エピローグ
## エピローグ
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十月の水無瀬は、秋になっていた。
山の稜線が、赤と橙と黄色に染まり始めていた。まだ全部ではなかった。緑の中に、色づいた部分が混じっていた。その混じり方が、毎日少しずつ変わっていた。
朝の空気は、九月より冷たかった。
川沿いを歩くと、息が白くなった。まだ完全には白くならなかったが、光の当たり方によっては、吐く息が見えた。
水無瀬川は、今月も澄んでいた。
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### 透
市役所の窓から、水無瀬川が見えた。
四階の窓から見える川は小さかったが、今朝の光の中で、川底の石の輪郭が見えた。六月に同じ窓から見た時、川底は見えなかった。
透は書類から目を上げて、川を見た。
十月の川は、九月よりさらに澄んでいた。
環境課の水質調査プロジェクトの最新データを、先週確認していた。透明度が、六月比で三十パーセント改善していた。BOD値が、さらに下がっていた。魚の種類が増えていた。来年度の予算申請は、木村係長が上の会議に通してくれていた。承認される可能性が高い、と木村は言っていた。
透は窓から目を離して、書類に戻った。
今日の書類は、道路補修の予算申請だった。内容は六月と変わらなかった。しかし処理しながら、別のことを考える余裕があった。以前は、書類の内容が頭に入りながら、余白がなかった。今は余白があった。
その余白の中で、川のことを考えた。来年度の調査計画を考えた。木村係長に提案したいことを考えた。
「鷺沼くん」
田所さんが声をかけてきた。
「はい」と透は言った。
「今日の昼、一緒に食べない?」と田所さんは言った。「あなたと話したいことがあって」
「いいですよ」と透は言った。
昼休み、食堂で向かい合って座った。
田所さんが「最近、どう?」と聞いた。
「良いです」と透は言った。
「本当に?」田所さんが透の顔を見た。銀色の髪。金色の目。「体の調子は」
「良いです。疲れないし、よく眠れる」
「それは良かった」と田所さんは言った。「最初、髪が変わってきた時、心配したんだよ。病気かと思って」
「病気じゃないです」と透は言った。「ただ、変わっています」
「そうだね」と田所さんは言った。「でも、変わっていく方向が、良い方向に見える。それが安心できる」
透はその言葉を、少し受け取った。
変わっていく方向が、良い方向に見える。
田所さんは、透の変化を毎日見ていた。危険だとは思っていない。おかしいとも思っていない。ただ、良い方向に見える、と言った。
「ありがとうございます」と透は言った。
「川の調査、続けているんでしょ」と田所さんが言った。
「続けています」
「川、最近きれいになってきたね。夫が言ってた。昔みたいになってきた、って」
透は「そうなんですか」と言った。
「夫も昔、あの川で泳いだから。懐かしいって言ってた」
透は父のことを思った。
父も、あの川で泳いでいた。父が死んで十六年が経っていた。父が泳いでいた頃の川に、少しずつ戻っていた。
「良かった」と透は言った。
それだけ言った。しかしその言葉に、多くのことが入っていた。
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夕方、透はエデンズフィールに寄った。
アデルがカウンターにいた。「いらっしゃいませ」と言った。
透はいつものテーブルに座った。
窓の外に、商店街が見えた。十月の光が、斜めに当たっていた。影が長かった。シャッターの並ぶ通りに、エデンズフィールの明かりが落ちていた。
お茶を飲んだ。
温かくて、涼しかった。
左手首の黒いリボンが、テーブルの上で光った。
透はリボンを見た。
第一段階のリボン。
次の段階がいつ来るかは、わからなかった。体が知る時に来る、とアデルは言っていた。今はまだ、来ていなかった。しかし来る気がした。
今は、今できることをしていた。
川を見ていた。山を見ていた。街を見ていた。水無瀬を見ていた。
水無瀬で生まれて、水無瀬にいる。
いたいと思っている。
それが今の透だった。
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帰り道、川沿いを通った。
十月の夕方の川は、光が斜めで、川底がよく見えた。
