第3話 不純異性交遊in校内
洗面所の鏡の前で、俺はこれでもかというほど入念に歯を磨いていた。
普段の倍、いや三倍近い時間をかけ、仕上げの洗口液からフロスまで完璧にこなす。口内に残る雑菌を駆逐せんほどの勢いだ。
もし今後、由奈から突発的な「補給」を求められた時。口の中は最低限の清潔を保っておきたいという、せめてもの男心だ。
ひと通り準備を終えたところで、インターホンが鳴り響く。心臓が跳ねるのを感じながら、俺は玄関へと急いだ。
今日から二人一緒に登校することに決めた俺達。
ドアを開けると、そこには真面目に制服を着こなす由奈が立っていた。
「おはよ、学人」
「お、おはよう、由奈」
あまりにもいつも通りな、冷静かつそっけない態度。
昨日目の当たりにした情熱的な姿や、美奈さんから明かされた衝撃の事実、そして唇に残るあの感覚――それらが全て、俺の欲求不満が見せた夢だったのではないかとさえ思える。
俺と由奈は二人並んで、バス停までの道を歩き出した。
俺達の間に気まずい沈黙が流れる。
何か、何か話さねば……そう思う俺だったが、先に沈黙を破ったのは由奈だった。
「昨日は、その……ごめん、色々と」
俺と視線を合わすことなく、前を向いたまま小さな声で。
チラリと彼女の横顔を見ると、耳の先端がほんのり赤く染まっている。
(ああ……やっぱり夢じゃなかったんだ……)
俺は由奈の言葉に対し、努めて明るい声で答えた。
「いや、気にするな! 命が掛かってるんだから仕方ない」
「もし学人が嫌なら……いつでも言ってくれていいから」
由奈は俯き、自分の靴先を見つめながらポソリと続ける。
「私、自分で何とかするから……」
「それはダメだ」
考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。
「あ、いや、変な意味じゃない! もし他の男を探すにしても、世の中の男全員が全員安全なヤツとは限らないだろ」
はっきり言って、由奈はめちゃくちゃに可愛い。それでいてコミュ障だ。
そんな彼女が「私に精気をください」なんてその辺の男に声をかけたら、一体どうなる。
もしそいつが危険なヤツだった場合、どんな目に遭わされるか知れたものじゃない。
……などという理由を必死に心の中で並べる俺だったが、結局の所本当は、由奈が他の男とそういう行為に至ることについて、想像しただけで胸が張り裂けそうになるのだ。
「だから、なんというか……本当に『この人だ』って思える男と出会うまでは、俺で我慢しとけ」
由奈はにわかに歩調を緩め、一瞬だけ俺の事を見た。
その後ぎこちなく視線を泳がせ、そして小さく頷いた。
「……うん、そうする」
消え入りそうな声で、そんな言葉を返される。
「あ、そうだ。LIME……交換しておかない?」
ポケットからスマホを取り出しながら、由奈が言った。
「もし急に体調が悪くなった時、学校で学人を呼べるように……連絡手段、あった方が良いかなって」
「確かに。命に関わることだし、連絡はすぐに取れた方が安心だな」
俺も慌ててスマホを取り出し、画面に表示されたQRコードを読み取る。
『由奈』というシンプルな名前が画面に表示され、無事に登録が完了した。
中学の三年間、ずっと遠い存在だった幼馴染の連絡先。それがこんな形で自分のスマホに保存されたことに、何かくすぐったいものが込み上げる。
「ありがと……あ、あと……」
スマホをポケットに仕舞い直した由奈が、上目遣いでこんなお願いをしてきた。
「手、繋いで貰ってもいい……? 学校に着いてからじゃあれだし、出来る時に少しでも補給しておきたくて」
勇気を振り絞って言ってくれたのが、その表情から伝わってくる。
「あ、ああ、もちろん! その為に俺がいるんだから遠慮するな!」
俺は平静を装いながら、右手を差し出した。
由奈は少しだけ躊躇う素振りを見せた後、そっと自分の小さな手を重ねてきた。
指と指がそっと絡み合う。俗に恋人繋ぎなどと言われている、そういうやつだ。
(落ち着け俺……2、3、5、7、11、13……)
跳ね回る心臓から意識をそらそうと、俺は頭の中で素数を数えることに集中した。
だが次の瞬間。由奈が絡めた指の力を強め、そのまま握りしめられた。
(嗚呼……素数って、何だっけ)
手のひらから伝わってくる幼馴染の体温と、指先の柔らかさ。パニックを起こした俺の脳は、頭の中のあれこれを一時的に忘却の彼方へ放り投げてしまった。
バス停までの数分の道のりが、まるで永遠のように長く感じられる。
気付けば俺達はバス停に辿り着いていた。由奈の方から、スッと手がほどかれた。
