オデットヴァイオレットの証 上
兄さんが訪れたあの夜から、数週間が経とうとしていた。
あの時マイルズに強引に抱きしめられた瞬間の熱も、耳元で囁かれた言葉も、私の頭から片時も離れてくれない。
彼が見せた真っ赤な耳を思い出してはひどく動揺し、直後に兄さんと彼の会話が脳を凍らせる。そんな熱と冷え込みを繰り返す日々のせいで、私は未だにマイルズの顔をまっすぐ見ることができずにいた。
マイルズの方も、私のそんな余所余所しさに気づいているのだろう。
髪を手入れする夜の習慣や日々の甲斐甲斐しい仕事ぶりは変わらずに、時折何か言いたげな目線を私に投げかけてくることが増えていた。
薬草園を包む空気は、以前のような穏やかさを失い、どこかひび割れたような緊張感を孕んでいる。
そんな、息苦しい均衡の最中のことだった。
定期的に物資を運んでくれる荷運び人のホウソンおじいちゃんが、定刻を過ぎても現れなかったのは。
「……ううん、遅いわね。何かあったのかしら」
「こういうことはこれまでなかったのか?」
「ないわよ、おじいちゃんってば几帳面だもの」
マイルズは門の前を何度も往復する私を見ながら腕を組む。
「ま、そわそわしたって到着が早くなることもねぇんだ。一旦戻って……、っ、離れろ!」
「え、きゃあ!」
勢いよく肩を引き寄せられ、彼の胸元へと抱き寄せられる。雷が音を立てて何かを破壊する音が聞こえた。
「おい、平気かセンシア!?」
「え、ええ。私は大丈夫だけど、今のは……?」
音がした方を見れば、そこには黒焦げになった矢と、何らかの保護でもされていたのだろう、結いつけられた手紙が地面に落ちていた。
「矢文ねぇ……いい、姫さんは触るな。俺が確認する」
「だ、大丈夫だって」
結界の中ならいかなる毒が塗られていようと私に影響は及ぼさないのに。マイルズは「俺が構うんだよ」と短く告げて手紙を手に取った。
「何々……。……ッ、」
「何?どうしたの」
声をかけても彼は動かない。
焦れて彼の手の中の手紙を覗き込めば、そこには驚くべきことが書いてあった。
『センシア=ハルモニア
貴様の首と、老いぼれの命を交換してやる。
命が惜しくば、一人で王都外縁のウルスタリアへ来い。通報すれば即座に殺す』
文字の掠れた、酷く乱暴な内容は明らかな脅迫状だった。
「ホウソンおじいちゃんが、捕まった……!? 」
ヒュ、と呼吸が出来なくなりそうな私の肩へ、マイルズが手を回す。
「落ち着け姫さん。この手紙が真実だなんて保証はどこにもねぇだろ」
大きな手の温もりが私の思考を支えてくれる。
……たしかに、ホウソンおじいちゃんは兄さんに剣を教えた師匠だ。そう易々と捕まったり殺される人じゃない。そう分かってても心臓の動悸は治らなかった。真実じゃないかもしれない。でももし本当だったら?
