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断罪された侯爵令嬢は、戦場で完成した。なお中身はおっさんである  作者: 月白ふゆ


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第8話 その判断権は誰にある

 王城の執務棟は、夜が更けるほど静かになる。


 宴席の灯りが遠のき、儀礼のための広間が沈黙を取り戻したあとも、ここだけは別の明るさを保っていた。蝋燭の柔らかな揺らぎではなく、手元の文面を読み違えないための灯り。飾り気を抑えた壁、音を吸う絨毯、机と椅子の位置まで無駄なく整えられた部屋。華やかさではなく、決定が滞らぬことを優先して作られた空間だった。


 その一室で、王と第一王子は文官の報告を受けていた。


 若い文官は、緊張の色を顔に出さぬよう努力しながら、紙束を両手で支えて立っている。報告はすでに一度、要点だけ口頭で上げてあるのだろう。今は記録に残すための、より正確で乾いた読み上げだった。


「本日、王立アルビオン学院において、第ニ王子殿下とヴォルディア侯爵令嬢との間で、三度の模擬戦が実施されました」


 王は何も言わず、第一王子も促しの視線だけを返した。


「一度目は剣術のみ、学院規則に則る通常模擬戦。二度目は殿下の申し出により、同条件での再戦。三度目は出力制限付き攻性魔術を含む模擬戦として実施されました」


 そこで文官は一枚、紙をめくった。乾いた音が、静まり返った執務室によく響く。


「結果は、三度ともヴォルディア侯爵令嬢の勝利です」


 第一王子の目が、わずかに細くなった。


 三度。


 その数だけで、嫌な流れが容易に想像できた。一度で止まらず、二度でも足りず、三度まで行った。それは勝敗より先に、誰かが引き際を失ったということだ。


 文官はそのまま続ける。


「模擬戦終了後、学院長立会いのもと、関係者による協議が行われました。議題は当初、模擬戦の運営上の整理とされていましたが、会議の進行に伴い、王子妃候補としての適性へ論点が移りました」


「移った、ではなく」


 第一王子が、そこで初めて口を開いた。低い声だった。


「移された、のではないか」


 文官は一拍だけ黙り、言葉を選ぶようにして答える。


「会議記録上は、“移った”との整理になっております。ですが、発言順と内容を追う限り、殿下および高位生徒の補助発言により、段階的にそちらへ誘導されたと見て差し支えないかと」


 第一王子はそれ以上そこで責めなかった。今はまだ文官の言葉尻を取る場ではない。


「続けよ」


 王の声は短かった。

 だが、その一言だけで室内の空気が少し張る。


「協議の終盤、学院長より、『学院としても、このまま婚約関係を維持するのは適切でないと判断する』『殿下とヴォルディア侯爵令嬢の婚約は、本件をもって解消するのが妥当』との趣旨の発言がありました」


 そこまで読まれたところで、空気が変わった。


 文官自身もそれを感じたのだろう。声の速度は崩さなかったが、指先に入る力が少しだけ増した。


「その場で殿下は明確な反対を示されず、ルミエル伯爵令嬢もまた、異論を述べるには至っておりません。ヴォルディア侯爵令嬢本人は異議を唱えず、判断を受ける旨だけを述べております」


 最後まで読み切り、文官は紙束を閉じた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 王は玉座ではなく、執務用の椅子に座っている。肘掛けへ置いた指が止まっているだけで、機嫌も感情も表へは出ない。第一王子は机上の記録を受け取り、最初の数頁だけを流れるように目で追った。誰が何を言い、どの段階で「勝敗」から「適性」へ移ったのか。丁寧に整えられた文面は、むしろその場の無責任をうまく包んでいた。


