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王宮を追われた料理人ですが、辺境の食堂で人々の心を取り戻します  作者: 弥
第1部 追放された料理人と、最初の一皿
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2/7

第2皿 誰も笑わない町

リュネ村の夕暮れは、王都よりもずっと早く訪れるように感じられた。


 山の向こうへ太陽が沈み始めると、通りを歩く人々は足早に家路を急ぎ、店先からは一つ、また一つと明かりが消えていく。


 リゼットは、町外れの小さな家の前で足を止めた。


「ここが、あなたのお家?」


「うん。お母さん、いつもここにいるの」


 少女は頷いた。


 名前はミナというらしい。年齢は十六歳。母親と二人で暮らしているが、母親は数日前から体調を崩し、仕事にも出られなくなっているという。


 家の中は薄暗かった。


 壁際には使い古された椅子が一脚、窓辺には小さな鉢植えが置かれている。台所には洗い物が積まれ、棚には空になった瓶がいくつも並んでいた。


「お母さん、ただいま」


 ミナが寝室へ声をかける。


 布団の中で、女性がゆっくりと顔を上げた。


「ミナ……? どうしたの、こんな時間に」


「この人がね、お母さんにスープを作ってくれるんだって」


 女性は戸惑ったようにリゼットを見た。


「まあ……わざわざ、すみません。うちは、お金もあまりなくて……」


「お代はいりません。食材も、私が持っているもので作りますから」


 本当は、リゼットの荷物にも食材はほとんど残っていなかった。


 それでも、母親の顔色を見れば、何か温かいものを口にしてもらいたいと思った。


 彼女は台所へ向かい、荷物を開いた。


 残っていたのは、小さな袋に入った乾燥豆、少量の塩、香草、それから旅の途中で買った玉ねぎが一つ。


 王宮なら、献立を変更するどころか、下ごしらえの段階で却下されるような食材だ。


 けれど、今ここにあるのはこれだけだった。


「ミナさん。鍋を借りてもいい?」


「うん。でも、うちの鍋、古いよ?」


「大丈夫。古くても、きちんと使えれば問題ないから」


 リゼットは袖をまくり、台所に立った。


 まず、乾燥豆を水で戻す。


 次に、玉ねぎを細かく刻んだ。


 包丁がまな板に当たる音が、静かな家の中に響く。


 トントン、トントン。


 規則正しい音を聞いているうちに、リゼットの胸の奥が少しだけ落ち着いてきた。


 料理をしている時だけは、余計なことを考えずにいられる。


 王宮での出来事も、冷たい視線も、自分を信じてもらえなかった悔しさも。


 今は、いったん脇に置いておける。


 鍋に少量の油を引き、玉ねぎを炒める。


 焦がさないよう、弱火でじっくりと。


 やがて、玉ねぎの甘い香りが立ち上った。


 戻した豆を加え、水を注ぐ。


 塩をひとつまみ。


 香草を指先で揉み、最後に鍋へ落とした。


 派手な料理ではない。


 特別な魔法も、珍しい食材も使っていない。


 それでも、鍋の中では少しずつ、豆と玉ねぎの旨味が溶け合っていく。


 リゼットは匙でスープをすくい、味を確かめた。


 もう少し、甘みが欲しい。


 彼女は荷物の底から、乾燥させた根菜の欠片を取り出した。


 旅の途中で手に入れたものだ。水で戻してから細かく刻み、鍋に加える。


 すると、スープの香りが変わった。


 玉ねぎの甘さに、土のような素朴な香りが重なっていく。


「……これなら」


 リゼットは小さく頷いた。


     ◇


「できました」


 木の器に注いだスープを、リゼットは寝室へ運んだ。


 湯気がふわりと立ち上る。


 ミナの母親は、器を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「こんなに、きれいなスープ……」


「熱いので、ゆっくり召し上がってください」


 女性は匙を手に取り、少しだけスープを口に含んだ。


 その瞬間、目を丸くした。


「……あたたかい」


 味の感想としては、少し変わっているかもしれない。


 けれど、リゼットには、その言葉が何より嬉しかった。


