第二十章 桐島 五
## 第二十章 桐島
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九月の水無瀬は、桐島が来た時とは別の街になっていた。
同じ街だった。同じ商店街で、同じ川で、同じ山だった。シャッターの数も変わっていなかった。人口が急に増えたわけでもなかった。
しかし、違った。
何が違うのかを、桐島は言葉にしようとした。うまくいかなかった。しかし確かに、六月に来た時の水無瀬と、九月の水無瀬は違った。
光の質が変わっていた。
夏の終わりの光は、八月の直接的な光より、斜めになっていた。影が長くなっていた。その斜めの光の中で、商店街が違って見えた。シャッターの錆び方が、詳細に見えた。明かりのついている店の温かさが、際立って見えた。
川が、違って見えた。
毎日川沿いを歩いていたわけではなかったが、週に何度か歩いていた。九月の川は、八月より透明度が上がっていた。数字ではなく、目で見てわかった。川底の石が、九月に入ってからはっきりしていた。
山が、違って見えた。
緑が濃くなっていた。夏の緑と、秋に向かう緑は違う。しかし単純に季節が変わっただけではない何かがあった。緑の種類が変わっていた。五月に来た時より、在来種の緑が多く見えた。
桐島には、植物の知識がなかった。
しかしそう感じた。
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記事を公開してから、一週間が経っていた。
反響は、予想より大きかった。
ウェブサイトへのアクセス数が、桐島の過去の記事と比べて三倍以上だった。メールが百件以上届いた。ほとんどに返信できていなかった。
内容は、様々だった。
批判も多かった。「結論のない記事は記事ではない」「エデンズフィールの広告か」「ジャーナリズムの放棄だ」。
賛同もあった。「初めて正直に書いた記事を見た」「水無瀬に行ってみたい」「答えのない問いを提示することが、今必要だと思う」。
エデンズフィールに関する問い合わせも来ていた。「近くの店はどこですか」「飲んでみたい」「成分を教えてほしい」。
桐島は、それらを読みながら、自分の記事が何をしたのかを考えていた。
答えを出さなかった記事が、人に何かを考えさせた。それは確かだった。しかし何を考えさせたのか、全ての読者が同じことを考えているわけではなかった。
それで良かった、と桐島は思っていた。
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東京に戻る予定は、何度か変更していた。
八月の終わりに戻るつもりだった。九月の第一週になった。第二週になった。第三週になった。
水無瀬に居続ける理由を、桐島は自分に説明できなかった。
記事は公開した。追加取材の予定はなかった。次の案件を探す必要があった。東京に戻れば、次の仕事が見えてくるはずだった。
しかし、帰れなかった。
帰る気になれない、というより、まだここにいる必要がある気がした。何のために、とは言えなかった。しかし、まだだった。
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九月の第二週に、桐島はエデンズフィールに行った。
アデルがカウンターにいた。
「また来ました」と桐島は言った。
「知っています」とアデルは言った。
桐島は「それ、ずっと言いますね」と言った。
「ずっとそうだからです」とアデルは言った。
桐島はカウンターの椅子に座った。Mサイズのボトルを頼んだ。Sサイズから、いつの間にかMサイズに変わっていた。
「記事、読みました」とアデルは言った。
桐島は少し驚いた。「感想は」
「正確でした」とアデルは言った。
「結論がないと言われました」
「結論がないことが、正確だったということです」とアデルは言った。「あなたが判断できないことを、判断できないと書いた。それは正しいことです」
桐島はボトルを手に取った。飲んだ。温かくて、涼しかった。
「反響が予想以上でした」と桐島は言った。
「そうでしょう」とアデルは言った。「人は、答えのある話より、問いのある話に反応することがあります」
「なぜですか」
「自分でも考えられるからです。答えが書いてあれば、受け取るだけです。問いが書いてあれば、自分で考える」
桐島はその言葉を、しばらく考えた。「あなたたちも、そうやって広がっているんですか。答えを出さずに、問いだけを提示して」
「私たちは、問いも提示しません」とアデルは言った。「ただ、ここにいます。ここにいて、お茶を売っています。それだけです」
