EX. 悪役令嬢は失恋する
本編にはまるで関係ない番外編です。
本編軸から十数年後くらいを想定。
「君には幻滅した」
面と向かってそう告げる婚約者の軽蔑の眼差しに私は奈落に突き落とされるような感覚に陥った。
彼はそれだけ言い捨てると傍らの平民特待生の肩を抱き、私にはもう一瞥もくれずに歩き去る。
彼は一切振り返らないのに平民特待生の泥棒猫の方が私を気遣わしげにチラチラと振り返るのがまた癪だった。
「……なんでよ……」
その後ろ姿に私は思わず呟く。
引き裂かれた胸の痛みからドクドクと血が流れるように醜い感情が溢れる。
「何でなのよ」
醜い感情が荒れ狂う泥の大波になって私の心を呑み込む。
とても重たくて、冷たくて、汚い感情に呑まれた私の心はひどく凶暴だった。
「何であの女なのよっ!!」
私の喉から漏れる声は金切り声で、不快な響きをしていた。
それでも私は自分の声を止められず、感情のままにワァアアアアッ! と泣いて喚いた。
友達だと思っていた令嬢たちはそんな私を遠巻きにし、腫れ物を前にしたように顔を見合わせるばかり。
それがひどく惨めで、たったひとり孤立させられてしまったような感覚になった。
おそらく客観的に外側から見れば、今の私に触れたら八つ当たりをされることが容易に想像できたから皆、声をかけることもできずに立ち尽くしていたと気がつけただろう。
でもこの時の私は冷静ではなく、そんなことにも思い至ることもできずに裏切られた気持ちでますます僻みっぽくなっていた。
「まあ、一体何事!?」
そこにひとりの女が現れた。
鮮やかな真っ赤な髪をひとつにひっつめた優雅な貴婦人。この学園の教師であるレティシア先生だった。
「まあ、どうしたの、シアン公爵令嬢。そんなところに座り込んで……何があったの?」
「触らないで! 何よ、何よ何よ何よ、みんなして私を馬鹿にして……! 嫌い、みんな大っ嫌いよ!」
「シアン公爵令嬢、落ち着いてちょうだい。大丈夫、誰もあなたを馬鹿にしたりしていないわ」
「嘘よ! どうせみんな私のことなんて地位しか取り柄のない我儘で癇癪持ちの陰険女って思ってるんでしょうっ!」
「シアン公爵令嬢、そんなことないわ」
レティシア先生が私を宥めるが、それはますます私の癇癪に火をつける。
けれどもレティシア先生はずっと私に寄り添い、根気強く宥め続けてくれた。
・ ・ ・ ・ ・
アイオラ・シアン。シアン公爵家に生まれた末の娘が私だ。
優しい両親と兄と姉に溺愛と言っていいほどに可愛がられてきた私には、六つのときにできた愛しい婚約者がいた。
それがルター・フラーウス。
フラーウス侯爵家に生まれた嫡男だった。
陽の光のような眩い金色の髪に琥珀色の瞳をした彼は神がこの世に送り出した芸術品のような麗しい人だった。
あまりの美しさに私は一目で虜になり、彼に夢中になった。
ルターは元々口数が少なく、他者と交わろうとしない大人しい少年だった。
婚約者として積極的に私に関わろうとする様子はなく、両親に促されて初めて私に話しかけたり、贈り物を贈るような感じだった。
六つ、七つの少年としてはそれは多分普通の反応だったろう。
それでも私が話しかければ短くとも相槌を返してくれて、手紙を送れば短くても返信をくれた。
私はそれだけで舞い上がり、彼と仲良くするために積極的に話しかけ、関わろうとした。
完全に恋する乙女だった。
彼が婚約者として義務的なことしか返してこなくても、それでも彼が婚約者として在るだけで嬉しくて、いつか彼と結ばれる日を待ち望みながら彼に相応しい淑女であろうと努力を重ね、交流を持とうと積極的に彼へのアピールを重ね続けた。
ルターが婚約者としてあまりにも素っ気なくて義務的なことしかしないのを許せたのは、彼が私だけではなく他の人たちにもそうだったからだろう。
ルターは他人と関わることよりも静かなところでひとりで読書をしたり、勉学に励むことを好む人だったから、私は私に対してルターが素っ気なくても気にならなかったのだ。
むしろ彼がそんな風に社交に消極的ならば、彼が仕事に集中できるように私が社交をして彼のフォローしようと懸命に励んだのだ。
そうやって私たちは時間を重ね、体は成長してもあまり変わり映えのしない関係を続けて貴族学園に入学する。
私は淑女科。彼は経営科に進み、クラスは離れて少し寂しかったけれども、私はこの学園を卒業すれば彼との結婚が待っていると思えば我慢ができた。
