第9話 化け物の自己嫌悪
「っ、由奈……っ!!」
俺はわずかに残った理性を全力で振り絞り、逆に由奈の身体を壁へと押し返した。
戸惑う彼女の両手首を掴み、左右の壁に強く押し付ける。
一瞬たじろいだその隙に、俺は一気に顔を近づけ、彼女の唇を塞いだ。
「んっ……ふ、ちゅ……っ」
激しい体温の衝突。
由奈の舌がまるで生き物のように、俺の口腔内を這い回る。
呼吸の仕方を忘れてしまうほどの、果てしなく長いキスだった。
静寂が包むその場所で、二人の荒い吐息だけが重なり合った。
ずいぶんと長い時間が経った気がする。あるいは、一瞬だったようにも思う。
口を離しゆっくりと目を開けると、由奈の側頭部から生えていた角と肩口の羽は綺麗に消失していた。
気絶から目覚めるように、由奈がうっすらと目を開けた。
「由奈、大丈夫か……?」
息を整えながら、俺は彼女に問いかけた。
由奈はゆっくりと視線を上げ、ぼんやりと俺を見つめた。
「学人、私……」
徐々に意識がハッキリとしてきたのか、うつろだった彼女の瞳に生気が戻っていく。
それと同時に、自分がしでかした行いの記憶が鮮明に蘇ってきたのだろう。彼女の顔と耳が、みるみる赤く染まっていく。
「えっと……精気の補給が滞ると、結構大変なんだな! これからはもう少し小まめに——」
気まずさを誤魔化そうと、俺は努めて明るい声を意識した。しかし、
「ごめんっ!」
由奈は勢いよく頭を下げた。
「由奈……!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
そして彼女は俺の横をすり抜け、逃げるようにその場から駆け出していった。
静まり返ったその場所に、彼女の遠ざかる足音だけが虚しく響き渡る。
残された俺は、由奈の甘い熱が残る自分の手元を、ただ呆然と見つめていた。
◇
昼休みが明け、五時間目の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
だが、俺の斜め前の席は空席のまま。あの昼休みの一件から、由奈は俺の前から完全に姿を消した。
(どこ行ったんだよ……)
焦燥感に耐えかねた俺は、教卓に立つ教師の目を盗みながら、机の下でこっそりとLIMEを開いた。
学人『今どこ?』
俺のメッセージにすぐさま既読がつき、程なくして由奈からの返信が送られてきた。
由奈『保健室』
由奈『今日、先に早退するから』
画面に表示された素っ気ない文面に、俺の指先が強張る。
あんな事があった後で、気まずい思いをさせたまま帰らせるわけにはいかない。
『待ってくれ、俺も——』
必死の思いで画面にメッセージを打ち込んでいく。
だが、文字を打ち込むことに意識を割かれすぎていた俺は、近づいてくる足音に全く気づいていなかった。
「おい里中ぁ! 授業中に何コソコソやってんだ!」
「げっ……!?」
頭上から降ってきた怒声。慌ててスマホをポケットに突っ込むが、時すでに遅し。
教師の手が俺の手首をガッチリと掴み、容赦なくスマホを奪い取った。
「このスマホは預かる」
「あ、いや、これは——」
「言い訳は聞かん! 放課後、生徒指導室に取りに来い」
冷酷な宣告が響き渡り、教室中の視線が一斉に俺へと注がれる。
没収されたスマホを見つめながら、俺は深い絶望とともに頭を抱えた。
◇
放課後の生徒指導室。
説教を散々食らい、俺はようやく手元にスマホを取り戻すことができた。
すっかり人影の疎らになった校門を抜けながら、俺は焦る指先で画面を操作し、すぐさま由奈へとLIMEを送る。
学人『ごめん、スマホ没収されてて返信遅れた!』
学人『家には無事着いた?』
学人『今日のこと、本当に気にしなくていいから』
メッセージを重ねるが、既読は一向につかない。
「……はぁ」
夕焼けの色に染まる通学路で、俺は力なく溜息をつく。
スマホの画面を見つめたまま立ち尽くす俺の胸に、底冷えするような不安と焦燥感が、じわじわと広がり始めていた。
◇
そうは言っても、精気の補給を怠れば、また昼間のように由奈の体が限界を迎えて暴走してしまう。
その日の夜。胸を焦がす不安に突き動かされた俺は、由奈の部屋のバルコニーへと侵入した。
