第1話 八枝由奈という少女
高校入学初日、朝のホームルーム。
教室後方の席に座った俺は、これから学友となる面々の自己紹介に耳を傾けていた。
「じゃあ次、八枝」
担任の言葉に、一人の少女が椅子から立ち上がった。
シミとは縁が無さそうな、透明感あふれる肌。大きな目にスッと通った鼻筋。小さな顔を縁取るセミロングの髪は引き込まれるほどの黒さで、白い肌とのコントラストが妙に艶めかしい。
どこかの雑誌で表紙を飾っていても、彼女なら全く不自然じゃないだろう。
「えと……」
モジモジとしながら口ごもる彼女を、クラスの男子生徒たちが色めき立った目で見ている。
「……や、八枝由奈です」
そこに出身中学と得意教科をつけくわえた後、彼女はストンと着席した。
美少女という言葉は、八枝由奈を形容するためにあるのだろう――そんなことを思うくらいには、彼女は幼馴染のひいき目抜きで美少女だった。
八枝由奈は俺の家の隣に住んでおり、幼い頃は毎日のように一緒に遊んでいた。
だが、小学校の高学年辺りから、俺と彼女との間には見えない壁のような物が形成された。
廊下ですれ違えば挨拶はする。家が隣同士だから、顔を合わせることもある。
それでも、昔のように他愛もない話をしたり、一緒に遊んだりすることはなくなった。
……理由は、俺にある。
思春期を迎えて、俺は気づいてしまったのだ。由奈を幼馴染ではなく、一人の異性として見ている自分に。
その瞬間、俺は自ら彼女と距離を置くことを決めた。
俺は恋愛感情そのものは否定しない。むしろ人を好きになるという行為は、とても尊いものだと思う。
だが、学生の本分は勉学だ。
責任も覚悟も無い恋愛は、人を不幸にする。故に学生の内は勉学に励み、人として一人前になる為の研鑽を積むべきだ。
そうして責任を取れる大人になって初めて、真剣な交際に臨む。それが男女交際の正しい在り方だと俺は信じている。
由奈に必要以上に近づかない事にしたのも、そんな信念のもとだ。
……もっとも。
姿を見かける度つい目で追ってしまうあたり、自分の未熟さを思い知らされるわけだが。
◇
いくら必要以上に近づかないと言っても、俺も由奈もバスで通学している。必然、放課後は同じバスに乗る事になる。
俺と由奈は連れ立って、バス停までの道を歩いていた。
中学での俺は、放課後は風紀委員として校内の不純異性交遊を取り締まる仕事をしていた。当時は由奈と一緒に帰る事も無く、こうして二人揃っての下校は、小学生の頃以来だ。
夕方の風が、二人の間を吹き抜けていく。不意に由奈が、視線を前に向けたまま俺に尋ねた。
「学人は、部活とか入らないの?」
何気ない会話。それでも由奈の口から紡がれた言葉というだけで、ドキドキしてしまう自分がいた。
俺は必至に冷静を装う。
「今のところ、その予定は無い。風紀委員があれば入ろうかと思ったが、この学校には無いみたいでな」
「そっか」
俺の答えを聞くと、由奈はふと足をゆるめ、風に揺れる黒髪を細い指先でそっと耳にかき上げた。
控えめな、けれど胸が締め付けられるほど愛らしい笑顔を俺に向ける。
「じゃあ高校では……一緒に帰れるね」
「……そうだな」
極めて淡々と、クールな返答を決めてみせた。
だが、俺の内心はもはや大惨事である。
(可愛すぎるぞ、由奈……ッッ!!)
叫び狂う感情を仮面の下で必死に抑え込みながら、俺は平静を装ってバス停への道を歩き続けた。
――頼む、由奈。
まだ高校生の俺達に、不純異性交遊は許されない。
卒業したら真っ先にこの気持ちを伝えにいく。だからどうかその日まで、誰のものにもならないでくれ――。
しばらく待った後やって来たバスに、俺と由奈は揃って乗り込んだ。
「あ。あそこ空いてるよ、学人」
そう言って由奈が、車内後方の二人掛けの席を指さした。
正直、由奈と一緒に並んで座るのは俺にとってだいぶハードルが高い。しかしここで拒否するのも、違う気がした。
「由奈、先に座ってくれ」
何でもないような雰囲気を装って、由奈を先に窓際の席に座らせた。
由奈の隣に座る……内心でドキドキしつつ、俺は通路側に座った。
いや、ドキドキし過ぎだろ、俺!
これから何度もバス通学をするのだから、座席一つでここまで心を揺さぶられていては身が持たない。
2、3、5、7――俺は必至に素数を数えながら、ただ時間が経つのを待った。
それから何事も無く、バスは家の近くのバス停に辿り着いた。そこから互いの家までは5分程度の距離だ。
俺と由奈の間には会話らしい会話も無いまま、あっという間に家の前に来てしまった。
「また明日ね、学人」
「ああ」
互いの家の前で別れた後、俺達はそれぞれの家に入っていった。
俺は家の扉を閉めた後、真っ先に2階の自室に向かった。
ベッドに身体を放り投げ、枕に顔をうずめて、絶叫した。
(アアアァァッ由奈ァァ!!! 好きだアアアァァァーーー!!!!!)