透はいつもの場所で足を止めた。
川を見た。
今日の川は、今まで見た中で一番澄んでいた。川底の石の模様が、はっきりと見えた。丸い石、平たい石、白い石、黒い石。水が光を屈折させて、石の上に揺れる光の格子を作っていた。
夢の中で見た川に、似ていた。
まだ完全には一致しなかった。しかし、近かった。確実に、近かった。
透は柵に手をかけた。
左手首の黒いリボンが、川の光を受けた。
父が泳いでいた川。透が子供の頃に来た川。透が毎日見ている川。
この川が、夢の川になる日が来る。
確信があった。
根拠は、毎日の変化だった。
透は川から目を離して、空を見た。
十月の空は高かった。雲が少なかった。山の稜線の上に、夕焼けが広がっていた。
赤と橙と、少しの紫。
その色が、川面に映っていた。
川が、空を映していた。
澄んでいるから、映せた。
透はしばらく、その景色を見た。
それから、上流に向かって歩き始めた。
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### アデル
朝の手入れを終えて、アデルは店を開けた。
十月の朝は、空気が澄んでいた。ハーブ園のエデニア・ノクティスが、朝露を受けて光っていた。実が熟していた。黒く、艶のある実が、光の当たり方によって銀色に輝いた。
今日の収穫分を、収穫した。実をそっと摘んだ。指の中で、小さな重さがあった。
血を与えた。植物が揺れた。
店に入って、お湯を沸かした。
今日のお茶を淹れた。空色の液体が、ポットの中で広がった。
カップに注いで、窓際に立って飲んだ。
窓の外に、商店街が見えた。十月の朝の商店街は、人が少なかった。老人が一人、ゆっくりと歩いていた。宅配のバイクが、遠くから近づいてきた。
今日も、誰かが来る。
透が来るかもしれない。菜摘が来るかもしれない。来たことのない誰かが来るかもしれない。
それで良かった。
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精神ネットワークに触れた。
世界中の庭師の声が、朝の感覚として流れてきた。
ロンドン。ラゴス。ソウル。サンパウロ。ニューヨーク。リヨン。
それぞれの街の朝が、それぞれの場所にあった。ロンドンの庭師が、テムズ川の水質がまた改善したと流した。ラゴスの庭師が、廃棄された土地に植物が戻ってきたと流した。ソウルの庭師が、新しい候補者と接触したと流した。
誠の声が届いた。
今日の誠は、穏やかだった。第五段階に入ってから、誠の声は変わっていた。落ち着いていた。確信に満ちていた。
*おはよう、アデル。*
*おはようございます。今日はどうですか。*
*学校で、生徒たちと川の話をした。昔の川の写真を見せたら、興味を持っていた。*
*良いですね。*
*子供たちが川に興味を持てば、川を守ろうとする。そういうことだと思う。*
アデルはその言葉を受け取った。
誠は教師だった。生徒に川の話をした。その生徒たちが、川を守ろうとするかもしれない。庭師でなくても、川に近づいていく。
楽園再造は、庭師だけがするものではないのかもしれなかった。
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導師から、今朝も感覚が来た。
*水無瀬の根が深くなっている。*
いつもと同じ言葉だった。しかし今朝の感覚は、いつもより少し違った。
深くなっている、という言葉の深さが、また増していた。
六月に来た時から、この言葉を何度も受け取っていた。毎回、深さが増していた。
アデルは受け取った。
*はい。深くなっています。*
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夢空間の話をするなら、今夜のことだった。
アデルは今夜の夢空間で、仮面を外したまま、共用エリアにいた。
先月から、仮面を外すようになっていた。
外すたびに、同じことを感じた。覆いがない。直接的だ。しかし同じだ。仮面があっても、なくても、アデルはアデルだった。
庭師たちが、それぞれの仮面をつけて、それぞれの場所から来ていた。
誠が来た。蛸の仮面。胸元に五本のリボン。
*今夜は、外しているんですね。*と誠が言った。
*先月から。*
*どんな感じですか。*
*同じです。でも、直接的です。*
誠の仮面が、考えるように少し傾いた。*そうか。私も、いつか外すのかな。*