だが。けれども。
フレイア。
平民特待生として同学年で入学したあの女と出会ってから、私はルターとの距離をまるで縮められていないことを突きつけられた。
あれはいつの日のことだっただろう。
もう間もなく夏の訪れが来るというのに、その足音すら聴こえないような、うららかな春の日差しに照らされた日。
私はランチの入ったバスケットを持って、いつものようにルターの元へと通った。
人目を忍び、物静かな場所を好むルターがいる閑散とした学園の裏庭で、私は見てしまった。
ルターのそばに腰掛けて話をするフレイア。
それだけならばルターの容貌の高さにのぼせ上がった令嬢がルターにまとわりついているだけだろうと私は判断しただろう。
いつものことだ。私が婚約者として、公爵令嬢として彼女を追い払って、私は何も気に留めなかっただろう。
けれども私が心穏やかでいられなくなったのはルターが笑っていたからだ。
誰にでもクールで素っ気ない態度の婚約者は彼女にだけ穏やかに微笑みかけ、甘い眼差しでその女を見ていたのだ。
それは彼と出会って婚約者として少なくない時間を共にしたはずの私でも見たことのない顔だった。
私は彼の微笑みを見た時、彼との距離がいかに離れていたかを知り、私が長い時間をかけても決して縮められなかった距離をあの女はいともあっさりと飛び越えていたことを知った。
湧き上がったのはドス黒い怒り。
何で。どうして。やめて。
そんな言葉があっという間に私を塗りつぶすように溢れ、同時に私たちの間に割って入ろうとする女を憎く思った。
気がつけば私は二人の間に割って入り、フレイアのことを怒鳴りつけていた。
その時のことはあまり覚えていない。
ただ感情的に婚約者のいる男に近づくなんてふしだらだの、ルターはひとりを好むのにまとわりつくなんて迷惑だだのと怒鳴りつけ、公爵令嬢の私の婚約者を誘惑するなんて貴族社会で生きていかれないようになりたいのかと脅しとも取れるようなことも言ったかもしれない。
フレイアはヒステリックに喚き立てる私に恐縮し、謝ったけれどもそれがますます私の癪に障った。
だが私をもっと激昂させたのはルターだ。
「言い過ぎだ、アイオラ」
彼は私を宥めるよりもフレイアのことを庇い、私を軽蔑するような眼差しを向けてきた。
その視線があまりにも冷たく、私のことを傷つけた。
何故、そんな女を庇うのか。
何故、私ではなくそんな女へと優しくするのか。
私はこんなにもあなたを好きなのに。愛して、あなたのために努力を重ねてきたのに。
どうして私ではなく、そんな女へと靡くのか。
私のすべてを彼に否定されたような気がして、私は余計にあの女が許せなくなった。
だから私は彼女に嫌がらせを始めた。
公爵令嬢として培った人脈や、ルターのために培ってきた社交スキルでもって彼女の有る事無い事を言いふらし、悪い噂を広めた。
高飛車に彼女に当たり、時には幼稚に彼女の私物を隠したり壊したりして彼女を虐めた。
公爵令嬢である私がそうすれば、右に倣えとばかりに私を取り巻く令嬢たちも彼女を無視したりくすくすと嘲笑ったりして彼女を孤立させた。
それでも腹が立つのは、私たちにそんな嫌がらせをされてもフレイアは健気に耐え忍び、私たちを悪く言わず、何にもめげずに学園生活を送ったことだ。
踏まれてもなお強く咲き誇るタンポポのような彼女はとても強く、だからこそルターが惹かれたのだとわかるのが余計に目障りだった。
私が嫉妬で醜く矮小な性根を晒しているからこそ、余計にその差が気になって、私は荒れた。
途方もない悪循環にルターの心がますます離れ、あの女へと傾倒していくのがわかって私は焦った。
そうして私はついにあの女に手をあげた。
ルターが彼女に首席を取った祝いと贈ったペン。
それはとてもささやかで値段も大したものではない。仲の良い級友に贈るに何もおかしくはない程度の代物だったけれども、それでもそれは私の神経を逆撫でした。
私は彼に誕生日のプレゼントとして大きな花束や、夜会の度に高価なアクセサリーだってもらっていた。
けれどもそれはいつだって婚約者として無難なものだった。
婚約者としての義務というだけで贈られたものであり、彼の心はそこになく、私のために選んでもらったものでは決してなかったのだ。
