オデットヴァイオレットの証 下
「さて、と。どうする姫さん、こいつらはさておきじいさんをここに放置は出来ねえだろ。俺が背負って歩いて帰るか?」
「ちょっと待ってちょうだい。おじいちゃんの荷物があるなら……あ、あったあった」
建物の隅に転がされていた荷物袋に私は見覚えがあった。その中を漁れば鳥の形をした笛が入っている。
「何だそれは?」
「緊急時に王都へ……というか兄さんへ伝達できる笛よ。これを鳴らせばここの場所も何か起きたことも分かるから。兄さんが兵を遣してくれるはずよ」
あるいは兄自身がくる可能性もある。あの人はあの人で身内に甘いから。そっと笛に息を吹き込めば、ピィーッと高い音が山間に澄んだ音で響き渡る。
「おじいちゃんの手当てもできたし、そこの人たちを縛りあげたら帰りましょう。後は城の人たちが何とかしてくれるはずよ」
「そうかい。じゃあまた乗ってくかい?」
マイルズがそう言ってしゃがみ込んでくれるが、私は緩く首を横に振る。
「ううん。……折角外に出たんだし、歩いて景色を見ながら帰りたいの。付き合ってくれる?」
**
雨の中の帰り道は決して快適な歩き心地じゃない。足元は汚れて、防水性の上着越しでも湿り気を感じるけれど、私の心は不思議と晴れやかだった。
「あら、スロウスの実が成ってるわね。薬草じゃないからうちで育ててはいないんだけど、甘いからおやつ代わりに最適なのよね」
「ああ、そういや俺も昔食ったことがあるような……」
そんななんて事のない会話をしながらゆっくりと歩を進める。
「……にしてもさっきの姫さんの啖呵はずいぶんと勇ましかったじゃねえか。マイルズはあなたたちの思い通りにならないわ、とは」
からかうような調子でマイルズが瞳を細めるが、その言葉に真っ先によぎったのは罪悪感だ。
「う……、ごめんなさい。マイルズ」
「あ?何がだ」
思わず口からついで出た言葉を聞き咎められる。……うう、でも話さないわけにもいかないわよね。そんなの不誠実よ。
「……あの瞬間までは悩んでたのよ。兄さんとあんたが夜に話してた内容も聞いちゃってたから」
「俺とあの野郎の、話……、……っ!」
その言葉だけでマイルズも察しがついたのだろう。今の私の顔色に負けず劣らず顔が青ざめる。
「待て待て待て、姫さん。あんたあの時の会話何処まで聞いてたんだ!?」
「ええと、和やかに話してたところから兄さんが、私の存在を知ってたらあんたが人質にしてただろうって聞いて、あんたが答えられなかった辺り……?」
「っ……、よりにもよってそこかよ……」
大袈裟に肩を落とすマイルズを見てますます申し訳なさが募る。
「べ、別にもう平気よ。昔のあんたがどう考えていたにしても、さっき私を守ろうとしてくれたのは本当だし……!」
「いや違う。違うんだ。ちゃんと弁明させてくれ」
マイルズの言葉に口を止める。弁明……って、何のことかしら。マイルズは顔を手で覆っているが、その耳元だけは赤くなっていた。
「あの時返事ができなかったのは『過去の俺ならそうしてた』とかそういう理由じゃねえ。そもそもしてたかどうかなんて所にまで頭が回る前に真っ白になってたからな」
「……え?」
どういうこと?
