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断罪された侯爵令嬢は、戦場で完成した。なお中身はおっさんである  作者: 月白ふゆ


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第4話 二度目

「……もう一度だ」


踵を返しかけていたナタリアは、その声で足を止めた。


訓練場の空気が、先ほどとは別の意味で固まる。

静まり返った、というより、誰もが自分の呼吸の置き場を一瞬だけ見失ったような沈黙だった。


ナタリアはゆっくりと振り返る。


第ニ王子エドワード・アルセインは、まだ木剣を手にしたまま立っていた。頬に残る熱は引き切っていない。呼吸もわずかに浅い。だが目だけははっきりしている。負けを認めた者の目ではなく、まだ自分の中で結果を確定させていない者の目だ。


一度目は終わった。

だからこそ、二度目が来る。


ついさっき頭の中で切った結論を、現実がそのままなぞっているだけだった。


「今のは、少し早すぎた」


エドワードの声は低い。怒鳴っているわけではない。

むしろ抑えている。だからこそ、余計に周囲へよく届いた。


「互いに、まだ測りきれていない」


もっともらしい言い方だった。

敗北を否定しているわけではない。だが受け入れてもいない。確認が足りなかっただけなのだと、まず自分に言い聞かせ、そのあとで周囲にもそう思わせたい声音だった。


ナタリアは木剣を持ったまま、ただ王子を見ていた。

驚きはない。そうなる顔をしていたからだ。喉元に木剣を止められた瞬間、彼は何が起きたのかより先に、“これで終わりにはしたくない”という顔をしていた。


数手。

たったそれだけの長さの中で、自分の剣が通らなかった。

その事実を、エドワードはまだ“負け”として受け取れずにいる。


周囲でざわめきが揺れる。

高位の令嬢たちは顔を見合わせ、男子生徒たちは半歩だけ体を寄せ合う。誰も露骨には何も言わない。だが「もう一度」という一言で、場がまた始まりかけていることは分かっている。


「殿下」


剣術教師レイモンド・フェルンが一歩前へ出る。

武官上がりの男らしく、声はよく通るが無駄に大きくはない。


「勝敗はついております」


事実を置く声音だった。

学院規則に則るなら、ここで終わりであると。誰にでも分かる事実だ。

だが事実を置かれたところで、人がそれを受け入れるとは限らない。


エドワードはレイモンドを見ず、ナタリアだけを見たまま言った。


「分かっている」

「だが、今の一手で全てが分かるとは思わん」


言葉を選んでいる。

駄々をこねているようには聞かせたくないのだろう。

王子として、婚約者相手の模擬戦で、負けた直後に感情を露わにするのは格好が悪い。その程度の分別はある。

あるからこそ厄介だった。みっともないものを、みっともなく見えない言い方で押し通そうとするからだ。


セラフィナが、小さく息を吸った。


彼女はまだ見学席の前に立っている。小柄な身体を硬くし、指先を胸元で重ねて、どうしてよいのか分からない顔をしていた。今この場で一番困っているのは、あるいは彼女かもしれない。

