、「なります」と言った。迷いなく言った。


「いつ頃ですか」


「わかりません。でも、なります」


ひかりは頷いた。「なるんだったら、いいです」と言って、お茶を飲んだ。


菜摘はアデルを見た。


迷いなく言った、ということが、菜摘には印象に残った。根拠を示さずに、なります、と言った。しかしその言い方には、嘘がなかった。


「アデルさんは、なぜそんなに確信があるんですか」と菜摘は聞いた。


「川が澄んでいるからです」とアデルは言った。「今日より明日、少し澄む。それが積み重なれば、確実に近づきます」


「川が澄んでいることが、根拠なんですか」


「はい」


菜摘は少し考えた。その答えは、科学的な根拠でも、論理的な証明でもなかった。しかし何かがあった。今起きていることが、これからを示している、という感覚。


「わかる気がします」と菜摘は言った。


言ってから、自分で少し驚いた。わかる気がする、と言えた。


---


帰り道、ひかりが「楽しかった」と言った。


「川が?」


「川も。エデンズフィールも」


「川が楽しいの?」と菜摘は聞いた。


「見ていると、なんか落ち着く」とひかりは言った。「流れているから」


流れているから、落ち着く。


菜摘はその言葉を、少し考えた。


川は止まっていなかった。濁っていたが、流れていた。流れているものを見ていると、自分も流れていいという気がするのかもしれなかった。


止まらなくていい。流れていい。


「そうね」と菜摘は言った。


---


九月の終わりの夜、菜摘は一人でリビングに座っていた。


ひかりは自分の部屋で宿題をしていた。誠は今日は来なかった。


静かだった。


菜摘はお茶を飲みながら、窓の外を見た。


水無瀬山が、夜の空に浮かんでいた。


今夜の山は、守られているように見えた。圧迫感はなかった。ただ、そこにあった。大きく、暗く、静かに。


菜摘は自分が今どういう状態なのかを、確かめようとした。


困惑しているか。している。しかし八月より、整理されていた。わからないことは、まだわからなかった。しかし揺れ方が変わっていた。流れるように揺れていた。止まって揺れているのではなく、流れながら揺れていた。


