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王宮を追われた料理人ですが、辺境の食堂で人々の心を取り戻します  作者: 弥
第1部 追放された料理人と、最初の一皿
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第3皿 古びた食堂と、一つの約束

翌朝、リゼットは町の掲示板の前に立っていた。


 掲示板には、荷運びの手伝いや畑仕事の募集が貼られている。その中に、ひときわ古びた紙が一枚あった。


『食堂の貸し出し。建物の修繕が必要なため、格安で貸与。詳しくはベルン・オルドまで』


 紙の端は黄ばんでいて、書かれてからかなりの時間が経っているようだった。


「食堂……」


 リゼットは、その文字を指でなぞった。


 昨夜、町の男性が言っていたことを思い出す。


 この町では、食堂を開いても長続きしない。


 食材は高く、客は少ない。


 それでも、彼女は諦められなかった。


 ミナの母親がスープを飲んだ時の表情が、頭から離れなかったからだ。


「すみません。この食堂について、詳しく聞きたいのですが」


 近くの店で尋ねると、店主は掲示板を見て、ああ、と頷いた。


「ベルンのじいさんの店だな。町外れにあるよ。昔は繁盛していたらしいが、今じゃすっかり廃屋だ」


「廃屋……」


「まあ、見るだけなら好きにしな。借りるってんなら、あのじいさんと話をつけることだ」


 リゼットは礼を言い、町外れへ向かった。


 道は次第に細くなり、家並みもまばらになっていく。


 やがて、低い石垣の向こうに、木造の建物が見えてきた。


 看板は傾き、窓には板が打ちつけられている。屋根の一部は傷み、煙突には蔦が絡まっていた。


 けれど、建物の形そのものは悪くなかった。


 広い厨房がありそうだし、通りに面した窓も大きい。


 手を入れれば、もう一度使えるかもしれない。


 リゼットは入口の扉を叩いた。


「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」


 返事はない。


 もう一度叩こうとした時、隣の小屋から声がした。


「誰だ、朝っぱらから騒がしい」


 振り向くと、昨日の男性が立っていた。


 白髪混じりの頭に、腕まくりした作業着。手には木片を持っている。


「あ……昨日の」


「なんだ、お前さんか。こんなところに何の用だ」


「この食堂を借りたいと思いまして」


 男性は、しばらくリゼットを見つめた。


 それから、腹の底から出すような大きなため息をついた。


「本気で言っているのか?」


「はい」


「屋根は雨漏りする。かまどはひび割れ、椅子も机もまともに使えん。水道代わりの井戸も、掃除が必要だ」


「修繕すれば、使えるということですね」


「話を聞いていたか?」


「聞いています」


 リゼットは、まっすぐに男性を見返した。


「それでも、ここで食堂を開きたいんです」


 男性は眉間に深い皺を寄せた。


「……変わった娘だな」


「よく言われます」


「褒めてはいないぞ」


「分かっています」


 男性は、とうとう呆れたように笑った。


「俺はベルン・オルド。この店の元店主だ」


 やはり、この人だったのか。


 リゼットは慌てて頭を下げた。


「リゼット・アルノーと申します。料理人をしていました」


「していました、か。過去形なんだな」


「……事情があって、王都を離れました」


 ベルンはそれ以上、尋ねなかった。


 代わりに、懐から古い鍵を取り出した。


「中を見たいなら、見せてやる。だが、期待はするなよ」


 鍵が錠前に差し込まれ、重い音を立てて回った。


 ぎい、と扉が開く。


 その瞬間、埃っぽい空気が流れ出してきた。


     ◇


 店内は、想像以上に荒れていた。


 床には埃が積もり、隅には蜘蛛の巣が張っている。木製のテーブルは脚が折れ、椅子の座面には大きな穴が開いていた。


 厨房へ入ると、棚には空の瓶が並び、調理台には錆びた包丁が一本だけ残されていた。


 かまどの壁には、ひびが走っている。


「どうだ。これでも借りたいか?」


 ベルンが腕を組む。


 リゼットは、ゆっくりと店内を見渡した。


 確かに、すぐには使えない。


 修繕には金も時間もかかるだろう。


 それでも、彼女には、この建物がただの廃屋には見えなかった。


 窓から光が差し込む。


 入口から厨房までの距離も短く、料理を運ぶには都合がいい。


 テーブルを並べ直せば、十人以上は座れるはずだ。


 そして何より、ここには厨房がある。


 もう一度、料理を作れる場所がある。


「……素敵なお店ですね」


 思わず、そんな言葉が口からこぼれた。


 ベルンが目を見開く。


「お前さん、どこを見てそう思った?」


「直すところはたくさんあります。でも、きちんと直せば、きっと良いお店になります」


「金はあるのか?」


「……あまりありません」


「なら、やめておけ」


「でも」


「食堂は、夢だけじゃ続かん」


 ベルンの声は、思いのほか厳しかった。


