封鎖区域で壊される古い石組み
王都商会の馬車が去ったあと、広場にはまだ重い空気が残っていた。
交換会は成功した。
豆袋も手に入った。
干し魚も、布も、少しだけだが村に残った。
それなのに、村人たちは大きな声で喜べずにいた。
「正式な契約、か……」
ロウが、片づけ途中の机を抱えながらぼそりと言った。
「あいつ、笑ってたけど目が笑ってなかったな。水路を見てる時、どこを押さえれば村が逆らえなくなるか測ってた」
レインは答えられなかった。
マーゼルの言葉は乱暴ではなかった。
辺境に物資を流すには危険がある。
取引には見返りと保証が必要。
権利関係の確認も必要。
どれも間違いではない。
間違いではないからこそ、怖かった。
「僕が、もっとちゃんとした立場なら……」
「またそれか」
ロウが顔をしかめる。
「立場があれば、あいつが急に優しくなると思うか?」
「それは……」
「ならねえよ。ああいうやつは、相手が誰でも測る。貴族だろうが村人だろうが、使えるかどうかを見る」
ロウは机の脚を縛り直し、鼻を鳴らした。
「だから、こっちも見せりゃいい。水路を直したのは俺たちだ。ここで暮らしてるのも俺たちだってな」
その言葉は乱暴だった。
けれど、レインの胸に少しだけ温かく落ちた。
「はい」
レインがうなずいた、その時だった。
足元から、かすかな声がした。
――いや。
レインは動きを止めた。
「……?」
今のは、泉でも畑でもない。
もっと遠い。
水路の先。
森に近い、崩れた石組みのあたり。
夕日が沈みかけ、森の影が長く伸びている。
「どうした?」
ロウが気づいた。
「何か、聞こえました」
「土地の声か?」
「はい。でも……いつもより、嫌がっている感じがします」
耳を澄ませる。
――さわらないで。
――そこは、だめ。
――はずれる。
細い声が、地面の奥を伝ってくる。
レインは思わず木箱を置いた。
「水路の方です」
「まさか、また崩れたのか」
「分かりません。でも、誰かが触っているのかもしれません」
そこへ、ミラが戻ってきた。
近くの集落へ帰る人たちを、道の入口まで送っていたはずだ。
彼女の顔から、いつもの軽さが消えている。
「レイン、ちょっとまずいかもしれない」
「ミラさん?」
「村の外れで、見慣れない荷車を見た。昼間の商会の馬車とは別だ。護衛か調査員みたいな男が何人か、森の方へ入っていった」
ロウが舌打ちした。
「あいつら、勝手に行きやがったのか」
「たぶんな。荷物は少なかった。採掘道具みたいなものを持ってた」
「採掘……」
レインの足元から、また声がした。
――いたい。
――ずれる。
――あつい。
今度は、はっきりと痛みを伴っていた。
頭の奥に針を刺されたような感覚が走り、レインはこめかみを押さえる。
「レイン?」
ミラが近づく。
「大丈夫か」
「まだ、大丈夫です。でも急がないと」
「場所は分かるのか?」
「水路の奥です。森側の、前に魔物の足跡があった場所。その先に、古い石組みがあります」
ロウが道具袋をつかんだ。
「俺も行く。石組みなら見れば分かる」
ミラは短くうなずき、腰の短剣を確認した。
「私は前を見る。魔物の気配があれば、すぐ下がるぞ」
少し遅れて、村の老人もやって来た。
「大勢で行くな。道を荒らす。だが明かりは持て」
「はい」
レインはうなずいた。
怖い。
商会の者とまた向き合うのは怖い。
実家の名を出された時のように、言葉が出なくなるかもしれない。
けれど、聞こえてしまった。
土地が痛がっている。
なら、行かないわけにはいかなかった。
◇
森へ向かう道は、昼間と違って冷たかった。
木々の影は濃く、足元の土からは嫌な熱が伝わってくる。
――おされる。
――あつい。
――ふさがる。
声が重なるたび、レインの頭の奥がきしんだ。
