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2/5

辺境村再生、流れを探す少年と、形にする仲間

 泉から水がにじみ出た翌朝。


 ヴァルゼアの村は、少しだけ騒がしかった。


「本当に出てるぞ」

「夜の間に止まったんじゃないかと思ったが……」

「桶を持ってこい。少しでも溜めるんだ」


 村人たちは、枯れていた泉の周りに集まっていた。


 泉は完全に戻ったわけではない。

 底から細く水が湧いているだけだ。


 けれど昨日まで泥しかなかった場所に、水がある。


 その事実だけで、村人たちの顔は少し明るく見えた。


 レインは少し離れた場所から、その光景を見ていた。


 胸の奥が温かい。


 自分の力が、誰かの役に立った。

 その喜びは、今まで感じたことのないものだった。


 けれど。


「レイン殿」


 村の代表である老人が、静かに近づいてきた。


「少し、話せるか」


「はい」


 老人の表情は、喜びだけではなかった。

 むしろ、昨日よりも重い顔をしている。


「泉が戻ったのは、ありがたい。だが……」


 老人は村の方へ目を向けた。


「水はまだ足りん。畑は痩せ、水路は崩れ、食料も底をつきかけている。魔物も、以前より村の近くを通るようになった」


「……はい」


 レインも分かっていた。


 泉がわずかに戻っただけで、村のすべてが救われるわけではない。


 水をどう運ぶか。

 畑をどう戻すか。

 食べ物をどう確保するか。

 魔物をどう避けるか。


 問題は山のようにあった。


「昨日のことを見て、村の者たちの目は変わった」


 老人は小さく息を吐く。


「だが、信頼とは一日でできるものではない」


「分かっています」


 レインはうなずいた。


 期待されるのは嬉しい。

 でも、怖くもある。


 昨日はたまたまうまくいっただけかもしれない。

 次もできるとは限らない。


 それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。


「村を見て回らせてください」


「村を?」


「はい。泉だけじゃなくて、畑や水路も。土地の声を聞けば、何か分かるかもしれません」


 老人はしばらくレインを見ていた。


 昨日なら、きっと鼻で笑われていた。


 けれど老人は、ゆっくりとうなずいた。


「なら、案内しよう。ただし、無理はするな。倒れられても困る」


「はい」


 その言葉には、まだ疑いが混じっていた。

 けれど、拒絶ではなかった。


 それだけでも、昨日とは違っていた。


 ◇


 まず向かったのは、村の南にある畑だった。


 広さはそれなりにある。

 だが、土は固く、ところどころ白く乾いていた。


 作物の芽は出ているものの、細く弱い。

 少し強い風が吹けば折れてしまいそうだった。


 畑仕事をしていた村人たちが、レインを見ると手を止める。


「昨日の坊ちゃんだ」

「泉を戻したっていう……」

「本当に、土地のことが分かるのか?」


 声はまだ疑いを含んでいた。


 それでも、完全な拒絶ではない。


 レインは畑の端に膝をついた。


 土に手を触れる。


 乾いている。

 硬い。


 けれど、それだけではない。


 ――のみこめない。

 ――つよすぎる。

 ――ながれが、かたよる。


 また声が聞こえた。


 泉の時より弱い。

 言葉というより、土の中からにじむ不満のようだった。


「この畑……水が足りないだけじゃないです」


「どういうことだ」


 老人が尋ねる。


「水が来ても、うまく受け止められない場所があります。逆に、水が集まりすぎる場所もある。だから作物が育ちにくいんだと思います」


 村人の一人が顔をしかめた。