「学院長が“妥当”と言ったのだな」


 第一王子は視線を紙へ落としたまま問うた。


「はい」


「誰の権限で」


 文官は答えない。答えられる種類の問いではないからだ。


 第一王子は静かに記録を閉じた。


「学院にあるのは教育権です」


 独り言にも聞こえる声だった。

 けれど王へも、文官へも、これから呼ばれることになる者たちへも向けられている。


「婚姻裁定権ではない」


 王がそこで、ようやく背もたれから少し身を起こした。


「呼べ」


 たった一言で、それが命令になる。


「学院長、剣術教師レイモンド・フェルン、魔術教師クラウス・エッベル、当該協議の記録責任者、ならびに第ニ王子、ルミエル伯爵令嬢でよろしいでしょうか」


「よい」


 文官が深く頭を下げて下がると、執務室には王と第一王子だけが残った。


 第一王子は記録を机へ戻し、そこでようやく小さく息を吐く。


「随分と綺麗にやりました」


 王はそれに対して、かすかに鼻で息を鳴らしただけだった。


「綺麗か」


「ええ。綺麗に、越権しました」


 第一王子の声は冷えている。怒っていないわけではない。だが怒りより先に、構造の方を見ている声だった。


「模擬戦は学院の管理下。三度認めたのも学院。条件変更を許したのも学院。そしてその結果責任だけを、候補者の不適へ変換した」

「しかも王家の婚姻へ、学院見解の形で口を差し挟んだ」


「エドワードは」


 王が短く問う。


「まだ、自分が何をしたか分かっていません」


 第一王子は即答した。


「負けたことが問題なのではない。負けたあと、何を学ぶべきかが見えていない」

「ナタリアはよく教えた。逃げ道を順に潰し、甘く終わらせなかった」


 王は記録から目を離さずに言う。


「悪くない教育だ」


「ええ」


 第一王子も頷く。


「ここで分かれば、まだ間に合います」


「これで分からねば」


 王の声は低く、重い。


「自覚が足りん」


 それはエドワードへ向けた言葉であると同時に、学院側が自分たちの越権の重さを理解しているかどうかを測る言葉でもあった。


 ほどなくして、王城へ呼び出された面々が到着した。


 学院長は夜用の外套を羽織り、だが首元には急ぎ仕度した乱れが残っている。学院にいる時のような穏当な威厳はまだ保っているつもりなのだろうが、王城の執務室へ通された時点でその余裕は明らかに薄れていた。


 剣術教師レイモンド・フェルンは逆に、妙にきっちりしている。武官上がりらしく、呼ばれた以上は腹を括った顔だ。魔術教師クラウス・エッベルはその反対で、喉が乾いているのが見て取れる。汗を隠すように袖口へ指をかける癖が止まらない。記録責任者の書記官など、自分は書き留めただけだと心の中で繰り返しているような青い顔だった。


 エドワードとセラフィナも、学院とは違う重さを感じているらしい。

 エドワードは王子として呼ばれたのではなく、当事者として座らされる場所へ置かれたことで、ようやく王城の空気の冷たさを知り始めていた。セラフィナは顔色が悪い。上位へよい顔をすることは得意でも、上から静かに責任を問われる場へ出ることには慣れていない顔だった。


