第5話 二人きりのバルコニー
その日の夜。
自室のベッドに転がった俺は、スマホでウェブ漫画のページをめくっていた。
突然スマホがブブッと震え、画面上部にLIMEの通知が飛び込んできた。
送信者の名前は、由奈。
由奈『起きてる?』
由奈『もし迷惑じゃなければ、寝る前に補給をお願いしたいんだけど、いいかな』
控えめな文面から、画面の向こうで遠慮がちにスマホを握りしめている由奈の姿が目に浮かんだ。
俺は息をひとつ吐き出すと、短く返信を打った。
学人『窓開けて』
スマホをベッドに放り投げ、そのまま窓際へと向かう。
昼間の濃厚過ぎるキスの感触が、瞬時に脳内をよぎる。脈拍がどんどん跳ね上がっていくが、変に狼狽える姿は由奈に見せたくない。
窓を開けると、俺は夜の冷たい空気を肺一杯に吸い込んだ。
俺の窓から八枝家のバルコニーまでの距離は、ほんの一メートルほど。
小学生の頃は、この窓を飛び越えて何度も由奈の部屋で遊んだ。
不意に向かいの部屋の窓が静かに開き、薄いピンクのパジャマに身を包んだ由奈が姿を見せた。
ドライヤーを当てたばかりらしいサラサラの黒髪が、夜風にふわりと揺れている。
華奢な鎖骨が、パジャマの胸元からチラリと覗く。昼間の制服姿とはまるで違う、無防備でプライベートな幼馴染の姿に、俺は思わず息を呑んだ。
「……学人」
夜の静寂に溶け込むような、小さく可憐な声が俺の鼓膜をくすぐった。
「よう」
「ごめんね、こんな夜遅くに……」
由奈は申し訳なさそうに身を縮こまらせ、パジャマの袖をぎゅっと握りしめている。
「俺、そっち行くよ」
「えっ」
由奈が目を丸くした瞬間、俺は窓枠に手をかけ、向かいのバルコニーへと身体を躍らせた。
着地の音が夜の空気を震わせる。
「あ、危ないよ学人! 落ちたらどうするの!?」
一メートル程度の距離とはいえ、ここは二階だ。パニックになりかけている彼女の焦り顔がおかしくて、俺は思わず口元を緩めた。
「昔はよくこうやって互いの家を行き来したよな」
「そりゃあ、そんな時代もあったけど……! もう私達、あの頃みたいな子供じゃないんだよ!」
「でも、玄関から行って由奈の家族と顔を合わすのもなんか気まずいし……迷惑じゃなければ、これから補給のときはこのスタイルでいこう」
「迷惑とかじゃないけど……本当に気をつけてよ? 絶対落ちないでね!?」
必死な顔で釘を刺してくる由奈。
至近距離から漂う甘い香りに、俺の心拍数は上昇を続ける。
「じゃあ、学人……お願い」
「お、おう……」
由奈は俺の目の前で、長いまつ毛をスッと伏せて目を閉じた。
月光に照らされたその顔は、俺の乏しい語彙では言い表せないほど、綺麗だった。
生唾を飲み込みながら、震える手をそっと彼女の肩に添える。
指先から伝わる緊張と、パジャマ越しの温もりに、心臓が爆発しそうなほど高鳴った。
顔を近づけ、ゆっくりと彼女の唇に重ねる。
――ちゅ、くちゅ。
今まで経験した『補給』は、どれもサキュバスの生存本能に突き動かされた由奈による強引なものばかりだった。
落ち着いた状態の由奈と交わすキスは、これが初めてだ。
静かで、どこまでも優しい接触。
それ故に相手の熱も、唇の柔らかさも、ダイレクトに脳の奥深くまで伝わってくる。
「――ふぁ、んっ」
由奈の吐いた甘い息が、俺の口腔を満たしていく。
とろけるような感覚に、思考が白く染まりかける。
俺の理性の崩壊が間近に迫ったその時――ちゅ、と小さな音を立てて、由奈の方からそっと唇が離れた。
「……ありがと、学人」
うっすらと目を開けた由奈の頬は、熟れたイチゴのように真っ赤に染まっていた。
上目遣いで俺を見つめてくるその瞳には、熱っぽい潤みが残っている。
「その……空腹は満たされたか……?」
裏返りそうになる声を落ち着かせつつ、俺は手汗を握りしめながら平静を装った。
「……うん。大丈夫、だと思う」
由奈は自分の唇にそっと指先を当て、確認するように呟いた。
「また必要になったら、遠慮しないでいつでも言えよ」
「……うん」
夜風が二人の間を吹き抜ける。
バルコニーに残された甘い余韻と、収まる気配のない心臓の動悸に耐えながら、俺はただ目の前の幼馴染から目を逸らすことができずにいた。
◇
補給を終えた後のベランダで、俺と由奈はいくつかの『取り決め』を設ける話し合いをした。
定期的な補給は、朝に俺の家の前で一回と、夜に由奈の家のバルコニーで一回。それをいつものルーティーンとして、それが難しい時は都度調整という形になった。
学校で空腹が発動しそうな時は、互いに時間をずらして例の場所で合流し、そこで補給を行う。
そして一番大事な共有事項が、俺に対して負い目を感じたり、遠慮をしないこと。
これに関してはすぐには難しいと思うが、頑張って慣れてもらうしかないだろう。
こうして、俺と由奈の歪で甘やかな関係は、本格的にスタートを切った。




