EX. 聖人と呼ばれた男の話(side. ルシエル)
この気持ちを持ったのはいつの頃だったか。
その気持ちを持ったと自覚したのはいつの頃か。
思い返しても定かではないほどに、その気持ちはいつの間にか自分の中に植っていた。
・ ・ ・ ・ ・
始まりはほんの偶然。
どんよりと暗い雲がざあざあと冷たい雨を降らせる最中に起きた猟奇的な事件だった。
冷たい雨音が少しうるさいくらいに馬車の屋根を叩くのを聴きながら家路を急いでいた時、馬車が急に停まったのだ。
どうやら通りで事件があったようで、人が垣のように道を遮っていた。
悲鳴が響き、怒号が飛び交い、あまりの様相に御者を制して自分が野次馬として覗きに行った時にはそれはあらかた終わっていた。
どうやら若い女性と男性が騎士に斬られたという。原因は痴情のもつれか。
現場を取り囲む野次馬の声を聞きながら、人々の垣根を超えて治癒術師と名乗りをあげる。
そうしたのは単純に人々に奉仕し、治癒を施すことが義務の治癒の聖人の名残だった。
人を救うことを是とする兄ならば迷いなくそうしたから、というのもある。
そうして治癒術師と名乗りをあげた自分は現場に駆けつけた警邏に連れられて被害者の元へと連れられた。
ひとりは見た目ほど深くはない。
血は多く流れているが、止血が正しく行われれば命に別状はないだろう。そしてすでにそれは救護する警邏によって行われていた。
けれどももうひとりは目を背けたくなるほどの惨状だった。
何度も刺突されたせいで胸の辺りは骨が砕け、ほぼ肉塊に貶められ、心臓どころか肺までやられている。
おびただしい血が雨に流れる様に駆けつけた警邏たちも彼女のことをどう救護するべきかと持て余しているようだった。
当然だ。自分だって一目見ただけで彼女には処置なしと判断を下す。
ーー下さなければならなかった。
けれども彼女の前に跪き、その肉塊に貶められた胸に手をかざしたのは兄を失って抱え込んでしまった虚無からだった。
本来ならばこうして兄を救いたかった。
彼を死から呼び醒まし、自分から兄を奪おうとした神というものに中指を立てて嘲笑ってやりたかった。
彼女はその代わり、とまでは言わないが、それでも彼女の蘇りはあの世にいる兄に対しての言い訳にはなるだろう。
そう思うとこうして哀れな女性と行き会えたのは運命のように思えた。
故に治癒の聖人と呼ばれるほどにまで高めた治癒術を全力で行使することに迷いはなかった。
眩く輝く光に周りで事態を見守っていた警邏たちが息を呑むのが聞こえた。
けれどもそれすら聞いていないほどに彼女を蘇らせることに集中し続けた。
そうしてどれほどの時間が経ったのか。
彼女に治癒術を施し終え、ひと息ついて気がつく。
多少の疲労感はあろうと、自分の身に何も起きていない。
目の前の彼女はひゅうひゅうと苦しげな呼吸を吐いてはいるが、息を吹き返している。
周りの警邏たちが安堵と喜びに沸く中、自分だけは唖然と固まり、絶句していた。
『人の生死を覆してはならぬ』
大神殿で洗礼を受ける際に三つの誓約を掲げた。
三戒と呼ばれるそのうちのひとつの戒めを破ったはずだった。
だというのにこの心臓はいまだに安穏と規則的に鼓動を打ち、一向に苦しみが訪れる気配もない。
そうしてしばらく自分の胸へと手を置いて顔をしかめ、やがて自分がその戒めを破ったわけではないのだと思い至った。
自分は生死を覆していない。彼女は死に瀕してはいたが、死んではいなかったのだ。
あれほどの惨状だったというのに、なんて強かな生命力か。
「り………く……」
彼女がうわごとのように唇をかすかに動かした。
ひゅう、と苦しげに漏らす吐息につい彼女の額に手を伸ばした。
そっと前髪を掻き分けるように彼女を撫で、ため息を漏らす。
「彼女に担架を。形だけを整えて急は脱しましたが、予断を許す状況ではありません。今すぐに治療院にお連れします」
手を出してしまった以上、彼女の治療は自分が責任を持ってしなければならない。これほどの怪我は並の治癒術師では手に余るだろうから。
自分の指示に警邏たちが騒然と担架の手配や治療院までの動線を確保しようと動き出す。
担架を待つ間、彼女の胸に改めて手をかざして治癒術をかける。
ああ、死にぞこなってしまったな。
治癒術の眩い白い光の隙間から見える苦しげに息をする青白い顔を恨めしげに眺める。
彼女にとっては八つ当たりの何ものでもないだろうとわかっていたけれども、それでも恨めしく思う気持ちは消せなかった。
・ ・ ・ ・ ・
命を救った彼女が自分に対してほのかな恋情を抱いている、というのは割と早い段階で気づいていた。
本人は隠しているつもりだったのかもしれないが、貴族淑女にしては存外に素直な彼女の好意はまるで隠せていなかった。
よくあることだ。
自分の容貌の高さ。人当たりの良さ。そしてほんの少しのおせっかい。
それが相まって女はもちろん、男からもそういった好意は寄せられることはよくあった。
彼女のそれは決して積極的ではなく、ささやかなもので、だから気にせず放置した。
何せその頃、自分にはやらねばならないことが山ほどあった。
腰掛けとはいえ、亡き兄から受け継いだ侯爵という業務はとても煩雑で、侯爵に仕えるものたちは一枚岩ではなかった。
それだけではなく、両親を亡くして心を閉ざしたフローラをどうしたらいいのかという問題もあった。
彼女はそれなりに賢しい子で侯爵の業務に追われる自分に気づいて、決して自身のことを請け負わせようとはしなかった。
ひとり内に篭ってしまうフローラが傷ついていることは承知で、自分にはどうにも手が出せなかった。
すべてをかなぐり捨て、彼女に寄り添うこともできただろう。けれどもそれは彼女の将来を捨てるのも同義で、侯爵の業務を疎かには決してできなかった。