 全員が着席したあとで、第一王子が口を開く。


「顛末は概ね報告で受けています。ですから、まず事実確認だけをします」


 穏やかに聞こえる。

 だが、その穏やかさの中に逃げ道はない。


「この会議記録に相違はありますか」


 学院長が答える。


「……ございません」


「“婚約解消が妥当”と述べた主体は、学院長、あなたで間違いありませんか」


 学院長は一瞬だけ言葉を探した。

 だが否定できるものではない。


「会議の流れの中で、そのような趣旨を申し上げたのは事実です」


「学院見解として、ですか。個人的所感として、ですか」


 学院長の目元がわずかに揺れる。


「学院としての秩序維持と教育的観点を踏まえた、場の整理として――」


「場の整理」


 第一王子が、その語だけを取り上げる。


「便利ですね」


 学院長は黙った。


 第一王子はそこで、紙を一枚めくる。


「確認します。学院には、王家の婚姻の可否を判断する権限がありますか」


 核心だった。


 学院長の顔から、目に見えて血の気が引く。


「……いえ、そのような権限までは」


「では、なぜ婚約解消が妥当と述べたのですか」


 低い声のまま、詰める。


「進言ではなく、裁定の形でしたが」


「それは」


 学院長は言葉を継ごうとする。

 教育上の判断。

 秩序維持。

 たぶんそのあたりの語を使うつもりだったのだろう。

 だが第一王子はそこで間を与えない。


「ヴォルディア侯爵令嬢の婚約と、王子妃教育前倒しは、誰の判断で進んだと思っていますか」


 学院長は目を伏せて答える。


「陛下のご意向を含むものと承知しております」


「承知していて、なお“妥当”と述べたのですか」


 それで学院長は完全に詰まった。


 魔術教師クラウスが、場を少しでも和らげようとしたのか、口を差し挟む。


「殿下、我々としては決して王命へ異を唱える意図ではなく、あくまで学院内で起きた一連の出来事を教育上整理する必要があり――」


「整理」


 第一王子がそちらを向く。


「もう一点、確認します」


 クラウスはその時点で、自分が余計な口を開いたことを悟った顔になる。


「婚約解消が妥当と述べた時点で、ヴォルディア侯爵家に不利益が生じることは想定していたはずです」


 第一王子は指を折らない。だが、言葉は一つずつきれいに並ぶ。


「名誉」

「信用」

「婚姻準備」

「対外調整」

「将来設計」


 静かに並べられるだけで、重さが増す。


「その補填主体は、どこにある想定でしたか」


 誰も答えない。


 想定していなかったからだ。


 学院長はそこまでの意図では、と言いかけた。

 だが第一王子はそれを許さない。


「意図ではなく、結果です」


 ぴしゃりと切る。


「王家は、今回の件をヴォルディア侯爵家に実害が生じた案件と認識しています」


 学院側の顔がそこで変わる。


「よって補償を行います」


 間を置いてから、第一王子は続けた。


「エドワードが将来治めるはずだった、ヴォルディア侯爵領に隣接する王家直轄地。その半分をヴォルディア侯爵家へ割譲する」


 重い沈黙が落ちた。


 金ではない。

 形式的謝罪でもない。

 土地だ。

 それも将来の支配領。

 王家が責任を取るという意思を、最も分かりやすく現実へ落とした形だった。


 学院側は本当に青ざめた。

 王家はここまでを考えている。

 それほどの損害として扱っている。

 では自分たちは何を考えていたのか。


 第一王子は学院側を見た。


「王家は土地を切る」


 静かな声だった。

 だからこそ重い。


「学院は、何を切るつもりだったのですか」


 学院長は答えられない。

 レイモンドは口元を結んだまま目を伏せる。

 クラウスは視線を机へ落とし、書記官は自分が透明になりたいという顔をしていた。


 ここで、第一王子はセラフィナへ向き直った。


「ルミエル伯爵令嬢」


 呼ばれただけで、セラフィナの肩が揺れる。


「あなたは最初、“安心したいだけ”と述べたそうですね」


「……はい」


 細い声だった。


「その言葉が、三度の模擬戦と婚約解消の議論へ繋がったことは理解していますか」


 セラフィナは顔を上げ、しかしすぐに目を伏せた。


「わたくしは、そんなつもりでは……」


「意図を聞いているのではありません」


 第一王子の声は冷たいわけではない。

 冷たいわけではないから、余計に逃げ場がない。


「結果を理解していますか」


 セラフィナの唇が震える。


「……はい」


 それは、今ここでやっと初めて出た肯定だった。

 善意のつもりだった。

 怖かった。

 安心したかった。

 そのどれもが本当だったのだろう。

 だが、その結果として王家の婚姻へまで手が伸びたことを、ようやくここで認めさせられた。


「立場ある者の前で発した言葉は、それだけで力を持ちます」


 第一王子は静かに言う。


「善意は、免責にはなりません」


 セラフィナはもう何も言えなかった。

 泣きそうになっていたが、泣いて済む場ではないことくらいは分かったのだろう。必死に堪えている。


 そして最後に、第一王子はエドワードへ向いた。


「お前に問う」


 エドワードは姿勢を正す。

 だが、その動き自体にまだ若さがある。


「負けたことが問題ではない」


 第一王子の言葉は、まずそこを切る。