*第五段階ですから、外せます。いつ外すかは、あなたが決めることです。*
*まだいい。*と誠は言った。*今は、まだここにいたい。仮面の中に。*
*それで良いです。*
導師が中央にいた。黒い猫の仮面。白いローブ。
アデルを見た。
仮面のないアデルを見た。
言葉はなかった。しかし感覚が来た。
認める、という感覚だった。
アデルは、その感覚を静かに受け取った。
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庭の端の川を見た。
今夜の川は、澄んでいた。
向こう岸に、誰かがいた。
透ではなかった。透は今はこちら側にいた。
別の誰かが、向こう岸に立っていた。
輪郭だけが見えた。細い人物だった。こちらを見ているようだった。
まだ仮面はない。まだローブもない。
しかし、見ていた。
川の向こうから、こちらを見ていた。
アデルは手を振った。
人影が、少し動いた。
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店の扉を開けた。
黒と空色の看板が、十月の朝の光の中に立っていた。
今日も、ここから始まる。
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### 菜摘
朝食の支度をしながら、菜摘は窓の外を見た。
水無瀬山が、十月の光の中に立っていた。
山の稜線が、少し赤みを帯びていた。紅葉が始まっていた。まだ全部ではなかった。しかし確実に、色が変わり始めていた。
台所でお湯を沸かした。
エデンズフィールのお茶の乾燥葉を、ポットに入れた。お湯を注いだ。空色の液体が広がった。
菜摘は今日のお茶を、二人分淹れた。自分とひかりの分。
誠の分は、淹れなかった。誠は今日は来ない日だった。
しかし誠が来る日は、三人分淹れた。誠はお茶は飲んだ。食事はほとんどしなかったが、お茶は飲んだ。そのお茶を、菜摘が淹れた。
その習慣が、いつの間にかできていた。
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ひかりを起こした。
「おはよう」とひかりが言った。眠そうな顔だったが、起きた。
「お茶、淹れてあるよ」と菜摘は言った。
ひかりがリビングに来て、お茶を飲んだ。「美味しい」と言った。毎朝言った。菜摘も毎朝「そうね」と言った。
「今日、美月ちゃんと放課後、川沿い歩く約束したんだけど」とひかりが言った。
「気をつけてね」と菜摘は言った。
「うん。最近、川にまた魚が増えてきたって、美月ちゃんが言ってた。パパから聞いたって」
誠が教えたのかもしれなかった。あるいは松本さんが。
「そうなんだね」と菜摘は言った。
「見てみたい」とひかりは言った。「魚」
「見られるといいね」
ひかりが頷いて、お茶を飲み干した。
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スーパーのパートは、今日は午後からだった。
午前中、菜摘はマンションの部屋で、デザインの仕事をした。
大阪を離れてから、ずっと止めていた仕事を、今月から再開していた。フリーランスで、小さな案件から始めていた。友人のデザイン事務所から仕事を紹介してもらった。水無瀬にいながら、データのやり取りだけで仕事ができた。
久しぶりのデザインの仕事は、最初は戸惑った。しかし手が動き始めると、以前と同じように動いた。体が覚えていた。
今日の仕事は、小さな店のロゴデザインだった。
パソコンの画面に向かいながら、菜摘は集中していた。
水無瀬に来てから、集中できる時間が長くなっていた。
誠のことを考える時間が減ったわけではなかった。しかし考えながら、別のことも同時にできるようになっていた。以前は、誠のことが頭の大部分を占めていて、別のことに集中できなかった。
今は、違った。
誠のことは、頭の中にあった。しかし場所を取りすぎていなかった。
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午後のパートから戻って、商店街を通った。
エデンズフィールの前を通った。
今日は入らなかった。
週に二回来ていたが、毎日ではなかった。入る日と入らない日があった。入らない日も、前を通った。看板を見た。それだけで、少し落ち着いた。
店が、そこにある。