怖いか。怖かった。誠の変化が。自分が理解できないことが続いていることが。しかし怖さの種類が変わっていた。


六月の頃の怖さは、失う怖さだった。誠が消えるのではないかという怖さ。誠が別の人間になるのではないかという怖さ。その怖さは、大きく、重かった。


今の怖さは、違った。


わからないことが続いていることへの、小さな不安だった。理解できない何かがあることへの、居心地の悪さだった。大きくはなかった。重くもなかった。


失う怖さが、薄れていた。


誠は消えていない。誠はまだ、誠だ。それが体に入ってきたことで、失う怖さが薄れた。


残っているのは、わからないことへの不安だけだった。


そしてわからないことは、ずっとあり続けるかもしれなかった。それでいい、と菜摘は思い始めていた。わからなくても、ここにいられる。


---


菜摘はスマートフォンを手に取った。


真由に、メッセージを送った。


*元気にしてる?*


すぐに返信が来た。


*元気。そっちは?*


*まあまあ。水無瀬、慣れてきた*


*ほんとに?*


*ほんとに。まだわからないことだらけだけど*


*誠さんは?*


菜摘は少し間を置いた。


*変わり続けてる。でも、誠は誠だった*


真由からの返信が、少し遅れた。


*そっか。それが一番大事だよね*


*そうかもしれない*


*菜摘が元気なら、それでいい。何かあったら連絡して*


*ありがとう*


メッセージを閉じた。


窓の外を見た。


山が、そこにあった。


菜摘は桐島のことを思った。


桐島が書いた記事を、読んでいた。菜摘の言葉が、一部引用されていた。「困惑しています。それが正確なところです」という言葉だった。


その言葉は、今も正確だった。


しかし九月の今、付け加えることがあるとすれば。


困惑しています。それでも、ここにいます。


それが、今の菜摘の正確なところだった。


---


翌日、菜摘はエデンズフィールに行った。


アデルがカウンターにいた。「いらっしゃいませ」と言った。


菜摘は「こんにちは」と言って、Mサイズを買った。いつものテーブルに座った。


飲んだ。


温かくて、涼しかった。


アデルに話しかけた。


「一つ聞いていいですか」


「どうぞ」とアデルは言って、向かいに座った。


「庭師にならないと決めました」と菜摘は言った。「以前も言いましたが、もう一度、はっきり言いたくて」


「聞いています」


「でも、エデンズフィールには来ます。お茶も飲みます。それは続けます」


「なぜですか」と聞いた。


「体に良いから、というのもあります」と菜摘は言った。「でも、それだけじゃなくて。ここに来ると、少し落ち着くんです。何かがわかるわけじゃないですが、落ち着く」


アデルは頷いた。「それで十分です」


「庭師にならなくても、来ていいんですか」


「もちろんです」とアデルは言った。「ここは、誰でも来られる場所です。庭師になることと、お茶を飲みに来ることは、別のことです」


菜摘は頷いた。


「ひかりのことも」と続けた。「ひかりが十八歳になるまでは、イニシエーションには誘わない。それを、誠とも約束しました」


「知っています」とアデルは言った。「誠さんから聞いています」


「ひかり自身が決めたいと言った時は、その時に話します」


「それが正しいと思います」とアデルは言った。


菜摘は少し間を置いてから、「アデルさん」と言った。


「はい」


「感謝しています」と菜摘は言った。


アデルは少し驚いた顔をした。「何に対して」


「よくわかりません」と菜摘は言った。「ここに来るたびに、少し楽になるので。その理由が、アデルさんなのかお茶なのか、わかりませんが。どちらにしても、ありがとうございます」


アデルは少しの間、菜摘を見た。


「こちらこそ」と言った。「来てくれることが、この街の根になっています」


「私が?」


「はい。庭師でなくても、根になります。ここに来て、ここにいることで、根になります」


菜摘はその言葉を、しばらく考えた。


根になる。


植物の根のように、この街に繋がっている。庭師でなくても、繋がっている。


「そうなんですね」と菜摘は言った。


「そうです」


---


エデンズフィールを出て、菜摘は商店街を歩いた。


夕方の商店街。人が少なかった。シャッターが降りている店が多かった。しかし明かりのついている店もあった。青果店。理容室。エデンズフィールの看板が、後ろから見えた。


菜摘は歩きながら、この景色をいつから自然に見るようになったか、考えた。


六月に来た時は、知らない街だった。七月に来た時は、馴染めない街だった。八月は、いる街だった。


今は。


いたい街、とまでは言えなかった。しかしいられる街、にはなっていた。


それで、今は十分だった。


いたい、はいつかくるかもしれなかった。


こなくてもいいかもしれなかった。


どちらでも、今日ここにいる事実は変わらなかった。


---


マンションに戻ると、ひかりが台所にいた。


「お帰り」とひかりが言った。


「ただいま」と菜摘は言った。「何してるの」


「お茶淹れようとしてた。エデンズフィールのやつ」


ひかりが乾燥葉を使って、お湯で抽出しようとしていた。菜摘が教えた方法だった。


「一緒に淹れる」と菜摘は言って、台所に入った。


ひかりが「うん」と言った。


二人で並んで、お茶を淹れた。空色の液体が、ポットの中で広がった。


カップに注いだ。


二人でリビングに座って、飲んだ。


温かかった。


窓の外に、水無瀬山が見えた。


夕暮れの山は、赤みを帯びていた。


「きれい」とひかりが言った。


「そうね」と菜摘は言った。


二人でしばらく、山を見た。


色が変わっていった。赤が濃くなって、橙になって、紫になった。


ひかりが「パパ、今日来る?」と聞いた。


「来ないと思う」と菜摘は言った。「明日は来るかも」


「そっか」とひかりは言って、お茶を飲んだ。


菜摘もお茶を飲んだ。


温かくて、涼しかった。


窓の外の山が、暗くなっていった。


二人は、それを見ていた。


何も言わなかった。


しかし、二人でいた。


水無瀬の夜が、来ていた。

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