「近いです」
レインが言うと、ミラがすぐに手を上げた。
「止まれ」
木々の向こうに、荷車が見えた。
男たちが四人。
手には鉄棒と小さなつるはし。
その前には、半分土に埋もれた古い石組みがあった。
石と石の間に、細い溝が刻まれている。
その溝が、かすかに青白く光っていた。
ロウが低く息をのむ。
「普通の水路じゃねえ」
「分かるんですか?」
「分からねえ。だが、ただの石積みじゃない。何かを……動かないようにしてる」
その瞬間、レインの手首が熱を持った。
――まだ。
――はずさないで。
――そこは、だめ。
「止めないと」
レインが踏み出すより早く、ミラが前へ出た。
「そこまでだ。村の許可は取ってるのか?」
男たちが振り向く。
「こちらは商会の調査だ。危険確認をしている」
「鉄棒を差してるように見えるけどな」
ミラの声が低い。
ロウも前へ出た。
「あんたら、その石組みが何か分かってんのか」
「光る石片を持ち帰るだけだ。証拠もなしに戻れば、ただ森を見て帰っただけだと笑われる」
「なら笑われて帰れ」
ロウが吐き捨てる。
「分からねえものに触るな」
レインも前へ出た。
「お願いします。そこを壊さないでください」
男たちの視線が集まる。
「ああ、管理補佐の少年か」
胸が小さく縮む。
けれど、足元から声がした。
――まもって。
レインは唇をかみ、顔を上げた。
「村の許可なく、石組みを外すことは認められません」
「認める、認めないの話ではない。これは調査だ」
「なら、村の者と一緒にしてください。ここは水路につながっています。村の生活に関わります」
「言い争っている間に暗くなる。石片だけ外すぞ」
「待ってください!」
レインが叫ぶ。
だが、男は鉄棒を溝へ差し込んでいた。
ロウが走る。
「やめろ!」
間に合わなかった。
ばきり、と石が割れる。
その瞬間、地面が低く震えた。
「っ……!」
レインの膝が揺れる。
耳の奥で、悲鳴が爆ぜた。
――いたい。
――はずれた。
――あつい。
割れた石組みの隙間から、熱い風が吹き上がる。
火ではない。
けれど、空気が歪んだ。
黒ずんだ霧のようなものが、石の割れ目からにじみ出す。
「何だこれは!」
「聞いていないぞ!」
「下がれ!」
ミラが叫ぶ。
「全員、石組みから離れろ!」
ロウがレインの腕をつかむ。
「立てるか!」
「まだ……奥に、何か」
「見るな、今は逃げ道だ!」
ロウの声で、レインは我に返った。
だが、視界の端に見えてしまった。
崩れた土の奥。
古い壁面。
そこに刻まれた、細い文字。
泉の底で一瞬だけ光ったものと似ていた。
壁面の溝に沿って、淡い光が走る。
水の道のように。
根のように。
だが、その一部が黒い霧に濁っていく。
――ふさがる。
――おされる。
――にげる。
「逃げる……?」
レインがつぶやいた時、森の奥で枝が折れた。
ミラが鋭く振り向く。
「来る」
また枝が折れる。
重い足音。
一つではない。
調査員たちの顔から血の気が引いた。
「魔物か?」
「荷車を出せ!」
「石片は捨てろ!」
黒い霧は、地面を這うように広がっていた。
それに押されるように、森の奥の気配が近づいてくる。
レインには分かった。
魔物が村を狙っているのではない。
地下から漏れた異常な熱と流れに、追い立てられている。
このままでは、水路沿いに進む。
水路の先には、村がある。
「……村へ向かう」
レインの声が震えた。
ミラは短剣を抜きながら、すばやく周囲を見た。
「ここで受けるのは無理だ。数も大きさも分からない」
「でも、村へ行かせるわけには」
「分かってる。だから、あんたは聞け」
ミラがレインを見る。
「あの熱と魔物を、どこへ逃がせる?」
レインは地面に膝をついた。
手を土に当てる。
