第5話 三度目
二度目が終わったあと、訓練場には妙な静けさが落ちた。
誰もが息を止めていたわけではない。むしろ、息だけはちゃんと続いている。けれど、そこにいる全員が、次に何を言えばこの場が壊れずに済むのかを探しているような沈黙だった。
ナタリアは木剣を引き、いつものように一歩だけ下がった。
礼を崩さない。
呼吸も乱さない。
勝って当然と思っているわけでも、勝ち誇っているわけでもない。
ただ、終わったものを終わった形で置いているだけだった。
その落ち着きが、かえって場を冷やしていた。
エドワードは立っていた。二度目の模擬戦で、今度こそ本気で入った。少なくとも本人はそう思っている。様子見でもなく、最初の一手の事故でもなく、きちんと勝ちに行ったつもりだった。
それでも、また何もできなかった。
王子の顔から、最初の余裕はもう完全に消えている。
だが、受け入れもまだない。
受け入れるには若すぎた。
受け入れないまま立っていられるほど、器もまだできていなかった。
だから顔だけが、ひどく中途半端なものになる。
屈辱。
困惑。
そして、どうにかして「まだ終わっていない」と言いたい衝動。
その空白に、誰かの声が滑り込んだ。
「殿下は魔術もお使いになるのに」
高位の生徒の一人だった。誰が最初に口にしたのか、あとで思い返してもたぶん曖昧にしか残らないだろう。そういう言葉だった。
責任は持たない。
でも流れだけは作る。
その程度の軽さで投げられた一言。
「剣だけで全てとは言えませんわ」
今度は令嬢の声だった。こちらも同じ。善意でも悪意でもなく、ただ王子が立てる場所をそれっぽく整えたかっただけの声。
その二つが、訓練場の空気に必要なだけの形を与える。
剣では二度負けた。
だが魔術はまだだ。
もっともらしい。
そして、もっともらしいことほど面倒だと、ナタリアは思う。
彼女は表情を変えなかった。けれど内心では、もう次の工程がきれいに並び始めていた。
一度目で剣の差。
二度目で本気の剣でも差。
次は条件変更。
使える逃げ道を、順番に使い切りに来る。
そこへ、セラフィナが小さく息を吸った。
止めるべきだと、ようやく思ったのだろう。
けれど、その思いはいつだって半拍遅い。
悪意がない人間は、たいてい自分が何を押し進めたかを理解するのが遅い。
「殿下……」
柔らかい声だった。
けれどその柔らかさは、もはやこの場の救いにならない。
「今の、剣だけでは……」
そこまで言って、セラフィナは自分の言葉がどう響くかに気づいたらしかった。唇が止まる。だが止まった時にはもう遅い。
剣だけでは。
その言い方は、王子の中に残った最後の逃げ道に、ちょうどよく板を渡す。
エドワードはそれに乗る。
「そうだ」
今度の声は、一度目や二度目の時より少し低い。
自分に言い聞かせるようでもあり、周囲へ向けて形を取るようでもある。
「剣だけで、全てとは言えん」
やっと、その言葉を口にした。
これで彼の中では、まだ終わっていない理由が立つ。
ナタリアは木剣を持ったまま、その王子を見ていた。
怒りもない。
哀れみもない。
ただ、順番に処理されていくものを見るような目だった。
なるほど。
今度はそちらへ逃げるのね。
その理解は、胸の奥で驚くほど静かだった。
教師たちは顔を見合わせる。
剣術教師レイモンド・フェルンだけでなく、魔術担当の教員たちも明らかに止めたい顔をしていた。二度やってなお終わらない。しかも次は魔術まで含める。
本来ならここで終わりだ。
いや、一度目で終わっている。
だが王子が立ってしまい、聖女がまだ不安を残し、周囲がもっともらしく意味をつけてしまった以上、教師たちの手に残るのは止める権威よりも被害を減らす工夫だけだった。
「本来なら」
年長の魔術教師が口を開く。
白髪の混じる男で、ふだんは礼儀と学院の秩序を何より優先する人物だ。その声には疲れがあった。
「本来なら、ここで終わりです」
その言葉で一瞬、訓練場が少しだけ静まる。
だがエドワードはもう引けない顔をしていた。
セラフィナは不安そうに教師を見る。
高位の生徒たちは「それでも」と言いたげな目をしている。
教師はその全部を見て、結局こう続けるしかなかった。
「だが……学院規則の範囲で、攻性魔術の出力を制限する」
「結界を張る。怪我人は出させん」
「模擬戦として認めるのは、それが限度です」
止められない。
だからせめて危険だけを削る。
教師たちの敗北は、そういう形を取った。
ナタリアはその言葉を聞いて、ようやく木剣を下ろした。
「承知いたしました」
よく通る声でそう言う。
「条件変更も含めて、お受けします」
それで十分なはずだった。
だが、少しだけ付け足す。
「今度は、もう少し長くご覧になれるでしょう」
柔らかく言っている。
礼も崩していない。