それだけで、十分な日があった。
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夜、誠が来た。
今日は来ない日のはずだったが、来た。
「少し話せるか」と誠は言った。
「いいよ」と菜摘は言った。
二人でテーブルに向かい合って座った。
誠の外見は、また変わっていた。肌が、アデルの肌の色に近くなっていた。髪は完全に銀色だった。身長が、ドア枠を通る時に頭を下げるほどになっていた。眼鏡をかけた顔は、しかし誠の顔だった。
菜摘は誠の顔を見た。
誠の顔だった。
それが、今は体でわかった。
「学校で、生徒に川の話をした」と誠は言った。
「ひかりから聞いた」と菜摘は言った。「魚が増えてきたって」
「増えてきている。来月の調査でまた確認するけど」
「鷺沼さんが調べているんでしょ」と菜摘は言った。
「透くんが、よくやってくれている」
透のことは、菜摘もエデンズフィールで何度か見かけていた。名前は誠から聞いた。銀髪が増えて、目が金色になってきている若い男性。いつも窓際のテーブルで、静かにお茶を飲んでいた。
「あなたは」と菜摘は言った。「元気?」
誠は少し驚いた。菜摘が誠の体を心配する言い方で聞くのは、久しぶりだった。
「元気だ」と誠は言った。「疲れない。よく眠れる。学校の仕事も、以前より楽になった」
「そう」と菜摘は言った。「良かった」
良かった、と言えた。
以前は言えなかった言葉だった。誠が楽になったことを、素直に良かったと思えなかった。今は、言えた。
誠は菜摘を見た。「菜摘は?」
「元気よ」と菜摘は言った。「デザインの仕事、また始めた」
「聞いてた。ひかりから」
「細々とだけど」
「良かった」と誠は言った。
二人で、少しの間、黙っていた。
台所から、お茶の匂いがしていた。菜摘が昼間に淹れて、まだ少し残っていた。
「お茶、飲む?」と菜摘は言った。
「飲む」と誠は言った。
菜摘は台所に立って、お茶を温め直した。
二人分のカップに注いで、テーブルに持ってきた。
二人で向かい合って、お茶を飲んだ。
温かかった。
窓の外に、水無瀬山が見えた。
十月の夜の山は、暗く、静かだった。
誠が窓の外を見た。「山、紅葉し始めたな」
「そうね」と菜摘は言った。
「今年は、紅葉を見に行かないか。三人で」
菜摘は少し間を置いた。
「いいよ」と言った。
誠は少し笑った。
ひかりの部屋から、音楽が聞こえた。小さな音で、何かを聞いていた。
リビングに、二人でいた。
水無瀬の夜が、窓の外にあった。
それで、今夜は十分だった。
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### 桐島
東京のアパートのデスクで、桐島は書いていた。
水無瀬から戻って、三週間が経っていた。
書いているのは、記事ではなかった。
本だった。
正確には、本になるかもしれないもの、だった。出版社に話を持ち込んでいなかった。売れるかどうかも、わからなかった。しかしとにかく、書いていた。
テーマは、人間とは何か、だった。
四ヶ月間、水無瀬で感じたことを書いていた。川のこと。山のこと。エデンズフィールのこと。庭師のこと。菜摘のこと。田中ふじ江のこと。アデルのこと。透のこと。
答えは出なかった。
しかし問いを持っていた。
その問いを書いていた。
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デスクにLサイズのボトルがあった。
水無瀬を発つ前日に、アデルからもらったボトルだった。まだ残っていた。毎日少しずつ飲んでいた。
飲みながら、書いていた。
胃の痛みが、水無瀬にいる間から減っていた。東京に戻っても、続いていた。完全になくなったわけではなかったが、以前のように常にあるものではなくなっていた。
睡眠が、変わっていた。
眠れるようになっていた。以前は深夜まで起きていることが多かった。今は、十一時か十二時には眠れた。朝、目が覚めた時の体が、以前より軽かった。
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スマートフォンに、通知が来た。
ウェブサイトのアクセス数の通知だった。
「水無瀬で起きていること」の記事が、また読まれていた。公開から一ヶ月以上経っても、読まれ続けていた。SNSで誰かがシェアするたびに、アクセスが増えた。
