狂人の実装
高度を落とした空飛ぶ鈍亀は、ついに首都の活気溢れる街並みへと滑り込んだ。
鏡面のように美しかった外壁は、深海の重圧と怪物の爪によって無残に歪み、耐水の術式が焼け落ちた跡が、無惨なクレーターとなっていた。
その鉄屑のような外観は、栄華を極める王都の空において、明らかな異物だった。
借地の住所へワンルームを停泊させる。
重い体を動かし、クローゼットに向かう。
礼服は、主動力炉が限界突破した際の熱波で炭化していた。
だが、コンテストに参加するには、一度だけ主催者の事務局に顔を出し、物理的なエントリーナンバーを受け取らねばならない。
それがこのイベントの最低限のルールだった。
鋼鉄の扉を開ける。
二週間ぶりに嗅ぐ首都の空気は、人の熱気と、匂いが混ざり合った、いつも通りの不快さに満ちていた。
男は足早に事務局へと向かった。
事務局の空気は、男にとって最悪の極みだった。
中央広場に設けられた巨大なテント。
そこには、着飾った宮廷料理人や、腕自慢の冒険者たちが列を成していた。
彼らは己の持ち込む「幻の食材」がいかに素晴らしいかを語り合い、互いの服装を値踏みし、笑い声を上げている。
男は、その行列の最後尾に並ばず、真直ぐに、列を無視して窓口へと進んだ。
「おい、並べよ! 常識を……」
罵声を浴びせようとした男が、言葉を失って引き下がった。
焦げ落ち、煤けた礼服を纏う異常な男。
深淵で全てを失った男が放つ、生物としての本能を凍りつかせる異常な殺気。
周囲の料理人は、反射的に道を開けた。
「登録しろ」
男が発した、地を這うような低い声。
「え、あ……。はい。……応募用紙に必要事項を、ご記入ください……」
男はザリザリと、紙を削り取るような筆致で必要事項を記入する。
「……あの、ご提出される食材の『調理場』は、どちらに設営されますか? 会場内に最高級の厨房を用意してございますが……」
「不要だ」
「は、はい……?」
「不要だと言っている」
華やかな「至高の食材コンテスト」の受付。
だが、若い女性職員は「調理場は不要」と断言する狂人を審査できず、震える手で木札を差し出してしまった。
男はその木札を奪い取ると、一瞥もくれずに踵を返した。
エントリーナンバー、241。
男は事務局を後にした。
周囲の料理人たちは、突如現れた死神に気圧され、その姿が見えなくなるまで言葉を失っていた。
ようやく料理人たちが、事務局を包む沈黙を打ち破る。
「……や、やべーヤツが来た」
「……自分の工房ごと『召喚』するタイプ、……か?」
「……241番。アイツには近付かないほうがいい……」
事務局を出た瞬間、男は礼服を見る。
視線が五月蠅いのだ。
炭化した礼服は、男が思っていた以上にこの華やかな街で悪目立ちしていた。
すれ違う者たちが一様に足を止め、気味の悪いものを見るような視線を投げかけてくる。
男は近くの路地裏にある「既製服の安売り店」へ飛び込んだ。
そこには流行とは無縁の、労働者が着るような無難な色合いの服が並んでいる。
「……これとこれを。今ここで着替える。古い方は捨てておけ」
店主が呆気にとられている間に、男は炭化した高価な礼服をゴミ箱に放り込んだ。
銀貨を数枚、店主に手渡すと地味な灰色の平服に着替えた。
荷物を抱えるという「無駄」を嫌った結果だ。
外界での用件は、これで全て完了した。
滞在時間はわずか三十分。
男は灰色の群衆に紛れるようにして、足早にワンルームへと戻った。
「聖域」に戻った男は、すぐに入り口の鋼鉄の扉に何重ものロックを掛けた。
ようやく、呼吸が整う。
男は新調した服を脱ぎ捨て、作業着へと着替えた。
ここからが、本番の作業だ。
――スープで支配する。
男は歪んだ作業台に向かい、道具を取り出した。
他の料理がすべて、砂利に感じられるほど、圧倒的な熱量で彼らの鼻腔を踏みにじる。
僅かに残った高耐圧の「空の瓶」。
男はピンセットを手に取ると、以前、成り行きで命を救った少年を思い出しながら「圧縮弁」を滑り込ませた。
モノクル越しに丁寧に「噴出瓶」を作り上げていく。
瓶が終わると、男は手近な黒いゴミ袋を正確な比率で裁断し、ダクトテープで丁寧に張り合わせた。
荷造り紐を束ねただけの、あまりに無機質で頼りない「黒いクラゲ」。
カサカサと乾いた音を立てるその安っぽい膜に、彼は失ったコレクションの復讐を焼きつけた。
男は、深海のスープを、一滴の無駄もなく噴出瓶に充填する。
開封されるまで時の止まったスープは、まだ深海の奥底にいるかのような深淵の香りを漂わせた。
味覚という名の機能を服従させる、広域汚染兵器が完成した。
最後に、缶詰にも黒いクラゲを取り付けると、男は「鉄の箱」の補充口を開き、それらを投入した。
「……ふぅ」
準備は全て出来た。
後は、料理コンテストの開催を待つだけだった。
男は操舵輪を掴むと、戦場に向かってワンルームを浮上させた。




