第2話 サキュバスの覚醒
どれだけの時間が経っただろうか。
深くて濃厚な由奈とのキスは、ほんの数秒のようにも、永遠のようにも感じられた。
口内を隅々まで舐められ、これ以上は頭がどうにかなりそうだったその時。俺の後頭部を強く押さえつけていた由奈の手から、すっと力が抜けた。
「ふぁ……んっ……」
どこか名残惜しそうな声と共に、唇が離れる。
由奈の荒かった呼吸が徐々に落ち着きを取り戻していき、うつろだった瞳にハッキリとした光が戻ってきた。
そして次の瞬間――彼女の目がカッと限界まで見開かれる。
「ひゃああっ!? わ、わたし、今、何をしてっっ!!?」
正気に戻った彼女は顔面を真っ赤に染め上げると、悲鳴を上げながら全力で俺の胸を突き飛ばした。
「ぶほっ!?」
不意を突かれた俺は、思わず後方に尻もちをついた。
「そ、それは俺の台詞だ! いきなり、こんな……っ!」
激しく脈打つ胸を押さえながら、俺は由奈に精一杯の抗議の声を上げた。
「私から説明するわ」
混乱が極まる部屋の中で、それまで俺達を静観していた美奈さんが、妙に落ち着いた様子で口を開いた。
「由奈ちゃん。あなたにはサキュバスの血が四分の一流れているの」
「「サキュバス!!?」」
俺と由奈の声が完璧にハモった。あまりにも突拍子のない単語の登場に、部屋の空気が凍りつく。
「由奈ちゃんにはサキュバスの特徴が出なかったから、普通の人間として育つかなって思って黙ってたんだけど……まさか高校生になるこのタイミングで覚醒しちゃうなんて、ママの誤算だったわ」
「さっきから何言ってるのママ? 冗談なら笑えないよ!?」
由奈が顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
当然だ。実の母親からいきなり「お前は淫魔の血を引いている」などと言われて「はいそうですか」と納得できる高校一年生など、この世に存在してたまるか。
「仕方ないか……由奈ちゃんには隠しておくつもりだったんだけど」
美奈さんはおもむろに、自身の前髪を軽くかき上げた。
すると、
――ニュッ、と。
側頭部の皮膚を押し分けるようにして、黒く艶やかな一対の角が生え出してきた。
「「!!??」」
俺も由奈も、目を見開いたまま絶句した。
手品でもCGでもない、目の前で現実として起きている怪奇現象に、声すら出ない。
「これで信じてくれた? ママのママ……つまり由奈ちゃんのおばあちゃんが本物のサキュバスで、ママはハーフサキュバスなの」
頭の角を撫でながら、美奈さんは困ったように微笑む。
「だから、言うなれば由奈ちゃんはクォーターサキュバスってところかしら」
「いやいやいや、ママ……サキュバスとか、そんなの急に言われてもワケ分かんないよ。私は一体どうすればいいの?」
ベッドの上で膝を抱えながら、由奈は消え入りそうな声で呟いた。
「サキュバスは定期的に男性からエネルギーを頂かないと、体に不調をきたすの」
「エネルギーって?」
「男性の体内で生成される精気のことよ。ママもパパから貰ってるわ、毎晩ね」
高校生の前ではなかなかパンチの効いた爆弾発言である。
だがそれ以上の爆弾が放たれている今、ツッコむ気力は湧かない。
「ちなみに、精気の供給が滞ると最悪死に至るわ」
「「死!!?」」
またしても俺と由奈の声が重なる。急に重たい話に切り替わり、背中から冷や汗が一気に吹き出した。
先ほど苦しそうに呻いていた由奈をあのまま放っておいたら、彼女は死んでいた、ということか。
「だから……ウチの由奈ちゃんに必要な精気のこと、ガク君にお願いしたいの」
「お、お、俺ですか!!?」
思わず言葉を詰まらせながら聞き返す。
つまり、さっきみたいな濃厚で深いやつを、またやる……ってコト!?
