繚乱の兆し 中
兄さんとギルバートも交えた夕食の席は何か起きやしないかと緊張もしていたが、終わってみればずいぶんと呆気なかった。兄の朗らかな表情と穏やかな語り口のおかげか、マイルズの踏み込みすぎない警戒のおかげか。
どちらにしてもあとは寝るだけだという時に、寝室がノックされた。
「……誰かしら?」
「────私です、センシア様。夜分遅くに申し訳ございません」
扉を開ければ、ギルバートがいつもの冷徹な佇まいで立っていた。
「こんな夜更けにどうしたの?」
「マイルズのことです」
その名に心臓が小さく跳ねる。
私の動揺を意にも止める様子もなく、ギルバートは言葉をつづけた。
「先ほど、陛下がマイルズを部屋へ呼び出されました。この薬草園であの男が本当に大人しく従っていたか、恩赦を与えるに値するかを、直々に面談されています」
「面談って……」
何故今さらそんなことをするのだろうか。ぽつりと疑問がわく。
浮かんだ黒いシミを振り払うように口角に力を入れた。
「でも、それは兄さんとマイルズの話でしょう? 私は……」
「センシア様」
ギルバートの声音が一段と低く、重くなる。
「私は面談には貴女も立ち会うべきだと思っています。──あの男が何を思っているのか、知りたくはありませんか?」
じわりと背中に汗がにじんだ。まるでここしばらくの葛藤を、その鋭い瞳に見透かされたような錯覚すら浮かぶ。
「……おいでください。陛下には私が話をつけます」
ひるがえったギルバートの背中に、ためらう様子は微塵もない。
私はほんの数秒だけ逡巡し……けれど、吸い寄せられるように上着を掴むと、慌てて彼の後を追った。
そうして兄の部屋の前まで連れてこられた、その時だった。
『……だから、あの知識は大体本頼りっすよ。あとはセンシア姫様にお伺いして』
『なるほどな。それにしたって随分慣れた手際だったじゃないか』
『そりゃ、ここに来て数か月っすからね。嫌でも覚えますよ』
扉の隙間から漏れ聞こえてきたのは、意外なほど普通の会話だった。
夕飯の席と同じ穏やかな兄の笑い声と、わずかに警戒が抜けたマイルズの声。
眉間にしわを寄せたギルバートの表情とは裏腹に私はほっと肩の力を抜いた。
──なんだ、本当にただの雑談じゃない。
『ってことは、恩赦の話を聞くより前から仕事熱心だったわけだ。真面目だなぁ』
『……姫様がどうにもお人よしだったもんでね。放っておけなかっただけですよ』
ぶっきらぼうな言葉に(なによ)と呆れすら浮かぶ。
最近はむしろ私が何も言わなくても率先して仕事してるくせに。ここで突然ドアから顔を覗かせて文句を言ったら、どんな顔するかしら。
ギルバートの脇から扉に手をかけた。
『なるほどね。……いやぁ、君がセンシアを殺していた可能性があると思うとぞっとするよ』
「……え……」
朗らかながらも鋭い言葉に明らかに外の、そして中も空気が変わった。
『……な、に言ってんすか……んなこと、俺がするわけ』
上ずったマイルズの動揺を聞き逃さず畳みかける兄の声は、先ほどまでの兄さんではなく冷徹な簒奪王としてのそれだった。
『そういえるのか?俺はそうは思わないな。例えばだ。もしお前が外にいた時、センシアの存在を知っていたらお前は必ず彼女を人質として利用しただろう。違うか?』
詰問ともいえる問いかけに──返事はかえってこなかった。思わず私は一歩後ろに下がる。
(そうだ、私が狙われるのは当たり前の話で……だから、マイルズがそう思ったとしても、おかしな話じゃなくて)
自分自身に言い聞かせる言葉すら重く肺に沈んでいく。今の私が地面に立っているのか天井に立っているのかすら分からない。世界が、ぐるぐると歪んでいくような猛烈な酩酊感だった。
『答えられないか。ならばお前が外に出た後、もし同じ命を受けたのなら──』
私の視界にギルバートの顔が映る。
彼は驚くことも、同情することもなく、ただ冷徹な仮面のような無表情のまま、静かに私を見下ろしていた。その姿に呼吸が止まりそうになる。
「っ……!」
それ以上は、聞いていられなかった。
気付けば私はどこに行くのかも分からないまま、暗い廊下へと夢中で走り出していた。
**
走って、走って。
どんな道を通ってきたのかはもう思い出せない。気が付けば私は、奥の園で生い茂るオデットヴァイオレットの前に立っていた。
小ぶりの蕾は花束が作れるくらいに茂っていて、きっと咲き誇れば美しいものなのだろう。咲き誇れば──。
…………本当に?
脳裏によぎった疑問に背筋が震えた。薬草たちがのびのびと育ってくれることに心躍らなかったことなんてこれまでなかったのに。
疑問が湧けば湧くほど、鮮やかな紫が心なしか色褪せていく。その事実が何よりも私の心臓に針を突き立てていた。
オデットヴァイオレットは猜疑の感情に触れればあっという間に枯れ失せてしまう。
「だ、ダメ……っ。枯れちゃダメ!」
私がどれだけ焦っても変わらない。私自身の心が代わりでもしない限り。あるいはこの奥の園から一刻も早く立ち去りでもしない限り。
早く、早くこの場所から立ち去らないと。
焦りとは裏腹に私の足はいつもの転ぶのとは全く違う意味で力が入らない。薬草の葉が少しずつ萎びていき、空を見上げていた蕾が力失うように地へと傾いていく。そうしてその蕾が色褪せていき、やがて────。
「────姫さん?」
聞こえてきた声に私の体は凍りつく。
声の主、マイルズが私のすぐ後ろに立っているのだけが、気配から伝わっていた。




