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バシャッ!
途端に目の前を赤ワインの葡萄色が通り過ぎて、私の目の前にはワイングラスを傾けたドレスの女が立っていた。
その女は見たことがある。
王女の生誕祭の時にルシエルさんを追っていた場違いな派手なドレスを着ていた女。キャスリン・ネグロ。
「……ッチ……………あら、ごめんなさぁい。手が滑っちゃってぇ」
軽い謝罪の前に小さな舌打ちが聞こえたのは気のせいではないだろう。
おそらく彼女はわざと私に向けて赤ワインをぶち撒けようとした。けれども私が直前でたまたま身を翻したから、ぶち撒けられた赤ワインは逸れて私にはたまたまかからなかった。
「それが人に謝罪する態度ですか、キャスリン嬢」
「ええ、私、謝ったじゃないですか。心狭っ。こんな方がルシエル様と婚約なさったなんて信じられなぁい」
…………この方はネグロ子爵の妹で、私よりはいくらか年上だったはずだ。
にも関わらず、どこか舌足らずな言葉遣いでニマニマ笑っているのを見るとこういうところで離婚をされることになったのではないかと邪推してしまう。バツがふたつもついている私が言えることではないけれど。
「ルシエル様ぁ、止めておいた方がいいですよ、こんな女。怖いし、絶対窮屈ですよぉ。うちの兄だってこの女を女主人だって認めませんよ」
「あなたの兄に認めていただく必要がどこにありましょうか?」
ルシエルさんがきょとんと不思議そうに首を傾いだ。
「彼女はアルビオン侯爵の妻になるのではなく、わたしの妻として婚約を結んだ方です。認めてもらうとするならば大切な娘御を嫁にいただくスカーレット伯爵家であり、彼女を叔母として迎えることになるフローラでしょう。ああ、分家筆頭としてご心配なさっているのならご安心を。彼女を妻として迎える頃にアルビオン侯爵として立つのはフローラとマルクスさんになります」
と、にこやかに説明したルシエルさんがふと私の手を取って大切そうに握った。
「……わたしの我儘でレティシアさんにはずいぶんと我慢を強いることになってしまったことは申し訳ないのですが。それでもあと数年先の間に彼女が誰か他の方の妻になっていることを思うと婚約という形であなたを縛っておきたくて」
そう言ってジッと見つめてくるルシエルさんに私は固まることしかできなかった。
まさかこの人がここまで演技ができる人だと思わなかった。
演技。そう、この人がやっているのは演技。
私は必死で自分に言い聞かせるも、好きな人に情熱的に口説かれて動揺しないはずもなく、心臓がドッと大きな音を立てた。
周りの貴族たちの視線も突き刺さる。
成人前の若い貴族もいない舞踏会ではさすがに市井のように口笛や黄色い悲鳴などは聞こえなかったものの、それに類する好奇の視線を向けられているのを感じた私は居心地の悪さからそっと視線を落としてルシエルさんから目を背けた。
「…………いじらしい方ですね」
ルシエルさんがクスリと微笑む声が間近で聞こえてますます顔が熱くなる。
私の反応はルシエルさんとは恋愛で結ばれた、と周囲に印象付ける意味ではある意味正しいものなのだろう。
とはいえ、あまりに余裕がなくなっていっぱいいっぱいになってしまうこの状態はよろしくないとも思う。
「ちょっと! 何アタシのこと無視してんのよ!」
ルシエルさんに口説かれてうっかり失念していたキャスリンが私の意識を引き戻す。
ハッと彼女を振り返れば、彼女は私とは別の意味で顔を真っ赤にして私たちを睨みつけていた。
「アタシは……ネグロ子爵家はあんたたちのことを認めてないんだからね! こんなぽっと出の女と婚約したこと、絶対後悔するわよ!」
「やあ、一体これは何の騒ぎだ? 今宵は王家が主催する舞踏会だというのに」
キンキン声でキャスリンが騒いでいると、ふとそんな声が響いた。
決して大きな声ではないのにその声はよく通り、その人の余裕と威厳を示す。
「宰相閣下……!」
かつて王室事務官だった私にとって上司の上司と呼べる方の登場に私は慌てて深々と膝を折った。
ルシエルさんも胸に手を当てて紳士の礼を取る。
キャスリンだけは状況についていけずに唖然と固まっていた。
「久しぶりだね、レティシアくん。少し前の事件では大変だったようだけど、こうしてまた元気な姿を見れて嬉しいよ」
「その節はご心配をおかけいたしました。おかげさまで今はこの通りピンピンしております」
「そうなるとそちらが噂のアルビオン侯爵殿か。レティシアくんを射止めたという果報者だと私のところまで話が届いているよ」
「お初お目にかかります。よもや宰相閣下の元までお話が届いていると伺うと少々気恥ずかしい気持ちになりますね」
私、ルシエルさんとは順繰りに顔を見回した宰相閣下が唖然と固まっているキャスリンへと視線を向けた。
固まっていたキャスリンはビクッと肩を竦ませる。
「…………それで、そちらのご婦人はどなたかな?」
宰相閣下の問いにキャスリンは答えない。
「彼女はネグロ子爵家のキャスリン嬢です」
宰相閣下を前に膝も折らず、名も答えないキャスリンに代わってルシエルさんが答えた。
「ああ、ネグロ子爵家……申し訳ないね。歳を取るとどうにも耄碌して名前が出てこないんだ。キャスリン嬢、うん、きっともう忘れないだろう。これほど元気なご婦人はそういないからね」
嘘だ。宰相閣下ほどの方が国中の貴族を把握していないわけがない。
彼はここで騒ぎを起こしている者が誰かを周りに知らしめるために名前を名乗らせたのだ。
「キャスリン嬢、この舞踏会はグレイリッシュ王国一、二を争う大規模な催しだ。はしゃぐのも無理はないが、これは王家主催の舞踏会だ。国賓も招いている以上、あまり羽目を外すのはよろしくない。少し夜風にでも当たって興奮を冷ましてきたらいかがかな」
宰相閣下の物言いはとても穏やかだったが、暗に下がれと告げていた。
現に彼の目は笑っていない。
キャスリンが悔しそうに歯噛みして私を睨みつけてきた。
宰相閣下がパン、と軽く手を叩く。その音がやけに大きく響いて、場の空気を変えてしまう。
「さてレティシアくん、話を聞かせてもらおうじゃないか。アルビオン侯爵もどうぞご一緒に。みんな、君たちの婚約を祝福したくてウズウズしているんだ」
そうして宰相閣下が示す先にはシシリーが、王室事務官だった時の先輩たちが、上司が、そしてその配偶者たちが待っていた。
私がルシエルさんを振り返れば彼はただいつもの微笑みで頷いて、宰相閣下の後に続くように私を彼らの元にエスコートしてくれる。
私は最後にキャスリンをちらりと振り返る。
彼女はヒソヒソと囁き合う貴族たちの中に取り残されながら私のことをものすごい目で睨みつけていた。




