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馬車の車輪の音が響く。
舞踏会の帰路に着く馬車の中は車輪の音が響くばかりでとても静かだった。
なんだか少し気まずい。
けれども何かを話さなければと思うほどに私は話題に困ってますます何も言えなくなっていた。
正面に座るルシエルさんを盗み見ると彼はぼんやりと物思いに耽っているようだったが、私の視線に気がついていつものようににこりと微笑んだ。
「お疲れでしょう。スカーレット伯爵邸に着きましたらお声がけいたしますので眠っていても構いませんよ」
「あ、いえ、別に眠くはなくて……」
疲れているのは確かだが、ルシエルさんとはふたりきりの馬車の中で眠れるわけがない。
私が慌てて首を横に振れば、彼はただくすりと笑った。
「…………ルシエルさんって、演技がお上手な方なんですね」
ふとぽつりと呟いた声がどことなく恨みがましく響いてしまったのは許してほしい。
何せ舞踏会の間、彼にはずっと翻弄されていたのだ。
あの初っ端の惚気のようなやり取りから始まって、宰相閣下やシシリーたち、昔の職場の人たちに囲まれている時だってまるで溺愛している恋人という体を崩さなかった。
おかげさまでみんなには散々からかわれ、しっかり祝福された。
結婚式を楽しみにしている、と。
この婚約は契約で結ばれたもので、いずれフローラさんが成人してアルビオン侯爵として立つ時に解消するはずのものだ。
だというのにここまで外堀を埋めてしまうと解消したくなっても解消できなくなってしまうのではないか。
……正直、ルシエルさんに恋をしている私にとっては外堀が埋まって結婚するしかなくなる状況は都合がいいのだが。
だが彼の意思を無視して縛り付けたくはないとも思う。
彼が他の道を選びたいのなら、私の我儘に付き合わせるなんてあまりにも忍びない。
「……もしかしてお嫌でしたか?」
「い、嫌というか……! ただ、あんまりアピールをしすぎるとフローラさんが成人後に婚約を解消しにくくなるんじゃないかと思いまして……」
「元々解消はしにくい婚約ですよ。フローラの歓びようをレティシアさんもご覧になっているでしょう?」
それを言われると私は言葉に詰まるしかなかった。
確かに私とルシエルさんが婚約することになったとフローラさんに伝えた時、彼女はとても喜んでいた。
破談になったらルシエルさんに文句を言ってやると息巻いていた。
そんな彼女にいざ「実はただの暗殺回避の作戦だったので破談にします」なんて伝えた日にはどうなるのだろう。
その日を考えると気が重くなって俯いてしまう私にルシエルさんが微笑んだままこう声をかける。
「レティシアさん、わたしは無理にあなたとの婚約を解消しなくとも良いと考えております」
「……!?」
ルシエルさんの放った発言は私にとって爆弾のような衝撃を与えた。
唖然と固まってしまう私に向けて、彼は穏やかな声音のまま続ける。
「アルビオン侯爵家にとって……フローラにとってこの縁談は利になるものです。優秀なだけでなく信頼の置ける方を身内に抱え込める。それのみならずスカーレット伯爵家という情に厚い一族の後ろ盾を得られるのです。わたしの身ひとつでそれらが得られるのならば安いもの。今だけでなくこれから先、フローラが侯爵として立つ時に支えてくれる方は多い方がいいのですから」
目先の感情に捉われてまるで先行きを見通せていない私に対して、ルシエルさんはもっと先を見据えていたのだと知る。
「……だから、あなたはわたしのしていたことを演技だと仰いましたが、半分は本気であなたを口説いておりますよ。あなたはアルビオン侯爵家として手放したくない人財ですから」
真っ直ぐと私を見据えた薄水色の瞳にまたしても動揺する。
好きな人に認められていると舞い上がる恋の感情。もう半分は決して私と同じ感情で向き合ってくれていたわけではないという失望からだった。
「ーーわたしに幻滅いたしましたか?」
私の機微を読んだのか、ルシエルさんがそう尋ねてくる。
彼は変わらない穏やかな微笑みを浮かべていた。
「いえ、そんなことは……」
「レティシアさんは優しいですね。わたしはあなたの想いすら利用しようとしている悪い男ですのに」
「っ……!」
彼の言葉に心臓がどきりと大きく鳴って顔中に熱が集まる。
……私の恋情はとっくの昔に見透かされていたらしい。一体いつから悟られていたのだろう。
「ーー……………ルシエルさんがここまで貴族らしい方だとは存じませんでした」
やがて搾り出した私の呻き声は負け惜しみそのものだった。
「大神殿で聖人・聖女と祀りあげられるものは皆、性格が悪くなるものなのです。わたしも例に漏れなかっただけですよ」
彼は私の負け惜しみを涼風のように流す。
その様子に私はついに何も言えなくなって唸ることしかできなくなった。
「レティシアさん」
と、ふとルシエルさんに呼ばれて私は顔を上げる。
薄水色の瞳は変わらない穏やかさで私を真っ直ぐと見据える。
今し方、私の恋心を察し利用していると告白されたはずなのに、彼に見つめられると私の心臓はそれでも騒いだ。
「あなたはわたしを婚約で縛ってしまうと懸念されていたようですが、今お話しした通りにこの婚約で縛られるのはあなたの方です。なのでわたしの心配をするよりもご自身のことを考えた方が良いでしょう。おそらくわたしはあなたの思うような人間ではないのですから」
その言葉がどこか突き放すようで、私は少しムッとした。
確かに私はルシエルさんという人を見誤っていたのだろう。
常に穏やかで優しい、虫一匹も殺せないような天使のように無垢で清廉な、綺麗事を本気で信じているような人。
初めはそう思っていたけれど、そんなものは彼の上辺だけ。
実際に彼に近づいてみると彼は清濁を飲み込んで立っている深い人間だと知った。
その深さはいまだに計り知れない。
日だまりのようなあたたかさは本当に見せかけだけなのか。
岩からあふれる清水が清くも冷たいように、彼もまた美しくも厳しいのか。
はたまた美しく咲く蓮が根を下ろす場所のようにどす黒く腐臭のする汚泥と似たようなものを腹の底に沈めているのか。
私はまだこの人の何も知らない。
彼が何を思い、どういう人なのか。まだ何も知らないのだ。
だから、
「……まだわかりません」
私はそう口を開く。
「まだわかりません。あなたが本当に私の思うような人物ではないかどうかも、あなたと婚約したことを後悔するのかも」
彼は私の言葉に変わらない微笑みをたたえて見つめ返してくる。
私は彼の瞳を真っ向から見据えて挑戦的に続けた。
「でもきっとあなたに恋したことを後悔することはないと思います」
私の言葉を受けてルシエルさんは微笑んだまま眉尻をほんの少し下げた。
それは困ったようにも、失笑のようにも見えた。
彼は私の告白に何を思ったのだろう。
ただそれでも私の気持ちに対して遠いところに彼がいることは察せて、私のこの恋の前途が厳しいものになりそうなことはわかった。
だが、それでも私はこの恋を諦めたくないと新たに心を燃やしてしまうのだった。