「三度教えられて、なお学ぶべきことが見えていないのが問題だ」


 エドワードの喉が動く。

 言い返したい。

 だが何を返しても、模擬戦の結果は消えない。

 学院側の言い訳も今しがた切られた。

 もう逃げ込む先が少ない。


「ナタリアは良い教育をした」


 第一王子は続ける。


「手加減して勘違いを残すより、よほどいい」

「お前は切られたのではない」


 そこでわずかに間を置く。


「教えられたのだ」


 それが一番深く刺さったようだった。

 エドワードの顔から、言葉が消える。

 切られたのではない。

 教えられた。

 それを屈辱としか受け取れないこと自体が、まだ足りない証拠だと分かるからだ。


 王がそこでようやく口を開いた。


「学院は教育機関だ」


 短い。

 だが一室の空気を完全に支配するには十分だった。


「王家の婚姻を裁く場ではない」


 学院長以下が一斉に頭を下げる。


「責任を負わずに裁定だけ下すな」


 王の声は低いまま変わらない。


「王命で進んだ婚姻に異を差し挟む」


 そこで一度、全員を見渡す。


「何をもって、それを正当化する」


 反逆、という語は使わない。

 だがそこに至る線の近さは、誰にでも分かった。


 王の最後の言葉は、エドワードに向けられた。


「学べ」


 たったそれだけ。

 それで十分だった。


 詰問はそこで終わったが、実務は終わらない。

 学院側には会議記録の提出、発言の主体整理、王家側への文書報告、補償に関する見解確認が命じられた。

 だがその細かな指示の説明は、この場では省かれた。

 いま重要なのは、王家が越権を越権として切り、補償主体を王家が担うと明言し、当事者全員へ“何をしたか”を理解させたことだった。


 学院長以下が退室し、エドワードとセラフィナもそれぞれ控え室へ下がったあと、王は短く息を吐いた。


「甘かったな」


 第一王子はうなずく。


「学院も、エドワードも、セラフィナも」


「ナタリアは」


「十分に果たしました」


 第一王子の答えに迷いはない。


「少なくとも、教えるべきことは見せた。ここから学べるかどうかは、もうあちらの問題です」


 王はそこで話を切った。


「差し戻せ」


「は」


「学院の判断は保留」

「婚約解消の効力も、王家で再整理する」

「ヴォルディアへはその旨を伝えよ」


「承知しました」


 第一王子付きの文官が一礼し、すぐに動く。


 その頃、ナタリアは自室で荷を整えていた。


 婚約が会議で解消された以上、この学院へそのまま残る理由は薄い。

 前世を思い出して以降、身の回りを整理する手が自分でも驚くほど早い。

 必要なもの。

 不要なもの。

 持ち帰るもの。

 置いていくもの。

 判断が速いのは、今世の性格なのか、前世の職業病なのか、自分でももうよく分からない。ただ自然だった。


 婚約終了。

 王家との関係再整理。

 学院在籍の扱い確認。

 実家への報告。

 次の居場所。


 そこまで並べていたところへ、ノックが入った。


「失礼いたします、ナタリア様」


 王家付きの文官だった。

 会議の場にもいた、第一王子の側近の一人。

 ナタリアは荷から手を離し、彼を招き入れる。


 文官は礼をしたあと、単刀直入に告げた。


「学院側の判断は、王家により差し戻されました」


 ナタリアの手が止まる。

 驚きはしない。

 だが、早い、とは思う。


「婚約解消の効力は保留となります」

「王家として再整理を行うため、明日、王城へご出頭願いたいとのことです」


 差し戻し。

 やはりそこへ来た。


 ナタリアは小さく息を吐いた。


「……差し戻し、ですか」


「はい」


 文官は感情を乗せない。

 だが学院の判断がそのまま通らなかったことだけは、十分に伝わる。


 ナタリアは机上の未封の書簡へ目をやった。

 実家へ送る報告文は、学院の判断が正式化してからと考えて、まだ封をしていなかった。

 それがいま、また書き換えになる。


 差し戻しね。


 心の中でそう呟くと、その語感が不思議なほどしっくり来る。

 現場で閉じたはずの案件が、上から契約と権限の話で戻ってくる。

 ええ、知ってる。

 この感じも、もうよく知っている。


「承知しました」


 ナタリアは文官へそう答えた。


「準備を整えておきます」


 文官は一礼して去っていく。

 扉が閉まると、静けさが戻った。


 ナタリアはしばらくその場に立ったまま、荷と未封の書簡を見ていた。


 婚約は終わった。

 だが終わり方は、まだ王家の手に残っている。

 学院が閉じたと思った案件を、王家が契約と補償の話で差し戻した。

 なら次は、現場ではなく条件交渉だ。


 そこまで考えて、ほんのわずかに口元が緩む。


「そこまで行ったなら、もう現場じゃなく契約の話ね」


 独り言だった。

 けれど、その乾いた言い回しが自分でも驚くほど自然だった。


 ナタリア・ヴォルディアであることは変わらない。

 藤堂隆幸を思い出したことも、もう取り消しようがない。

 ならば、その両方でやるしかない。


 彼女は未封の書簡を取り上げ、新しい紙を一枚引いた。


 差し戻しが来たなら、報告文も工程も作り直す。

 それだけのことだ。


 机の上の灯りが、静かに紙を照らしていた。

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