そんな心からの叫びは、枕が全て吸い込んだ。
◇
『残業で帰り遅くなります 美乃梨も塾で遅いだろうから 夕飯は自分で適当に済ませてね』※美乃梨=学人の妹
母親からのメッセージを受けて、俺は冷蔵庫にあった使いかけの野菜で適当な炒め物を作って食べた。
夕飯の後片付けを済ませて再び自室に戻った俺は、そこで日課としている筋トレを始めた。
筋トレといっても器具を使った本格的な物ではなく、腕立て伏せと腹筋とスクワットを疲れるまでやるだけだ。
それにしても今日は、雑念の多い一日だった。自分らしくない自分に喝を入れるかのように、俺はいつも以上に自分を追い込んだ。
その後はシャワーで汗を流し、リビングでぼーっとしながら家族が帰ってくるのを待っていた。
『ピンポーン』と、家のインターホンが鳴り響いた。
時刻は夜の7時。家族が帰宅したのならカギを開けて勝手に入って来るはずだ。
こんな時間に来客か? と不審に思いつつも、俺は玄関先に行ってドアを開けた。
「ガク君!」
予想外の人物に、俺は面食らった。
八枝美奈さん。由奈の母親である。その顔はどこか青ざめていた。
「美奈さん?」
「お願い、今すぐうちに来て! 由奈ちゃんが緊急事態なの!」
「緊急事態……!?」
「とにかくすぐ来て!」
どうやらただならぬ様子である。理由を聞く間もなく、強い力で腕を引っ張られた俺は、そのまま八枝家の二階へと半ば強引に連行された。
かつて頻繁に訪ねた幼馴染の部屋は、以前見た時と比べて大きく様変わりしていた。一緒に遊んだゲーム機の類は姿を消し、代わりに白のドレッサーが鎮座している。
いかにも年頃の女子高生の部屋、といった具合だ。
壁際に設置されたベッドの上で、由奈が横たわっていた。荒い息を吐きながら、胸を押さえて身体をくの字に折り曲げている。
彼女の顔は青白く染まり、眉は苦しげに歪められている。浮き出る汗の量も尋常じゃない。
「由奈、熱でもあるんですか?」
そう尋ねた俺に、美奈さんは必死の形相で詰め寄った。
「お願いガク君、由奈ちゃんにキスして欲しいの!」
その突拍子もない言葉に、俺の思考は一瞬でフリーズした。
「き、キス!?」
キス? 由奈に? 俺が? なんで?
パニックで頭が痛くなりそうだったが、美奈さんの目はこれ以上ないほど真剣だった。
どうやら彼女は、自分の娘に、俺がキスすることを、本気で求めているのだ。
「そう、キス! お願い早く!」
「いや、あの! 意味が分からないんですが!!?」
「説明は後でたっぷりするから! 由奈ちゃんを助けられるのはガク君しかいないの!!」
必死すぎる美奈さんの熱量に圧され、俺の身体は金縛りに遭ったように固まる。
どんな理由があるとはいえ、倒れている幼馴染に自分から唇を重ねるなんて――そんな背徳的なマネ、十五歳の純情な男子高校生にはハードルが高すぎる。
「ぶちゅっと一発、ディープなのお願いね!」
「えっ、ちょ、はぁぁ!?」
迷う俺の背中を、グイグイとベッドの前へと押し付ける美奈さん。
耐え切れずに前のめりになる俺。勢い余ってベッドの縁に脛がぶつかり、由奈の前へつんのめる形に。
痛みに顔を顰める暇すらなく、俺の視界いっぱいに、苦しそうな幼馴染の顔が広がった。
彼女の目がぼんやりと開き、熱っぽく潤んだ瞳が俺の顔を捉える。
「がく、と……?」
微かに震える声で俺の名を呼んだ由奈は、細い腕をすっとこちらへと伸ばしてきた。
次の瞬間。
「っ――!?」
伸ばされた彼女の手が俺の目のすぐ横を通り抜け、後頭部に回された。華奢な腕からは想像もつかない力で、グイッと引き寄せられる。
かと思えば俺の唇に、柔らかく温かい感触が重なった。
キス。ちゅー。接吻。不純異性交遊。処理せねばならない情報量の多さに、頭が爆発しそうだ。
「ん……っ、ぁ……」
ただ唇が触れ合うだけのキスではなかった。
唇を割って忍び込んできた熱い舌が、強引に俺の口内を貪り始める。
絡みつくような触感と、由奈の甘く荒い吐息がダイレクトに吹き込まれ、鼻腔を彼女の匂いが満たしていく。
普段の姿からは到底信じられない、積極的で濃厚な口づけだった。
あまりの事態に、俺の思考回路は完全に焼き切れた。
幼馴染による唐突すぎるファーストキス。しかもそれが、意識を朦朧とさせた彼女による強烈な深いキスだなんて。
混乱と動悸で胸が張り裂けそうになりながら、俺は困惑の波に身を任せることしか出来なかった。