「……ありがと」
「お、おう……」
指先の余熱を惜しむように、俺は自分のポケットの中で手を固く握りしめた。
間もなくやってきたバスに乗り込む。あいにく優先席しか空いておらず、俺と由奈は吊革に掴まった。
二人の間に漂う気まずさと緊張感はそのままに、俺達の乗ったバスは高校前の停留所に到着した。
校門をくぐった所で、後ろから「学人!」と元気な声がかけられた。
「おう、おはよう大樹」
声をかけてきたのはクラスメイトの的場大樹。明るくて声の大きい奴だ。
初対面の人間から何かと怖がられがちな俺にも対等に接してくる彼とは、妙にウマが合った。
「てか、学人、お前……!」
大樹は俺と由奈の顔を交互に見比べ、目玉を丸くしながら尋ねた。
「え、ウソだろ? 八枝さんと学人って、えっ、そういうことなの……?」
「……っ!」
大樹の大きい声に反応して、隣の由奈がロボットのようにかちこちに固まった。
人見知りが発動し、思考停止に陥っている様子だ。
「大樹お前、なにか勘違いしてるぞ。俺と由奈はただの幼馴染で、家が近いから同じ時間のバスで一緒に来てるだけだ」
「そ、そうだよな! お前は高校入学二日目から彼女と一緒に登下校なんてリア充ムーブかます奴じゃないよな!」
「今サラっとバカにされたか?」
「いやービビったぜ学人! ごめんね八枝さん、変な勘違いしちゃって」
大樹は胸をなでおろし、豪快に笑いながら俺の肩をバシバシと叩いた。
(あ、あぶない……)
悪気はないのだろうが、大樹は声がデカい上に口も軽い。
もし彼に変な噂でも流されたら、由奈にとっては不利益しかもたらさないだろう。
(とりあえずコイツの前でだけは、由奈との関係を怪しまれないようにしないとな……)
◇
四時間目の授業中。
前方の席に座る由奈の様子がおかしい。背中を極限まで小さく丸め、時々小さく震えているように見える。
その様子を心配しながら見ていたら、突然ポケットの中でスマホがブブッと震える。
教師の目を盗んでコソコソとLIMEを開くと、たった今送られてきた由奈からのメッセージが表示されていた。
『助けて』
……突如発生した緊急事態に、俺の背中を緊張の汗が伝う。
チョークが黒板を叩くリズミカルな音が、焦燥感をいたずらに煽り立てた。
現在の状況を俯瞰するよう、俺は努めて冷静さを取り戻そうと足掻く。こういう時こそ素数だ。
17、19、23、29――。
チャイムが鳴るまでおよそあと5分、といったところか。
あれ。5って、素数だっけ。
◇
やがて待ちわび過ぎたチャイムが鳴って、俺は真っ先に由奈の席へと駆け付けた。
「由奈、ほら。お昼一緒に食べようぜ」
俺は由奈の手を引いて立ち上がらせると、そのまま彼女を引っ張るようにして教室を出た。
はたから見れば相当親密な間柄に見えるのかもしれない、と一瞬脳裏をよぎったが、そんな事を気にしている場合ではなかった。
横を走る由奈は、荒い息を吐きながら苦しそうな顔をしている。
「学人……っ」
「耐えろよ由奈、人目につかなそうな場所を探すから」
昼休みの校内は、弁当を持った生徒たちであちこち賑わっていた。
果たして、人目を完全に避けて『補給』が出来るような場所なんて、この学校のどこかに存在するのか――?
「三階の生物教室横の……っ」
「えっ、」
由奈は途切れ途切れの声で、俺の腕にしがみつきながら呟いた。
「そこ、壊れた備品置き場みたいになってて……普段、あんまり他の人、来そうにない、から……っ」
「わ、分かった! 急ぐぞ!」
俺は由奈の手を強く握り直し、階段を駆け上がった。
廊下の喧騒を抜けて三階の奥へ。由奈の身体から伝わる熱気に、俺の焦燥感は一気に跳ね上がっていった。
たどり着いたその場所は由奈の言っていた通り、古いカラーコーンやパイプ椅子などのガラクタが放置されている、薄暗い所だった。
埃っぽくて、普通の生徒が昼食を摂る場所としてはまず選ばれなさそうなロケーションだ。
「ここなら大丈――ぶっ!?」
安堵の息を吐きかけた瞬間、胸元を強い力で掴まれ、視界が大きく揺れた。
背中が冷たい壁に押し付けられると同時に、俺の唇は強引に奪われた。
「んむっ……あ、ん……っ」
サキュバスの生存本能をむき出しに、由奈は俺の首筋に両手を回し、爪が食い込むほど強くしがみついてくる。
くちゅ、と甘く湿った音。
「ふ……っ、……がくと、ぉ……にげちゃ……だめ……っ」
すがるような熱い吐息とともに、熱い舌が口腔内へと侵入してくる。
俺の上顎を、粘膜を、由奈の舌が執拗に舐め回してくる。彼女の熱と唾液の甘さが、一瞬で俺の口腔内を満たした。




