第21話 岩陰の秘め事
(由奈Side)
――学人と、キスしたい。
一度そう意識してしまうと、下唇が熱を帯びたようにじんじんする。
けれど、せっかく友達みんなで海に来たのに、着いて早々「キスして」なんておねだりする訳にはいかない。そんなことをしたら、学人も困惑してしまうはずだ。
「あの、学人……さっきはごめんね。彼氏とか勝手に言っちゃって」
「構わないさ。あの二人の前ではそういう事になってるんだから、サキュバスの秘密を守る為にも彼氏彼女らしく振る舞おう」
ちょっと恥ずかしいけどな、と苦笑しながら付け加えた学人。
「よし、せっかくだし泳ぐか」
「あっ、うん……!」
学人はTシャツの裾を掴み、そのまま頭から脱ぎ捨てる。
視界に飛び込んできたその姿に、私は思わず息をのんだ。
夏の日差しにさらけ出した上半身に、下はシンプルな黒のハーフパンツ。
無駄な脂肪は一切なく、腹筋は綺麗に6つに割れていた。普段の制服姿からは想像もつかないほど、男らしく引き締まっている。
「学人、結構筋肉すごいね。普段から鍛えてるの?」
学人は気まずそうに視線を泳がせ、自分の首筋をポリポリとかいた。
「あ、あー……雑念に駆られた時なんかに、筋トレで体を痛めつける習慣があってな。気付いたらこうなってた」
「雑念……?」
「……深くは聞かないでくれ」
そう言って、学人は私からプイッと顔をそむけた。
(雑念、かぁ……)
私だって、最近はずっと学人のことばかり考えている。
彼の触れる指先とか、優しい声とか、キスの時の熱とか……雑念の多さなら、私だって負けていない。
そんなことを考えながら、私たちは二人並んで、波打ち際に足を踏み入れた。
「水、思ったより冷たいな。由奈は大丈夫か?」
「あっ、うん。平気」
「足がつく範囲で遊ぼうな。ほら、これ使ってくれ」
そう言って学人が渡してきたのは、私が着替えている間に膨らませてくれていたピンクの浮き輪。
胸元に浮き輪を抱きかかえた瞬間、ある事実が脳裏をよぎる。
(……待って。この浮き輪の中、全部学人の息が入ってるんだよね?)
息でパンパンに膨らんだビニールの感触。
つまりこれは、学人の吐息をまるごと抱きしめているようなもので——。
(あ、なんか……すごく興奮する……っ!)
じわじわと顔が熱くなり、浮き輪を抱きしめる腕に力が入ってしまう。
い、いやいやいや落ち着いて私! いくらなんでもそれは変態過ぎない!?
「どうした由奈、顔赤いぞ? やっぱり冷たかったか?」
「ふぇっ!? ち、違うの、大丈夫だから!」
怪訝そうな顔をする学人に必死で笑顔を向けながら、私は自分の雑念の多さに深く反省した。
「足元、気をつけてな。このへん岩がゴツゴツしてるから」
「あ、うん。ありが——きゃっ!?」
注意された矢先、波に足をすくわれ、ぬるりと滑る岩を踏んでしまった。
バランスを崩し、盛大に転びそうになる。
「由奈っ!」
間一髪、学人の腕が私の腰をギュッと抱き寄せた。
私と学人の身体がぴたりと密着する。
「大丈夫か?」
「えあ……う、うん。ありがと……っ」
学人の腕の中で、心臓が跳ね上がる。
至近距離にある、濡れた髪。学人の体温と筋肉の硬さが、直に肌へと伝わってくる。
ふと視線を上げると、学人が私を心配そうに見つめていた。
「怪我はないか? 足とか、痛んでないか?」
「ううん、どこも痛くないよ」
「そっか……良かった」
安堵したように、ふっと柔らかく目を細めて笑う学人。
そのあまりにも優しくて真っ直ぐな笑顔に、私の胸の奥が甘く激しく打ち震えた。
(ああ……もうダメだ)
学人が格好良すぎるのも、私を大切にしてくれるのも、全部ずるい。
これ以上は誤魔化せる自信がない。
精気の消費なんて理由抜きにして、ただ純粋に、目の前にいるこの人が好きで好きで、愛おしくて堪らない。
私の中の『雑念』が、一本の素直な気持ちへと変わっていく。
「ねえ……学人」
「ん、どうした?」
私は目一杯に背伸びをして、学人の耳元でこう言った。
「……キス、したい」
耳元に触れた私の息と、その言葉の意味を理解した瞬間、学人の全身が跳ね上がるように強張った。
一瞬で耳の尖端まで真っ赤に染め上げた学人は、ガバッと私と距離を取り、周囲をキョロキョロと見回す。