なのに、王子の顔にわずかに熱が差す。
皮肉だと分かるからだ。
長くご覧になれる――つまり、前の二度が短すぎたから納得できないのだろう、という形で刺している。
セラフィナもそれを聞いて、小さく息を詰めた。
この女は怒鳴らない。
責め立てもしない。
けれど、こちらが一番痛い場所へ、ちゃんと刃を置いてくる。
そのことを、ようやく少しずつ理解し始めていた。
訓練場の外側では、下級生たちが互いの袖を掴んでいる。
「まだやるの……?」
「今度は魔術まで?」
「これ、もう手合わせじゃないじゃない……」
低い声が、ざわめきというより怯えのように広がる。
彼女たちはもう、勝ち負けを見ていない。
王子が止まらないこと、場が誰にも止められないこと、その方を怖がっている。
使用人たちも同じだった。
「ここまでやるのか」
「殿下も、もう引けねえんだろうな」
「ナタリア様も気の毒に……」
どちらが強いかは、もはや誰にでも分かる。
問題はそこではない。
強い方が勝つと決まっている場で、勝たされたあとに何が来るか。
現場の人間は、そういう嫌さに敏い。
教師たちが急ぎ足で魔術用の結界を整える。
円の周囲に淡い光の線が引かれ、発動のための紋が刻まれる。
それを見ながら、ナタリアは木剣を脇に置き、今度は訓練用の魔術杖ではなく、剣に近い長さの木製の演習棒を受け取った。学院の規則上、魔術を組み込んだ模擬戦では、それぞれの得意分野に応じて武器の扱いが変わる。
エドワードは杖に近い細身の木剣。
ナタリアは剣の延長として使える長めの演習棒。
手に取った感触はやはり軽い。
道具としては頼りない。
だが道具の良し悪しに文句を言っても、今は何も変わらない。
変わらないことに対して、奇妙なほど慣れた感覚がある。
安全基準だけで選ばれて、手馴染みの悪い支給品。
現場を知らない上が選んだもの。
使うのはこっちなのに。
そんな乾いた苛立ちが、どこか別の時間から浮かんでくる。
白い蛍光灯。
積まれた箱。
誰かのだるそうな声。
またすぐに消える。
今はまだ追わない。
エドワードが距離を取り、杖を構える。
剣で二度負けた。
だから今度は、最初から自分の有利な距離を取る。
その判断自体は間違っていない。
間違っていないが、遅い。
そして、だからこそ見えてしまう。
王子にとって魔術は切り札だ。
見栄えよく、出力を見せつけ、場の流れを奪うもの。
一方でナタリアにとって魔術は違う。
彼女は魔術が使えないわけではない。人並み以上どころか、十分に上位の域にある。
ただ、それを主砲として扱わない。
流す。
切る。
ずらす。
支える。
足りないところを埋める。
そういう道具として見る。
だから王子の構えを見た瞬間に、もう何が来るかがだいたい分かる。
出力だけ上げても散っている。
基盤が甘い。
そういう感想だけが静かに胸へ落ちた。
開始の合図が落ちる。
今度のエドワードは最初から速かった。
二度の近接敗北があるから、迷いがない。
距離を詰めさせる前に魔術で崩す。
その意図だけははっきりしている。
一発目は火。
正面から一直線に走る大きな火球ではなく、複数の火の槍が扇状に散る術式だった。学院生としてはかなり上等だ。見栄えもいいし、避けてもどれかが残る。見ている側には十分に「王子の本領」と思わせられる。
ナタリアは真正面から打ち消さない。
薄い障壁を斜めに立てる。
火槍の角度がわずかに逸れ、進路だけがずれる。
正面の熱が流れ、結界の端で散った。
二発目は風刃。
一発目の火を避けた先へ、横から切り込む形。これも悪くない。
だがナタリアは演習棒へ短く魔力を通し、その先端で風の芯を掠める。
刃は揺らぎ、術式のまとまりを失って散った。
三発目。
足場への拘束術。
王子は、今度は相手を縛って止めようと考えたらしい。
発想としては正しい。
だがナタリアはその発動域へ入る前に、半歩だけ重心をずらして抜ける。
避ける方が早い。
それだけだった。
四発目。
火と風の合わせ。
今度は少し強引だ。焦りが混じっている。
ナタリアは一方を流し、一方を小さく身体を沈めて外す。
わざわざ全部を正面から受ける必要はない。通させなければ、それで足りる。
見ていた者たちは、このあたりで顔が変わる。
王子はちゃんと魔術を使っている。
見栄えもある。
なのに、何一つ通らない。
いや、通らないどころか、ナタリアがそれを“脅威”として扱っていないように見える。
高位の生徒たちは、そこでようやく本気で息を呑む。
低位側は、もうかなり顔が青い。
セラフィナは両手を胸元で組んだまま、完全に笑顔を失っていた。
エドワードの額に汗が浮く。
まだ大きく崩れてはいない。
だが、“魔法なら違う”という前提が、もう形を失い始めている。
ナタリアはそこで初めて、自分から火を使った。