だから彼女がもらった、彼がおそらく初めて自分で人のために選んだという贈り物がたまらなく羨ましくて、私は義務でしか贈り物をもらえないことが悔しくて、それなのに彼の婚約者という立場であることが私を惨めにした。
そのぐちゃぐちゃの感情の発露がすべてフレイアへの暴力へと向かい、私は彼女に向かって平手を振り上げていた。
彼女の頬を打ち据えるために振り上げた手は、結局フレイアに届かなかった。
ルターが彼女をまたしても庇ったからだ。
ルターの目は暴力に訴える私のことをはっきりと蔑んでいて、私は凍りついたように動けなかった。
「君には幻滅した」
聞きたくもない言葉をルターが追い討ちのように吐く。
私はその瞬間に悟ったのだ。
彼の気持ちは完全に私から離れ、私と彼の関係は断絶してしまったのだと。
私の恋は、もう取り返しがつかないものとなってしまっていた。
・ ・ ・ ・ ・
「そう……あなたはとても辛かったのね、シアン公爵令嬢」
あれからレティシア先生に別室に連れていかれ、そこで事情をすべて話し尽くした私にレティシア先生はそう言った。
この人はフレイアを虐げる私を何度も注意し叱りつけてきた人だったけれども、そんな人からでも同情するように寄り添われたら私はまた涙腺を決壊させて大号泣してしまった。
レティシア先生は私を宥めるように私の肩をさする。
「先生……わたし、わたし……どうしたらいいの? ルターに嫌われてしまった私は……何でこうなってしまったの?」
「シアン公爵令嬢……」
「ルターが大好きだったの。ルターのためなら何でも頑張れたの。でもルターは私を見てくれなかったの。何で? 私の方がずっと一緒にいたのに、私が婚約者なのに。何で私じゃないの……?」
レティシア先生が痛ましげに私を見つめ、それからやがてこう口を開く。
「……そう思ってしまう気持ちはよくわかるわ、シアン公爵令嬢。好きな人と気持ちが繋がらないことは死んでしまいたくなるくらいに落ち込むわね」
口ではどうとでも言えるだろうけれども、レティシア先生の言葉には確かな重みがあって私は何も言えなかった。
レティシア先生は言葉を続ける。
「私もね、昔すごい失恋をしたわ。私の場合は、彼と好き合っていたけれども、それでも途方もない失恋よ」
その言葉に私が顔を上げれば、レティシア先生は眉尻を下げ、困ったように微笑んでいた。
「私はね、その人のことを愛していたし、結婚も考えていた。けれども彼の好きって気持ちと方向性が合わなかったのね。結局彼とはご縁がなくて、私はすごく落ち込んだの。どうしてこうなってしまったんだろう。私のせいで彼とお別れすることになってしまったんじゃないかって、たくさん悩んだ」
レティシア先生の失恋話に私は胸がきゅうと締め付けられた。
好き合っていても別れてしまうだなんて、恋愛というものはとても残酷だ。
「先生は……どうして立ち直れたんですか?」
「私の場合はね、落ち込む私を諭してくれた人がいたの」
「先生を……諭した……」
「そう。その人に『関係性は互いに作り上げるもので、ひとりで抱え込んで何かを変えられたと思うのはとても傲慢なことだと思いますよ』って叱られたの」
その言葉に締め付けられた胸がキュッとますます締め付けられた。
痛くて、苦しくて、また涙が滑り落ちる。
先生の言葉がとても痛かった。
だってルターとの関係はいつも私からの一方通行だった。
そう。結局私は長く時間をかけても彼との関係を築くことができていなかったのだ。
そんな残酷な現実を目の当たりにして、私は涙に濡れる顔を覆った。
レティシア先生がそっと私の肩を抱きしめ、さすってくれる。
その腕はとてもあたたかく、私は子供のように泣く。
「たくさん泣きなさい。今はたくさん泣いて、辛いことを全部出し切ってしまいましょうね」
レティシア先生の優しい声に私は甘えて泣き喚く。
その間、レティシア先生は私にずっと寄り添って優しく肩をさすっていてくれた。
・ ・ ・ ・ ・
「ーー先生」
「ん?」
やがて涙が落ち着いた頃、私はぽつりと切り出す。
「……私、何にもなくなっちゃいました」
「そんなことないわ」
私の言葉にすぐさまそう返すレティシア先生の言葉に反発心が生まれる。
だって私には本当に何もなくなったのだ。
ルターからは見放され、嫉妬に狂って陰険なことをした上にあのように発狂するみたいに泣き喚いた女を友達は見放しただろう。あの時、誰も私に声をかけなかったことが証左のように思えた。