「それだけで、広がるんですか」
「川が澄んでいます」とアデルは言った。四度目だった。
桐島は少し笑った。「その言葉、何度も言いますね」
「何度でも言えます」とアデルは言った。「それが全てだからです」
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その日の帰り道、桐島は川沿いを歩いた。
九月の夕方の川は、光を斜めに受けていた。
桐島はいつもの場所で、足を止めた。
川を見た。
九月の川は、確かに澄んでいた。先月より、はっきりと澄んでいた。川底の石が、以前より細かく見えた。
桐島はノートを出して、今日の川の状態を書いた。
透明度。川底の見え方。水の色。
六月から記録してきたノートに、追加した。
記録を並べると、変化の軌跡が見えた。六月の川より、七月の川が澄んでいた。七月より八月が。八月より九月が。
一ヶ月ごとに、少しずつ変わっていた。
グラフにすれば、緩やかな右上がりの線になるはずだった。
桐島はノートを閉じた。
この記録を、どこかに発表するべきかもしれなかった。記事とは別に、データとして。環境の記録として。
考えが、また広がっていった。
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九月の第三週、桐島は田中ふじ江に最後の挨拶をしに行った。
東京に戻る前に、一度会っておきたかった。
田中の家の庭は、九月になってさらに植物が増えていた。夏の終わりの庭で、様々な植物が共存していた。
居間に通されて、お茶が出た。
エデンズフィールのお茶だった。空色の液体。
「お体の調子は」と桐島は聞いた。
「とても良いです」と田中は言った。「先月の検査でも、問題ありませんでした」
「外見の変化は続いていますか」
「続いています」と田中は言って、自分の手を見た。肌が、七月に会った時より、濃くなっていた。「髪も、目も」
田中の目を見た。
金色が、七月より深まっていた。
「怖くないですか、今も」と桐島は聞いた。
「怖くないです」と田中は言った。「むしろ、面白いと思っています」
「面白い」
「七十二年間、同じ体で生きてきました。こんな年齢になって、体が変わるなんて、思いもしなかった。面白いじゃないですか」
桐島は少し笑った。「前向きですね」
「死ぬ前に、不思議なことが起きた」と田中は言った。「それは幸運なことです」
「お子さんや、ご家族は」
「最初は心配していました」と田中は言った。「でも今は、元気だからいいと言っています。目の色が変わったことを、孫が面白がっていて」
桐島はノートに書いた。
「一つだけ聞いていいですか」と桐島は言った。「導師のことを、知っていますか」
田中は少し間を置いた。「名前は知りません。会ったこともありません。でも、いることは知っています」
「どんな存在だと思っていますか」
田中はしばらく考えた。「わかりません。ただ、この変化の始まりに、その人がいる。それだけ知っています」
「怖くないですか、知らない人が始まりにいることが」
「知らないことは、たくさんあります」と田中は言った。「医者も、なぜ腫瘍が消えたかを知りません。私も、なぜ体が変わっているかを完全には知りません。知らないことが多くても、今が良ければ、それで十分です」
桐島はその言葉を書き留めた。
帰り際、田中が玄関まで送ってくれた。
「桐島さん、また来ますか」と田中は聞いた。
「わかりません」と桐島は言った。「でも、来るかもしれません」
「来たら、お茶を淹れます」と田中は言った。
「ありがとうございます」
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菜摘との最後の面談は、九月の第三週の金曜日だった。
川沿いのベンチではなく、商店街の近くの喫茶店にした。前回と同じ店だった。コーヒーが濃くて、美味しかった。
菜摘は、七月の最初に会った時より、落ち着いていた。揺れていなかったわけではなかった。しかし揺れ方が整理されていた。流れるように揺れていた。
「記事を読みました」と菜摘は言った。
「どうでしたか」
「正確だと思いました」と菜摘は言った。「困惑しているという言葉が、そのまま使われていて。今も、困惑しています」
「付け加えることがあるとすれば」と桐島は言った。「今の状態は、どうですか」
菜摘は少し考えた。「困惑しています。それでも、ここにいます。それが今の正確なところです」
桐島はその言葉を書いた。
「誠さんは、どうですか」
「第五段階に入りました」と菜摘は言った。「外見が、また変わっています。でも、誠は誠でした」