自分はただ、安心したいと言っただけ。

それがこんな空気を作るとは思っていなかった。

そういう顔だ。


けれど、その困惑がまた一段、事態を悪くする。


「殿下……」


細い声が、訓練場の中央へ落ちる。


誰もがそちらを見る。

セラフィナはその視線に少したじろぎながら、それでも逃げずに言葉を続けた。


「今のは……本当に、一瞬で」

「わたくし、まだ、ちゃんと見られていない気がして……」


言い終わった時、自分でもそれがどう聞こえるか少しだけ理解したらしい。頬に薄く熱が差す。

だが、もう遅い。


“ちゃんと見られていない”。

“まだ分からない”。

“安心できない”。


どれも柔らかい言葉なのに、意味は一つだ。

このままでは終われない。

もう一度が必要だ。


高位の貴族子女たちが、ようやくそれに乗る。


「確かに……」

「先ほどのは、あまりにも速すぎましたわ」

「殿下も、まだ本格にはお入りになっておりませんでしたでしょうし」


それは擁護なのか、場を整えるための布なのか、たぶん本人たちにも半分ほどしか分かっていない。

だがそうしてもっともらしい言葉が積み重なっていくと、最初は王子の一言だったものが、学院全体の“妥当な流れ”に見え始める。


一度では足りない。

きちんと見た方がよい。

教育上も意味がある。

婚約者同士なのだから。


言い換えれば、結論が先にあって、そのために都合のいい理由だけがあとから並び始めたということだ。


ナタリアはその流れを、ほとんど冷えた目で見ていた。


雑だが、よくある。


そう思った瞬間、胸の底にまたあの薄い既視感が触れる。

白い蛍光灯。机の上の資料の束。誰かが言う。「一応、確認なんだけど」。

確認ではない。最初から戻しを前提にした顔だ。

けれどそこまで浮かんでも、なお像は曖昧なままだった。誰の記憶なのか、どこで見た景色なのか、まだ手が届かない。


「ナタリア」


エドワードが呼ぶ。


その声には、さっきまでの軽やかな王子らしさはほとんどない。

代わりにあるのは、自分の足場をもう一度作り直したいという執着だ。


「もう一度、頼む」


お願いするような言い方だった。

命令にすると角が立つ。懇願にすると格が落ちる。

その中間の、最もきれいに聞こえる位置を取っている。


ナタリアは、少しだけ首を傾けた。


「殿下」


声は静かだった。

怒ってもいないし、怯んでもいない。ただ、冷たすぎないだけで十分だった。


「勝敗はすでについております」


事実を置く。

それは王子への反論でも挑発でもない。現状確認だ。

だが事実であることと、相手が飲み込めることは同じではない。


エドワードの目が、今度はほんのわずかに揺れた。

刺さったのだろう。

けれど引くほどではない。


「今ので終えるには、あまりにも……」


そこで言葉が止まる。

あまりにも何だと言うつもりなのか、彼自身にも最後までは定まっていないのだろう。

早かった。

見えなかった。

納得できない。

どれも本音だが、王子の口に載せるにはみっともない。


その空白を、セラフィナが埋めてしまう。


「安心したいだけですの」


またしても、その言葉だった。


ナタリアはそこで初めて、ほんの少しだけ目を細める。

怒りではない。

ああ、本当にそれで押し通すのね、という理解に近い。


セラフィナは唇を湿らせ、小さな勇気を出すように続けた。


「わたくし、まだ、ちゃんと分かっていないのです」

「ヴォルディア侯爵令嬢がどれほどお強いのか、殿下も、きっと……」


最後まで言い切らない。

だがその曖昧さがむしろ場を滑らせる。

殿下もまだ分かっていない。

なら、もう一度。


レイモンドが、深く息を吐いた。

あの顔は、戦場を知っている者の顔だ。嫌な流れの時の、止めたいが、止めることで別の混乱を生むと分かっている時の顔。

彼は後ろにいる他の教師たちへ視線を向けた。年長の教師たちは目配せだけで、同じことを考えているのが分かる。

ここで強く切れば、第ニ王子の顔を潰す。

だが押し切られれば、教育の場が見世物になる。

どちらも良くない。

良くないが、今この場で一番“穏当に見える”方へ、場は流れていく。


「……二度目を認める」


レイモンドの声が落ちる。


「ただし、礼を失するな。熱くなるな」

「学院規則の範囲を厳守すること」


“これで最後”とは言わない。

言えないのだ。

第ニ王子が自ら口にし、聖女が不安を示し、周囲が教育的意義を勝手に積み上げてしまった以上、ここで場を完全に閉じるほど教師側に力はない。

だからせめて、礼と安全だけを縛る。


エドワードは、その条件に安堵したようにわずかに顎を引いた。

再戦の道が、きれいな形で整ったからだ。

高位の生徒たちも、ほっとしたようなざわめきを返す。