「そんなの、見ただけで分かるのか」


「見ただけではありません。でも……」


 レインは畑を歩いた。


 足元の感覚に耳を澄ませる。


 一歩ごとに、土の声が変わる。


 ここは苦しい。

 ここは渇いている。

 ここは重い。


 全部を直すことはできない。

 でも、一部なら。


「この列は、今は種をまかない方がいいです。水が逃げます。こっちの低いところは、溝を浅く切れば水が残りすぎないと思います」


「溝?」


「はい。水路から直接流すんじゃなくて、いったん小さく分けて……」


 レインは地面に枝で線を引いた。


 村人たちが集まってくる。


「水を分けるって言っても、水路は壊れてるぞ」

「それに人手も足りねえ」

「畑を作り直す余裕なんか……」


 重い声が重なる。


 レインは言葉に詰まった。


 正しい方法が見えても、実際に動かす人がいなければ意味がない。


 自分一人でやるしかないのか。


 そう思った時だった。


「その溝なら、深く掘らなくてもいける」


 若い声がした。


 振り向くと、腰に道具袋を下げた青年が立っていた。

 短く切った茶色の髪に、日に焼けた腕。

 指先には、古い傷がいくつもある。


 老人が小声で教えてくれた。


「あれはロウだ。村の外れで、壊れた荷車や農具を直している」


 ロウはレインの描いた線を見下ろした。


「板切れと石を使えば、水を受ける小さな段を作れる。水路を全部直すより早い」


「本当ですか?」


「材料が足りればな。足りなくても、壊れた柵をばらせば何とかなる」


 ロウは腕を組んだ。


「ただし、俺一人じゃ無理だ。畑の者にも手伝ってもらう」


 畑の村人たちは顔を見合わせた。


「うちの柵を使うのか?」

「でも、作物が戻るなら……」

「試すだけなら、やってみてもいいんじゃないか」


 少しずつ声が変わっていく。


 レインは胸が軽くなるのを感じた。


 自分だけで全部やらなくてもいい。


 誰かが知恵を出してくれる。

 誰かが手を貸してくれる。


 それが、こんなに心強いとは思わなかった。


「お願いします。僕も手伝います」


「貴族様が泥まみれになるのか?」


 ロウがからかうように言った。


 レインは少し困って、それでもうなずいた。


「なります。今さらです」


 昨日、泉の泥に腕まで突っ込んだのだ。

 もう遠慮する理由はない。


 ロウは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。


「じゃあ、手始めにその枝じゃなくて鍬を持て。線だけ引いても畑は変わらないからな」


「はい!」


 村人たちの間から、ほんの少し笑いが起きた。


 ◇


 最初の溝作りは、うまくいかなかった。


 レインが示した場所を掘り、ロウが板と石を置く。

 村人たちが水を流す。


 だが、水は途中で横へ逃げた。


「あっ、そっちじゃ……!」


 レインが声を上げるより早く、水は低い方へ広がってしまった。


 村人の一人がため息をつく。


「やっぱり駄目か」


「待ってください。今ので少し分かりました」


 レインはもう一度、土に手を触れた。


 ――そこは、いや。

 ――こっち。

 ――すこし、ひくい。


 声が混ざって聞こえる。


 畑の声。

 水の気配。

 村人たちの不安。


 それらが頭の奥で重なって、少しだけくらりとした。


「レイン殿?」


 老人の声が遠く聞こえる。


 レインは慌てて息を整えた。


「大丈夫です。少し……声が多くて」


「声が多い?」


「土地の声です。泉の時より、小さな声があちこちから聞こえるんです」


 ロウが眉をひそめた。


「無理して倒れるなよ。場所を聞くやつが倒れたら、俺たちはただの穴掘り集団だ」