「受け入れていますか」
「受け入れる、という言葉は、まだ使えない」と菜摘は言った。「でも、やめてほしいとは言えない。それが正直なところです」
桐島はノートを閉じた。「最後に、一つだけ。個人的な質問をしていいですか」
「どうぞ」
「水無瀬に来て良かったと思いますか」
菜摘は少し間を置いた。
「わかりません」と言った。「でも、来なければよかったとは思っていません。それは確かです」
「その違いは、大きいと思います」と桐島は言った。
菜摘は「そうかもしれません」と言った。
喫茶店を出て、二人で少し商店街を歩いた。
エデンズフィールの前を通った。ガラスの向こうで、アデルが客と話していた。
「あなたは、東京に戻るんですか」と菜摘が聞いた。
「戻ります。今週か、来週か」
「また来ますか、水無瀬に」
桐島は少し考えた。「わかりません。でも、来るかもしれません」
「来たら、エデンズフィールのお茶を飲んでください」と菜摘は言った。
「飲みます」と桐島は言った。
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東京に戻る前日の夜、桐島はホテルの部屋で荷物を整理していた。
四ヶ月分の荷物だった。
ノートが、何冊もあった。六月から九月まで、四冊になっていた。書き込みで膨らんでいた。川のデータ。インタビューの記録。思いついたことのメモ。夢の断片。
夢の断片、というページがあった。
七月の終わりに、夢を見た。川の夢だった。澄んだ川。岸辺に、銀髪の人物がいた。向こう岸に、誰かがいた。川を渡ろうとした。水が冷たかった。
そのページを読み返した。
川を渡ろうとした。
三ヶ月前に見た夢だった。渡れなかった夢だった。
渡れたのかどうか、今はわからなかった。
しかし、川に足を入れた。それは確かだった。
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最後の夜、桐島はエデンズフィールに行った。
閉店間際だった。アデルが片付けをしていた。
「最後の挨拶をしに来ました」と桐島は言った。
「明日、東京に」とアデルが言った。
「そうです」
「お茶、飲みますか」
「ください」
Lサイズのボトルを受け取った。渡してくれた時に、アデルが言った。「東京は遠いので」
以前も同じことを言われた。同じ言葉が、今日は違う重さで来た。
桐島はボトルを受け取りながら、「また来ます」と言った。今日は「わかりません」ではなく、「また来ます」と言った。
アデルは少し微笑んだ。「いつでも」
「一つだけ」と桐島は言った。「最後に聞かせてください」
「どうぞ」
「私のことを、どう見ていましたか。四ヶ月間」
アデルは少し間を置いた。「変わっていく人を見ていました」と言った。以前も同じ答えだった。
「どう変わりましたか」
「六月は、答えを探していました。今は、問いを持っています」と言った。これも以前と同じだった。
しかし今日、アデルはさらに言った。
「もう一つ」
「はい」
「六月は、ここにいませんでした。今は、ここにいます」
桐島は少し間を置いた。「どういう意味ですか」
「取材対象を見ていた。今は、水無瀬を見ています」
桐島はその言葉を、しばらく受け取った。
取材対象を見ていた。今は、水無瀬を見ている。
それは確かだった。六月の自分は、エデンズフィールを見ていた。七月の自分は、データを見ていた。八月の自分は、記事を見ていた。九月の自分は、水無瀬を見ていた。
水無瀬川を見ていた。水無瀬山を見ていた。商店街を見ていた。田中の庭を見ていた。菜摘の顔を見ていた。透の姿を見ていた。
見ていた。
「そうかもしれません」と桐島は言った。
「それが、始まりです」とアデルは言った。「見ることは、始まりです」
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ホテルに戻って、桐島はデスクに座った。
Lサイズのボトルを、デスクの端に置いた。
ノートパソコンを開いた。
新しいドキュメントを作った。
タイトルを入力した。
*水無瀬から*
タイトルを見た。
前回の記事のタイトルは「水無瀬で起きていること」だった。今日のタイトルは「水無瀬から」にした。
場所を示す言葉が、変わっていた。
水無瀬で起きていること、は外から見た言い方だった。水無瀬から、は内から発する言い方だった。
書いた。
*四ヶ月間、水無瀬にいた。最初は取材のために来た。最後まで、取材だったかもしれない。しかし四ヶ月の間に、取材以外の何かがあった。*