声が押し寄せた。
――そらして。
――ながして。
――まだ、こわれていない。
頭が割れそうに痛い。
声が多い。
熱い。
苦しい。
それでも、レインは手を離さなかった。
この声を聞けるのは、自分だけだ。
「水路の脇に、古い谷筋がありましたよね」
レインはロウを見る。
「ああ。水はもう流れてねえが、地形は残ってる」
「そこへ……逃がせるかもしれません」
「何をだ」
「熱と、魔物の進む道を」
ロウが目を見開く。
「できるのか」
「分かりません」
正直に答えた。
怖かった。
できると言い切れる力なんてない。
戦えない。
魔物を倒すこともできない。
でも。
「このままなら、村へ行きます」
ロウは一瞬だけ黙った。
次に、道具袋から槌と鉄杭を引き抜く。
「谷筋を開く。どこだ」
レインは震える指で地面を示した。
「この先の低いところです。土が詰まっています。そこを少し崩せば、流れが逃げるきっかけになるはずです」
「分かった」
ロウは走り出した。
ミラは森の方へ石を投げる。
乾いた音が響いた。
木々の奥で、黒い影が揺れる。
「こっちだ、化け物ども!」
「ミラさん!」
「心配するな。引きつけるだけだ。斬り合う気はない」
調査員たちは立ち尽くしていた。
ロウが怒鳴る。
「おい、あんたらも来い! あんたらが壊したんだ。石を運べ!」
「な、なぜ我々が――」
森の奥から咆哮が響く。
さっきより近い。
調査員の一人が震えながら石を持ち上げた。
別の男も、青ざめた顔で土を掘り始める。
レインは目を閉じた。
泉の時とは違う。
畑の時とも違う。
今は、流れが暴れている。
無理に押せば、もっと壊れる。
止めようとすれば、逃げ場を失って村へ向かう。
なら、止めない。
少しだけ、道を変える。
戦えないなら、戦わずに済む道を探せばいい。
ミラの言葉が、胸に浮かんだ。
線だけ引いても畑は変わらない。
ロウの言葉も続いた。
レインは震える息を吐く。
「こっちじゃない……こっちへ」
手首の刻印が、淡く青緑に光った。
土の奥の声が、一斉に大きくなる。
――そこ。
――ひらく。
――いたい。
――でも、ながれる。
頭の奥に、焼けるような痛みが走った。
「っ……!」
視界が揺れる。
それでも、レインは手を離さなかった。
ロウが谷筋の土へ鉄杭を打ち込む。
「ここか!」
「もう少し右です!」
「右だな!」
槌の音が響く。
乾いた土が割れ、古い谷筋の底が少しだけ見えた。
黒い霧が、水路沿いから横へ揺れる。
「動いた!」
ロウが叫ぶ。
だが、すぐに霧は戻ろうとした。
水路の方が、流れやすいのだ。
「足りねえ!」
レインの指先が震える。
もっと深く聞こうとした瞬間、耳の奥で声が爆ぜた。
――いたい。
――こわい。
――ながれたい。
――でも、ふさがる。
レインの中で、声が混ざる。
土地の声。
水路の声。
魔物の怯え。
自分の鼓動。
境目が分からなくなる。
「レイン!」
ロウの声が遠い。
ミラがまた石を投げた。
黒い影の一つが、こちらへ首を向ける。
別の影は、水路の先――村へ続く方角を見ていた。
時間がない。
レインは唇をかみ切るほど強く結んだ。
「村へは、行かせない……!」
刻印の光が強くなる。
割れた石組みの奥で、古代文字が一瞬だけ輝いた。
レインはその光に引っ張られるように、土の奥の流れへ手を伸ばす。
押すのではない。
止めるのでもない。
逃げ道を示す。
「こっちへ……流れて……!」
谷筋の方で、土が崩れた。
黒い霧が大きく揺れる。
今度は、ほんの少しだけ戻らない。
森の奥で魔物が咆哮した。
近い。
黒い影が、木々の間から姿を見せる。
レインの視界が白く弾けた。
その直前、黒い影の一つが、水路の先――村へ続く方角へ首を向けるのが見えた。