婚約者に軽蔑されて上手くやれなかった娘など、家に損害を出したようなものだ。何せ相手は侯爵家。いくら我が家が公爵家で身分は上とて、破談になって家同士の関係が悪化すれば家族だって私に幻滅するだろう。
ルターと結婚できたとて私を軽蔑する彼との結婚生活は絶望的なものになるだろうし、だからといって婚約解消になってキズモノになったら次なる結婚では私の希望なんてほとんど通らずに歳の離れた人に嫁ぐことになるかもしれない。
それをレティシア先生に感情的に訴えても、彼女はあっけらかんと笑った。
「あら、それは二度破談を経験した私に対しての挑戦状かしら?」
「え、二度破談……!?」
「そう。一度目の婚約者は当人同士の相性が最悪で破談。二回目は結婚が秒読みだったのに、彼と価値観が合わなくてやっぱり破談になったわ」
朗らかに告げるレティシア先生の言葉に絶句する。
からかわれているんじゃないかと思うほどに、とてもそうは見えなかったからだ。
「それでも私はこうやって結婚もしたし、貴族学園で教鞭まで執れている。たった一度の失恋で全部を失うことなんてないの」
そうしてレティシア先生は私の手を取ってこう続ける。
「あなたもね、ここに来るまでに色んなものを培ってきたわ。彼のためだったとは言うけれど、あなたが社交界で頑張って身につけた淑女の振る舞いも、他者への配慮の仕方も、自分や家の売り込み方も、人脈だってあなたの身につけてきた力。あなたは学園での勉学だって頑張ってきたでしょう? その姿もみんな、見て知っているの。だから大丈夫。全部失ってしまったなんてことはないはずよ」
レティシア先生にそう言われても私はとてもそうは思えなかった。
私は視線を落としてモジモジと指を組む。
そうしていると学園の鐘の音が鳴った。
その音には、と顔を上げる。
こんな事情があったとはいえ、授業をサボったなんて初めてのことだったからだ。
「シアン公爵令嬢、次の授業は出られそうかしら?」
レティシア先生がそう問いかけてくれるが、私は俯いたままだった。
授業には出なくてはならないと思う。
けれども今、教室に戻るのが怖かった。
みんなから蔑まれるんじゃないかと思うとどうしても足が竦むのだ。
「……せっかくお迎えが来ているけれども、無理そうかしら?」
レティシア先生の言葉に私がはっと顔を上げる。
レティシア先生が開いた部屋の扉の向こう側に、私の友達たちがいた。
「アイオラ様……」
「あの……まだ、ご気分は優れませんか……?」
気遣わしげに私を見つめる友達たちの顔を見て、私はまた涙が溢れてしまう。
私は首を横に振り、彼女たちのところへと飛び込んでいく。
そんな私を彼女たちは受け止めてくれて、私は嬉しくてますます泣いてしまった。
・ ・ ・ ・ ・
あれから私は自身の行いを反省してフレイアに頭を下げた。
私の友達たちも一緒にだ。
フレイアは恐縮してとんでもないと首を振ったけれども、ルターは変わらず私を蔑むように見つめるばかりだった。
彼の視線に私は心を痛めたけれども、これもまた自業自得だと彼にも頭を下げた。
そうしてこれから変わる私を見ていてほしいと伝えた。
彼にそれが伝わったかはわからない。
でも多分、伝わらなかったのではないかと思う。
一年、二年と貴族学園で彼の婚約者として品行方正に、真面目な淑女となるべく改めて頑張ってみたけれども、彼の態度が変わることはなかったからだ。
それが辛くて、私は結局自分から家族に申し出て彼との婚約を解消してもらった。
私の話に家族はルターに激怒し、フラーウス侯爵家は恐縮した。
皆、私がルターのことを大好きだったことを知っていたから。
そんな地獄のような様相の中で、私は激怒する家族を宥めながらフラーウス侯爵家と淡々と婚約解消の手続きを進めた。
ルターはその間もいつもと変わらない冷たい瞳をしていた。
無言でいる彼に私も何も言えず、ただつきりと痛む失恋の傷を抱えたまま婚約の解消手続きは済んだ。
あまりにもあっけなさすぎて、現実感がなかったくらいだ。
「…………ルターのこと、好きだったのにな」
貴族学園を卒業する日、私は淑女科の教室から窓の外にいるルターを見つめていた。
今、彼はひとりでどこかへと向かっている。
風の噂で彼は今日、フレイアへと求婚をするのではないかと聞いていた。
彼は今、フレイアの元へと向かっているのだろうか。