────真偽を確かめる方法が一つある。
別名遠見草ともいわれるルーン・スコープを使えば、一時的に千里先を見通すことが出来るようになる。ウルスタリアを調べればこれが偽りか分かるはずだ。
「……ルーン・スコープを使うわ、家にまだ残りがあったはず」
「家だな? 捕まってろ!」
「え、きゃっ!?」
言い終わるよりも早く、浮遊感と熱に包まれる。
マイルズに抱き上げられたと気付いたのはその数秒先のことだった。
「ちょ、何するのよマイルズ!おろしてちょうだい!」
「俺が運んだ方が早い。姫さんは大人しく口を結んで落っこちないようにしがみついときな」
「う……、」
歯噛みするが事実だ。どんくさい私が今焦って走ったところで、転倒するのは目に見えている。大人しくマイルズの首に腕を回せば、彼は目にもとまらぬ速さで道を駆け登り、家の扉を開ける音が大きく響いた。
「姫さん、その薬草とやらはどれだ」
「あそこの棚でおろしてちょうだい!」
言われた通りにしてくれたマイルズへの礼もそうそうに棚を漁る。見つけたハーブを袋から取り出して奥歯でかみ砕けば、ツンとした強い香りと共に視界が歪み、私の意識は一気に千里の彼方へと解き放たれた。
──ウルスタリアは数年前に内乱で傷ついた土地だ。遠見で見るだけでもそこいらに廃墟が立ち並ぶ。その内の一角、屋根が半壊して屋内が見えるようになっている建物を見て私は悲鳴を上げた。
「……────ッ!!」
額と腹部から血を流しているホウソンが、後ろ手に縛られたまま転がされている姿がそこにはあった。
その衝撃的な光景が、すうっとさざなみのように離れていく。視界が急速に現実へと引き戻され、私は立っていられずにその場に膝をついた。
「――センシア!?」
崩れ落ちそうになった身体を、背中に回されたマイルズの強い腕がしっかりと支えてくれる。
脱力して思うように動かない私の耳に、いつの間にか外で降り出していた雨が、冷たく窓を叩く音が聞こえていた。
「センシア、どうだった」
「…………どうしよう…………」
指先がかたかたと震える。あの手紙は本当だった。私のせいで、私が弱いせいで。おじいちゃんが捕まった。
「……手紙は事実だったってことか。どうする。王宮に連絡して兵を派遣してもらうって手もあるが」
「ダメッ!それじゃきっと間に合わない……!」
ここから王宮までは馬車でも丸一日近くかかるのだ。血を流して倒れていたホウソンがそこまで保つとは到底思えなかった。
頭の中には目まぐるしく薬草の種類と効能が浮かんでいく。私を見つめていたマイルズがはっと目を見開いた。
「おい、姫さんまさかこの手紙の通りに動く気じゃねえだろうな!?」
「……わかってる、わかってるわ。バカな発想だってことくらい」
今は舞踏会の時とは違う。兄さんの護りがない状態で出ていったところで、私に身を守る術はない。その状態で言われた場所に行くなんてうかうかと死にに行くようなものだ。
頭ではわかっていても心が追いつかない。強く手を握りしめて声を絞り出した。
「でも、そうしないとおじいちゃんが死んじゃう……っ!!」
薬草園が燃やされたあの日、私と兄さんを守って兵士たちに殺された母さんのように。絶叫ともいえる響きを聞いてマイルズは唇を固く結び、一度目を伏せる。
けれど瞳はすぐに開かれ、真っ直ぐ私へ目線を向けた。
「──なら、俺が行ってくる。俺が行ってそこの奴らを倒して、じいさんをここに連れて帰ればいいんだろ」
「…………、え」
それは雲間から差し込む一筋の光のような響きだった。
「お前の兄貴にゃ遅れをとったが俺も腕には覚えがある。強いていうなら外に出ることでの首輪の影響が心配だが……そこは逆に姫さんが命じてくれりゃ何とかなるだろ」
とんとん、と首輪を叩いて目を細める彼の言葉には力がこもっていた。
それでもすぐに頷けなかったのは──ホウソンの姿を思い出したからだ。
(おじいちゃんの傷は腹部と頭。腹部は深さ次第で薬草を当てておけば何とかなるかもしれないけど、頭の傷次第では下手に運ぶと命取りになる……。マイルズに戦ってもらって、その後運んでもらって、それで何とかなる……!?)
無理だ。マイルズの力を信じていないわけじゃない。薬草の世話をしていたとはいえ調合までは学んでいない彼に、その領分を背負わせきれない。それができるのは……。
「……分かったわ。薬草園のため、ううん。私のためにあんたに命令する」
その言葉に応えるように首輪は輝き、マイルズが短く頷く。
けれども私が続けた言葉に彼は大きく目を見開いた。
「ホウソンおじいちゃんを助けるにはあんたの力が必要よ。マイルズ、お願い。私と一緒におじいちゃんを助けて……!!」