 女性はもう一口、スープを飲んだ。


 そして、ふっと肩の力を抜いた。


「おいしいわ」


 その声は、小さかった。


 それでも、確かに聞こえた。


 リゼットは思わず、顔を伏せた。


 目の奥が熱くなったからだ。


 王宮では、何十人もの貴族が料理を口にした。


 美しいと褒められたこともある。素晴らしい技術だと評価されたこともある。


 それなのに、今のたった一言が、どうしてこんなにも胸に響くのだろう。


「よかった……」


 彼女は、そう呟いた。


 ミナも母親の隣に座り、残ったスープを口に運んだ。


「おいしい! お母さん、これ、すごくおいしいよ!」


「ええ。そうね」


 母親は微笑んだ。


 その笑顔を見た瞬間、リゼットは母の食堂を思い出した。


 小さな木のテーブル。


 古びた椅子。


 鍋から立ち上る湯気。


 そして、食事を終えた客たちの、穏やかな表情。


 自分は、ずっとあの場所を目指していたのではなかったか。


 誰よりも優れた料理人になることではなく、誰かが安心して帰ってこられる場所を作ること。


 そのことを、いつの間にか忘れていたのかもしれない。


     ◇


 家を出た時には、すっかり日が暮れていた。


「リゼットさん!」


 ミナが玄関まで追いかけてきた。


「本当にありがとう。お母さん、久しぶりに笑ってた」


「私は、スープを作っただけよ」


「それでも、ありがとう」


 ミナは深く頭を下げた。


 リゼットは少し困ったように笑い、少女の頭をそっと撫でた。


「お母さん、大切にしてあげてね」


「うん!」


 その返事を聞いてから、リゼットは歩き始めた。


 けれど、数歩進んだところで、ふと足が止まった。


 ――今夜、どこに泊まろう。


 そういえば、宿を探すことすら忘れていた。


 財布の中には、わずかな銅貨が残っているだけだ。明日の食事を考えれば、宿代に使える金はほとんどない。


 彼女は夜空を見上げた。


 王都を出る時は、何もかも失ったと思っていた。


 けれど、今は少しだけ違う。


 自分の料理を食べて、笑ってくれた人がいた。


 その事実だけで、明日も歩いてみようと思えた。


 もっとも、現実は厳しい。


 空腹は満たされないし、寝る場所もない。


「……まずは、仕事を探さないと」


 リゼットは気を取り直し、町の中心へ向かった。


 その時、通りの向こうから、年配の男性が歩いてくるのが見えた。


 背は高くないが、肩幅が広い。白髪混じりの髪を短く刈り、厚手の上着を着ている。


 男性はリゼットを見て、怪訝そうに眉をひそめた。


「見ない顔だな。旅人か?」


「はい。今日、この町に着いたばかりです」


「そうか。なら、忠告しておく」


 男性は、町の外れを指さした。


「この町で、よそ者が商売を始めるのは簡単じゃない。特に食堂はな」


「食堂……?」


「客がいない。食材も高い。店を開いても、すぐに潰れる」


 男性はそれだけ言うと、立ち去ろうとした。


 リゼットは、その背中に問いかけた。


「この町には、食堂がないのですか?」


「あるにはある。だが、まともに飯を食える店は、ほとんど残っていない」


 男性は振り返らずに答えた。


「もし料理人だというなら、やめておけ。腕があっても、ここでは食っていけん」


 その言葉を残し、男性は夜の通りへ消えていった。


 リゼットはしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 やめておけ。


 王宮でも、似たようなことを言われた気がする。


 だが、今の彼女には、ほかにできることがなかった。


 料理しか知らない。


 料理をしている時だけ、自分が何者なのか分かる。


「……それでも、やってみよう」


 リゼットは小さく呟いた。


 誰も笑わない町なら、誰かが笑える場所を作ればいい。


 そんな場所を、本当に作れるかどうかは分からない。


 それでも、もう一度だけ。


 自分の料理を信じてみようと思った。

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