結局、時間が解決するしかないのかもしれない。とフローラのことは気にかけつつも侯爵の業務に専念した。
そんなフローラに対して救いの手を差し伸べてくれたのがあの強かな生命力を持った女性ーーレティシア・スカーレットだった。
心を閉ざして荒れるフローラにまいって辞めてしまった家庭教師の代わりに派遣されたレティシアは一目見てフローラに必要なものを見抜いて、彼女に心から寄り添ってくれた。
フローラは真摯に寄り添ってくれる彼女に心を許し、よく懐いた。
それは自分にとってもありがたく、彼女がフローラを見ていてくれるからこそ侯爵の業務へと専念することができた。
「おや」
ある日の夕食時。
珍しく魔導式の蓄音機から流れる音楽に目を丸くすれば、蓄音機で音楽を鑑賞していたフローラがは、とこちらに気がついた。
彼女は一瞬、音楽を止めようと蓄音機に手を伸ばしかけて、けれども途中で思い直したように手を引いた。
「ーー今日、先生と音楽のことを話したんです。クラシックや舞踏会のダンスで使う曲だけでなく、流行りのオーケストラやオペラの曲だとか…貴族学園の催しなどでも使われたりした曲についても教えていただきました」
「そうでしたか。今流れている音楽もレティシアさんから教えてもらった曲ですか?」
「…… ………先生の好きな曲なんだそうです」
フローラの言葉にそう問返せば、彼女は辿々しくもそう返してきた。
柔らかく伸びるチェロの楽曲はとても優しい。聴いたことはないのに、どこか懐かしく響く調べ。
「有名な楽団の花形チェリストが手がけた楽曲で……先生が学生の頃に流行った曲なんだそうです。ピアノアレンジもあって、楽器を習っている人は皆、この曲を弾いたんだと……」
「なるほど、そうなんですね。確かにとても優しくて美しい旋律です。フローラ、あなたも気に入りましたか?」
レティシアの授業を受ける前ならば、彼女は余計なお喋りを自分としようなんてしなかっただろう。
珍しく饒舌な彼女にそう返せば、フローラは蓄音機に目を向け、やがて小さく頷いた。
「…………私も、楽譜を取り寄せて弾いてみようかと」
「それはとても素敵な試みですね。弾けるようになったらわたしにも聴かせてくれますか?」
「っ、お、叔父様はお仕事で忙しいでしょう……!」
少しは踏み込ませてくれたが、彼女はハッと我に返ったように顔を真っ赤にするとそう言って食堂の自分の席まで駆けて行ってしまった。
一度作ってしまった壁を急に取り払うことはどうやら難しいらしい。
それでも還俗して侯爵を引き継いだ頃よりは軟化した態度を見せてくれたフローラの背中を見て、ついホッと口元が綻んだ。
フローラが早めに立ち直ってくれることを、兄はきっと願うだろうから。
・ ・ ・ ・ ・
「ルシエル様ぁ」
執務室で仕事をしていたはずなのに、甘えたな女性の声がノックとほとんど同時に響いて、顔を上げる。
こちらが返事をする前に扉が開き、ひとりの女性が姿を現す。
まだ昼間だというのに胸元が大きく開いた扇状的なドレスを纏った派手な化粧の女性。
キャスリン・ネグロ。
「お手紙をお持ちしましたぁ」
「……お客人に雑用をさせてしまうとは困った使用人もいるものですね。家令は何をしているのでしょう」
「やだぁ、怒らないであげて。アタシがルシエル様に持ってくってお願いしたの」
ため息混じりの言葉にキャスリンはニコニコと笑ってそう返してきた。
彼女はそのまま扉を閉めて執務机に近づいてくるので、執務の手を止めてすぐに彼女が閉めた扉を開いた。
無論、彼女と密室でふたりきりという状況を避けるためだ。
何もしていないのに既成事実を叫ばれてはたまらない。
「そうでしたか、それはわざわざありがとうございます。手紙はどうぞそちらに。今は執務の途中ですので、お構いできないことにどうかご容赦を。話があればまた夕食時にネグロ子爵がご一緒の時に伺いましょう」
「ええ、ちょっとくらいお話してくれてもいいじゃなぁい」
退室を促すが、それで退くキャスリンではない。
彼女は開いた扉の前に立つルシエルへと身を寄せる。
開いた胸元を強調し、見せつけるように下から上目遣いで見上げる彼女からはひどく甘ったるい香が香った。
どこか蠱惑的な甘い香りは嗅いだことがある。
色街で娼婦がよく使っている催淫香の類だ。
即効性があって強烈なものではないが、長く嗅いでいると思考を若干鈍らせて欲情を催させるものだ。
ここまであからさまだと失笑を漏らさないようにするのも苦労する。
「ーー仕方ありませんね。執務は小休止を取ることにしましょう。キャスリン嬢、お茶はいかがですか」
執務机から立ち上がった際に一緒に持ってきた鈴を鳴らす。
茶に誘われたキャスリンは我が意を得たりとばかりににたりと笑って、
「ちょうど良かった、お土産のお菓子があるの」
と、腕に絡みついてきた。
そんな彼女をやんわりと振り解き、彼女に改めて執務室からの退室を促した。
今度はキャスリンも素直に従って執務室から出る。
そんな彼女の背を見てもう一度ため息を落とすと、彼女を追って自身も執務室から出た。
ネグロ子爵一家はわかりやすくアルビオン侯爵家を狙っていた。
そのための一手が彼女、キャスリン・ネグロだ。
その昔、まだルシエルが八つと幼い頃にキャスリン・ネグロが婚約者として当てがわれようとしたことがあった。
それはルシエルの父が亡くなった頃、ルシエルの兄であるミカエラ・アルビオンを亡き者にした後で幼いルシエルとキャスリンを結ばせてネグロ子爵家がそのままアルビオン侯爵家に取って代わろうというものだ。
その時の野望は奇しくも挫かれ、彼らはしばらくミカエラの元で大人しくしていたはずなのだが、そのミカエラが亡くなって彼らはまたあの時の野望を掴もうと必死になっている。
