第4話 ここは一つ、現状維持で
高校生活二日目。
神聖な学び舎で、俺は特大の不純異性交遊をぶちかましていた。
ひとけの無い備品置き場で、幼馴染の由奈によって壁に押し付けられながら、強引に唇を奪われている。
「キス、もっと……」
くちゅ、じゅぷ――と、淫らな水音が、鼓膜を介さず脳へ直接響いてくる。
柔らかな唇の感触。薄目を開ければ目の前に広がる由奈の顔。そして普段の姿からは想像もつかない、情熱的な痴態。
俺の全身の体温が急上昇し、脳の限界値はあっけなく吹き飛んでいた。
「ん……っ」
ちゅぷ、という水音を最後に、由奈の唇がゆっくりと離れていく。
俺は壁に背中を預けたまま、肩で荒い呼吸を繰り返した。
唇には柔らかな感触と熱い湿り気が残っており、頭がぼんやりと麻痺している。ずっと口を塞がれて、どうやら脳が軽い酸欠状態らしい。
(終わった、のか……?)
「っ……あ……!」
我に返った由奈が、俺の胸元から飛び退いた。
手で口元を覆い、真っ赤に染まった顔で俺を見つめてくる。
「ご、ごめんなさい! 私また、学人に……こんな……っ!」
「い、いや気にするな! 俺なら大丈夫だから!」
だが、由奈の瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていった。
「本当にごめん……お腹が減ると、なんか頭がふわーってなって……我を忘れちゃって……」
細い肩を小さく震わせ、うっすらと涙を浮かべる由奈。
「もう嫌だ、私……っ」
自分ではどうしようもない、サキュバスの本能。振り回されている彼女が、一番苦しくて、一番怖いはずなのだ。
彼女の消え入りそうな声と悲痛な表情に、俺の胸がギュッと締め付けられる。
「そうは言っても、命に関わることなんだから仕方ないって。俺は全然気にしてないから」
「ありがと……」
由奈は制服の袖で目元をゴシゴシ拭うと、意を決したように俺の目を見つめた。
「あのね、学人」
「ん?」
「今朝も言ったけど……この関係、もし学人が本当に嫌になったら、いつでも言っていいから」
「……え」
「べつに……学人じゃなくても、私……」
俯いたままの由奈。今の彼女に掛けてやれる言葉を必死に探そうとするが、俺の乏しい語彙と女性経験で正解にたどり着けるはずもなく。
「私、教室戻るね。今日はありがと」
と言って、由奈はパタパタとその場を駆け出していった。
一人残された備品置き場。
冷たい空気の中で、俺は自分の唇にそっと指先を触れさせた。
(学人じゃなくても――)
由奈のことだから、俺に負担をかけまいと気を使ってそう言ったのだろう。
だがその言葉は、俺の胸の奥をやけにチクチクと刺した。
◇
午後の授業中、教師の喋る声を右耳から左耳に流しながら、俺はボーッと空を見上げていた。
頭の中で、先ほど由奈から言われた言葉が何度も何度もループする。
実際、由奈への補給は必ずしも俺である必要は無いのだろう。この高校生活で由奈に素敵な彼氏でも見つかれば、俺のお役は御免だ。
だが、それまでの間だけでも、俺の事を頼って欲しい。そう思うのはきっと、幼馴染のささやかな矜持からだろうか。
前方に座る由奈の後ろ姿を見つめる。
彼女は何事もなかったかのように背筋を伸ばし、淡々と黒板の文字をノートに書き写していた。
どこか他人を寄せ付けない、いつもの凛とした雰囲気。
さっきまで俺の首に手を回し、涙目になりながら熱い舌を絡めてきた少女と同一人物とは、到底思えなかった。
(由奈の考えてること……分からねぇ)
俺に気を使っての言葉なのか、あるいは俺以外の男でもいいと本心から思っているのか。
考えても答えなんて出るはずもなく、俺の思考はグルグルと迷走を続けた。
◇
一日の終わりを告げるチャイムが鳴る。
由奈は何かに追われているかのような手際で、いそいそと教科書類を鞄にしまい込んでいた。
そして一言も発することなく、彼女はサッと席を立った。
「あ、おい……!」
呼び止める隙すら与えられない速さだった。
