データロスト
男は、モニターに表示された数字を見て、力なく箒を壁に立てかけた。
時速5キロ。
人間が少し早歩きをすれば追いつける程度の、屈辱的なまでの鈍足。
主動力炉を焼き潰し、予備動力のみで駆動する鋼鉄のワンルームは、もはや「家」という名の巨大な鉄の亀でしかなかった。
かつては数時間で踏破した海路が、今は絶望的なほど長く、平坦に横たわっている。
室内を支配しているのは、これまでのような「計算された静寂」ではなかった。
予備動力が発する、不安定で、耳障りな低周波が鼓膜を苛む。
男は床に散乱した「残骸」を見下ろした。
床は小さい収集物がゴミのように堆積し、液体と混ざって汚泥となっていた。
ガリッ、と乾いた音が足の下で鳴る。
その瓶は、ある森の最深部まで足を運び、三日三晩かけて抽出した希少な植物の精油。
中身は無残に床に広がって、異臭を放つ黒い染みと化している。
全て、粉砕していた。
無表情のまま、その価値を失った汚泥を見つめている。
それを少し手に取り、元の大きさに戻そうとしたが、止めた。
希少価値が極めて高い香草と、鮮度を失った神獣の血と、パンくずで出来たそれは、修復不能な泥だった。
それは深淵が男の人生を蹂躙して作り上げた、もう一つの『望まぬスープ』だった。
「……。」
再びちり取りと箒を手にした。
指先を割れた破片で切っても、血が滴っても、眉一つ動かさない。
ただ機械的に、「ゴミ」を袋に放り込んでいく。
一瓶、片付けるたびに、棚が空になる。
空になった棚は、男の人生が削り取られた痕跡のようでもあった。
掃除は数時間を要した。
かつてあれほど濃密な情報量に溢れていた工房は、今や、ガランとした不気味なほどの空白に包まれている。
幸い、家具は無事だった。
唯一壊れなかった特注品、火山を封じ込めた遮断瓶。
そして、作業台の上に積まれた「缶詰の山」だけだった。
男は、その缶詰を呪うように見つめた。
ちり取りを持つ拳が、自重に耐えかねるように震える。
動力炉は焼き切れ、コレクションは全滅。
聖域の資産価値は、今や以前の百分の一にも満たないだろう。
だが、その缶詰が放つ圧倒的な存在感――。
1700メートルの圧力を経て、再構成されたその中身は、もはや「料理」という概念を超えていた。
時速五キロの景色は、驚くほどゆっくりと流れていく。
かつては、コンテストなど、単なる「素材」を手に入れるための手段に過ぎなかった。
美食家どもの無知な舌を嘲笑い、さっさと自分の聖域に引きこもるためのプロセスに過ぎなかった。
だが、今は違う。
秩序を奪い、静寂を汚したすべてを、この缶詰で叩き潰さねば、収まりがつかなくなっていた。
怒りは、もはや鋭い棘ではない。
じりじりと、低温で長時間煮込まれた、濃密な漆黒の「スープ」のように、男の魂の底に沈殿していく。
首都まで、予備動力での航行はあと二日。
男は、空になった棚を見つめるのをやめ、歪んだ操舵輪に手を置いた。
時速5キロ。
亀のような歩み。
だが、首都に戻った時、そこに降り立つのは「狂人」ではない。
すべてを深海に捧げ、代わりに研ぎ澄まされた牙だけを持ち帰った、一人の「復讐者」だ。
男は、暗い海面を静かに見つめていた。




