繚乱の兆し 下
聞こえてきた声に振り返ることすらできない。
マイルズがこれまで手をかけてきたオデットヴァイオレット。その美しい紫が私のせいで色を失いかけているのだ。
けれど、マイルズは私の横に静かに歩み寄ると、枯れかけた蕾には目もくれず、ただ私の顔を覗き込んできた。
「おい、本当にどうしたんだセンシア。ひどい顔をしてるぞ」
私の頬にかざされた手。直接は触れなくとも伝わるその熱が私の涙腺を刺激する。マイルズがはっと息をのむ音が聞こえた。
「っ、本当にどうしたんだ。まさか俺のいないところであのイヤミたらしい文官になにかされでも……!」
「違っ、違うの、マイルズ」
──ギルバートに悪意があったわけでないことは分かっている。
でも、優しさでもないのもたしかだ。彼はきっとマイルズのあの会話を私に最初から聞かせようとしていた。
でも、私が今一番怒りを抱いているのは……。
「……ごめんなさい。マイルズ」
「姫さん……?」
私の地面に縫い付けられたような視線を追って、マイルズも下を向く。彼の視界にもきっと、萎れはじめたオデットヴァイオレットが入ったことだろう。
一番怒りを抱いているのは誰でもない、彼を疑った私自身だ。彼が丹精込めて育てていたこの蕾を台無しにしようとしている。そのことが何よりも許せなかった。
けれどもずっと萎れそうになっていた花々は、マイルズがゆるく手をかざせば時が止まったかのようにその変化を止める。
…………え?
涙が滲む視界の先、ピタリと動きを止めた植物を前に、私の思考は完全に停止した。
どうして。猜疑の感情を向けられたオデットヴァイオレットはあっという間に枯れ失せるはずなのに。なぜ彼の手がそこにあるだけでその変化が止まったのだろう。
わけが分からなくて、ただ呆然と足元を見つめる私に、マイルズは小さく息を吐き出した。
「相変わらず薬草のことになったら我を忘れて、挙句の果てに泣きかけるなんざ。とことんお人好しだよな、あんたは」
「なっ……!」
含み笑いのような響きに一気に顔が熱くなる。
「私がこの仕事に誇りを持ってるのは否定しないけど!別に泣いたのはそれが原因じゃなくて……!」
どうして彼は分からないのだろう。
私がこんなに焦ったのは他でもないこの花だったからなのに。マイルズが丹精を込めて育てて、やがて咲いた時には彼が自由になれる花。
「やっぱりお人好しなのは事実じゃねえか」
だというのに私の気持ちなんてまるで知らずに、相変わらずこの男は鼻で笑う。
笑っていたかと思えばその顔はまばたきと共に笑みをなくし、真剣なまなざしで私を射抜いてきた。
「……言っとくが、別にあんたが俺がこれを育てることに対して文句が出てきたってんなら、いつ引っこ抜いても構わねぇんだぜ」
「…………え?」
呆けた声を上げた私の肩をマイルズの手が強くつかむ。
拒む隙もなく、そのまま彼の胸へと強引に引き寄せられた。
「っ、マイルズ……?」
心臓の音が早いのはいったいどちらなのか。分からないままに耳元に低い声が聞こえてくる。
「なんだったら、今ここで火をつけて全部燃やしたっていい。センシアがそれを望むならな」
「…………どうして」
彼が献身的にこの花を育てている姿を、私はこの二か月間ずっと見ていたのに。あのいつくしむような手つきは丸ごと幻覚だったのだろうか。
──『お前が外に出た後、もし同じ命を受けたのなら』
兄の、簒奪王の声が脳裏にこだまする。必要があれば貴族たちの作法や教養を身に着けていた彼にとって、この薬草園で見せていた姿も、蕾をつけたオデットヴァイオレットも『必要なもの』だったのか。だとしたら、何でそんな風にいうのだろう。
どうして彼は、私の背中に回した腕の力を、ちっとも緩めてくれないのか。
「そんなの決まってるだろ」
けれども猜疑で揺れる私の心を知らず、彼はあっけらかんと言い放つのだ。
「いつでも行儀よくして、命を狙われて当たり前だってすました顔してるお姫様の滅多にないお願いだったら、叶えたいと思うのが男心だろ」
「…………────ッ!」
思わず言葉を失った私の様子をじっと見つめていたマイルズは、こらえきれなかったのかふいと目線をそらす。その耳元は真っ赤に染まっていた。
「はぁ。まあどっちにしたってここで立ち話する話題じゃねえだろ。夜風も冷えるし、一度戻るぞ」
彼は私の背中に回していた手をそのまま、私をエスコートするように歩き出す。萎れかけていたオデットヴァイオレットには目もくれないまま。
(…………もし、)
もしもこの言葉が、私を外へ連れ出し、再び人質として利用するためのものだったとしたら。今私を支えてくれているこの腕も、すべてそのための計算なのだとしたら──。
私はそれを『仕方がないこと』だと諦められるだろうか。いつものように心を透明にして、傷つかないようにいられるだろうか。
兄に対する彼の沈黙の意味も、本当の真意も、今の私には何も分からなかった。
ただ、衣服越しに伝わってくる彼の心臓の音だけが、ひどく速く、うるさいほどに耳の奥で鳴り響いていた。