「すみません」


「謝るな。休めと言ってる」


 ぶっきらぼうな言い方だった。

 けれど、心配してくれているのは分かった。


 レインは少しだけ座り、水を飲んだ。


 自分の力は便利なだけではない。

 聞きすぎれば、たぶん体に負担がかかる。


 それでも、今は止まれない。


 レインはもう一度立ち上がった。


「次は、ここを少しだけ深くしてください。あと、この石は斜めに」


「斜め?」


「水がぶつかって、勢いが弱くなるはずです」


 ロウは少し考え、石を持ち上げた。


「なるほどな。流れを殺すのか」


「はい。たぶん」


「たぶんで石を置かせるな」


「す、すみません」


「まあ、やってみる」


 ロウが石を組み直す。

 村人たちが泥を押さえる。

 老人が水を少しずつ流す。


 今度は、水がゆっくりと溝を進んだ。


 途中で勢いを弱め、低い畑へ薄く広がっていく。


 乾ききっていた土が、じわりと色を変えた。


「おい……」


 村人の一人がしゃがみ込む。


「湿ってる」


 別の村人も手で土に触れた。


「本当だ。水が逃げてない」


 畑の空気が変わった。


 大きな歓声はない。

 まだ半信半疑の顔もある。


 けれど、誰も笑わなかった。


 レインはほっと息を吐いた。


 その瞬間、足元から小さな声が届く。


 ――すこし、らく。


 胸の奥が、じんと温かくなった。


 ロウが隣に立ち、溝を見下ろす。


「悪くない。これなら、他の畑にも応用できる」


「本当ですか?」


「ただし、水路の本筋を直さないと限界がある。泉から村までの水路、見たか?」


「まだです」


「なら次はそこだな」


 ロウは道具袋を肩にかけ直した。


「俺は土地の声なんて聞こえない。だが、壊れた場所なら見れば分かる。あんたが流れを探して、俺が形にする。それなら早い」


 その言葉に、レインは一瞬返事が遅れた。


 あんたが流れを探して、俺が形にする。


 頼っていい。

 そう言われた気がした。


「……ありがとうございます」


「礼はまだ早い。直してから言え」


 ロウはそっぽを向いた。


 でも、その耳は少し赤かった。


 ◇


 泉から村へ続く水路は、想像以上に傷んでいた。


 石積みの溝はあちこちで崩れ、土砂と草の根が絡んでいる。

 場所によっては、完全に埋まっていた。


「昔は立派だったんだろうな」


 ロウが石を指で叩く。


「組み方は悪くない。だが、放っておきすぎた」


 レインは水路の縁にしゃがみ、土に手を触れた。


 ――つまる。

 ――それる。

 ――ふまれる。


 その中に、畑とは違うざわめきが混じっていた。


 レインが顔を上げると、水路の先、森に近い場所の土が大きくえぐれていた。


「ここ……何かが通っています」


 ロウが地面を見る。


「足跡か。でかいな」


 老人の顔が曇った。


「魔物だ。最近、森の奥から出るようになった。昔はもっと遠くを通っていたのだがな」


「魔物が水路を壊したんですか?」


「一部はそうだろう。ただ、狩人たちは妙なことを言っている」


「妙なこと?」


「まるで何かから逃げているようだ、と」


 レインは森の奥を見た。


 風が木々を揺らす。


 その奥から、かすかな声がした。


 ――おいやられる。

 ――あつい。


 短く、弱い声だった。


 レインは胸の奥が冷えるのを感じた。


 魔物はただ増えたのではないのかもしれない。


 けれど、今のレインには原因までは分からない。


「今は、村に近づかせない道を探しましょう」


 レインは言った。


「水路を直しても、また踏み荒らされたら意味がありません」


 ◇


 森の浅い場所を調べる時、村の狩人たちが同行してくれた。