マイルズの言葉の意味がわからずに思わず呆けた声が出る。足を止めた私に連なるようにマイルズも立ち止まり、私をじっと見つめた。
「もし過去の俺があんたを知っていて傷つけるようなことをしたらなんて恐ろしいこと、考えたこともなかった。……けど、あの野郎に言われて一度でもそれを想像しちまったら、ゾッとして声も出なくなったんだよ。俺があんたを……センシアを害する存在になってたかもしれないなんて可能性だけで、何も考えられなくなっていた」
「え、ええと……。じゃあ、その後の兄さまの質問あったでしょ?あれはどう答えたの?」
「はぁ!?姫さん、俺があんたを傷つけろって話にその通りだっていうと思ってんのか!?ブチ切れてあの野郎の部屋を飛び出したっての。そしたら姫さんが奥の園に向かってる姿が窓から見えたから追ったんだよ」
その言葉に、ようやく私の肩の力が抜ける。
「そっか……。そうだったのね」
何も心配することなんてなかったんだ。そう思うと同時に、降りしきっていた雨が弱まっていき、雲間から光が差し込む。その光景に私の視線は自然と奪われた。
山の中腹から見下ろした街並みに差し込まれた光は、薬草園では見られない、息をのむほど美しい光景だった
「……綺麗ね」
思わず呟いた私の声はささやかだっだけれども、隣に立っている彼の耳には届いたのだろう。
「そうだな。……とびきりの絶景だ」
ちらりと横を見れば隣に立つマイルズの濡れた髪と横顔がその光に照らされている。その視線は眼下の街ではなく私へと向けられていた。雨が完全に止むまでの間。私たちはしばしその光景の前に立ちすくむままだった。
**
薬草園に戻った私たちを迎え入れたのは、むせかえるほどに強い花の香りだ。
何の匂いだと眉をひそめるマイルズとは違い、私はこの香りをこぼす花の正体を知っていた。それでも記憶にあるよりもずっと強い匂いに私はマイルズの腕を引く。
「これは……!マイルズ、奥の園に行きましょう!」
「?あ、ああ」
彼を連れて辿り着いた奥の園。その一画には美しい光景が広がっていた。
幾輪、幾十輪にも及ぶオデットヴァイオレットたちが小ぶりながらも美しい花を咲かせている。雨露に濡れて輝く紫は、これまで見たどの年の花々に比べても一層鮮やかで美しかった。
「三十……四十、これ、五十輪は優に超えてるわよね!?」
マイルズが恩赦を受ける条件、五年はかかるかと思ったその本数を遥かに上回る光景だった。
カシャン、と硬質な何かが落ちる音にはっとして振り返れば、地面に転がる首輪と目を丸くしてそれを見つめるマイルズの姿がそこにはあった。
「………………マイルズ」
首輪が解かれたということは、罪が許されたということ。彼をここに縛りつけるものは何もなくなったのだ。
嬉しいはずなのに、喉の奥に何かが詰まったように声が出ない。喜んであげないといけないのに。
何も言えずに見つめていれば、彼はそのまま一歩踏み出し、どうしてだろうか、私の前で跪いた。
「ま、マイルズ?急にどうしたのよ」
これまでそんな行動を彼が私の前でしたことはなかった。一番近くてあの舞踏会の夜だったけれども、今はあの時のようにその姿を見せる誰かはいないのに。
戸惑う私を真っ直ぐ見たまま、彼は口を開いた。
「……今をもって、俺は自由の身になった。その上であんたに頼みがある。俺をここに置いちゃくれないか。センシア」
「…………え、」
その言葉にあんぐりと口が開く。
「俺がいれば力仕事もそれ以外も役立つだろ?それに今回みたいにこっそり外に出たいって時にも役に立つ。あんたにとって損はないはずだ」
追撃するようなマイルズの言葉に頭がくらくらしてきた。たしかに私に損はない。あるわけがない。あるとしたら彼の方だ。
「ど、どうしてよ。あんたはもう自由の身なのよ。首輪とか命令に縛られないで、行きたい場所に好きに行けるのに」
慌てて手を横に振る私を見てふっと笑った彼が、おもむろに私の手、その指先を握りしめる。
「だからだよ。自由になったその上で俺は、俺の意思であんたの隣にいたいんだ。……センシア、お前の隣に居させてくれ」
彼の瞳ははじめて出会った時のようにどこか虚無を見つめている空虚なものではなかった。私を真っ直ぐと、熱を持って見つめている。
それでようやく、私も分かったのだ。オデットヴァイオレット──愛を受けて育つ花が何故ここまで美しく咲き誇ったのか。
あれはきっと彼が私に向ける……そうして私が彼に向ける、その想いを一身に浴びていたのだと。
握られていた手に重ねるように、もう片方の手をおく。剣も何もない、叙任式と呼ぶにはつたないそれを見ているのは薬草たちだけ。
「なら──ずっと隣にいて。この薬草園が枯れてしまうその時まで」




