レスタ・ウールの静夜 下
レスタ・ウールの効用は「沈黙」だ。
根を煎じ反転させれば魔法封印を解除できるし、痛みを沈黙──鎮痛することもできる。
一方で実を料理や他の用途で使えば、自身の声が聞こえなくなったり、逆に周囲の音を遮断することもある。
今この時は後者だった。彼の指先が髪をなぞる度、レスタ・ウールの甘い香りが外からの音を遮断して、まるで世界で二人きりのような錯覚すら覚えてしまう。
「…………お節介だった?」
だから小さく呟いたはずの私の声が、いやに大きく響く。
私の髪をすいているマイルズの指が止まり、その挙動一つ一つに私の心臓がとくとくと早まった。今の静けさだと、この音も彼に聞こえてるんじゃないだろうか。
「別に、あんたがお節介なのはここに来てすぐからだったろ。……ほんっと、妙な女だと思ったぜ。死罪同然の男に食いたいものを聞いたり、成果報酬は何がいいか聞いたりよ」
「??」
そんなの当たり前じゃない。
ここで手伝ってくれるっていうんだから。
そう口にするよりも早く、頭頂部に柔らかい感触が落とされる。なんだろうかと振り向こうとしても、肩を優しく押し込められて、首を動かすことすらできなかった。
「だがまあ、今回のはやりすぎだ。別に俺は恩赦がほしいなんざ言った覚えは一言もねえよ」
「う」
それは返す言葉もない。
「だ、だってマイルズって何がほしいとか全然言わないじゃない。いっつも聞いて教えてくれないんだから」
「…………あんたにゃもらってばっかりなんだがな」
「え?」
それってどういうこと?と聞く前にまた彼の指先が私の髪をくすぐるようにすべりだす。
「とにかく、俺の幸せを勝手に決めるんじゃねえよ。大体人のことばっかりでお前はどうなんだ、センシア」
「私?」
「そうだ。俺が自由になるようにって画策してるようだが、俺からしたらよっぽどセンシアの方がこの薬草園に縛られてるように見えるぜ」
縛られてるなんて人聞きが悪いわね。
少なくとも──今この瞬間はよほどマイルズの方が私を縛り付けてる気すらするのに。
彼の大きい手のひらが私の髪をすくい上げてはオイルをじっくりとなじませ、その度に髪はわずかに重くなっていく。ここ以外のどこにも行くなというように。
「そんなことないわ。私がどれだけここの薬草を大切にしているか、伝わらないあんたじゃないでしょ」
一度でも彼の前で世話を嫌がるようなそぶりをしたことはないし、そう思ったこともない。
「薬草の話じゃねえよ。この間の件だ」
「この間……?」
急に私はマイルズが何を言おうとしているのか分からなくなってしまった。レスタ・ウールの香で満ちた静かな室内は、私の髪の毛がこすれて肩に落ちることすら聞こえてくる。とくとくとく、と一定のリズムを刻む心臓はどちらのものなのだろう。
「あの中庭の、あんたが狙われた時のことだ。なにが私のことはいいから、だ」
そう呟く彼の声は低く、思わず背筋がぞくりと震えるくらいには暗い。
「だ、だって事実だもの。兄様の力はあんただっていやってほど知ってるでしょ?」
思わず声が裏返るけれど、マイルズがここに来たのはそもそも兄さんに敵わなかったからなのに。
「その兄様が私を守ってくれてるもの。だからあんたが心配する必要は──」
「たとえ守られてて、怪我をしねぇってからって、あんたが傷つかねえわけじゃねえだろ」
ぴしゃりといわれた言葉が沈黙の空間を切り裂いた。そう錯覚するくらい、私には衝撃的な一言だった。
「俺はかつて殺す側だった。……仕事の過程で命を狙われているのだと理解した奴らの顔だって、飽きるほど見てきたもんだ」
髪をすく彼の手は相変わらず信じられないくらいに優しい。
だというのに私は身じろぎ一つできなかった。
丁寧に、丁寧に。もつれた髪をほぐす動きはどこまでも甘やかで。それなのに背後から覆いかぶさる彼の影が触れてもいないのに重くてたまらなかった。
「でもな、誰も命を狙われて当たり前とか、死んで当たり前とか。そんな風な顔はしてなかったんだよ」
「……兄さんも?」
「あの野郎の話は今はいい。今はお前の話だ、センシア」
やめてほしい。そうやって逃げ道をふさいでいくのは。
喉の奥につっかえた塊とむせかえるような沈黙の香りが、私の脳を揺らしていく。
「それともなんだ。センシアも、それこそ兄貴も殺されても仕方がないから俺に恩赦を与えてもいいのかって思ってるのか?どうしようもないからって。……ふざけんな」
ギリ、と奥歯を噛みしめる彼の音が、今の部屋にはひどく大きく響いた。
「違う。……ちがう、ちが……」
反論しようとして、唇が震えた。
──私だって殺されても仕方ないなんて思ってない。私だって兄さんだって、前の王様の子どもだからなんて理由で、理不尽に命を狙われるなんて馬鹿げてる。
そう一言で言えばすむ話なのに、彼の言葉と手のひらの熱で頭が真っ白になる。
だって仕方がないじゃない。馬鹿げてると突き放して、外に出たいなんてわがままを言えるくらい私は強くなんてないの。
どんくさくて、自分の身一つまともに護れない。だから兄さんの力にもなれず、ここに引きこもって薬草を育てることしかできない。
「違わねぇ。少なくとも俺はあの時のお前の顔を見て、心底嫌だと思ったんだよ。お前があんな風に物わかりのいいお姫様みたいな笑い方をするなんざ気色悪い」
言い方とは裏腹にマイルズの手つきはずっと優しかった。オイルを塗り終えたのか、私の髪を一房ずつ持ち上げて、ゆるく編み込んでいく。その手つきが逆にどうしようもなく私をみじめにさせる。硬く大きい、荒事すらこなせる立派な男の人の手。
「……やめて、マイルズ。そこまで頼んでないわ」
気を抜けばうわずってしまいそうな喉を抑えて、低くつぶやく。
分かってる。勝手に押し付けたのは私が先だ。マイルズの幸せを先んじて決めた。それでもこれ以上彼の手に触れていたくなかった。自分の弱さを直面してみじめになる。
「……っ。オデットヴァイオレットを育てるかは、完全にあんたに一任するわ。それを咲かせて自由になるのか、恩赦なんていらないって放置するのか……もう、あんたの勝手にしなさいよ」
そういって無理やり立ち上がり、彼から一歩距離を取って振り返る。
彼は驚いたように目を丸めていたけれど、次の瞬間、私が思わず息をのんでしまうくらいに不適に笑った。
「……ああ、成程な。いや、いいだろ。そういうことなら育ててやるよ」
「…………、……え?」
「自由になった後は、俺がどこで何をしようが、俺の勝手なんだろ?」
そういって、彼は空になった瓶を手に自分の部屋へと戻っていく。
未だむせかえるレスタ・ウールの香りと扉の音すら聞こえない沈黙のなか。私は途中で編み込みを拒んでしまった、半分崩れた髪の心許ない重みを感じながら彼の後ろ姿をただ見ているだけだった。