「ルシエル様って昔から甘いものがお好きでしょぉ? だからほら、とっても美味しいスコーンを焼いてきたのぉ」
サロンに通し、侍女がお茶と一緒に持ってきた焼き菓子をこれみよがしにキャスリンが自慢する。
ルシエルは微笑んで相槌を打ちつつ、ティーカップを持ち上げた。
茶の香りもわからないほどに香を香らせるキャスリンのせいでいつもはたっぷりと入れる砂糖を入れる気にもならない。
「ほらぁ、食べてみて」
「いただきます」
キャスリンがテーブルから身を乗り出して焼き菓子を口元に運ぼうとする。
その際に露わな胸の谷間が視界に飛び込んだ。
おそらく見せつけて誘っているのだろうが、ここまであからさまにやられると食指など沸くはずもない。
ルシエルはそのまま差し出された焼き菓子を彼女の手から取り上げて、かじった。
焼き菓子は確かに甘い。けれどもほのかにアルコールのような苦味も感じる。
「……お酒が入っているのですか?」
「ふふ、大人の味でしょぉ? ルシエル様も大人になったんだからこういう味も覚えないと」
子供のようにテーブルに肘をついてニマニマと眺めるキャスリンの言葉にルシエルは改めて焼き菓子を口にする。
彼女は酒と言ったが、おそらく仕込まれているものは媚薬だろうと察した。
催淫香だけでなく薬まで使うとはどんな手を使っても既成事実を作って侯爵夫人の座を奪おうとする執念が見えた。
とはいえ詰めが甘すぎる。
こちらは元々治癒の聖人まで上り詰めた男だと忘れてはいやしないか。
経口接種した薬がどれだけの時間で効いてくるのかはある程度わかるし、その間に盛られたものの解毒など人知れずに容易くできる。
ルシエルはそのままキャスリンに勧められるがままにひとつ、ふたつと焼き菓子を食べ、彼女に微笑みかけた。
「とても美味しいですね。キャスリン嬢はお食べにならないのですか?」
「え〜、でもこれアタシが持ってきたヤツだしぃ」
「これほど美味しいものは独り占めするよりも誰かと一緒に共有したくなるものですから、キャスリン嬢もぜひ」
「……い、今、ダイエット中で」
「たかが焼き菓子ひとつ、大したカロリーにはなりませんよ。さあ、ほら」
そうして断り続ける彼女の口元に彼女がしたように焼き菓子を運ぶ。
「あ〜ん?」
ダメ押しとばかりにそう言う。麗しい容貌の自分が無邪気にそう告げれば断れる人間がそういないことを知っている。
彼女もまた例に漏れず、観念して口を開いた。
互いに盛るだけでこの後の展開は変わらないのだからと思ったのだろう。
「う〜ん、美味しいぃ〜」
わざとらしく頬に手を当て、ぶりっ子するキャスリンにルシエルはただ微笑む。
残念ながら彼女の思惑通りに事は運ばせない。
それから軽いお喋りをして十数分後。
「ーーおや、キャスリン嬢、少し頬が赤いようですが大丈夫ですか?」
呼吸が乱れ、頬を真っ赤にしたキャスリンにルシエルはそう問いかけた。
「ん……少し酔っちゃったみたぁい……」
胸元に手を当て、怪しい目つきでキャスリンが答える。
確かに酩酊し、フワフワと前後不覚になっているような様は酔っているようだった。
彼女が食べた焼き菓子はひとつだけだったはずだが、それだけでこれほどに酩酊するとはどれだけのものを仕込んできたのか。
「それはいけません。今すぐに彼女を客間へお連れして休ませてあげてください」
「ルシエル様ぁ、お願い、一緒にいてぇ……胸が苦しくてぇ……」
「大丈夫ですよ、アルビオン侯爵家の侍女はきちんとしたものばかりですからあなたのこともよく介抱してくださります。それでも具合が悪ければ医者を手配しましょう」
こちらに手を伸ばすキャスリンの手をかわし、ルシエルは侍女たちへと指示を下した。
ルシエルの指示を受けて侍女たちは戸惑いながらもルシエルの名前を呼び続けるキャスリンを連れてサロンを出ていく。
その後ろ姿を見送り、その後で焼き菓子の処分を命じる。
その時はまだ困った親類に迷惑をかけられて鬱陶しいと思う程度だった。
それがどす黒い殺意へと変貌したのはその後、レティシアからフローラが乗る馬車に魔獣を寄せ付ける細工をされたかもしれないと知らされてから。
もしかしたら兄夫婦が魔獣に襲われたことは事故ではなく、何者かの暗殺だったのかもしれないという可能性はルシエルの心をざわつかせるのに十分すぎるものだった。
・ ・ ・ ・ ・
眠りに落ちる前。
ベッドで横になる前に日課となっている祈りを捧げながら、ルシエルはただただ自身の中にうごめくどす黒い感情に心を浸していた。
思い描くのは最愛の兄を魔獣に食わせた不届きものを八つ裂きにする光景だ。
ただでは死なせない。
兄の受けた苦痛以上のものを味合わせ、いっそ殺してくれと泣き叫ぶまでの責め苦を与えてやるのだ。
そのことを思い描くだけで内側に秘めた大きな聖力がざわつくのを感じた。
聖力、と銘打っているがこの力は本当に聖なる力というわけではないことをルシエルは理解している。
怪我や病気をあっという間に治癒し、人や土地に様々な加護を与え、悪いものを浄化し、寄せ付けなくする。
そんな神の御業を体現する力だから聖力と呼ばれているだけで、この力は使い方を誤れば簡単に破滅へと導く力にもなり得るものだった。
ルシエルが得意とする治癒術もそう。
命の神秘を司る力は人の生死を左右できるほどのもの。
かけがえのない命というものに触れられ、弄ばれるなど生き物にとって本能的に忌避するものだ。
だからこそ復讐する時はこの力を使うと決めていた。
「ーー……………」
だがそう決めていても、その力をいまだに振るうことはできていない。
おそらく裏で糸を引いているのはネグロ子爵家だろうと当たりはつけているが、確証があるわけではなかった。
確証がない。疑わしいだけでこの危険な力を振るうほどルシエルも見境がないわけではない。