 その中に、外から来た冒険者も一人いた。


 革鎧を身につけた女性で、名をミラという。

 村に食料を運ぶ依頼を受けたまま、道の危険が増えて足止めされているらしい。


「貴族の坊ちゃんが森歩きか。転ぶなよ」


 ミラはそう言って笑った。


「気をつけます」


「真面目だな。からかいがいがない」


 彼女は肩をすくめる。


 だが、足跡の前に来ると表情が変わった。


「昨日か一昨日だな。群れじゃない。大きいのが一体、ここを横切ってる」


「村に向かっているんですか?」


「今のところはな。だが、次も同じとは限らない」


 レインはそっと地面に触れた。


 魔物の足跡が残る道は、地面の声が荒い。

 逆に、少し離れた岩場の方は静かだった。


「こっちの岩場を通る道なら、魔物はあまり近づかないと思います」


「理由は?」


 ミラが尋ねる。


「足元が落ち着いています。魔物が嫌がる感じも薄い。たぶん、刺激が少ないんです」


「土地の声ってやつか」


「はい」


「便利だな」


「でも、戦えません」


 レインが正直に言うと、ミラは笑った。


「戦えないなら、戦わずに済む道を探せばいい。そっちの方が賢い」


 その言葉に、レインは胸を突かれた。


 戦えないから役に立たない。

 そう言われ続けてきた。


 でも、戦わずに済む道を探すことも、誰かを守る方法になる。


「……はい」


 レインはうなずいた。


 森の中に、古い踏み跡があった。

 草に隠れ、ほとんど使われていない道だ。


 狩人の一人が目を細める。


「昔の採集道だ。まだ残っていたのか」


「使えますか?」


「手入れすればな。村から薬草の群生地にも近い。魔物の大きな足跡は、この辺には少ない」


 ミラが周囲を確認する。


「荷車は無理だが、人なら通れる。採集と見回りには使えるな」


 レインはほっとした。


 魔物を倒す力はない。

 けれど、魔物とぶつからない道なら探せる。


 これも、村を守ることにつながる。


 森の奥は、まだ気になった。

 あの「あつい」という声の正体も分からない。


 けれど、ミラが低い声で言った。


「今は行くなよ。水路も畑も途中だ。あんたが倒れたら、村が止まる」


「……はい」


 レインはうなずいた。


 気になる。

 けれど、今はまだ早い。


 まずは村の足元を整えなければならない。


 ◇


 それから三日間、村は少しずつ動いた。


 水路の石は何度も崩れた。

 畑の溝も、一度の雨で形が変わった。

 森の道では新しい魔物の足跡が見つかり、狩人たちが急いで目印を変えた。


 うまくいく日ばかりではなかった。


 それでも翌朝には、誰かが鍬を持って集まってきた。


 レインは土地の声を聞いた。

 ロウは石と木で形にした。

 狩人たちは危険な場所を避ける目印を付けた。

 ミラは外の集落へ出向き、近くの道の様子を確かめた。


 村人たちの声も、少しずつ変わっていった。


「レイン殿、ここの土も見てくれないか」

「水路の石を運ぶなら手を貸すぞ」

「森の道、前よりは通りやすかった」


 まだ遠慮はある。

 完全に信じられているわけではない。


 けれど、誰もレインをただの追放された貴族として見なくなっていた。


 ある夕方、老人が小さな袋を差し出した。


「これは?」


「干し肉だ。少しだが」


「そんな、村の食料は足りないのに」


「だから少しだ」


 老人は真面目な顔で言った。


「倒れられては困る」


 レインは袋を受け取った。


 その重みは、干し肉以上のものに感じた。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは、まだ早い。水も食料も、村の中だけでは足りん。外と物を交換できなければ、冬を越せない」