俺も急いで自分の荷物を鞄に突っ込むと、クラスメイトの視線を振り切るようにして彼女の後を追った。
校門を抜け、バス停へと続く道を走る。
停留所には、ぽつんと一人で佇む由奈の姿があった。
「ハァ、ハァ……由奈」
俺の声に由奈はびくっと肩を揺らし、驚いたように振り返った。
「あ……学人」
「そんなに急いで走らなくても、バスが来る時間は変わらないだろ」
少し意地悪な言い方になってしまったかもしれない。
息を整える俺に、由奈は気まずそうに視線を落としながら、こう言った。
「だって……私が学人と一緒に歩いてる所を他の人に見られるの、あんまり良くない気がして……」
「……なんで?」
「もし変に噂とか立てられて誤解されちゃったら……学人にも迷惑が掛かるから」
消え入りそうな声で、ぽつりと呟く由奈。
(迷惑なんかじゃない――)
その言葉が、喉元まで出かかった。
だが、ここで必死に否定するのもどこか変な気がして、俺は結局何も言えなくなってしまった。
開いた口をそっと閉じ、俺達は無言のままバスを待ち続けた。
しばらく後にやってきたバスに、俺と由奈は揃って乗り込んだ。
車内でも俺と由奈の間には重苦しい沈黙が漂っていた。お互いに吊革を握ったまま、視線が交わる事も無い。
すぐ隣に由奈がいるのに、どこか遠くに離れていってしまうような感じが、俺の胸をじわじわ締め付ける。
やがてバスは、俺たちの住む閑静な住宅街へと辿り着いた。
バスを降りて、見慣れた光景の道を並んで歩き始める。ここから互いの家までは、徒歩で五分ほど。
静けさに包まれた住宅街の中を、二人の足音だけがカツカツと響く。
家が近づくにつれ、このまま今日が終わってしまうことへの焦りが胸の中で大きく膨らんでいった。
互いの家が見えてきたタイミングで、俺は意を決して由奈に声をかけた。
「由奈」
足を止めた俺に合わせて彼女も立ち止まると、不思議そうに振り返った。
「俺じゃなくてもいい、みたいな事さっき言ってたけど」
由奈の身体がピクッと強張った、ように見える。
彼女は黙って俺の次の言葉を待っていた。
「何ていうか……そんな寂しいこと言うな」
「へ……?」
思いがけない言葉だったのか、由奈が素っ頓狂な声を上げる。
「俺だけが由奈の秘密を知ってるみたいな特別感、フツーに嬉しいから」
口に出した瞬間、猛烈な熱が顔面に集まっていくのが分かった。
(うわ……俺いまとんでもなく恥ずかしいこと言ってる気がする……!)
手近な穴があったら入ってしまいたい。そう思うくらいには、自分の言葉を後悔した。
だが一度転がり始めた言葉は今更止められず、俺は真っ赤になっているであろう顔を誤魔化すように、一気に言葉を捲し立てた。
「それに! 由奈がその体質のせいでロクでもない男に引っかかって、傷つくような事でもあったら、幼馴染として悲しい」
「学人……」
「だから……しばらくは現状維持でいこうぜ、っていう、提案、です……」
そう言い切った俺だったが、恥ずかしさのあまり視線は明後日の方向へと逸れた。
キモいと思われたらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。
――ふふっ。
静かな路上に、鈴のように軽やかな笑い声が弾けた。
「……え?」
驚いて視線を戻すと、由奈が手で口元を押さえながら、目を細めて笑っていた。
久しぶりに見る、彼女の笑顔だった。
昔は毎日のように隣で見ていたはずの、あの屈託のない笑み。
そうだった。壁ができる前の由奈は、こんな風に柔らかく笑う奴だったんだ。
「優しいね、学人は」
由奈は俺と視線を合わせると、少しだけ首をかしげながら微笑んだ。
「今日みたいに、また色々と迷惑かけるかもしれないけど……」
スゥ――と、少しだけ空気を吸い込む音がした後、彼女は続けた。
「引き続き、よろしくお願いします」
夕日に照らされた彼女の笑顔と、素直な言葉。
俺の心臓は、小学生がイタズラしたメトロノームのように暴れまわっていた。