いや、危険な力だからこそ慎重にならざるを得なかった。
何せこの復讐を遂げるためにこの力を使ったら最後。自分の命は制約によって奪われることになるだろう。
復讐の末にこの命が尽きることなど惜しくはない。
けれども間違った相手の命を奪った挙句に真犯人を取り逃がしてのうのうと生きながらえさせてしまったのならば目も当てられない。
だからこそ確証が欲しかった。
「ーー…………」
逸る気持ちのように揺らぐ聖力を押さえつける鎮め、祈りを終えて目を開く。
視界に飛び込んだのはサイドテーブルに置いた小さなジュエリーボックス。
王女の誕生祭の時にヨハンナから受け取ったものだ。
そのジュエリーボックスを目にすると堪えきれない気持ちが込み上げ、つい手を伸ばして箱を開いた。
そこに納められているのは小さな青い石がふたつ。
小指の先ほどの小さな欠片のような石は暗闇の中でもひっそりと淡く光を放っているようだった。
アクアマリンともサファイアとも違う、薄水色の石は加護の聖女と呼ばれるヨハンナだけが作り出すことのできる特別な聖石だ。
聖石は普通、清めて聖力を馴染みやすくした石に聖力を込めて加護や結界といった効果を付与するものだ。
けれどもこの聖石は違う。
これは不純物を一切含まない純粋な聖力の結晶だ。
それだけでも特別な代物で、普通の聖石と一線を画すほどに強力なお守りだ。
けれども、それを作れるからといってヨハンナが加護の聖女と特別な呼ばれ方をしているわけではない。
ヨハンナが特別なのは、自分のもの以外の聖力をも結晶化できるという点だ。
それが例え亡くなった人のものであっても。
この聖石は兄の亡骸に残った聖力を結晶化したものだった。
『ルゥくん、これね。頼まれていた聖石。ルゥくんのお兄様、目覚めていないだけで結構強い聖力を持っていたみたい。さすがルゥくんのお兄様だね。ボクがかさ増しする必要、全然なかったよ』
そう苦笑するヨハンナからこれを手渡された時には本当に驚いた。
彼女にはただフローラの命が脅かされないよう、ただ穏やかな日常を送れるようお守りとなる守護の聖石を依頼しただけのはずだったから。
『お兄様の想いをそのまま聖石にするつもりで作った。娘を護りたい、弟を護りたい。君のお兄様ならきっとそう思うでしょ?』
『お兄様がそばにいるって思ったらルゥくんも無茶なんかしないでしょ』
そう告げるヨハンナにルシエルは何も言えなかった。
手の中にある箱の中で輝く聖石の輝きを見ていられなくなって、箱をそっと閉じる。
「……………兄様」
きっと、これから自分がしようとしていることを兄は良しとしないだろう。
憎悪を抱いたからといってその相手を極限まで苦しめて死に至らしめる。それも自分の命を投げ出してだ。
いつかに兄に両手を握られて言われた言葉を思う。
遠く離れた過去が他人事のように遠く感じられることが悲しかった。
胸に抱いたジュエリーボックスをサイドテーブルに戻す。
この聖石を持つには、兄の願いを蔑ろにする自分はあまりに不似合いだ。
きっと手元に置けば兄のことがよぎって復讐する心も鈍るだろう。
だからといって復讐を諦める気もなかった。
ヨハンナはフローラと自分のためにふたつ、用意してくれたようだが、いっそふたつともフローラへと渡してしまおうか。
耳飾りに加工をすればそれとなく両方フローラへと渡せる。
だが、けれども。
自分は結局強欲で、兄を感じられるものが自分のものでなくなることが堪えきれなかった。
結局手元に置かず、けれども最後にはこの兄の遺品が自分の元に戻るにはどうしたら良いだろうかと考えて、ふとマルクスの話を思い出した。
『レティシア・スカーレット伯爵令嬢を妻に迎えるのはいかがでしょう』
アルビオン侯爵夫人の立場を狙うものを牽制するため。フローラから暗殺のターゲットをそらすため。
アルビオン侯爵家を守るためにアルビオン侯爵家とは関係のない伯爵令嬢を巻き込む傲岸な提案は、けれどもアルビオン侯爵家を守るという意味で理には適っているものだった。
人選も問題ない。
フローラもよく懐いているレティシアという女性は野心はなく、誠実でお人好しな人柄だ。
ルシエルに対して好意は抱いていても、彼女のそれはアルビオン侯爵夫人に執着するものではなく、ルシエルに何かを求めるようなこともない。
自分にとってーーアルビオン侯爵家にとってあまりにも都合が良い人間で、つい失笑がこぼれた。
ちょうどいい、彼女についでに背負わせてしまおう。
彼女にも守護は必要であるし、その点ヨハンナの作った守護の聖石ならば何も問題はない。
兄もきっとフローラを笑顔にしてくれる人を護ることには異論ないはずだ。
そうして時が来たら彼女にこの聖石の由来を知らせ、返してほしいと希えば他者を慮る彼女ならばきっと自分にこの聖石を返してくれるだろう。
それがあまりにも身勝手すぎる願いだと知りつつも、彼女に背負わせることに迷いなどはなかった。
・ ・ ・ ・ ・
予想外だったのは、レティシア・スカーレットという人間と兄の聖力を結晶化した守護の聖石の相性が思いのほか良かったということだろうか。
元よりヨハンナが守護を授けた聖石は悪いものを寄せ付けないという点では抜きん出たものがあったが、兄の身内であるフローラよりもレティシアはその聖石に馴染み、危機察知能力が予言レベルの直感へと引き上げられていた。
兄の遺物とそこまで馴染みが良いことに若干の嫉妬を覚えつつも、それが悪いこととは思わなかった。
「ルシエルさん、少し席を外しても良いでしょうか?」
フローラの誕生パーティーの最中に連れ立っていたレティシアがふとそう問いかけてきた。
眉尻を下げ、困ったような顔をするレティシアにルシエルは首を傾ぐ。
「いかがいたしましたか、レティシアさん」