そう思うと胸がぎゅうと締め付けられる。
婚約を自ら解消したというのに、恋心はまだ私の真ん中に居座って消えてくれない。
何せ十年近くもルターのことを想い、彼のためだけに努力してきたのだ。
そう簡単に割り切れるものではない。
だが昔のようにフレイアに嫌がらせをして排除したいかというと、そういう気持ちは失せていた。
そんなことをしたってルターは私を振り返らないことを知っているから。
これから私はどうするのだろう。
そういえば家に釣り書きが何枚か届いているという話を聞いた。
その中から誰かを選んで嫁ぐことになるのだろうか。
きっとそうなるのだろう。
その誰かに嫁いで、新しい関係を築いて、そうすればこのルターへの想いも溶けるようになくなるのだろうか。
「…… ………………」
それは、何でかほんの少し悔しくもあり、寂しくもあった。
婚約解消をした今でも無意識に考えてしまう。
私はどうすればよかったのだろうか。
どうしたらルターの心を掴めたのだろうか。
レティシア先生には『ひとりで抱え込んで変えられると思うことは傲慢だ』と諭されたのだけれども、それでもやっぱり私はルターが大好きで振り向いてもらいたかったから、悩んでしまう。
貴族学園を卒業すれば大好きなルターと結婚できる未来を夢想していた日々はもう途絶して叶うことがないのに、もしもを思い悩んで叶わない未来に行くにはどうしたら良かったのかと考えてしまった。
「ああ、良かった。シアン公爵令嬢、まだ残っていたわね」
「レティシア先生……?」
ぼんやりと窓辺でルターの姿が見えなくなった外を眺めていると、教室にレティシア先生が現れた。
彼女は私に「卒業おめでとう」と挨拶をして、それからこんなことを言う。
「シアン公爵令嬢、あなた、ちょっとしたアルバイトに興味はないかしら?」
「アルバイト……?」
「ええ、私が夫と共同で経営している孤児院があるんだけれど、そこの子供達に読み書きを教えたり、作法を教えられる人を探しているの。何人かに声をかけているんだけれども……あなたももしよければ参加してみない?」
その言葉に私はほんの少し迷った。
けれども卒業後にどうするかなんてまるで決まっていない私は、少しでもできることがあるならやるべきだと思った。
それがルターのことを忘れるために少しでも動いていたいだなんて不純な動機ではあったのだけれども。
「ーーぜひやらせてください。お願いします」
「ええ、ありがとう。あなたがそう言ってくれて良かったわ」
頭を下げた私にレティシア先生はにっこりと微笑んでくれた。
この先生ならば、そんな不純な動機がバレたとしても「それでもいいのよ」と言ってくれる気がした。
・ ・ ・ ・ ・
レティシア先生に誘われたアルバイトは思った以上に大変だった。
何が大変って、子供に物事を教えることが想像以上に難しかったのだ。
ひとりひとり違う理解度。それぞれの価値観や覚え方があって、教え方にも工夫が必要だった。
私は彼らひとりひとりと根気強く向き合い、教え方を模索した。
「ーーだからね、リリアはここの計算でいつもつまずくの。多分、この方程式とこっちの方程式がごっちゃになっちゃっているんだわ。でもそこをどうやってごっちゃにならないように教えればいいか悩んじゃって」
「なるほど……確かにこの二つの式は似てるからな。だったらこっちをこうしてーー」
私の言葉を受けて、目の前の青年はすぐさま目の前の用紙にすらすらと式を書いていく。
スレイン・ヴィオレット。
ヴィオレット伯爵家の次男だ。
私と同じくレティシア先生の誘いを受けて、孤児院の子供達に同じように読み書きを教えたり、経営科だった知識を活かして孤児院の経営の手伝いもしている。
最初は数人いたはずのアルバイトも皆、それぞれ結婚をしたり自分の進路を見つけて就職したりして、結局私たちだけが最後まで残ってしまった。
「二人とも、熱心ね」
そこにレティシア先生がお茶とお茶請けを乗せた盆を持ってやってくる。
「熱心なことはいいけれど、少し休憩になさいな。甘いものを食べると頭の疲れが取れるわよ」
「ありがとうございます」
レティシア先生の厚意に甘えて、私たちは少し休憩をする。
レティシア先生の淹れてくれたお茶と甘いマドレーヌを口に運べばホッと気が緩む感覚がした。
思った以上に私は根を詰めすぎていたらしい。
