初めての地脈調整、村へ向かう魔物をそらす
レインの視界が、白く弾けた。
音が遠ざかる。
ロウの叫びも。
ミラの声も。
調査員たちの悲鳴も。
全部が、厚い水の向こうに沈んでいく。
代わりに聞こえたのは、地面の奥から押し寄せる声だった。
――あつい。
――にげたい。
――ふさがる。
――そこじゃない。
声が多すぎる。
泉の時は、まだ一つの声だった。
畑の時も、耳を澄ませれば聞き分けられた。
けれど今は違う。
割れた石組み。
黒い霧。
熱を嫌がる森の魔物。
水路の下を走る古い流れ。
谷筋に残った、乾いた道。
それらが一斉に叫んでいた。
頭の奥が焼ける。
「レイン!」
ロウの声が、急に近くなった。
レインははっと目を開ける。
自分は、まだ地面に手をついていた。
指先が震えている。
手首の刻印は、淡い青緑に光っていた。
目の前では、黒い霧が水路沿いに伸びようとしている。
その先には村がある。
森の奥から、黒い影が現れた。
大きな獣に似ている。
けれど、普通の獣ではない。
背中には硬い棘のようなものが並び、体の表面に赤黒い筋が走っている。
目は怒っているというより、怯えていた。
一体ではない。
後ろに、さらに二つの影がある。
黒い霧が、地面を這って魔物の前脚に触れた。
その瞬間、魔物が大きく身をよじった。
体表の赤黒い筋が、じくりと脈打つ。
焼けた鉄を押し当てられたように、魔物は足を引き、低く唸った。
怒っているのではない。
痛がっている。
レインには、そう見えた。
「来るぞ!」
ミラが叫んだ。
彼女は短剣を抜いている。
だが、突っ込む気はない。
足元を見て、木の位置を見て、魔物との距離を測っている。
「こっちに寄せすぎるな! 逃げ道を塞ぐなよ!」
ミラは調査員たちにも怒鳴った。
調査員たちは青ざめた顔で石を運んでいる。
さっきまでレインたちを軽く見ていた男たちだ。
今はもう、そんな余裕はない。
「おい、ここでいいのか!」
ロウが谷筋の土に鉄杭を打ち込みながら叫ぶ。
乾いた土が割れる。
古い根が切れる。
埋もれていた低い道が、少しだけ姿を見せた。
レインは息を吸った。
喉が痛い。
「もう少し……右です」
「右だな!」
ロウが迷わず動く。
槌の音が響く。
かん、かん、かん。
そのたびに、土の奥の声が変わる。
――そこ。
――ちがう。
――もうすこし。
レインは声を追った。
無理やり押してはいけない。
泉の時もそうだった。
詰まりを壊すのではなく、ほどく。
水を命令するのではなく、流れやすい道を作る。
今も同じだ。
黒い霧も、熱も、魔物の動きも。
全部を止めることはできない。
なら、そらす。
村へ向かう流れから、谷筋へ。
「こっちじゃない……こっちへ……」
レインは地面に指を押し当てた。
爪の間に土が入る。
手首の刻印がさらに熱くなった。
「っ……!」
痛みが走る。
頭の奥を、熱い針で刺されたようだった。
耳の中で声が混ざる。
――ながれたい。
――いたい。
――にげたい。
――こわい。
――まもって。
土地の声なのか。
魔物の恐れなのか。
自分の願いなのか。
境目が分からない。
レインの体がぐらりと傾いた。
「倒れるな!」
ロウが叫ぶ。
「倒れるなら、終わってから倒れろ!」
「無茶言わないでください……!」
「無茶してんのはお前だ!」
そのやり取りが、ほんの少しだけレインを現実に戻した。
ミラが森へ向かって石を投げる。
乾いた音が、別の方向で鳴った。
黒い影の一つが、そちらへ首を向ける。
「こっちだ!」
ミラが叫ぶ。
「村じゃない。こっちへ来い!」
魔物が低く唸った。
怒りではない。
苦しみに押されて、どこへ逃げればいいか分からない声だった。
ミラは一歩下がる。
誘うように。
だが、近づきすぎない。
彼女の足運びは軽い。
木の根を避け、足音をわざと鳴らし、また消す。
戦っているのではない。
道を選ばせている。
レインはその動きを見て、胸の奥で何かがつながるのを感じた。
戦えないなら、戦わずに済む道を探せばいい。
ミラの言葉。
線だけ引いても畑は変わらない。
ロウの言葉。
二つが、今ここで形になっている。
自分一人ではない。