「先ほどケーキを落としてドレスを汚してしまったと騒ぎがあったでしょう? 私、その騒ぎを起こした人が少し気になってしまって……様子を見に行こうと思うんです」
「ああ……」
レティシアの言葉にルシエルは先ほどの騒ぎを思い返す。
ケーキを落としたのはネグロ子爵夫人であるドロレス。
ケーキを落とされてドレスを汚したのはネグロ子爵令嬢のマチルダ。
今、アルビオン侯爵家に対して悪意を持ったネグロ子爵家のものが騒ぎを起こしたことが気になるのは普通のことだ。
「わたしも共に参りましょうか?」
「いえ、主催のルシエルさんが席を外すのは他の招待客が訝しむでしょうから、私ひとりで向かいます」
そう言う彼女がそっと左薬指に嵌った婚約指輪を親指でなぞった。
無意識の癖のように指輪をなぞる彼女の仕草が気になったものの、ルシエルは彼女をそのまま見送った。
その直後である。
席を外そうとするレティシアの後を追うようにひとりの男がパーティー会場から抜けようとした。
「ーーご機嫌よう、トープ男爵」
その男には見覚えがあった。
アルビオン侯爵家の寄子で、舞踏会の時にも自分たちのことを遠巻きに様子を伺っていた男だ。
トープ男爵はルシエルに声をかけられてハッと振り返り、慌てて礼を返してきた。
「こ、これはアルビオン侯爵、お声がけいただき光栄です」
「今日は我が姪の誕生パーティーにお越しいただきありがとうございます。トープ男爵家からは髪飾りの贈り物をいただきましたね」
「は、はは……アルビオン侯爵家のお嬢様に贈るにはあまりにもつたないものですが、少しでもお気に召していただけたなら幸いです」
ルシエルの言葉にそう返しながらも彼はチラチラとレティシアが去っていった本館の方へと視線を向けている。
その彼から甘ったるい嗅いだことのある香りがして、ルシエルは軽く目を細めた。
催淫香。それもキャスリンが使っていたものと同じものだ。
その臭いで彼の狙いを察する。
おそらく彼は舞踏会の時からレティシアを襲おうと様子を伺っていたのだ。
理由はもちろん、レティシアを傷物にして自分の婚約者の座から退かせるためだろう。
レティシアがひとりで本館に向かおうとしなければこの男も動かず、レティシアを狙っていると知ることはなかっただろう。
「ルシエル様ぁ」
と、背後から鼻にかかった甘ったるい声と共に誰かが飛びつこうとして、ルシエルはそっと身を避けてそれをかわす。
と、同時にその人物の足へと自分の足を引っ掛けて転ばせれば、背後から自分に飛びつこうとした人物はそのままルシエルの正面に立つトープ男爵の胸に飛び込んだ。
「キャスリン嬢、華やかな場で浮かれるのは相変わらずですね。危ないので少し落ち着かれたらいかがですか?」
「だってルシエル様を見つけたから嬉しくなっちゃってぇ」
そうしてキャスリンは受け止めてもらったトープ男爵に何かを言うでもなく、ルシエルへと向き直った。
「いけませんよ。トープ男爵にもご迷惑をおかけして……それともトープ男爵にとっては役得だったんでしょうか」
キャスリンと入れ替わるようにそそくさとその場を立ち去ろうとするトープ男爵をそう言って引き止める。
「い、いえ、そんな……確かにキャスリン嬢のような方を受け止められるのは男冥利に尽きますが……」
ルシエルに話しかけられたことでこの場から離れられなくなって、トープ男爵はしどろもどろに笑う。
おそらくキャスリンはトープ男爵を引き止めるルシエルを見て割り込んできたのだろう。
今だってどうやってこの場から怪しまれずにトープ男爵を逃してレティシアの元へと向かわせようかとふたりで目配せしあっている。
きっとふたりの共謀は舞踏会の時から続いている。
舞踏会の時はキャスリンがレティシアにワインを引っかけ、着替えるためにレティシアが控え室に下がったらトープ男爵が襲う手筈になっていたのだろう。
が、結局舞踏会ではキャスリンが引っ掛けようとしたワインはレティシアに避けられ、その後は宰相まで出てきて彼らは引き下がらなければならなくなった。
故に今日、改めてレティシアを襲おうとふたりは画策したわけだ。
「おや、とてもお上手なんですね、トープ男爵。そう言われたらキャスリン嬢もまんざらでないでしょう」
だからルシエルはこの場からふたりを逃がさないことにした。
ニコニコと笑い、空気の読めない男の振りをして話を続ける。
さて、どうやって彼らから力を削いでやろうか。そんなことを算段しながら。
・ ・ ・ ・ ・
トープ男爵はキャスリンの情夫だ。
キャスリンが一年前に嫁ぎ先から離縁されたのもトープ男爵との密通が原因だ。
その時にふたりはキャスリンの婚家に慰謝料をたんまりと支払って痛い目を見ただろうに、いまだに繋がっていて共に悪巧みをするほどだとは驚いた。
ネグロ子爵もキャスリンをルシエルに嫁がせるためにその悪巧みに目をつぶっているのだろう。
ひとまずトープ男爵の方から叩いてみるべきか。
彼はキャスリンなんかと連んでいる素行の悪い男だ。叩けば何らかの埃は必ず出てくるだろう。
それが兄の暗殺と関係がなくとも、キャスリンの手駒が減ると思えばやる価値はある。
キャスリンもろとも裁けるならばネグロ子爵も焦らせることができるだろう。
そうと決めてレティシアを伴って視察へと出たというのに、敵は予想外にも早く尻尾を出した。
「ルシエルさん、お願い、やめて!」
レティシアの悲鳴にもルシエルは心が揺れることはなかった。
目の前に見据えるのは兄を奪った憎い仇だけだ。
「ーーレティシアさん、手を離してください」
「いいえ、離しません。離せません。ルシエルさん、どうか冷静になってください。あなたが彼らと同じ場所に堕ちてどうするのですか」
己の手を握りしめるレティシアの手は決して緩むことはなかった。
先ほど、彼女はネグロ子爵に向けて放つ聖力のおぞましい側面に触れたはずだろうに。