「交換……」


「昔は鉱山へ向かう道があり、職人や商人が通った。今は閉じた道だがな」


 鉱山。


 その言葉を聞いた瞬間、レインの耳の奥で、かすかな熱のようなものが揺れた。


 声ではない。

 まだ、はっきりとは聞こえない。


 けれど森の奥で聞いた「あつい」という声と、どこか似ている気がした。


「鉱山は……」


 聞きかけて、レインは口を閉じた。


 今はまだ早い。


 村の足元すら、整いきっていないのだから。


「まずは、外と少しでも物を交換できるようにしましょう」


「できるのか」


「安全な採集道が使えるなら、薬草を少し持ち出せます。ロウさんが直した道具も、近くの集落なら欲しがるかもしれません」


 そこへ、ロウがやってきた。


「農具の修理なら、いくつか終わってる。売り物ってほど立派じゃないが、布や豆と交換するくらいならいける」


 続いてミラも、薬草の束を肩に担いで現れた。


「外の集落に声をかけてきた。大きな市は無理だが、試しの交換会なら来るってさ」


「交換会……」


 レインは村の広場を見た。


 今は空き地のようになっている。

 けれど、そこに人が集まり、物を並べ、声を交わす様子を想像した。


 水が戻り、畑が少し息を吹き返し、道がつながる。


 それは小さなことの積み重ねだ。

 けれど、積み重なれば村は変わる。


「やりましょう」


 レインは言った。


「本格的な市じゃなくていいです。まずは、小さな交換会から。村の外に、ここがまだ生きていると知らせるんです」


 老人は驚いたように目を見開いた。


「本気か」


「はい」


 自分で言って、レインは胸が熱くなった。


 ここは終わった土地ではない。

 見捨てられるだけの場所ではない。


 まだ、生きている。


 ◇


 交換会の準備は、想像以上に大変だった。


 広場の泥をならし、壊れた机を直し、日よけの布を張る。

 森で採れた薬草を束ね、畑でわずかに育った野菜を並べる。


 ロウは壊れた鍬や包丁を修理した。

 ミラは近くの集落に声をかけ、道中の危険が少ない時間を調べた。


 村人たちは最初、不安そうだった。


「誰も来なかったらどうする」

「売るほどの物なんてない」

「また商人に買いたたかれるんじゃないか」


 その心配は当然だった。


 ヴァルゼアは長い間、中央や商人に安く見られてきた。

 物を持っていても、足元を見られる。

 必要な物は高く売られ、こちらの物は安く買われる。


 老人は何度もそう話してくれた。


「だからこそ、村の中だけで決めておきましょう」


 レインは広場で村人たちに言った。


「薬草はいくら以下では売らない。修理した道具は、食料か布と交換する。水は売らず、村のために使う。そうやって、先に決めておくんです」


「商人が怒ったら?」


「その時は……」


 レインは少し言葉に詰まった。


 相手が強く出たら、自分はまた萎縮してしまうかもしれない。

 貴族家でそうだったように。


 けれど、ロウが横から言った。


「その時は俺たちも言う。この村の物なんだからな。こいつ一人にしゃべらせる必要はない」


 村人たちがうなずく。


「そうだな」

「俺たちの物なんだからな」

「レイン殿だけに背負わせるのも違う」


 レインは胸が詰まった。


 背負わなければ。

 自分が何とかしなければ。


 そう思っていた。


 けれど、この村の人たちは少しずつ、自分で立とうとしている。

 レインを道具として使うのではなく、一緒に動こうとしてくれている。


「……ありがとうございます」


 そう言うと、ロウが照れくさそうに顔をそらした。


「礼はいい。交換会が終わってからにしろ」


 そればかりだ。


 レインは少し笑った。


 ◇


 交換会の日。


 朝から空は晴れていた。


 広場には、村人たちが並べた品が置かれている。


 薬草。

 干した野草。

 修理した農具。

 木の器。

 少しだけ採れた野菜。


 立派な市とは言えない。

 王都の市場と比べれば、きっと子どもの遊びのように見えるだろう。


 それでも、ヴァルゼアにとっては大きな一歩だった。


 最初の半刻、誰も来なかった。


 広場に並んだ村人たちは、何度も道の方を見る。


「やっぱり来ないんじゃないか」

「無理だったのかもな」

「まだ水路だって直りきってないし……」


 不安が広がる。


 レインも、胸の前で手を握った。


 もし誰も来なかったら。

 村人たちは、また失望するかもしれない。


 自分が余計なことを言ったせいで。


 そう思いかけた時、ミラが広場の端で手を上げた。


「来たぞ」


 道の向こうから、人影が見えた。


 荷を背負った男。

 布を抱えた女。

 近くの集落の者たちだ。


「本当に水が戻ったのか?」

「道が少し安全になったって聞いた」