大技ではない。
見せ場にもならない。
細く走る火線が、王子の視線を舐めるように伸びる。真正面からぶつけるためではなく、あくまで半拍だけ意識を奪うための火だ。
エドワードは反応する。
当然だ。
今まで受けに回らされていた魔術戦で、相手が初めて自分から火を放ってきたのだから。
杖を返し、防ごうとする。
その瞬間、意識が火へ向く。
そっちを見るのね。
なら、入るわ。
火は本命ではない。
火はただの工程。
ナタリアの本命は最初から別にある。
火線が王子の注意を奪った、その半拍。
ナタリアは身体強化を乗せた。
脚。
腰。
背中。
必要なところだけを短く通し、一気に距離を潰す。
魔術戦のつもりでいたエドワードからすれば、次の瞬間にはもう目の前にいる。
王子の杖が近接の形へ戻る前に、ナタリアの演習棒が手元の線を潰す。
受ける、ではない。
崩す。
そのための最短の接触。
エドワードの体勢が一瞬で浮く。
踏み込みを殺され、重心が前へ流れる。
焦った王子が足を踏ん張ろうとした時には、もう遅い。
ナタリアは半歩だけ身体を入れ、王子の支えを外すように下から流した。
転がる。
大袈裟に吹き飛ぶわけではない。
だが王子はきれいに受け身を取る暇もなく、地に落ちた。
整っていたはずの姿勢が崩れ、土と白い制服の裾が一瞬だけ視界を乱す。
訓練場の空気が、そこで完全に凍った。
ナタリアは追って踏み込まない。
慌てて押さえつけるような動きもしない。
ただ、一歩で必要な位置へ入るだけだ。
演習棒の先が、エドワードの額へ触れる。
押し込まない。
突き立てない。
ただ、触れているだけ。
それでも全員に分かった。
終わった。
ナタリアは淡々と言う。
「終わりです」
それだけで十分だった。
だが一拍置き、ほんの少しだけ言葉を足す。
「これ以上は、確認の範囲を越えます」
その一言で、三度目の模擬戦に最後まで貼り付いていた“もっともらしさ”が、ようやく剥がれた。
確認。
教育。
安心。
手合わせ。
そういう綺麗な布をかぶせていたものが、ここで初めて全員の前で破れたのだ。
高位側は沈黙する。
もう誰も「殿下は魔術も」などと言えない。
低位側は安堵より先に、ナタリアの方を見ている。
使用人たちは、誰も声を上げない。ただ目だけで「ああ」と交わす。
セラフィナは青ざめていた。
自分が望んだのは、たしかに安心だった。
だがその“安心したい”が、ここまで場を押し流した。
その現実を、ようやく自分の胸の中へ落とし始めている顔だった。
それでもなお、彼女はまだ「わたくしのせい」とまでは言えない。
善意であるがゆえに、自分の加害を認めるのが遅い。
教師たちはここでようやく動ける。
レイモンドが前へ出て、低い声で「そこまで」と重ねる。
最初の一度目、二度目では形だけに近かったその制止が、ようやく本当に場を閉じるための声になる。
ナタリアは演習棒を引き、下がった。
その動きに勝者の誇示はない。
ただ、終わったものを終わらせているだけ。
地に転がったエドワードは、すぐには起き上がれなかった。
額に触れていた棒の感触が、まるでそこにまだ残っているかのように動きを鈍らせる。
剣で二度。
魔法でも駄目。
最後の逃げ道まで使い切って、それでも勝てない。
ここで初めて、王子は“勝てない”に触れる。
まだ受け入れてはいない。
受け入れたら、自分が何者であったのかまで揺らいでしまう。
だが少なくとも、逃げ道の方が先に尽きた。
その顔には、屈辱だけでなく、ほんの少し恐怖も混じっていた。
ナタリアはその顔を見て、何も言わない。
今ここで言葉を足しても意味がない。
もう勝敗は終わっている。
問題は、ここから先だ。
エドワードは、もう実力でナタリアを否定できない。
だから次は、違う形になる。
戦い方が正しくない。
女らしくない。
王子妃に相応しくない。
そういう方へ必ず流れる。
それが見えているから、ナタリアは勝っても少しも軽くならなかった。
面倒なこと。
また心の中で同じ言葉が浮かぶ。
けれど今度は、その輪郭が少しだけはっきりしている。
戦いは終わった。
ここからは、もっと厄介なものが来る。
訓練場の上を、夕方に向かう風が渡っていく。
学院の空は相変わらずきれいで、石造りの建物も、整えられた芝も、見える範囲の全てが上等だった。
だがそういう上等な景色の中でこそ、汚いものはきちんと形を整えて近づいてくる。
ナタリアは演習棒を返し、静かに踵を返した。
背中に向けられる視線の意味が、さっきまでとは変わっているのが分かる。
強い、だけではない。
怖い、だけでもない。
理解できないものを前にした時の、人の目だ。
それでも彼女は立ち止まらない。
勝敗は終わった。
問題は、ここからだ。
その一文だけが、はっきりと彼女の中に残った。