レインは、もう一度地面へ意識を沈めた。
「ロウさん、そこを開いたら、石を斜めに置いてください」
「あ?」
「流れが戻ろうとしています。石で、少しだけ受けてください。畑の時みたいに」
ロウが一瞬だけ目を見開いた。
すぐに笑う。
「そういうことかよ!」
ロウは調査員の一人から石を奪うように受け取り、谷筋の入口へ置いた。
「おい、そっちの石も持ってこい! まっすぐ置くな、斜めだ!」
「な、なぜ我々が!」
「死にたくなきゃ手を動かせ!」
調査員たちは半泣きで石を運ぶ。
その手は震えていた。
だが、逃げなかった。
いや、逃げられなかったのかもしれない。
それでも今は、手が必要だった。
レインは土の声を聞く。
谷筋の入口が開いた。
石が置かれた。
黒い霧が、そこで一度ぶつかる。
戻ろうとする。
だが、斜めに置かれた石に沿って、少しだけ横へ流れる。
――そっち。
――ながれる。
――いたい。
――でも、いける。
「今です……!」
レインは声を振り絞った。
「ミラさん、谷の方へ音を!」
「了解!」
ミラが短剣の柄で近くの石を叩いた。
高い音が響く。
さらに、木の枝を折る。
足で土を蹴る。
魔物の一体が、谷筋へ首を向けた。
黒い霧が、その方向へ流れ始めている。
魔物は熱から逃げている。
なら、熱の逃げ道が変われば、進む道も変わる。
レインの読みは、間違っていなかった。
だが、大きな一体だけが動かない。
その魔物は、水路の先を見ていた。
村の方角だ。
大きな魔物が、苛立つように前脚を振った。
近くの細い木が、ばきりと折れる。
折れた幹が調査員のすぐ横に落ち、男は悲鳴を上げて尻もちをついた。
「ひっ……!」
土がえぐれ、石が跳ねる。
もしあれが村の柵や家に当たれば、簡単に壊れてしまう。
レインの背筋が冷たくなった。
「まだ一体残ってる!」
ミラが叫ぶ。
レインは顔を上げる。
視界がにじむ。
黒い影が二重に見える。
だが、分かった。
大きな魔物の足元に、黒い霧がまとわりついている。
逃げたいのに、進む方向を乱されている。
水路の方が、まだ強い。
谷筋だけでは足りない。
「もう少し……開かないと」
「どこをだ!」
ロウが叫ぶ。
レインは地面に触れた。
声を探る。
だが、声が多すぎる。
――あつい。
――こわい。
――にげる。
――いたい。
――まもって。
――ふさがる。
頭の奥が白くなる。
吐き気がこみ上げた。
「レイン、無理するな!」
ミラの声。
でも、今止めたら。
村へ行く。
泉がある。
畑がある。
交換会で手に入れた豆袋がある。
少し笑えるようになった村人たちがいる。
あそこへ、この魔物を行かせるわけにはいかない。
「……まだ、聞こえます」
レインは震える声で言った。
強がりではない。
聞こえている。
だから、やるしかない。
レインは両手を地面についた。
右手首の刻印だけでなく、指先まで熱い。
土の奥へ、意識を沈める。
深く。
もっと深く。
そこに、古い谷筋の記憶があった。
昔、ここには水が流れていた。
今は枯れている。
草と土に埋もれている。
けれど、道は消えていない。
土地は、まだ覚えている。
「思い出して……」
レインはつぶやいた。
「ここは、流れる場所だったんですよね」
地面の奥で、何かが震えた。
――ながれていた。
――ひえていた。
――とおっていた。
「なら、もう一度だけ。少しだけでいいです」
声が返る。
――いたい。
――でも。
――ひらく。
レインの体から、一気に力が抜けそうになった。
だが、その前にロウが叫ぶ。
「こっちか! この下か!」
レインは必死にうなずいた。
「はい……そこ、です」
「聞こえたぞ!」
ロウが鉄杭を打ち込む。
一度。
二度。
三度。
硬い土が割れた。
その下から、乾いた溝が現れる。
ただの溝ではない。
昔の流れが削った、自然の逃げ道だ。
黒い霧が、大きく揺れた。
今度は戻らない。
谷筋の方へ、はっきり流れ始める。
大きな魔物が咆哮した。
怒りではない。
進む先が変わったことに気づいたような、戸惑いの声だった。
ミラがその横を駆ける。
「こっちだ!」
谷筋の方へ走る。
魔物は一歩、水路から外れた。