カーテンがぴっちり閉じられた窓を、コンコンと指先で軽く叩く。
「由奈、いるんだろ……?」
しばらく待っていると、カーテンと窓が開き、パジャマ姿の由奈が姿を現した。
その顔を見て、俺は思わず息を呑む。彼女の目元は、涙の痕で赤く腫れあがっていた。
「……大丈夫か?」
「……うん」
かすれ切った声で短く答える由奈に、俺は少しでも彼女の罪悪感を拭い去ろうと言葉を繋いだ。
「その……昼間のことだけどさ、俺は本当に気にしてないから。だから——」
「お願いだから……何も言わないで……っ」
俺の言葉を遮った由奈。その肩は小さく震えている。
やがて、彼女の目じりから涙がポロポロと零れだした。
「私が学人に言ったことも、やったことも……全部ハッキリ覚えてる」
溢れ出る涙を拭おうともせず、由奈は消え入りそうな声で言葉を繋いだ。
「自分が自分じゃないみたいで、すごく怖かった……っ」
自分の中にあるサキュバスの本能と、八枝由奈としての理性。
その狭間で、彼女の華奢な身体が激しく打ち震えている。
「私、ただの化け物だよ……。体質だからって、あんなこと許されるわけない……っ」
「化け物なんて……そんな言い方するなよ」
自分を傷つけるような言葉に耐えかね、俺は思わず強い口調で制止した。
だが、
「化け物だよ! 私には、化け物の血が流れてるんだよ……っ!!」
夜の静寂を切り裂くように絞り出された、切実な叫びだった。
由奈の瞳から、大粒の雫が次々と溢れ出していく。
「……っ、ごめん、大きな声出して……」
由奈は口元を覆い、小さく俯いた。
本能と感情に振り回され、疲弊しきったその姿は、今にも壊れてしまいそうに儚い。
「……由奈がどう自分を思おうが、俺にとっては大事な幼馴染だからさ」
これ以上自分を責めないでほしい一心で、俺は視線をまっすぐ彼女に向けて言葉を紡いだ。
「これからも、補給は俺を頼ってくれ」
俺の言葉に由奈はゆっくりと顔を上げた。しかしその瞳に宿っていたのは安堵ではなく、諦観のような、淡い悲しみの色だった。
「ありがと、学人……」
そう言って、由奈は自嘲気味に口元を歪めた。
「今からするキスは……命を繋ぐためだけの作業って、割り切ってね」
そう言い残し、由奈は震える唇をそっと差し出してきた。
重ね合わされた唇からは、いつものような熱気も、互いを求めるような甘い高鳴りも感じられない。
ただ生きるために精気を供給するだけの、冷たくて切ない交わり。
「ありがとう。お腹は満たされたよ」
体を離した由奈は、一度も俺と目を合わせようとはしなかった。
「今日はもう、帰って」
彼女はそのまま部屋の中へと戻り、パタンと窓を閉め、分厚いカーテンを閉じた。
カチャン、と冷たい音と共に、鍵が閉められる。
一人になったバルコニーには、重苦しい沈黙だけが残された。
◇
翌朝。
俺の家の玄関前で行われたキスは、昨日の夜と同じく淡々としたものだった。
必要な供給が終わると、由奈はさっと踵を返して歩き出した。
「あのさ由奈、今日のお弁当は——」
「……はい、これ」
俺の問いかけを遮るように、由奈は絞り出すような声で呟いた。
「一応作りはしたけど、迷惑じゃない? 私なんかが作るお弁当、怖くないの?」
「だから俺はそんな風に思ってないって!」
「もし迷惑だったら、いつでも止めるから」
そう冷たく言い捨てて、由奈はスタスタと歩いていく。
バス停までの道のりが、今日はやけに長く感じた。
◇
昼休みの教室。
にぎやかに雑談の声が飛び交う中、由奈は徹底して俺との接触を避けていた。
文庫本の中に意識を注ぐ彼女の姿を、俺は自分の席から遠く見つめることしかできない。
ふとした拍子に視線が交錯しそうになっても、すぐさま顔を背けられてしまう。
(最低限の補給はしてるから、倒れることはないだろうけど……)
窓の外の雲をぼーっと眺めながら、俺は胸の奥に刺すような痛みを覚えた。
自分を化け物だと思い込み、かたく心の殻に閉じこもってしまった由奈。
唇の触れ合いはあるというのに、俺達二人の心は、出会ってから今までで一番遠く離れてしまっているような気がした。