「ゆ、由奈、ここ海だぞ!? 周りに人も沢山いるし……!」
「分かってるよ。でも……」
水着のスカートのフリルを握りしめながら、私は学人の言葉を遮った。
顔が熱くてたまらない。心臓がうるさいくらいに鳴っている。大勢の人がいる中でこんな破廉恥なおねだり、私だって本当は言いたくない。
「……精気、足りなくなっちゃったの。さっきからずっと胸がドキドキして……頭も、フワフワして……」
「由奈……っ!」
「ダメ……かな……?」
ああ、やっぱり恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
学人は息を呑んだまま固まり、困惑と葛藤が入り混じった表情で額に手を当てた。
「……ダメなわけないだろ」
学人は意を決したように、私の手首を力強く握りしめた。
「場所を変えよう」
「あ、学人……」
学人は私の手を引いたまま、海水浴場の賑わいから離れるように歩き出す。
やがてたどり着いたのは、大きな岩がいくつも重なり合う岩場だった。海水浴客たちのはしゃぎ声は遠く、波の音だけが静かに響いている。
岩の壁に背中を預けさせられると、学人が覆いかぶさるようにして距離を詰めてくる。
赤くなった学人の顔が、目の前に迫った。
「こんな場所ですまない。でも、限界なんだろ?」
「う、うん……っ」
波の音に包まれたひそやかな岩陰で、私たちは静かに、熱い口づけを交わした。
無意識の内に、私の舌は動いていた。学人の唇を押し開いて、息を吐く余白すら奪うほどの勢いで、彼の舌や歯を舐り回す。
「んっ……ふ、ぁっ」
舌先が絡み合うたびに、身体の奥へと波及していく甘い痺れ。
サキュバスの空腹感は治まるどころか、ますます激しく燃え上がっていく。精気が満たされていくことよりも、学人に触れているという事実に頭が溶けてしまいそうだ。
「は……っ、あ……学、人……っ」
唇がわずかに離れると、学人の荒い吐息が私の唇を撫でた。
息を整える間もなく、今度は学人が、逃がさないとばかりに私の腰を引き寄せ、再び深く唇を重ねてくる。
——じゅぷ、
艶っぽい水音が鼓膜を介さず脳に直接響き、周囲の波音が遠のくようだった。
「ん、む……っ、ちゅ……あ……ッ」
学人の手が、私の背中にそっと添えられる。
その手のひらの熱さに背筋がぞくぞくと震え、私は彼の首元に必死でしがみついた。
口腔を満たす学人の熱と、絡まり合う吐息。
角度を変えて、私たちは互いを深く深く貪り合った。
――どれだけの時間、そうしていたのだろう。
熱と唾液をじっくりと分け合い、ようやく唇が離れた時、私たちの間を細い銀の糸が小さく光って途切れた。
荒い呼吸を繰り返しながら、互いに見つめ合う。
学人の瞳はどこか虚ろになって、私の下唇は幾度も重ねられた熱によって、少しだけヒリヒリした。
「はぁ……っ、あ……」
ふと冷静さが戻って来た時、私は自分がしでかしたことの重大さに気づく。
(や、やり過ぎちゃった……っ!?)
精気の補給だからといって、いくらなんでも激しすぎた。
急激に押し寄せてきた恥ずかしさと罪悪感で、一気に顔が沸騰しそうになる。私は慌てて一歩後退した。
「ご、ごめんなさいっ……! なんか……歯止め効かなくなっちゃって……っ」
「っ、いや……俺も、その……すまん」
恥ずかしそうな学人の顔を見ていると、私の腰に彼の手が回された時の感触が蘇った。普段より布面積が少ない都合上、いつも以上に熱く感じた。
……なんか、学人も積極的だったな。
舌の上では、学人の味がまだ残っている。それだけじゃない、腰や唇に残る学人の余熱が、愛おしくてたまらない。
「もう一回だけ、ぎゅってしていい?」
すると学人はブンブンと首を振った。
「すまん由奈、今はダメだ、絶対にダメだ! それより海に来たんだから泳ごう、ほら行こう!」
「えっあ、待ってよ」
波打ち際へ駆けていく学人を、私は慌てて追いかけた。
心なしか、少し走りづらそうにしている。大丈夫かな? 足首とか捻ってないよね?
―――
一方その頃。大樹を砂に埋めて遊んでいる彩音。
「なあ三ケ森。あの二人どこに消えたんだ?」
「さあ。今頃どっかの岩陰でイチャついてんじゃないの」
「チューとかしてんのかな」
「してるでしょ」