「薬草を見せてくれ」


 おそるおそる、けれど興味を持って広場に入ってくる。


 村人たちも緊張しながら応じた。


「これは乾かした薬草だ。傷薬に使える」

「鍬ならロウが直した。刃はまだ使える」

「野菜は少ないが、種なら分けられる」


 最初に足を止めたのは、布を抱えた女だった。


 彼女は薬草の束を手に取り、匂いを確かめる。


「……悪くないね。これ、本当にこの森で採れたのかい?」


 村人の一人が、ぎこちなくうなずく。


「あ、ああ。森の古い採集道が使えるようになってな」


「なら、この豆袋と交換できるかい? うちじゃ傷薬が足りなくてね」


 村人は一瞬、言葉を失った。


 豆の入った袋。

 大きくはない。

 けれど今のヴァルゼアには、何よりありがたい食料だった。


「い、いいのか?」


「こっちが頼んでるんだよ」


 女が笑う。


 村人は薬草の束を差し出し、豆袋を受け取った。


 その瞬間、周囲から小さな息が漏れた。


 たった一つの交換。


 けれど、それはヴァルゼアが外とつながった証だった。


「交換できた……」


 誰かがつぶやいた。


 別の男は、ロウが直した鍬を持ち上げて目を丸くした。


「これ、刃がまっすぐだ。うちのより使いやすいかもしれん」


 ロウが鼻を鳴らす。


「見た目は古いが、使えるようにはしてある」


「なら、干し魚と交換できるか?」


「干し魚?」


 ロウがちらりとレインを見た。


 レインは思わずうなずく。


「村の決めた条件に合っています。大丈夫です」


「だそうだ」


 ロウは鍬を差し出した。


 干し魚の束が村人の手に渡る。


 広場の空気が、一気に柔らかくなった。


 声が増える。

 人が立ち止まる。

 物と物が交換される。


 広場に、久しぶりの活気が生まれていた。


 レインはその光景を見つめていた。


 泉を戻した時とは違う喜びだった。


 土地だけではない。

 人も動いている。


 水が流れ、道がつながり、物が交わされる。

 それにつられるように、人の表情も少しずつ明るくなっていく。


 レインの手首の刻印が、ほんのり温かくなった。


 ――うごく。

 ――つながる。

 ――すこし、あたたかい。


 土地の声が、前より穏やかに聞こえた。


「よかった……」


 小さくつぶやいた時だった。


 広場の入口が、少しざわついた。


 見ると、見慣れない馬車が止まっていた。


 村人たちの服とは明らかに違う、質の良い外套。

 磨かれた靴。

 そして、広場の品だけでなく、水桶や水路の石まで確かめる目。


 王都から来た者だ。


 レインは直感した。


 馬車から降りた男は、広場をゆっくり見回した。


 泉から運ばれた水桶。

 少し湿りを取り戻した畑の土。

 修理された水路の石。

 森へ続く新しい道の標。


 男の目が細くなる。


「ここが、ヴァルゼアか」


 老人が警戒しながら前に出る。


「どちら様でしょうか」


「王都の商会に連なる者だ。復興の噂を聞いて確認に来た」


 男は穏やかに笑った。


 怒鳴るわけでもない。

 無理に品を奪おうとするわけでもない。


 それなのに、レインの胸は冷えた。


 男の目は、村人の喜びを見ていない。

 この土地が、どれほどの価値を持つかを測っている。


 男は泉の方へ歩き、湧き水を見た。

 次に畑を見た。

 そして、レインへ視線を向けた。


「報告では、ここは枯れた辺境のはずだった」


 周囲の声が止まる。


 男は静かに言った。


「だが、どうやら見直す必要がある。この土地には、まだ取引の余地がある」


 その言葉に、村人たちの顔が強張った。


 価値。

 取引。

 王都の商会。


 せっかく動き出したものが、また誰かの都合で測られる。


 そんな不安が、広場に広がっていく。


 レインは手を握りしめた。


 怖い。


 王都。

 商会。

 取引。


 それは、レインを追放した世界とつながる言葉だった。


 けれど、背後には村人たちがいる。

 畑を耕した人たちがいる。

 水路を直した人たちがいる。

 初めての交換会に、震えながら品を並べた人たちがいる。


 ここは、もうただ送られてきただけの場所ではない。


 レインは一歩、前へ出た。


「ヴァルゼアの管理補佐をしています。レインです」


 男の目が、値踏みするように細くなった。


「君が?」


「はい」


 声は少し震えた。


 それでも、レインは下がらなかった。


 足元から、かすかな声が聞こえる。


 ――まもって。


 それは土地の声なのか。

 それとも、レイン自身の願いなのか。


 まだ分からない。


 けれど、今度こそ聞こえないふりはしなかった。

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