第10話 愚かな判断
(由奈Side)
作業としての補給を学人と重ねるようになってから、あっという間に三週間が過ぎ去った。
サキュバスとしての本能に呑み込まれ、学人を押し倒してしまったあの日以来、私たちの間に横たわる冷たい空気は変わる気配がない。
学人はいつも優しく無難に対応してくれるけれど、その優しさが今の私には鋭い針のように突き刺さる。
私の存在そのものが、彼の日常を壊し、負担をかけているのだと思い知らされるからだ。
ある朝のリビング。
朝食のトーストを力なくかじっていると、向かいに座ったママが心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「由奈ちゃん……最近、元気ない?」
「え……? そんなことない、普通だよ」
「もしかして……ガク君と何かあった?」
ママの鋭い問いかけに、私の胸の奥がキュッと締まった。
サキュバスの暴走で学人を押し倒してしまったことも、それが原因で自己嫌悪に陥っていることも、口が裂けても言えるはずがない。
もし言ったらママは、サキュバスの血を分けた自分をきっと責めてしまう。
「別に、何もないよ。補給もいつも通りさせて貰ってる」
「由奈ちゃん……本当に?」
不安そうに尋ねるママの視線が、どうしようもない程に痛かった。
「私の事は心配しないで。ごちそうさま、もう行かなきゃ」
私はカバンを背負うと、急いで家を飛び出した。
◇
その日の放課後。
終礼のチャイムが鳴り響いた瞬間、私は誰とも目を合わせないように素早く荷物を鞄に詰め込んだ。
「あ、由奈——」
後ろから、私を呼ぶ学人の声が聞こえた。けれど振り返る勇気なんてない。
私と一緒にいるだけで、学人は無駄に気を使ってしまう。
彼に迷惑をかけないためには、サキュバスとしての本能を、自分一人の力でどうにかするしかないのだ。
私は逃げるように小走りで教室を飛び出し、校門を抜けると、いつものバス停とは全く反対の方向へと歩き出した
◇
しばらく歩くと、ギラギラとしたネオン看板が立ち並ぶ駅前の歓楽街に辿り着いた。
居酒屋のキャッチや、楽しそうに笑い合う男女。見知らぬ大人たちの熱気が、雑多に渦巻いている。
制服姿の私は明らかに浮いているが、大きく息を吸って無理やり心を落ち着かせた。
(……学人以外の男の人と、触れ合う努力をしなきゃ)
学人をこれ以上、私の都合による補給に巻き込む訳にはいかない。
もし、他の男の人からでも精気を貰うことができたのなら。
学人以外で、私の空腹感を満たせる男の人がいたら——
(学人を……私から自由にしてあげるためにも、今ここで頑張るんだ)
それがどれほど歪んだ選択であるか、頭では分かっていた。
それでも私は、自らを追い詰めるように見知らぬ人込みの中へと足を踏み出していった。
◇
しばらく歩いて、人通りの少ない路地裏に差し掛かる。
人混みの熱気と異臭に眩暈を覚えながら、私は壁に背を預けてその場に立ち尽くした。
見知らぬ男性たちの視線を感じるたび、皮膚が泡立つような激しい拒絶感と不快感が、全身を駆け巡っていた。
(やっぱり無理……帰ろう)
恐怖に耐えかね、きびすを返そうとしたその時。
派手な柄シャツを着た男の人が、私の前方に立ち塞がった。
「やあそこのカワイイお嬢ちゃん、高校生? 良かったら一緒にカラオケとかどう?」
「あ、あの……、すみません、急いでるので……っ」
「いいじゃん、固いこと言わずにさ」
拒む私を無視して、男の手が私の手首を強引に掴み、引き寄せようとする。
その瞬間、全身に強烈な悪寒が走り、吐き気が喉元まで押し寄せてきた。
まるで私のサキュバスとしての本能が、コイツじゃないと叫ぶかのように。
「ひ……っ!」
喉がヒュッと鳴り、声が出なくなる。指一本すら動かすことができない。
自分の浅はかさを呪わずにはいられなかった。
呼吸の仕方すら思い出せない。それほどに頭は真っ白になっていたが、この期に及んで私の心はただ一人の名前を叫んでいた。
――学人、助けてっ!
その時だった。
「由奈、帰るぞ」
怒気を孕んだような低い声が、路地裏の淀んだ空気を一瞬で切り裂いた。
聞き覚えのある、けれどいつもよりずっと険しいその声に、私の意識が強制的に現実へと引き戻される。
次の瞬間、私に絡んでいた男の腕が乱暴にはじき飛ばされた。
そして先ほどまでの不快で粘りつくような感触とは違う、熱を帯びた硬い指先が、私の手首を確実に掴んだ。
それは紛れもなく、学人の温もりだった。
「誰だお前? 人が話してる途中に――ッ!」
憤慨した男が学人に掴みかかろうとするが、学人はそれを軽くいなした。ただ邪魔なゴミを取り払うかのような、淡々とした動作。
学人は男を一瞥もしなかった。その瞳は、私だけを射抜くように見つめている。
「……行くぞ」
学人は私の手をきつく握りしめると、男の言葉が続くのを待たずに背中を翻した。
(なんで……? どうして、学人が……!?)
思考がショートして、何が起きているのか理解できない。
けれど、学人の掌から伝わってくる体温とじっとりした手汗が、妙に私を安心させた。
ぎゅっ、と彼の手を握り返す。
繋がれた手から、まるで命綱を掴んだかのような安堵が流れ込む。私の足は、言われるがままに動き出していた。
私と学人は、ネオンの光が渦巻く歓楽街を、無我夢中で駆け抜けた。
彼の手は私の手を絶対に離さなかった。まるで私をどこかへ連れ去ってしまうかのように。あるいは、もう二度と離さないと主張するかのように。
周囲の景色が滲んでいく。
あんなに怖かったはずの路地裏が、今は遠い世界の出来事のように思えた。
街の喧騒を置き去りにして、私たちはただ、一心不乱に走り続けた。