レインは息を止める。
もう一歩。
魔物の前脚が、谷筋の土を踏んだ。
その瞬間、黒い霧がそちらへ吸われるように流れた。
残りの魔物も、それを追う。
だが、大きな一体だけが一度、首を戻した。
村へ続く水路の方へ。
ミラが即座に石を拾い、谷筋の奥へ投げる。
乾いた音が、闇の中で跳ねた。
「こっちだって言ってるだろ!」
魔物の耳が動く。
迷うように足を止めたあと、黒い霧の流れに押されるように、谷筋へ向き直った。
水路沿いの気配が、少しずつ薄くなっていく。
「……そらせた?」
調査員の一人が、震えた声で言った。
ロウは答えない。
ミラも油断していない。
魔物たちは谷筋を進み、森の奥へ向かっていく。
だが、まだ近い。
いつ戻ってくるか分からない。
「追うな!」
ミラが叫んだ。
「全員、動くな。音を立てるな!」
誰も動かなかった。
谷筋の奥で、枝が折れる音が何度か響いた。
やがて、それも遠ざかる。
黒い霧も、少しずつ薄くなっていった。
完全に消えたわけではない。
ただ、水路沿いからは離れた。
村へ向かう流れは、今だけ途切れている。
「レイン!」
ロウが駆け寄る。
レインは返事をしようとした。
だが、声が出なかった。
耳の中で、まだ土地の声が鳴っている。
いや、鳴っているのに、聞き取れない。
全部が混ざっている。
泉。
畑。
水路。
谷筋。
魔物。
黒い霧。
古い壁面。
それらが一つの大きな音になって、レインの頭を揺らしていた。
「……っ」
レインの体が傾く。
ロウが受け止めた。
「おい、しっかりしろ!」
「声が……」
「あ?」
「多すぎて……聞き分けられない……」
言葉はそこで途切れた。
レインの視界が暗くなりかける。
ミラが戻ってきて、膝をついた。
「息はしてる。けど、かなりまずい顔だな」
「どうすりゃいい」
「村へ戻す。いや、その前に……」
ミラは割れた石組みを見た。
黒い霧は弱まったが、完全には止まっていない。
古い壁面の光も、まだちらついている。
「あれを放置して戻るのも危ない」
ロウが歯を食いしばる。
「応急で塞ぐ。完全には無理だが、漏れを弱めるくらいなら」
彼は調査員たちをにらんだ。
「聞いたか。まだ終わってねえ。石を戻すぞ」
「だ、だが我々は……」
「壊したのはあんたらだろうが!」
ロウの怒声に、調査員たちはびくりとした。
そのうち一人が、青い顔でうなずく。
「わ、分かった。手伝う。手伝うから……」
そう言いかけた男が、急に咳き込んだ。
黒い霧を吸ったのか、喉を押さえて膝をつく。
ミラが舌打ちした。
「吸い込むな。布で口を押さえろ。動けるやつだけ動け!」
調査員たちは、今度こそ言い返さなかった。
「なら動け」
ロウは短く命じた。
ミラはレインを見下ろす。
「担げるか?」
「……歩け、ます」
レインは言った。
自分でも驚くほど弱い声だった。
立とうとする。
だが、足に力が入らない。
ロウが肩を貸した。
「歩けてねえだろ」
「すみません」
「謝るな。今謝る相手は、お前じゃねえ」
ロウの視線は、調査員たちに向いていた。
調査員たちは目をそらした。
その時だった。
割れた石組みの奥で、古代文字がまた光った。
レインは顔を上げる。
古い壁面に、淡い線が走っていく。
さっきまでは、泉や畑、水路に向かう線だけだった。
だが今は違う。
線は、壁面の奥へ広がっていく。
村の外。
森の向こう。
閉じた鉱山道。
遠い丘。
ヴァルゼア周辺の地図のようにも見える。
だが、その線は壁の端で途切れず、さらに外へ伸びていた。
レインには、そう見えた。
けれど、はっきりとは分からない。
文字も読めない。
線の意味も分からない。
ただ一つだけ、分かることがあった。
黒く濁った部分は、ここだけではない。
壁面の遠い場所にも、かすかな黒い染みがあった。
「……ここだけじゃ、ない?」
レインの声は小さかった。
ロウが顔をしかめる。
「何がだ」
「黒いところが……他にも……」
ミラも壁面を見る。
「私には、ただ光ってる線にしか見えない」
「僕にも、全部は分かりません。でも……」
レインは胸を押さえた。
痛い。
息をするだけで、頭の奥が響く。
それでも、その光景から目を離せなかった。
