第6皿 看板のない店と、最初の仕入れ
食堂の掃除を始めて三日目。
リゼットは、厨房の棚を前に頭を抱えていた。
「……足りない」
鍋はある。包丁もある。皿も、最低限なら何とかなる。
しかし、肝心の食材がなかった。
ベルンから譲ってもらった野菜は、昨日の試作でほとんど使い切ってしまった。豆も残りわずかだ。
店を開くには、仕入れが必要だった。
そして仕入れには、お金がいる。
「家賃を払ったら、手元に残るのは……」
リゼットは小さな財布を開いた。
王宮を出るときに持ち出せたのは、わずかな衣服と母の料理帳、それから少しの金貨だけだった。追放された身では、以前の蓄えを自由に使うこともできない。
このままでは、店を開く前に資金が尽きてしまう。
「食堂って、料理だけ考えていればいいわけじゃないんだね……」
当たり前のことに、今さら気づかされる。
そのとき、入り口から声がした。
「何を唸っているんだ?」
ベルンだった。
「食材を仕入れたいんです。でも、予算があまりなくて」
「なら、市場へ行け」
「市場?」
「この町には、朝になると農家が野菜を持ってくる。大きな商人が扱わないようなものもな。自分の目で見て、値段を交渉しろ」
「交渉、ですか……」
「料理人なら食材を選ぶ目も必要だ。値札だけ見て決めるなよ」
ベルンの言葉を受け、リゼットは市場へ向かった。
広場には、木箱を並べた小さな露店がいくつも立っていた。売り手の声が飛び交い、荷車を引く人々が行き交っている。
王都の市場に比べれば規模は小さい。並んでいる品物も、豪華とは言いがたい。
それでも、リゼットにとっては宝の山だった。
新鮮な葉物野菜。乾燥豆。根菜。少量の肉。そして、焼きたてのパン。
どれも食堂の料理に使えるものばかりだ。
「いらっしゃい。何を探しているんだい?」
声をかけてきたのは、ふくよかな女性の農家だった。
「食堂を開く準備をしているんです。野菜を少しずつ仕入れたいのですが」
「食堂? この町で?」
女性は驚いたように目を丸くした。
「最近は、食堂を閉める人のほうが多いからねえ。客が減って、仕入れにも困るんだよ」
「そうなんですか……」
「それでも開くっていうなら、頑張りな。今日はニンジンと玉ねぎが余っているよ。形は悪いけど、味は変わらない」
女性が見せてくれた野菜は、少し不揃いだった。
リゼットは一本を手に取り、表面を確かめた。
「これなら十分使えます。全部でいくらですか?」
提示された金額は、予想より少し高かった。
リゼットは迷った。
値切れば、もう少し安くなるかもしれない。しかし、相手も生活がかかっている。無理な値下げを求めれば、今後の仕入れにも響くだろう。
「もし、定期的に買いに来るとしたら、少し安くしていただくことはできますか? その代わり、形が不揃いなものも積極的に買わせていただきます」
女性はしばらく考え、それから笑った。
「いいねえ。捨てるしかないと思っていた野菜も使ってくれるなら助かるよ」
交渉は、思いがけずうまくいった。
リゼットは必要な分だけ野菜を買い、残ったお金で豆とパンを仕入れた。
帰り道、荷物を抱えて歩いていると、広場の端で数人の商人が話しているのが聞こえた。
「また荷車が遅れているらしいぞ」
「街道の先で何かあったのか?」
「さあな。最近は物が届くのも遅いし、値段も上がる一方だ」
リゼットは足を止めた。
食堂を開くうえで、食材の値上がりは大きな問題になる。
けれど、今の自分にできることは、目の前の食材を無駄にせず、限られた予算で料理を考えることだ。
食堂に戻ると、ミナが入り口で待っていた。
「おかえりなさい! どうでしたか?」
「何とか仕入れられたよ」
リゼットは買ってきた野菜を並べた。
「これで、開店の準備ができそう」
「わあ、たくさんありますね!」
「形は不揃いだけど、どれもおいしく料理できるよ」
リゼットは野菜を見つめた。
豪華な食材がないなら、工夫すればいい。
高価な料理を出せないなら、毎日食べられる料理を考えればいい。
この町の人々が、無理なく食べに来られる値段で。
「ミナ。どんな料理があったら、食べに来たいと思う?」
「えっ、私ですか?」
「うん。お客さんの立場で考えてみたいの」
ミナは少し考えてから答えた。
「温かくて、おなかいっぱいになれる料理がいいです。それから……一人でも入りやすいお店だと嬉しいです」
リゼットは頷いた。
温かくて、おなかいっぱいになれる。
一人でも、安心して入れる。
それは、豪華な晩餐会では決して生まれない発想だった。
「ありがとう。大切なことを教えてもらったよ」
リゼットは買ってきた野菜を洗い、厨房に並べた。
明日は、初めての開店準備を本格的に始めよう。
そのために、まずはメニューを決めなければならない。
リゼットは母の料理帳を開き、空白のページに新しい料理の名前を書き始めた。




