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些細な違和感が少しずつ降り積もり、それが決定的になったのは急に夕立が降ってきた日だった。
仕事帰りに降られてしまった私は大慌てで店先の軒下に逃げ込んだ。
「うー……困ったなあ」
軒下に滑り込むまでに濡れた髪を絞れば思ったよりも水が滴った。
服もびしょ濡れで冷たく、気持ち悪い。
灰色の空を見上げれば、相変わらず強い雨がざあざあと降り注いでいた。
バケツをひっくり返したような土砂降りはしばらくすれば弱まるだろうか。
そうなったら家まで走るか。けれどもどうせ今もびしょ濡れだ。
弱くなるのをここで震えて待っているくらいなら今から駆け出してしまおうか。
そんなことを考えながら二の腕をさすっていると、
「レティシア?」
「先輩」
ふと大きな男性用の傘を差した男の姿に私は目を丸くした。
その人は王室事務官に採用された時から親切にしてもらっている、同じ部署の先輩だった。
「お前、雨に降られたのか? ずいぶんな姿じゃないか」
「言わないでください……傘を忘れたことを後悔しているところなんですから」
「ははは、お前は優秀なのにそういううっかりなところあるよなあ」
そう言って、先輩は私に乾いたハンカチを差し出してくれた。
私はそれをありがたく拝借して、濡れた場所を軽く押さえるようにして体を拭く。
「ほら、入っていけよ。家まで送る」
「ありがとうございます。いいんですか?」
「おう。どうせ途中だからな」
そうして軽く傘をこちらに傾けてくれた先輩の厚意に甘えてしまったのが、この後の悲劇を生んだのだろうか。
「レティシア」
先輩の傘に入ってすぐ、私は低い声に呼び止められた。
振り返ればそこにリックが立ち尽くしていた。
いつもわんこのようにニコニコしているリックの表情は一切抜け落ちて、とても不気味だった。
ざあざあと降りしきる大雨の薄暗さも相まって、それはとても恐ろしかった。
「リック……?」
「どういうこと、何、その男」
「どういうって……リック、何か誤解している? 先輩はただ、私が雨宿りしていたから単純に親切で」
「親切? ふざけるなよ、レティシアは男のことを何もわかってない」
そうしてリックはツカツカと私の元まで歩いてくると先輩と引き剥がすように私をものすごい力で引っ張った。
掴まれた二の腕は痛かったが、それ以上に冷え切った彼の手の冷たさが怖かった。
「お前もよくいけしゃあしゃあとレティシアに言い寄れたな」
「ま、待て。違う、誤解だって。俺とレティシアは別にそういう関係じゃ」
「軽々しくレティシアのことを呼ぶなよ」
先輩が慌てて言い募るのを遮って、銀色の閃光がシャッと走った。
「…… …………え」
その光景を私の脳みそは理解を拒んだ。
ゆっくりと崩れ落ちる先輩がいて、雨とは違う赤い滴が私に降りかかった。
ざあざあと大雨は降っているはずなのに、私の耳は短く吐く自分の呼吸しか拾っていなかった。
「やっぱりさ、レティシア、もう仕事止めよう。今日にでもさ。俺、本当は嫌だったんだ」
倒れ、冷たい雨にさらされる先輩の姿から目を逸せない私の耳に、リックの声が響く。
「あんな男所帯、レティシアが危ないよ。レティシアが自分の仕事の引き継ぎはきちんとしておきたいって言ったから結婚までは待つつもりだったけれど、やっぱり駄目だ」
軽い世間話をするような明るく告げるリックは、先輩を見つめたまま動けない私を無理矢理に自分の方へと向けた。
いつものわんこの笑顔のリック。けれどもその顔に大雨でも流しきれないべったりと赤いものがこびりついている。
「レティシアはこんなにも魅力的なんだから、外に出せないよ。他の誰の目にも入らないように、大事にしまっておかないと」
この人は何を言っているのだろうか。
私の両肩を掴み、笑顔でそんなことを言うリックがまるで人間ではない化け物のように見えて、私はつい彼を振り払おうとした。
けれどもリックの力はものすごくて、私の膂力では敵わなかった。
「レティシア? どうしたの? 大丈夫だよ。俺がレティシアを守るから。危険なものから全部俺が守ってあげる」
逃げようともがく私を逃さないようにリックがぎゅうと私を掴んでいる。
怖い。
理解ができない。
この人は一体何を言っているのか。
気がつけば私は彼の頬を思い切り叩いていた。
「あなたは何を言っているの……? 私はそんなことを望んでいない……! 私を守ると言うのなら私の生活を脅かさないでよ……!」
「レティシア……?」
私の悲鳴にリックがぽかんとした顔をする。
その瞬間に腕が緩んで、私は彼を振り払うと倒れた先輩へと駆け寄った。
先輩が袈裟懸けに斬られていると気がついた私は自分の上着を脱ぐと少しでも傷を塞ぐためにぎゅうと押し当てた。
「先輩……先輩、しっかりして! 誰か……! 誰か来て、医者を呼んで……!」
この時間、この通りの人はほとんどない。それでも人通りがないわけではない。
一縷の望みをかけて、私は声を張り上げる。
「誰か……誰か助けて!」
と、その時だった。
不意に私の背後にリックが立つ気配がした。
私が振り返るよりも早く、リックが私をその場に引きずり倒して馬乗りになる。
「……っ!」
「レティシア……」
私は息を呑む。
リックはうつろな瞳をして私を見下ろし、私の喉元に剣を突きつけていた。
「違うだろ。なんでそんな男の心配をするの? レティシアは俺のものだろう? ちゃんと俺を見ててくれなきゃ。ねえ、俺はレティシアをこんなに愛しているんだよ?」
私の呼吸が引き攣ったように止まった。
真っ青になる私の顔など見てもいないリックは私を見下ろしたまま、こう告げる。
「レティシア……ねえ、レティシア。俺はレティシアを愛している。レティシアも俺を愛しているよね?」
恐怖に引き攣った私の喉はただか細い息を吐くだけで声にならなかった。
焦れたようにリックの剣が私の首元を掠める。
ひ、と私の喉が小さく鳴った。
「愛してるって言えよ。もう二度と他の男に目移りしませんって乞えよ。リックの言う通りにするってさあ」
「い………」
引き攣れた喉が声を絞り出す。
無理に絞り出した声は震えて、いや声だけではない。怖くて全身が震えていた。
殺されるかもしれない。
殺されるよりも酷いことをされるかもしれない。
そう思うと萎縮しそうになるけれど、私は懸命に声を振り絞った。
「言わない! そんなの“愛”じゃない! ただの支配よ、そんなものに……私を見ないあなたに、愛してるなんて言えない!!」
途端、リックの目が吊り上がって銀色の剣が振り上げられた。
ギロチンの刃のように落ちてくる鋭い刃先を見つめた私は、こういう時にもプライドを優先させてしまう自分を恨めしく思った。