「ちょ、ちょっとママ、何勝手なこと言ってるわけ!? 私や学人の気持ちは!」
顔を真っ赤にした由奈がベッドの上から抗議する。
「だって、ねえ……家が隣同士で何かと便利だし、それに――」
美奈さんはそこで一度言葉を切り、どこか諭すような笑みを浮かべて由奈を見つめた。
「由奈ちゃんのその性格で、定期的に精気を供給してくれるガク君以外の男の人、他に探せるかしら?」
「え……」
「他の男の子に自分から声をかけて、一から親密な関係を築ける? エネルギーを貰えるくらい特別な関係に、由奈ちゃんが自力で持っていける?」
畳みかけるような美奈さんの言葉に、由奈はグッと息を詰まらせる。
由奈は昔から人付き合いが上手な方ではない。男との交友は、俺が知る限り皆無だ。
そんな彼女に、美奈さんが今言ったような芸当が出来るとは到底思えない。
「む、むり……」
由奈は小さく呟いて、ガックリと肩を落とした。
「まあ、そういう訳なのよガク君。由奈ちゃんへの精気の供給、お願い出来ないかしら?」
美奈さんの視線が俺に刺さる。深刻さの中に、どこか楽しんでいる気配を感じるのは、俺の思い過ごしだろうか。
「まあ、命がかかってるなら……」
正直、あまりの展開の速さに脳の処理が全然追いついていない。しかし俺がここで断ってしまえば、目の前の幼馴染の命が危ないのだ。
不純異性交遊と幼馴染の命を天秤にかけた時、断るなんていう選択肢は、俺の中では最初から無いに等しかった。
「背に腹は代えられないですし、俺で役に立つなら協力します……」
「うう……っ」
消え入りそうな声で呻きながら、由奈は枕を抱きしめていた。その耳たぶは熟しきったイチゴのように、真っ赤に染まっている。
「本当にありがとう、ガク君は命の恩人だわ!」
美奈さんは心底嬉しそうに微笑むと、パンと手を叩いた。
「それでエネルギーの供給方法なんだけど、具体的に三パターンあってね」
俺は思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。一体何なんだ、具体的な三パターンとは。
「一つが外体接触。要するにハグや手を繋いだりすることね。でもこれは供給効率が悪くて、フル充電には三時間くらいずっと繋いでおく必要があるの」
ふむふむ。
「もう一つが口唇接触で、さっき二人がしていたようなこと。要するにキスね」
「き、き……っ!?」
由奈の声が裏返った。
「可愛らしいキスじゃせいぜい手繋ぎと同じくらいだけど、さっきみたいに舌を絡めた深い奴ならもっと効率的な供給が可能よ」
「ふ、深いやつ……っ!?」
追撃のような美奈さんの言葉に、由奈は抱いている枕に顔をうずめた。
俺もキスというワードを聞いた途端、さっきの唇の感触や舌の熱さが、脳裏にフラッシュバックした。
顔が沸騰しそうなほど熱くなる。
「一番手っ取り早い供給が濃厚接触なんだけど……これはまあ、十五歳の二人にはまだ早すぎるかしらね」
「わ、分かったから! もういいからママ!!」
耐え切れなくなった由奈が、美奈さんに向けて枕を投げつけた。
コントロールを失った枕は美奈さんの頭をかすめ、虚しく壁に当たって落ちる。
「あ、あの、つまり……これから俺は由奈と毎日手を繋ぎ続けるか……その、深いキスをする必要があるって事ですか……?」
「ウフフ、理解が早くて助かるわガク君」
美奈さんのお墨付きを得てしまい、俺は真っ赤になって固まっている由奈をチラと見た。
彼女もまた、上目遣いにちらりとこちらを見ては、すぐにプイッと視線を逸らす。
「ひとまず、さっきの補給で今日の分は大丈夫だと思うから。由奈ちゃんのこと、また明日からよろしくお願いね」
そう言って美奈さんは満足そうに、にこやかな笑顔を俺に向けた。
いやいやいや待ってくれ! よろしくお願いね、じゃないんだよ!!
気まずさが充満した部屋で、由奈は俺の事を一切見ようとしない。
俺も彼女に何と声をかければいいか検討もつかない。突然サキュバスであることを告げられた幼馴染にかける言葉など、少なくとも俺の辞書には未掲載だ。
どうやら俺の高校生活は、初日からとんでもない方向へと舵を切ってしまったらしい。
◇
それから自室に戻った俺は、カーテンの隙間を少しだけ開けて外を見た。
すぐ目の前には由奈の部屋がある。カーテンが閉じられ、部屋の明かりが灯っている。
自分が恋焦がれている女の子と、キスをした。
未だに実感が湧かないが、唇に残る余熱はまぎれもなく本物だった。
これは幼馴染の命を守るためのもので、決して不純異性交遊ではない。そう自分に言い聞かせつつ。
明日からどんな顔で由奈に会えばいいのか、それだけで俺の頭は一杯だった。
―――
しばらくして学人が部屋から去った後、私の胸の中では罪悪感と気恥ずかしさがグルグルと渦を巻いて、頭の中がこんがらがっていた。
そんな私に向かって、ママがいたずらっ子のようなニヤケ顔で言った。
「やっぱりガク君を呼んで正解だったわ」
「何言ってるのママ。学人は昔から優しいから、ああいう場面で断れないよ」
するとママは、クスリと小さく笑って首を振った。
「ううん、そういう意味じゃなくてね」
ママはベッドへ腰掛け、そっと私の耳元に顔を寄せた。
「サキュバスの身体はね……大好きな男の人からじゃないと、精気を受け取れないようになってるのよ」
「――っ!?」
ママの口から発せられたその言葉の意味を理解した瞬間、私の顔は一気に熱を帯びた。
「ママは全部知ってるわよ。由奈ちゃんは昔からガク君の事がだ~い好きなのよね? 絶対に離しちゃダメよ」
「う、うるさいなあ! 出てってよママ!」
そうして私はママを強引に部屋から追い出した。
心の中を見透かされて、恥ずかしさで一杯になる。枕に顔をうずめて、全身をバタバタとよじらせた。
学人と、毎日、キス……。
嬉しいのと恥ずかしいのと、申し訳ない気持ちが同居する。
明日からどんな顔で学人に会えばいいのか、それだけで私の頭は一杯だった。