生命の輝きに触れ、そこから生の温度を奪って命を縮める生物にとって忌避すべき力を放っていた手を彼女は固く握りしめたまま、自分を真っ直ぐと見上げる。
「お願いします、ルシエルさん。どうか堪えてください。あなたがこの人の命を奪ってもお兄様はきっと喜びません。お兄様はとても優しい方だったのでしょう?」
懇願する彼女の瞳には恐怖が浮かんでいた。
こちらの手を押さえつけるように握りしめる手は力を込めすぎて白くなり、震えていた。
本能的な恐怖に怯えつつも彼女は自分にしがみついたまま、必死に声を上げている。
「そんな優しい方の弟であるあなたの手を汚さないでください。あなたの手は誰かを救うためにあるはずです。こんな人のために汚すなんて、そんなのあまりにも悲しすぎます」
「ーー……………」
彼女の左の薬指にはまった指輪が視界の端に映る。
聖力をたたえた守護の聖石。
本当なら彼女と共にこれがここにあることがおかしいのだ。
こうなることを予想できたから、彼女は麻酔代わりに使う催眠術で昏睡させて森に踏み入る前に置いてきたというのに。
それでもこうして彼女が目覚めて追ってきたのは、おそらくあの守護の聖石がルシエルの使った催眠術を害だと認識して緩和したのだろう。
それが兄の意思のようで歯噛みする。
仇は目の前にいるというのに、兄は望んでいないと見せつけられているようでどうにも歯がゆい。
「ルシエルさん、お願いします。あなたの手は誰かの命を奪うものではなく、救うためにあってほしいんです」
改めてレティシアが懇願する。
彼女の真っ赤な瞳は決して兄の薄水色の瞳と似つかないのに、いつかの時に自分を止めて諭した兄と重なった。
自分の手を必死に握るレティシアの手の温度もそう。いつかの兄が自分の手を包んだ温度と似ていて、だから彼女の手を振り払ってもう一度ネグロ子爵へとその力を差し向ける気力は奪われてしまった。
手を引けば、レティシアがハッと息を呑んで自分を見つめた。
「…………レティシアさん、止めてくださり感謝いたします。おかげでわたしは兄の言いつけを破らずに済みました」
彼女にそう告げるも、彼女の方を振り返ることはできなかった。
どす黒い憎しみはまだ燻っている。
本当は目の前にいる仇を八つ裂きしてやりたい。
いっそ殺してくれと泣き叫ぶまで痛ぶって、最後には笑ってとどめを刺してやりたい。
けれども自分の手を握りしめた自分を心配する手のひらの温度を思うと踏みとどまらざるを得なかった。
ああ、取り損なった。
また死に損なってしまったな。
そう考えて、前もこうやって彼女に阻まれたことを思い出して笑いたくなってしまった。
・ ・ ・ ・ ・
こうして兄を奪ったネグロ子爵家は破滅した。
前アルビオン侯爵夫妻の暗殺したと露見したネグロ子爵家は一族郎党死刑という重い処罰を言い渡されることになった。
ルシエルが手ずから命を奪わなくとも、ネグロ子爵があっさりと死刑になることに対してもう何の感情も沸かなかった。
あれほど切望した仇の死ではあるが、自分の手で処せないとわかればもうどうでも良くなってしまった。
あれからルシエルは淡々とアルビオン侯爵としての業務をこなしながら、日々を過ごしている。
なんだか急に世界が色褪せたみたいだ。
いや、ずっと前からこうだったのだろうか。
いつからこんな風だったのか、もはや思い出せない。
「………兄様」
その声に返ってくるものは何もない。
兄を蘇らせることもできず、自らの命を断つこともできず、仇すらこの手で取れない。
では自分はこれから先、どうしたらいいのだろうか。
することはある。
日々、こなさなければならない義務は山のようにあって、これから先も探せばいくらでも抱えることはできるだろう。
けれどもその義務だけ抱え、胸に空いた穴を見ないように何かに追われるように生を駆けることを思うとゾッとした。
けれどもゾッとしたからといって、どうしたらいいのかまるでわからなかった。
「もういい、あなたには頼らないから!」
と、思考がどんよりとした気持ちに呑み込まれそうになったところで、そんな声が響いた。
誰かに向かって怒鳴りつけるフローラの声にハッとして執務室を出れば、自室から飛び出してきたフローラをマルクスが必死で追うところだった。
「待てって、フローラ! 別に協力しないとは言ってないだろ!」
「でもあなた、マチルダの死刑を覆すことは否定的なんでしょ! だからいいわよ、あなたがいなくても先生が協力してくれてるから!」
フローラはそう言い捨てるとマルクスを置いて走り去ってしまう。
まるで台風一過のように大騒ぎしてあっという間に去っていったフローラを見送っていると、フローラに手を焼いていたマルクスとはたと目があった。
「侯爵様……すみません、お騒がせを」
「いえ……何事でしょうか? フローラが何かわがままを?」
そうマルクスに問いかけると彼は困った顔をして後頭部を掻き、やがてこう口にした。
「ああ……いえ、なんというか、フローラはマチルダが死刑になることがどうにも納得できないみたいで」
「納得ができない……? それはなぜ?」
マルクスの言葉に目を丸くする。
マチルダはフローラを陥れようと色々と画策していたことがすでに知れている。
この間もフローラがマチルダと面会をしたいと言うから連れていったのだが、その時にフローラとマチルダはかなり激しい言い合いをすることになり、その際にマチルダがフローラを妬み、嫌い、そのためにマルクスとの仲をも壊そうとしたのだと暴露されたというのに。
「俺にも自分を裏切ってた相手の死刑が納得できないって気持ちはわかりませんけど……でも多分、見知った顔が死刑になるのって気分が悪いとか……いや、そんなんじゃないか。とにかく俺、もっとちゃんとフローラと話してきます。侯爵様、御前を失礼します」