ヴァルゼアの異変は、村だけではない。
泉だけでも、畑だけでも、水路だけでもない。
もっと深いところで、つながっている。
そして、どこかでまだ詰まっている。
――まだ。
かすかな声がした。
聞こえたのか。
頭に残った幻なのか。
レインには分からなかった。
――まだ、奥で詰まっている。
古代文字の光が、すっと弱まる。
壁面は暗くなった。
その場に残ったのは、割れた石組みと、焦げたような匂い。
そして、誰も口を開けない沈黙だった。
◇
村へ戻った時には、夜になっていた。
老人と村人たちが、灯りを持って待っていた。
「レイン殿!」
老人が駆け寄る。
レインはロウに支えられたまま、どうにか頭を下げた。
「魔物は……村には、来ていません」
老人は一瞬、言葉を失った。
そして、レインを支えるロウとミラ、泥だらけの服、血の気のない顔を見て、深く息を吸った。
「……今夜、この村が無事だったのは、レイン殿が戻した流れのおかげか」
その言葉に、周囲の村人たちがはっとしたようにレインを見る。
レインは首を振ろうとした。
自分一人の力ではない。
ロウが谷筋を開き、ミラが魔物を誘導し、皆が石を運んだからだ。
けれど、声が出なかった。
それを聞いた村人たちの間に、ざわめきが広がった。
「本当か」
「水路は?」
「森の方はどうなった」
答えたのはミラだった。
「魔物は谷筋へ逸れた。ただし、戻らない保証はない。明日の朝までは、水路沿いに誰も近づくな」
ロウも続ける。
「石組みは応急で押さえた。だが、直ったわけじゃねえ。むしろ、何か分からねえものを一度壊した状態だ」
老人の顔が厳しくなる。
「誰が壊した」
場が静まった。
調査員たちは、村人たちの視線を浴びて小さくなっている。
そのうち一人が、震えながら口を開いた。
「我々は……調査を……」
「村の許可は出しておらん」
老人の声は静かだった。
だが、誰よりも重かった。
「水路は村の命だ。封鎖していた場所へ勝手に入り、石組みに手を出した。その結果、魔物が村へ向かいかけた」
調査員は何も言えない。
ロウが低く言う。
「マーゼルってやつに伝えろ。次は、話し合いの場で説明してもらう。こっちも黙ってねえ」
ミラが肩をすくめた。
「その前に、あんたらも逃げずに証言しな。自分たちが何をしたか」
調査員たちは青ざめたまま、うなずいた。
レインはそのやり取りを聞いていた。
本当なら、自分も言わなければならない。
村の管理補佐として。
あの場にいた者として。
けれど、もう立っているだけで精いっぱいだった。
足元がふわふわする。
地面の声が遠い。
聞こえないわけではない。
けれど、霧の向こうにあるようにぼやけている。
それが怖かった。
今まで、土地の声は苦しくても聞こえていた。
それが今は、うまくつかめない。
「レイン殿?」
老人の声が遠く聞こえる。
「顔色が悪い。すぐ休ませよう」
「でも、石組みが……」
「今は休め」
ロウが言った。
「倒れたやつが現場見ても、邪魔になるだけだ」
「……はい」
反論できなかった。
ミラが小さく笑う。
「珍しく素直だな」
「立っているのが、少し……」
「少しじゃないだろ」
ミラはそう言って、レインの反対側を支えた。
ロウとミラに両側を支えられながら、レインは村の中へ運ばれるように歩いた。
村人たちが道を空ける。
その目には、不安があった。
けれど、以前のような疑いだけではない。
心配。
驚き。
そして、ほんの少しの敬意。
レインはそれを見て、胸の奥が熱くなった。
村を守れたのかは、まだ分からない。
石組みは壊れた。
黒い霧は完全には消えていない。
魔物も遠ざかっただけだ。
それでも、今夜だけは村へ入らせなかった。
それだけは、確かだった。
家の役に立たないと言われた力。
戦えない外れスキル。
それが今、村を一晩だけ守った。
レインはゆっくりと息を吐いた。
その時、遠い地面の奥から、かすかな声が聞こえた。
――ありがとう。
そう聞こえた気がした。
けれど、その声はすぐに別の声にかき消された。
――でも、まだ。
――まだ、奥で詰まっている。
レインの意識は、そこで途切れた。