*川を見るようになった。毎日ではなかったが、川沿いを歩くようになった。川底の石が、少しずつ見えるようになっていくのを、記録するようになった。*
*山を見るようになった。朝の山と夕方の山が違うことを、知るようになった。緑の色が変わっていくことを、季節の変化だけではなく、別の何かとして感じるようになった。*
*人を見るようになった。菜摘さんの揺れ方が変わっていくのを見た。透さんの存在感が変わっていくのを見た。田中さんが庭の植物を増やしていくのを見た。アデルさんが、この街を好きになっていくのを見た。*
書いて、止まった。
読み返した。
これは記事ではなかった。記録でもなかった。
日記に近かった。
しかし書いた。
続けた。
*私は、人間とは何かという問いを、四ヶ月間持ち続けた。答えは出なかった。しかし問いを持つことで、見えるようになったものがあった。川が澄んでいくことが見えた。山に緑が戻ることが見えた。人が変わっていくことが見えた。街が変わっていくことが見えた。*
*見えることは、始まりだ。*
*アデルさんがそう言った。今の私には、それが正確だと思える。*
書き終えた。
保存した。
公開するかどうかは、まだわからなかった。
しかし書いた。
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翌朝、桐島はチェックアウトした。
荷物をまとめて、フロントに鍵を返した。
外に出ると、九月の朝の空気があった。
山からの風が、少し冷たかった。草の匂いがした。
桐島は商店街を通って、駅に向かった。
商店街を歩きながら、エデンズフィールの前を通った。
まだ開いていなかった。
しかし看板が出ていた。黒と空色の看板。今日の黒板に、チョークで書かれた字があった。
*本日のハーブ:オルトロス 夜明け前に摘んだ葉*
桐島は立ち止まって、その字を見た。
オルトロス。夜明け。
六月に来た時から、この黒板を何度も見ていた。今日、最後に見た。
桐島はキャリーケースを引いて、歩き出した。
川沿いの道を、駅に向かって歩いた。
川が見えた。
九月の朝の川。光が斜めに当たっていた。川底の石が、この朝の光の中で見えていた。
桐島は立ち止まった。
川を見た。
六月に来た時の川を思い出した。濁っていた。緑がかった灰色だった。川底が見えなかった。
今の川は、違った。
完全に透明ではなかった。しかし、六月とは違った。
石が見えた。水が、光を通していた。
桐島はノートを出して、今日の川の状態を書いた。
最後の記録だった。
書き終えて、ノートを閉じた。
川を見た。
流れていた。止まっていなかった。
桐島はキャリーケースを引いて、また歩き出した。
駅に着いた。
在来線のホームに立った。
電車が来るまで、少し時間があった。
桐島はホームから、水無瀬山の方角を見た。
山が、朝の光の中に立っていた。
緑が濃かった。
六月の山より、確かに緑が多かった。
電車の音が、遠くから聞こえてきた。
桐島はLサイズのボトルを、鞄から取り出した。
飲んだ。
温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。
この味を、東京でも覚えているだろうか。
覚えていると思った。
電車が、ホームに入ってきた。
桐島は乗り込んだ。
座席に座って、窓の外を見た。
水無瀬の街が、窓の外を流れていった。
商店街が見えた。川が見えた。山が見えた。
全部が、流れていった。
桐島は窓から目を離さなかった。
全部が、視界から消えるまで、見ていた。
トンネルに入った。
窓が暗くなった。
暗い窓ガラスに、桐島の顔が映った。
六月に来た時と、同じ場所に映った同じ男だった。
しかし、違った。
目の下の隈が、薄くなっていた。顔色が、六月より良かった。表情が、落ち着いていた。
桐島は自分の顔を、少し見た。
それから、目を閉じた。
水無瀬川の音が、耳の中に残っていた。
水が流れる音。石の上を渡る音。
その音を聞きながら、桐島は考えた。
次に書くべきことを、考えた。
記事ではないかもしれなかった。
しかし書くべきことが、あった。
水無瀬から、持ち帰ったものがあった。
川の記録。山の記録。人の記録。そして、問い。
人間とは何か。
文明とは何か。
自然とともに生きることとは何か。
答えは出なかった。
しかし問いを持っていた。
問いを持つことは、見ていることだ。アデルはそう言った。見ていることは、始まりだ、と。
トンネルを抜けた。
窓の外に、田んぼが広がった。
水が張られた田んぼが、空を映していた。
桐島は目を開けた。
その景色を見た。
見ながら、また考え始めた。
書くべきことが、少しずつ、形になっていった。




