第2皿 誰も笑わない町
リュネ村の夕暮れは、王都よりもずっと早く訪れるように感じられた。
山の向こうへ太陽が沈み始めると、通りを歩く人々は足早に家路を急ぎ、店先からは一つ、また一つと明かりが消えていく。
リゼットは、町外れの小さな家の前で足を止めた。
「ここが、あなたのお家?」
「うん。お母さん、いつもここにいるの」
少女は頷いた。
名前はミナというらしい。年齢は十六歳。母親と二人で暮らしているが、母親は数日前から体調を崩し、仕事にも出られなくなっているという。
家の中は薄暗かった。
壁際には使い古された椅子が一脚、窓辺には小さな鉢植えが置かれている。台所には洗い物が積まれ、棚には空になった瓶がいくつも並んでいた。
「お母さん、ただいま」
ミナが寝室へ声をかける。
布団の中で、女性がゆっくりと顔を上げた。
「ミナ……? どうしたの、こんな時間に」
「この人がね、お母さんにスープを作ってくれるんだって」
女性は戸惑ったようにリゼットを見た。
「まあ……わざわざ、すみません。うちは、お金もあまりなくて……」
「お代はいりません。食材も、私が持っているもので作りますから」
本当は、リゼットの荷物にも食材はほとんど残っていなかった。
それでも、母親の顔色を見れば、何か温かいものを口にしてもらいたいと思った。
彼女は台所へ向かい、荷物を開いた。
残っていたのは、小さな袋に入った乾燥豆、少量の塩、香草、それから旅の途中で買った玉ねぎが一つ。
王宮なら、献立を変更するどころか、下ごしらえの段階で却下されるような食材だ。
けれど、今ここにあるのはこれだけだった。
「ミナさん。鍋を借りてもいい?」
「うん。でも、うちの鍋、古いよ?」
「大丈夫。古くても、きちんと使えれば問題ないから」
リゼットは袖をまくり、台所に立った。
まず、乾燥豆を水で戻す。
次に、玉ねぎを細かく刻んだ。
包丁がまな板に当たる音が、静かな家の中に響く。
トントン、トントン。
規則正しい音を聞いているうちに、リゼットの胸の奥が少しだけ落ち着いてきた。
料理をしている時だけは、余計なことを考えずにいられる。
王宮での出来事も、冷たい視線も、自分を信じてもらえなかった悔しさも。
今は、いったん脇に置いておける。
鍋に少量の油を引き、玉ねぎを炒める。
焦がさないよう、弱火でじっくりと。
やがて、玉ねぎの甘い香りが立ち上った。
戻した豆を加え、水を注ぐ。
塩をひとつまみ。
香草を指先で揉み、最後に鍋へ落とした。
派手な料理ではない。
特別な魔法も、珍しい食材も使っていない。
それでも、鍋の中では少しずつ、豆と玉ねぎの旨味が溶け合っていく。
リゼットは匙でスープをすくい、味を確かめた。
もう少し、甘みが欲しい。
彼女は荷物の底から、乾燥させた根菜の欠片を取り出した。
旅の途中で手に入れたものだ。水で戻してから細かく刻み、鍋に加える。
すると、スープの香りが変わった。
玉ねぎの甘さに、土のような素朴な香りが重なっていく。
「……これなら」
リゼットは小さく頷いた。
◇
「できました」
木の器に注いだスープを、リゼットは寝室へ運んだ。
湯気がふわりと立ち上る。
ミナの母親は、器を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「こんなに、きれいなスープ……」
「熱いので、ゆっくり召し上がってください」
女性は匙を手に取り、少しだけスープを口に含んだ。
その瞬間、目を丸くした。
「……あたたかい」
味の感想としては、少し変わっているかもしれない。
けれど、リゼットには、その言葉が何より嬉しかった。
女性はもう一口、スープを飲んだ。
そして、ふっと肩の力を抜いた。
「おいしいわ」
その声は、小さかった。
それでも、確かに聞こえた。
リゼットは思わず、顔を伏せた。
目の奥が熱くなったからだ。
王宮では、何十人もの貴族が料理を口にした。
美しいと褒められたこともある。素晴らしい技術だと評価されたこともある。
それなのに、今のたった一言が、どうしてこんなにも胸に響くのだろう。
「よかった……」
彼女は、そう呟いた。
ミナも母親の隣に座り、残ったスープを口に運んだ。
「おいしい! お母さん、これ、すごくおいしいよ!」
「ええ。そうね」
母親は微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、リゼットは母の食堂を思い出した。
小さな木のテーブル。
古びた椅子。
鍋から立ち上る湯気。
そして、食事を終えた客たちの、穏やかな表情。
自分は、ずっとあの場所を目指していたのではなかったか。
誰よりも優れた料理人になることではなく、誰かが安心して帰ってこられる場所を作ること。
そのことを、いつの間にか忘れていたのかもしれない。
◇
家を出た時には、すっかり日が暮れていた。
「リゼットさん!」
ミナが玄関まで追いかけてきた。
「本当にありがとう。お母さん、久しぶりに笑ってた」
「私は、スープを作っただけよ」
「それでも、ありがとう」
ミナは深く頭を下げた。
リゼットは少し困ったように笑い、少女の頭をそっと撫でた。
「お母さん、大切にしてあげてね」
「うん!」
その返事を聞いてから、リゼットは歩き始めた。
けれど、数歩進んだところで、ふと足が止まった。
――今夜、どこに泊まろう。
そういえば、宿を探すことすら忘れていた。
財布の中には、わずかな銅貨が残っているだけだ。明日の食事を考えれば、宿代に使える金はほとんどない。
彼女は夜空を見上げた。
王都を出る時は、何もかも失ったと思っていた。
けれど、今は少しだけ違う。
自分の料理を食べて、笑ってくれた人がいた。
その事実だけで、明日も歩いてみようと思えた。
もっとも、現実は厳しい。
空腹は満たされないし、寝る場所もない。
「……まずは、仕事を探さないと」
リゼットは気を取り直し、町の中心へ向かった。
その時、通りの向こうから、年配の男性が歩いてくるのが見えた。
背は高くないが、肩幅が広い。白髪混じりの髪を短く刈り、厚手の上着を着ている。
男性はリゼットを見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「見ない顔だな。旅人か?」
「はい。今日、この町に着いたばかりです」
「そうか。なら、忠告しておく」
男性は、町の外れを指さした。
「この町で、よそ者が商売を始めるのは簡単じゃない。特に食堂はな」
「食堂……?」
「客がいない。食材も高い。店を開いても、すぐに潰れる」
男性はそれだけ言うと、立ち去ろうとした。
リゼットは、その背中に問いかけた。
「この町には、食堂がないのですか?」
「あるにはある。だが、まともに飯を食える店は、ほとんど残っていない」
男性は振り返らずに答えた。
「もし料理人だというなら、やめておけ。腕があっても、ここでは食っていけん」
その言葉を残し、男性は夜の通りへ消えていった。
リゼットはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
やめておけ。
王宮でも、似たようなことを言われた気がする。
だが、今の彼女には、ほかにできることがなかった。
料理しか知らない。
料理をしている時だけ、自分が何者なのか分かる。
「……それでも、やってみよう」
リゼットは小さく呟いた。
誰も笑わない町なら、誰かが笑える場所を作ればいい。
そんな場所を、本当に作れるかどうかは分からない。
それでも、もう一度だけ。
自分の料理を信じてみようと思った。