見ればスレインも同じような顔をしていて、私と同じ状態だったことに気がついた。
そうして私たちは休憩がてらにおしゃべりを楽しむ。
おしゃべりといっても真面目なスレインは経営のことだったり、子供たちの勉強の進捗だったりと報告みたいな話だったけれども。
それでもその会話を聞くのも彼の視点から思いがけない発見があったり、レティシア先生のアドバイスが私にも当てはまったりして実になるから、ついつい耳を傾けて、私も口を出した。
その時間は心地よくて、その時間はルターのことも何も考えないでいられて、私にとって幸せな時間だった。
「そういえば来週、謝肉祭があるけれど二人はどうするの?」
ふとレティシア先生がそう問いかける。
謝肉祭はこの一年の豊穣を祝うこの国一番のお祭りだ。
ルターと婚約していた頃は彼と二人で出かけてみたいと思っていたものの、人混みや騒がしい場所が苦手な彼と出かけることは叶わなかった。
だから私が謝肉祭に遊びに出かけた記憶は家族や友達とのものだけだ。
そのことをほんのり苦々しく思い出していると、ふとスレインと目が合った。
思いがけずに目が合ってしまったことに少しばかり動揺しつつも、私は「何?」と彼に向かって首を傾いだ。
すると彼はそっと視線を背け、それから居心地悪そうに自分のうなじをさする。
レティシア先生が「あらあら」と微笑ましそうに私たちを見つめた。
「私は席を外した方がいいかしら?」
「先生」
レティシア先生の言葉にスレインが反発するように感情的な声を出した。
彼のそんな声を聞くのは初めてで私が少し驚いていると、彼はまた改めて私の方を振り返った。
その視線が思ったよりも強く、鋭くて私は緊張に竦む。
「シアン公爵令嬢……その、もし、その日に予定が決まっていないんだったら……」
「え、ええ……何?」
「ーー…………」
問い返すもスレインは沈黙してしまう。
彼は先ほど私を見た視線の鋭さはどこへやら。迷うように視線をさまよわせて押し黙ってしまった。
だから私は戸惑う。
レティシア先生は微笑ましげに私たちを見守るばかりだ。
「予定がなかったら……」
スレインが改めてそう口にした。
さまよう視線。彼の頬がなぜか真っ赤に染まっている。
その様子に私も彼の頬の赤さを移されたように顔に熱が集まった。
「…………一緒に、遊びに行かないか」
そう問いかける彼の声音は蚊の鳴くようなか細いものだった。
・ ・ ・ ・ ・
正直、スレインとの謝肉祭は楽しいというよりも緊張ばかりが先に立った。
二人していつもの調子が出なくてカチコチになってぎこちなくて、楽しいなんてものじゃない。
それでもスレインが精一杯に私を気遣ってくれているのはわかったし、だからこそ私も彼を意識してしまった。
でもスレインに悪いと思うのが、私は彼をどうしてもルターと比べてしまっていた。
スレインはルターと違って、私の好物を尋ねて私のことを知ろうとしてくれる。
スレインはルターと違って、私の苦手なものがないか苦痛はないかと気遣ってくれる。
スレインはルターと違って、不器用だけれども精一杯に私に好意を示してくれている。
そんなことを比べてもどうしようもないのに、私はそんなことを考えてはスレインに申し訳ない思いでいっぱいになった。
やっぱり私の心の中心には今でもルターが居座っている。
彼のことがやっぱり今でも何故か大好きで、ここに彼以外の人を入れることにどうしても抵抗があった。
「ーー……あ」
ふと謝肉祭を楽しむ人々の中にフレイアの姿を見つけた。
彼女もまた謝肉祭を楽しんでおり、けれどもその隣に立つ人はルターではなかった。
そう、結局ルターもまた恋に破れていた。
どうやら元々フレイアに惹かれ、恋心を盛り上げていたのルターだけだったらしい。
彼女は侯爵令息を拒否することができずに当たり障りなく接して、それで勝手に私の嫉妬され、巻き込まれて嫌な思いをすることになってしまった被害者だったというわけだ。
結局彼女は卒業式の日に告白されたルターの想いを丁寧に辞退し、元々好き合っていた恋人と早々に結婚したという。
元より彼女は平民特待生。
侯爵家の嫡男と結ばれるのはあまりに身分が違いすぎて、彼の思いを受け入れたとしてもフラーウス侯爵家もいい顔をすることはなかっただろう。
彼女は彼女でしっかりと自分で自分の幸せを考えて掴み取ったわけだ。
その強さが眩しくて、封じ込めていた悪意が再燃しそうになった。