コメントが、毎日届いていた。
今日届いたコメントを読んだ。
*記事を読んで、エデンズフィールに行きました。美味しかったです。*
*川が澄んでいくという話が、印象に残っています。どこかで、そういう川を見たことがあった気がします。*
*人間は本来どういう存在なのか、考えさせられました。答えはわかりませんが、考えることをやめたくない。*
最後のコメントを、桐島はしばらく読んでいた。
答えはわかりませんが、考えることをやめたくない。
それで良かった。
答えを持っていなくても、考えていれば、見ている。見ていることは、始まりだ。
桐島はコメントを閉じて、書きかけの文章に戻った。
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今日書いていたのは、川の章だった。
六月から九月まで、記録した川の変化を書いていた。
数字を並べた。透明度。BOD値。魚の種類。それらが、四ヶ月間でどう変わったか。
数字の後に、目で見た記録を書いた。
六月の川の色。七月の川の光の当たり方。八月の川底の石の見え方。九月の川が、夢の川に似てきた感覚。
書きながら、川沿いを歩いた時間のことを思った。
毎回、同じ場所で足を止めた。柵に手をかけた。川を見た。
見るたびに、少し変わっていた。
少しずつ変わっていくものを、毎日見ていた。それが、何かを変えた。
何を変えたのか、まだうまく言えなかった。しかし変わった。
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夜、桐島は水無瀬に電話した。
菜摘のスマートフォンに、かけた。
「桐島さん」と菜摘が言った。「どうしたんですか」
「少し聞きたいことがあって」と桐島は言った。「川の最近の状態を、教えてもらえますか」
「川ですか」菜摘は少し間を置いた。「ひかりが言ってたんですが、魚が増えてきているらしくて。先週、川沿いを歩いた時、底の石が前より見えた気がしました」
「そうですか」と桐島は言った。「ありがとうございます」
「本を書いているんですか」
「書いています」
「川のことも書くんですか」
「書いています」と桐島は言った。「川が澄んでいくことを、書いています」
菜摘は少し間を置いてから、「良いと思います」と言った。「誰かに知ってもらえると、良いと思います」
「菜摘さんは、今どうですか」と桐島は聞いた。
「困惑しています」と菜摘は言った。「それでも、ここにいます」
「それが正確なところですね」と桐島は言った。
「そうです」と菜摘は言った。「あなたは、また来ますか。水無瀬に」
「来ます」と桐島は言った。今度は迷わなかった。「本が書き終わったら、また来ます」
「待っています」と菜摘は言った。
電話を切った。
桐島はデスクに向かった。
書いていた文章の続きを、書いた。
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*彼らは地上を楽園に戻そうとしている。*
*私はその是非を、判断できなかった。*
*しかし、水無瀬の川が、今日も少し澄んでいることは、確かだ。*
*山に、緑が戻っていることは、確かだ。*
*そこに生きている人たちが、確かにいることは、確かだ。*
*楽園は、遠くにあるのかもしれない。*
*あるいは、もうここにあるのかもしれない。*
*あなたはどう思うか。*
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書き終えて、桐島は椅子にもたれた。
窓の外に、東京の夜があった。
街灯が並んでいた。車が通っていた。ビルの明かりが、空を照らしていた。
水無瀬とは、全く違う夜だった。
しかし今夜の桐島には、水無瀬の川の音が、耳の中に残っていた。
水が流れる音。石の上を渡る音。
その音を、三週間経っても、覚えていた。
Lサイズのボトルを手に取った。
残りが、少なくなっていた。
飲んだ。
温かくて、涼しかった。甘くて、苦かった。
この味を、忘れないと思った。
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水無瀬川は、今日も流れていた。
濁った川が澄んでいくのに、理由はない。
ただ、誰かが川のそばで静かに生きているだけだ。
楽園は、遠くにあるのかもしれない。
あるいは、もうここにあるのかもしれない。




