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「がっ…ハッ………!」
ネグロ子爵の悲鳴の質が変わる。
ルシエルさんに顎を掴まれて苦しそうにしていたネグロ子爵は急に呼吸ができなくなったようにもがき、ルシエルさんの手を剥がそうと自らの顔ごと掻きむしり、やがて白目を剥いて痙攣する。
それだけではない。ルシエルさんが掴んだ場所から彼は急に衰え、乾き始めていく。
皮膚はひび割れて、体は枯れ枝のように衰え、髪は急速に白くなっていきバサリと抜けていく。
「ひっ……ヒイィッ……!」
まるで時間が急激に進むように衰えていくネグロ子爵を見て、斬りつけられて伏していたトラヴィスが悲鳴を上げて這いずった。
ルシエルさんはそんな彼を意にも介さず、目の前のネグロ子爵を見据えていた。
「すぐに楽になれるとは思わないでくださいね。生きたままその身を喰らわれ、それでもなお義姉を守るために庇っていた兄よりも長く苦しんでいただかないと」
柔らかい声音が優しく言い聞かせるように残酷な言葉を滑り落とす。
ネグロ子爵の体がゆっくりと蝕まれるように体の先から壊死を始める。
乾いて衰えた爪先が崩れ、それを察したネグロ子爵の手がハッと動きを止めて声にならない声を上げた。
恐怖に泣き叫ぶ声は聞いていられないほどにゾッと恐怖を煽る。彼の身に、命に関わる何かが起こっているのがわかるほどだから余計に。
そんな最中にあってもルシエルさんはただ淡々とネグロ子爵を見下ろすだけで、心を揺らした様子もなかった。
私は咄嗟に走り出す。
ルシエルさんに一直線に駆け、ネグロ子爵の顎を掴み続けるルシエルさんの手へと掴んだ。
「やめてください、ルシエルさん!」
私が両手で掴んだルキエルさんの手にはゾッとする得体の知れない力を感じた。
治癒魔法のようなあたたかな温度のない力は感じるだけで手を離したくなってしまうけれど、私は堪えて彼の顔を見て叫ぶ。
「ルシエルさん、お願い、やめて!」
彼の指先をネグロ子爵から引き剥がし、両手でぎゅうと掴めば、私の心臓か魂を死神の冷たい手が触れて大切なものが流れ出るようなおぞましい感覚がした。
けれどそれも一瞬のこと。
私がしがみつくようにしてネグロ子爵から手のひらを引き剥がされたルシエルさんはただ瞳を横に流すだけで私を見た。
いつもは春の空のようにあたたかな薄水色の瞳が今は氷のようだ。
「ーーレティシアさん、手を離してください」
「いいえ、離しません。離せません。ルシエルさん、どうか冷静になってください。あなたが彼らと同じ場所に堕ちてどうするのですか」
静かに告げる声音はいつもと同じ柔らかい響きなのが怖い。
私の命を救ってくれた同じ指先で、彼がいとも容易く人の命を奪おうとすることが怖い。
ルシエルさんがほんの僅かに目を細める。
「お願いします、ルシエルさん。どうか堪えてください。あなたがこの人の命を奪ってもお兄様はきっと喜びません。お兄様はとても優しい方だったのでしょう?」
私の説得にルシエルさんは押し黙ったまま。
聞いているのか、いないのか。わからないけれども私はただ捲し立てるようにして続けた。
「そんな優しい方の弟であるあなたの手を汚さないでください。あなたの手は誰かを救うためにあるはずです。こんな人のために汚すなんて、そんなのあまりにも悲しすぎます」
「ーー……………」
私の握りしめた手の中でルシエルさんの指先がかすかに反応した。
その反応を逃したくないと私は彼の手をより強く握って彼を必死に見つめた。
「ルシエルさん、お願いします。あなたの手は誰かの命を奪うものではなく、救うためにあってほしいんです」
私の必死な命乞いにルシエルさんがやがて静かに手を退いた。
私がハッとルシエルさんの顔を見つめれば、彼は私ではなく必死に地面を蹴って私たちから距離を取りながらゼイゼイと喘鳴を繰り返すネグロ子爵に視線を注いでいた。
「…………レティシアさん、止めてくださり感謝いたします。おかげでわたしは兄の言いつけを破らずに済みました」
彼は私の方を見ずにそれだけ告げ、すっかり枯れ果てたように弱った男を見据えた。
「ネグロ子爵、レティシアさんの深い慈悲に感謝なさい。今、あなたが苦しみから放たれたのは彼女の優しさに依るものです。命の終わりにとこしえのような苦痛に苛まれずに済んだことを噛み締め、残りの生を悔い改めなさい」
ネグロ子爵はルシエルさんの言葉に応えず、ただ化け物を見るようにルシエルさんを見つめるばかりだった。
ルシエルさんはもうネグロ子爵に興味を失くしたように今度は奥で這いずって逃げようとしているトラヴィスへと視線を向けた。
「あなたも。ブラック伯爵令息」
名前を呼ばれた途端、トラヴィスはびくりと体を竦ませ、情けない声を上げてルシエルさんを振り返った。
彼の汚い泣き顔を見返して、ルシエルさんはこう続ける。
「はした金に目をくらませたがばかりに兄と同じ……それ以上の苦痛を味わってもらうつもりでしたが、レティシアさんに救われましたね。拾ってもらった命で棒に振った一生を噛み締めて生きなさい」
トラヴィスは何も応えなかった。
ただ情けない泣き顔のままビクビクと身を小さくするばかりだ。
「……レティシアさん」
「っ!」
そうしてようやくルシエルさんが私を見た。
彼は力ない微笑みを浮かべ、私にこう問いかける。
「わたしが置いていった結界石は今もお持ちですか?」
「あ……はい。ここに」
「それではそれを持って、人を呼びに行っていただけますか」
ルシエルさんの言葉に私は戸惑ってしまった。
ルシエルさんをこのふたりと一緒にしていいか迷う私に、ルシエルさんはそっと結界石を握る私の手のひらを包んだ。
「……お見苦しいところをお見せして信用がないのはわかります。ですがもう、わたしは彼らを死に至らしめようなんて思っておりません。あなたが兄の言葉を思い出させてくれたから」
「お兄様の言葉……」
「ええ。だからもう大丈夫。ふたりが逃げないように見張るだけです。あなたが心配するようなことはもう起きたりいたしませんから」
そう告げるルシエルさんに私は彼に握られる手へと視線を落とした。
彼のあたたかい手のひらには先ほどのゾッとするおぞましい力はなく、いつものあたたかい手のひらだった。
「ーーわかりました」
私は手の中の結界石を握りしめて、頷く。
ここまで私を急き立ててきた胸騒ぎはもうない。多分、ルシエルさんが言うようにもう大丈夫なんだと思う。
「すぐに人を呼んできます」
「ま、待て……!」
私の声に異を唱えたのはトラヴィスだった。
「お、置いていくな……こ、殺される……俺を見捨てないでくれぇ……っ!」
その声に私はほんの少し彼を一瞥し、それからもう一度ルシエルさんを振り返った。
彼は困ったように眉尻を下げて微笑むだけだ。
私は彼にただ頷き返すと、トラヴィスに何も答えずに踵を返して走り出す。
「待て……! 待ってくれ、レティシア! 見捨てないでぇ……!!」
トラヴィスの泣き叫ぶ声が洞窟内に響き渡る。
それでも私は彼らを振り返らず、ただ走って洞窟を後にした。