ルターにあんなに想われていたくせに。私が欲しいものを手にしておきながら、あっさりと投げ捨てるだなんて。それでいて勝手に幸せになるなんて。
そんなことを考えて奥歯をギリリと噛みしめた時、ふと私は手をぎゅうと握られた。
驚いて振り返れば、スレインがバツ悪そうな顔をして顔を背けた。
「人が多くなってきたから……はぐれると大変だし……」
「あ……うん……」
ボソボソと言い訳をするスレインに私は頷いて、それからもう一度フレイアがいた方向を振り返る。
けれども人の波に紛れてしまった彼女の姿はもう見つけることはできなかった。
「…………スレイン」
「ん?」
「……………ありがとう」
私がそう告げれば彼は何も言わなかったけれど、どことなくソワソワしながらも私の手をぎゅ、と握った。
私の手を掴む手のひらが私を悪意に落ちそうになる私を引き留めてくれているような気がして、私は彼の手のひらを握り返した。
ごめんなさい、あなたの気持ちに応えられないのに。
でも、あなたがいてくれてよかったなんて、勝手に救われてごめんなさい。
・ ・ ・ ・ ・
謝肉祭のデートの後、スレインは孤児院のアルバイトを辞めた。
元々スレインが進路を決めないで卒業後にアルバイトをしていた理由は、ヴィオレット伯爵家が後継者を定めるのに難儀していたからだと言う。
長男であるスレインの兄に後を継がせたいヴィオレット伯爵と、魔導の道に進みたくて爵位継承を嫌がったスレインの兄との攻防についに、スレインの兄が魔導学で快挙といえる論文を発表してヴィオレット伯爵がついに諦める形で決着がついたのだ。
スレインはヴィオレット伯爵家を継ぐために家に戻り、私はひとり取り残されて孤児院で教鞭を振るうアルバイトを続けている。
それでもスレインは私に対してこまめに手紙を送り、時にはデートに誘い、贈り物をして私を必死に口説いた。
彼の気持ちは嬉しく思う反面、ルターを忘れられない私にとっては少し苦々しいものだった。
彼も薄々私の気持ちに気づいているのか、決して強引にはせずにジッと私の気持ちが自分に傾くのを待つようなアプローチを続けた。
両親や兄姉はスレインを随分と推す。
彼なら私を幸せにしてくれるはず、と私に勧めるけれど、それでも無理には押し付けなかった。
私も頭ではわかっていた。
スレインと結ばれれば、スレインは私を幸せにしてくれるだろう。
でも、けれども、私は?
こんな気持ちを抱えたままの私はスレインを幸せにする自信がないから、私は彼の気持ちに応えられないでいる。
「…………はあ」
思い悩む私は夜会を中座して、閑散としたバルコニーにいた。
ひとりでぼんやりと星を見上げ、なかなか折り合いのつかない気持ちに憂鬱なため息を吐く。
いい加減に割り切れればいいのに。
そう何度思ったことか。けれども吹っ切るには私の真ん中に居座った感情はなかなか追いやることができない。
あんなにもスレインとルターを比べ、スレインの方が私に良くしてくれていることもわかっているはずなのに。
それでも聞かん坊の私はルターへの恋を手放せず、『でもルターだって素敵だったの』と駄々を捏ねている。
夜の風が冷たく私の頬を撫でる。
冷たい風に冷え切って苦しい気持ちが余計に重苦しく思えて、私は会場に戻ろうと踵を返した。
その途中、私は甲高い金切り声を聞く。
「ねえ、ちょっと! どうしてあなたはいつもそうなのよ!」
その声に驚いて振り返れば、そこにいたのはひと組の男女。
令嬢の方は知らないが、紳士の方は見覚えのある金髪で私の心臓はどくりと鳴った。
「ルター、あなた、いつも無愛想に突っ立ってるだけなのどうにかならない!?」
「……社交は君の役目だろう」
「それでもせめて愛想良く笑うとかできないの? 何も積極的に話しかけろとは言わない。でも社交の場で押し黙って退屈って顔されると場が白けるの! それってすごく失礼なことよ」
ルター。
まさかこんなところで出くわすなんて。
凍りついたように動けなくなる私に気づかず、二人はどんどんヒートアップしていく。
「実際退屈だからな。正直時間の無駄としか思えない」
「はあ!? それを思ってるのは向こうも同じよ! あなたがどれだけ高尚な会話ができるんだか知らないけれどね、相手と会話ができなければまったく無意味なの!」
噛み付くように怒鳴りつける令嬢にルターは深くため息をつく。