そうしてマルクスは「待てよ、フローラ!」と声を上げながらフローラを追って立ち去った。
マルクスの背中も見送り、ルシエルはただ怪訝に眉をひそめることしかできなかった。
「………先生が協力してくれている、か」
その先生とは間違いなくレティシアのことなのだろう。
緋色の髪の、兄とは似ても似つかないはずなのに兄とよく似た善性を持つ彼女を思う。
フローラのわがままと呼べるどうしようもないことにも、きっと彼女は寄り添って自分の時間を削って懸命にしているのだろう。
『あなたの手は誰かの命を奪うものではなく、救うためにあってほしいんです』
彼女を思えば、同時に彼女の言葉が思い起こされる。
彼女が必死になって訴えた言葉はかつて兄が自分に約束させた言葉と同じもの。
おぞましい力に怯えて震えながらもこちらの手のひらを握った指先の色は白く、かつて自分の手を握ってくれた兄の手のひらとは違う形なのに温度はとてもよく似ていた。
「ーー……………」
レティシアはレティシアで、兄の代わりになれないことを知っている。
兄の代わりにしようとすれば、違うところばかりが目につくのだろうと思う。
それでも今、無性に彼女に会いたくなってしまったのはどうしてなのだろうか。
・ ・ ・ ・ ・
コツ、コツと緩やかな靴音だけが響く。
夕暮れの街並みをレティシアと連れ立って歩く。
婚約者なのだからと彼女の手を包むように繋いだ時、レティシアはうぶな乙女のような反応を示した。
相変わらず素直な反応は可愛らしいと思う。
その一方で彼女が自分に対して怯えたような戸惑いを見せていることも知っていた。
おそらくネグロ子爵を殺めようとした自分を恐れているのだろうとはうすうす察していて、けれども察しながらも彼女の恐れを無視した。
手の中にある彼女の手のひらは小さい。
ほっそりとした女性らしい華奢な手のひらは幼い頃に自分の手のひらを包んでくれた兄の手のひらとは大違いだ。
兄の手のひらは繊細な作りをしているようでその実、しっかりと大きくて厚い男の手のひらだった。
その辺りは彼女よりも兄弟である自分の手のひらの方が似ているだろう。
「またフローラが我儘を言ったようですね」
兄と彼女の違いを探しながら、そんなそぶりも見せずに彼女に語りかける。
自分の言葉に返事をするレティシアの背は自分よりも頭ひとつ分小さい。
夕暮れの中でも燃えるように鮮やかな赤い髪はアルビオン侯爵家では決して見ない色で、気丈な顔立ちの彼女によく似合っていた。
性別は当然違うし、声も立ち振る舞いも違う。兄とはまったくの別人の人。
それでも、彼女の考え方はほんの少し兄に似ていると思った。
フローラの、他人の気持ちに寄り添って、その善性を肯定する。
それだけでなく、
「……………ルシエルさんは……あの時ネグロ子爵を討てなかったことを、悔やんでおりますか」
恐る恐る自分にそう問う彼女は自分の気持ちにも寄り添おうとしている。
復讐を望み、それを遂げようとした自分の行為を肯定はしなくとも、その気持ちを拾い上げて少しでも理解しようとする彼女の姿勢に苦笑がこぼれた。
彼女は自分と違って本当に優しい人なのだと思う。
きっとたくさんの人に愛されてきて、その愛を別の誰かに分け与え得ることを疑問に思わない人なのだろう。
聖人などと持て囃されている自分などよりもずっと清廉で聖女らしいと思う。
「いいえ。レティシアさんが止めてくださって本当に感謝をしております」
嘘を言う。
本当はいまだにこの内側に憎悪は燻っている。
この手で仇を討てなかったことを悔い、彼らを八つ裂きにすることを夢想している。
けれども彼女にそれを微塵も感じさせたくなかった。
彼女のように、兄のように清廉な心で在れなくとも、その心を曇らせるようなものにはなりたくなかった。
「レティシアさんは言ってくださいましたね。わたしの手は誰かの命を奪うものではなく、救うためにあってほしいと。兄もね、あなたと同じことを言ったんです」
「お兄様が……」
「ええ。あなたと同じように命を奪おうとする力を使ったわたしの両手を握り締めて、あなたと同じことを訴えた」
だからルシエルはそう口にする。
仇を取れなかったことを悔いてはいても、いつかの兄との約束を破らず誰かを救うための優しい手のひらでいさせてくれたのは彼女のおかげなのは本当なのだから。
「……あれは父が亡くなった直後のことでした。父が病でこの世を去り、アルビオン侯爵の家督は兄が継ぐことになりました」
遠い昔の話を語って聞かせる。
誰かを害そうとし、それを止めた兄と同じことをした彼女にその時の兄の話をすることは心の中にある砕け散ったガラス片を素手でひとつずつ拾って片付ける作業に似ていた。
今はもう兄と話すこともできず、思い出を重ねることも許されないという事実が思い出を片付ける指先を突き刺す。
傷ついた指先から赤い滴がふくりと大きく膨れて滴るように、苦しいと、悲しいという感情がこぼれる。
「ーーレティシアさん」
兄との思い出を片付けて、足を止める。
つられて足を止めるレティシアをまっすぐと見据えれば、彼女は居心地が悪そうに居住まいを正した。
「お願いをしてもよろしいでしょうか」
「……な、何でしょうか」
「あなたの鼓動を聴かせてほしいのです」
そう告げれば、彼女はやはりほんの少し動揺を見せた。
「私の、鼓動……」
「はい。わたしが兄の言いつけを守り、命を生かすために繋ぎ止めた音を聴かせてください。わたしは兄を裏切らなかった……わたしは兄との約束を守ったのだと、その証をどうか……聴かせてほしい」
そう乞えば、彼女はほんの僅かの逡巡の後、おずおずと両手を開いた。
彼女に導かれるように彼女の胸へとそっと頭を委ねる。
とく、とく、と少し駆け足の心臓の音が聴こえる。