「客が来なければ、食材が腐る。売れなければ、仕入れた金も戻らん。家賃だってかかる。料理がうまいだけじゃ、商売にはならんのだ」


 リゼットは黙って聞いていた。


 その言葉が正しいことは分かる。


 王宮で料理を作っていた頃は、材料の値段を細かく気にする必要はなかった。必要なものを注文すれば、厨房に届いた。


 だが、ここでは違う。


 自分で仕入れ、売り、利益を残さなければならない。


 料理人である前に、店主にならなければならないのだ。


「……教えていただけませんか」


 リゼットは頭を下げた。


「この町で食堂を続けるには、どうすればいいのか。私にできることがあるなら、何でもします」


「俺はもう店をやっていない」


「それでも、ベルンさんは、この店を大切にしていたのでしょう?」


 ベルンの表情が、わずかに変わった。


 リゼットは、埃をかぶったテーブルに目を向けた。


「ここには、きっと誰かの思い出があるはずです。私は、それをもう一度、取り戻したいんです」


 しばらくの沈黙の後、ベルンは頭を掻いた。


「……一つだけ、条件がある」


「はい」


「まずは、あのかまどを見ろ。料理人なら、使えるかどうかくらい分かるだろう」


 リゼットは頷き、厨房へ向かった。


 かまどの前にしゃがみ込み、ひびの位置や灰の溜まり方を確かめる。


 内部は汚れているが、石組みそのものはまだ使えそうだった。大きな修繕は必要だろうが、完全に壊れているわけではない。


「掃除をして、ひびを補修すれば、使えると思います」


「そうか」


「ただ、火の通りを確かめる必要があります。実際に火を入れてみないと、何とも言えません」


 ベルンは、ふん、と鼻を鳴らした。


「口だけではないらしいな」


 そして、壁に掛けてあった鍵束を取り外した。


「家賃は、最初の一か月は安くしてやる。その代わり、修繕は自分でやれ。手伝いが必要なら、町の連中に頼んでみろ」


 リゼットは、思わず顔を上げた。


「いいんですか?」


「勘違いするな。慈善事業じゃない。店がまともに使えるようになれば、俺も家賃を受け取れる」


「ありがとうございます!」


「礼を言うのは、店が開いてからにしろ」


 ベルンは、鍵束の中から一本を選び、リゼットに差し出した。


「ほら。なくすなよ」


 ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わる。


 たった一本の古びた鍵。


 けれど、リゼットには、それが新しい人生の始まりを告げるもののように思えた。


     ◇


 その日の午後、リゼットはさっそく店の掃除を始めた。


 窓の板を外し、床を掃き、壊れた椅子を一か所にまとめる。


 埃にまみれ、髪も服も汚れた。


 それでも、不思議と苦にはならなかった。


 自分の手で何かを作り上げている。


 その実感が、心地よかった。


「リゼットさん!」


 入口から声がした。


 振り返ると、ミナが籠を抱えて立っていた。


「何してるの?」


「見てのとおり、掃除よ」


「ここ、食堂だったんだよね?」


「そう。もう一度、開こうと思って」


 ミナは目を丸くした。


「本当に? ここ、何年も閉まったままだったんだよ」


「知っているわ。でも、直せば使えると思うの」


 ミナはしばらく店内を見回した後、籠を差し出した。


「これ、持ってきたの」


 中には、小さな玉ねぎと、形の不揃いな根菜が入っていた。


「うちの畑で採れたもの。売り物にはならないけど、食べる分には大丈夫だから」


 リゼットは驚いた。


「もらってもいいの?」


「うん。昨日のお礼!」


 ミナは笑った。


「お母さん、今日もスープを飲んだんだよ。少しだけど、朝ご飯も食べられたの」


 その言葉を聞いて、リゼットの胸が温かくなった。


「……そう。よかった」


「だから、私も手伝う。掃除くらいならできるよ!」


 ミナは籠を置き、近くにあった箒を手に取った。


 その時、入口の外から、低い声が聞こえた。


「おい。何を始めるつもりだ?」


 ベルンだった。


 彼は店内の様子を見て、呆れたようにため息をついた。


「本当に、店を開く気なんだな」


「はい」


「なら、一つ忠告しておく」


 ベルンは厨房を指さした。


「食堂は、客が来て初めて店になる。どれだけきれいに掃除しても、どれだけ立派なかまどを直しても、料理を食べてくれる人がいなければ意味がない」


 リゼットは頷いた。


「分かっています」


「なら、まずは一皿、作ってみろ」


「一皿……?」


「そうだ。俺に食わせてみろ。お前さんが本当にこの町でやっていける料理人なのか、確かめてやる」


 リゼットは、厨房へ目を向けた。


 まだ汚れたままの調理台。


 火の入っていないかまど。


 棚に残された、古い鍋。


 すぐに立派な料理を作ることはできないだろう。


 けれど、今あるものだけで作れる料理なら、一つ思い浮かんでいた。


「……分かりました」


 彼女は袖をまくった。


「私の料理を、食べてください」


 こうして、リュネ村の小さな食堂で、最初の一皿が生まれようとしていた。

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