まったくの一方通行のように訴え続ける令嬢の言葉を迷惑そうに聞き流すルターに私は胸を痛める。
多分、あの令嬢はルターの新しい婚約者なのだろう。
彼女は果敢に自分の主張を彼にぶつけていて、それがすごいと思った。
かつての私には彼に嫌われることが怖くて出来なかったことだ。
その一方で彼にその主張を聞き流されて、一方通行になっている様子が痛ましかった。
かつての私も彼女と同じだったからだ。
「ルター。ちょっと、ルター! 待ちなさいよ!」
令嬢の話にうんざりしたのか、ルターが彼女を置いて歩き出す。
その後を令嬢が追いかけるが、夜会用のドレスに高いヒールでは足早の紳士に追いつくのも一苦労のようだった。
それが見ていられなくて、私はルターの行く手を遮るように立った。
「っ……!?」
そこでルターは初めて私に気がつき、ルターを追う令嬢も私の存在に気がついた。
「アイオラ・シアン公爵令嬢……っ?」
怪訝そうに私を見据えるルターに私は体が竦みそうだった。
けれどもここで逃げ出したら一生この人を引きずるような気がして、私は彼を睨みつける。
そして、
「ーーっ!?」
彼の頬を思い切り平手で張った。
ルターの綺麗な顔が唖然と固まる。
「あなたは他人と関係を共に積み上げないのは昔と変わらないのね」
「何……?」
「あなたには幻滅したわ」
そう告げる声が震えそうになった。
言った。言ってしまった。
かつて私が言われた彼の言葉をそのまま返すように告げたことはものすごく怖くて、けれどもその言葉を吐けばようやく胸の中心に居座っていた彼への手放せない気持ちが流れ出ていくようだった。
「私との関係が終わっても、あのフレイアに振られても、あなたは何ひとつ変わろうとしていないことに幻滅したと言っているの」
フレイアのことを言及され、ルターが怒りでさっと顔を赤らめた。
私はそれでもなお、震えて逃げそうになる体を縫い止めて、今まで彼に言いたかったことを告げる。
「人付き合いを選り好みするのはあなたの自由だわ。あなたに対して気持ちを砕いてくれる人を無下にして、自分しか見れない人は誰からも選ばれなくなる。私も……もうあなたを選んだりしない」
私の言葉にルターは言葉を詰まらせ、私を睨むばかりだ。
私はそんなルターに一礼し、それから彼を追いかけていた令嬢を振り返る。
「……ごめんなさい、二人の喧嘩に割って入ってしまって。私、あなたを尊敬するわ。彼に真正面からぶつかって……とても強い人だと思ったの。あなたはとても素敵な人よ」
そう告げる私に令嬢もまたぽかんと私を見つめ返す。
私はそんな彼女の手を握って微笑むと、二人の前を立ち去る。
自然と足が早足になり、気づけば私はドレスの裾をたくし上げて走っていた。
言った。言ってしまった。
ルターに初めて反発するようなことを言ってしまった。
心臓がバクバクと鳴っていて、涙が頬を滑っている。
あっけなく婚約解消した時には実感がなかった、ようやく終わったという気持ちが込み上げていた。
私は泣きながら共に夜会に来ていた母や父の胸に飛び込み、そこで大泣きした。
・ ・ ・ ・ ・
「ああ……ええと、大丈夫か?」
夜会の後、私は泣きに泣いて知恵熱を出した。
見舞いに来たスレインが不器用に問いかけるから、私は少し腫れぼったいまぶたのまま微笑んだ。
この姿を彼の前に晒すのは少しだけ勇気が必要だったが、それでもなんだか彼に会いたい気分だったのだ。
彼は私を心配で仕方ないという気持ちと、私の今の姿を見てしまうのは申し訳ないのではないかと配慮に揺れるようにソワソワしている。
そんな彼を見て、私はようやく彼のことを素直に愛おしいと思えるようになった。
それがとても嬉しくて、ホッとして、私はつい笑んでこう告げていた。
「ねえ、スレイン。私、あなたが好きよ」
「…………っ!」
その言葉にスレインが目を剥く。
一瞬で茹蛸みたいに真っ赤になったスレインの気持ちがようやく空いた私の中心に入ってくるような感覚だった。
「こんな私でよければ……お嫁さんにしてくれる?」
「っ、もちろん!」
私の言葉に彼は即答した。
そうして私の手を握り、彼は私に向かって何度も言う。
「君を幸せにする……! 必ず君を幸せにする! だから僕と結婚してください……!」
必死なスレインに私はくすぐったく思う。
そうして私は彼に応えるためにその唇をそっと啄むようにキスをした。