己が繋ぎ止めた命の音。
己の死を阻んだ力強い生の鼓動。
兄との約束を裏切らせなかった、裏切ることを許さなかった人の心臓が脈打っている。
「…………兄様……」
彼女を巡る血潮の音は心地良く耳を打つ一方で、ひどく悲しみがあふれ出すものだった。
理由はわかっている。
ルシエルは生きるのだ。生きることを選ぶのだ。
大切で最愛だった兄がいなくなったこの世界で。
もはや過去にしか生きていない兄を置いて、未来を歩まなければならない。
その別離がひどく苦しくて、悲しくて、涙をこぼす。
レティシアの両手がそっとルシエルの頭を抱き、ぎこちなくとも優しく頭を撫でる。
彼女の鼓動を聞き、彼女の温度を感じながらルシエルはただ静かに泣いた。
さようなら、ミカエラ兄様。
ようやくその言葉を兄へと贈ることができた。
・ ・ ・ ・ ・
マチルダを救おうと思ったのは、気まぐれのようなものだった。
兄の忘れ形見であるフローラが真剣に望むから。
同時にレティシアがフローラと同じように彼女の生を望んだからだ。
元々彼女に施した方法はダメで元々。
自分の命を引き換えにしてまではするつもりはなかった。
それがなまじ上手くいってしまったものだから、呼びつけたヨハンナに叱責されることになった。
それはどうせいつものことだ。自分が無茶をしてヨハンナが地団駄を踏んで叱りつけるのは大神殿では日常だった。
問題はそれ以降、レティシアが少しよそよそしくなってしまったことだ。
こちらの様子を窺うそぶりを見せるものの、踏み込むことをためらう様子に一抹の懸念がよぎる。
何か彼女を幻滅させるようなことをしただろうか。
この頃、ルシエルはすでにレティシアを逃すつもりは一切なかった。
彼女の存在は自分の生になくてはならない。
それは彼女が兄と同じことをして、自分を繋ぎ止めたからなのか。
兄を失って穴の空いた自分の心を受け止めるように抱き締めてくれたからなのか。
単純に彼女が寄せてくれる好意が心地よかったからなのか。
理由なんて定かではないが、そんなものはルシエルにとってはどうでもいいことだ。
重要なのはルシエルがレティシア・スカーレットという人間を必要としているという一点だけだった。
「ーーどうでしょうか」
「え?」
「そろそろレティシアさんもわたしのことが少しはわかり、幻滅する頃ではないかと」
きっとレティシアは知らないだろう。
なんてことない顔をしてそう問う自分が子ウサギに狙いを定めた獅子のように獰猛な感情を秘めていたのか。
彼女がその言葉を肯定したその時には、その獲物を狙う獰猛な感情のままに彼女が自分から離れられないようにあらゆる手段を講じていただろう。
「ーーいいえ」
彼女がそう答えたから。まっすぐと自分の瞳を見て恋をしたことを後悔はないと言ってくれたからその牙を見せつける必要はなくなった。
それどころか彼女は健気にもこちらの心配をしてずっと思い悩んでいたというのだから、ルシエルは喜んでしまう。
自分のことで一喜一憂する彼女がますます愛おしくなった。
彼女が伸ばし、必死に自分の手のひらを掴む。
そのあたたかな小さく華奢な手のひらを握り返す。
この手は決して手放してなんかやらない。
「ーー…………」
その決意を口にすれば、途端に号砲に遮られた。
「あ……ええと、ルシエルさん、今……」
頬を染めたレティシアが聞き返してくる。
残念ながら言葉は彼女に届かなかったらしい。
けれど、
「二度は言いません」
ルシエルはそう意地悪を口にした。
途端にレティシアは押し黙り、真っ赤な顔をそっと伏せる。
こちらが何を言ったのか、前後の文脈で推し量ろうとしているようだった。
その横顔を眺め、ルシエルは握ったままの彼女の手のひらを握り締め続ける。
彼女の頭の中がもっと自分でいっぱいになってしまえばいい。
・ ・ ・ ・ ・
「ーーおや」
アルビオン侯爵の業務をフローラにあらかた引き継ぎ終え、屋敷を引き払う準備として部屋の片付けをしていた時、ルシエルは机から一通の手紙を見つけた。
封蝋もない簡素な手紙はかつて自分がしたためておいた遺書だった。
自分が死んだ後にレティシアに兄の聖石を返してくれるようにねだったはしたない文面を眺め、苦笑する。
そうしてルシエルはそのままその遺書に蝋燭で火をつけると暖炉へと投げ入れた。
ーーあれから数年。
レティシアに渡した婚約指輪には兄の遺物と呼べる聖石がはまっていることを話す機会は訪れていない。
かつての自分ならばそれを返してもらうために話をするタイミングを計っていただろう。
今もそれは変わらない。
けれどもそれを話す意味合いは大きく変わった。
あなただからこそ大事な兄の遺物を預けているのだ、と告げた時、彼女はどういう反応をするのだろうか。
「…………ふ」
その時のレティシアの反応を思い浮かべると思わず口元が綻ぶ。
ただそれは今ではない。
「ルシエル様、もう間もなくお出かけのお時間になります」
「ありがとうございます」
使用人が出かける時間を知らせ、ルシエルはその言葉に出かける準備を始めた。
今日、久しぶりにレティシアと会う。
フローラの結婚式に出席するためのレティシアのドレスを仕立てるためだ。
そうしてその結婚式を最後に、長かった自分たちの婚約期間を終える。
「さて……どうやって連れ出しましょうか」
準備をしながら、プロポーズの算段を脳裏に描く。
場所はすでに決めている。
かつてレティシアが元婚約者にプロポーズをされた庭園。
過去の男を塗り替えようとするなどあまりにも狭量だろうか。
けれどもほんの少しでもレティシアを独占したいと思う狭量な男を魅了したレティシアが悪い。とルシエルは開き直って、プロポーズをどう成功させようかと詳細を詰め続ける。
早くレティシアに会いたくて仕方がなかった。