まだ“未確定”でいられることに安心している。


低位側は逆だった。

訓練場の端で見ていた下級生たちの顔から、軽い好奇心がほとんど消える。

代わりにあるのは、明確な嫌悪と不安だ。


「またやるの……?」

「今のでもう十分じゃない」

「違うのよ。十分かどうかじゃなくて、殿下が止まってないんだわ」


使用人たちの間でも、小さく気配が動く。


「はいはい、再点検だ」

「終わったものをもう一回開けるやつだな」

「面倒くせえ……」


下男の一人が呟いたその語感に、ナタリアは妙な既視感を覚えた。

口には出さない。

だが、その言い方が少ししっくり来ることに、自分でもわずかに違和感がある。


彼女は木剣を持ち直した。


最初は、穏当に終えるつもりがあった。

少し差を見せ、危うさを伝え、それで引く。婚約者としての体面も、学院の空気も、できるだけ壊さずに済むならその方がいい。


だが、一度目でそれは無理だと分かった。

王子の剣は、付き合う方が危ない。

崩れた後を自分で拾えない。変に受けて流し、格好をつけさせながら終えようとする方が、余計な事故を呼ぶ。


二度目はもっとはっきりしている。

曖昧さを残せば三度目の理由になる。

なら、今度はもう少しきれいに止めるしかない。


その判断は、怒りでも冷酷さでもない。

ただ、流れを見た時にどこまで切るのが一番早いか、というだけの話だった。


「承知いたしました」


ナタリアは一礼する。


「学院側がそうお望みなのであれば」


またしても、少しだけ棘が混じる。

王子だけの再戦ではない形に整えたことを、分かった上でなぞっている声だ。

だが今この場では、それを気にする余裕のある者は少ない。


二度目の位置へ、二人はもう一度立つ。


今度のエドワードは、一度目より速い。

少なくとも本人はそう思っている。

実際、構えにも意志がある。様子見はしない。最初から深く入るつもりで、肩にも腕にも力が乗っている。


だが、その本気は一度目より悪かった。


焦りが混じっている。

速くなったぶん、線が濃い。

崩れた後の逃げ道が、ますます消えている。

一度目より分かりやすいくらいだった。


速くなった。

でも雑になった。


ナタリアは、それだけを見て足を決める。


開始の合図が落ちる。


今度のエドワードは迷わない。

最初から踏み込んでくる。

たしかに速い。見学している者の何人かは、一度目より「さすが」と思ったかもしれない。

だが、その速さは直線的すぎた。


ナタリアは受けない。


真正面からぶつかるのではなく、一度目よりさらに短い動きで王子の線の内側へ入る。

木剣が触れ合う音は、一度だけだ。

高くもない。

ただ、王子の木剣の芯をずらすには十分な音。


エドワードの二手目は来ない。


来る前に、ナタリアが踏み込んでいるからだ。

肩で押すほど大きくはない。

だが身体ごと前へ入られると、エドワードの重心は簡単に浮く。

王子の足が半歩遅れ、その遅れを拾う前に、喉元へ木剣が止まる。


今度は一度目よりもさらに明確だった。

何もできなかった、と誰の目にも分かる形で終わる。


沈黙は、一度目より深い。


高位の令嬢たちは言葉を失い、男子生徒たちはもう簡単に擁護の言葉を出せない。

教師たちの表情も固い。

低位の下級生たちは、ほとんど息を止めていた。

使用人たちは、視線だけで「ああ」と交わす。

こうなると思っていた、という顔だ。


セラフィナの顔色が、はっきりと変わる。

今度こそ彼女は、自分が見たかったものが“安心”ではないと知る。

いや、知りかける。

ただ、まだそこから自分の責任へは届かない。

困惑と恐れだけが先に来る。


ナタリアは木剣を引いた。


「そこまでです」


一度目と同じ言葉。

だが意味は少し違う。

一度目は“これ以上は不要”の響きがあった。

二度目は、もっとはっきり“もう十分でしょう”に近い。


エドワードは今度、すぐに言葉が出なかった。


口を開きかけて、閉じる。

何かを言おうとして、そこに載せる理屈がない。

一度目ならまだ、早かった、見えなかった、測りきれなかった、で逃げられた。

二度目はそうではない。

今度こそ本気だったことは、彼自身が一番分かっている。

それで何もできなかった。


理解はしている。

だが、理解したくない。


その二つの間で、顔だけが変わる。


ナタリアはそんな王子を見て、特に何も言わない。

言ったところで救いにならないし、刺激にもなる。

だからただ、次の行動を問うだけだ。


「続きをなさいますか」


その一言が、ひどく事務的に落ちる。


挑発ではない。

感情もない。

ただ、案件の継続確認のような口調だった。


それがかえって、エドワードには刺さった。


「……」


王子は答えられない。

すぐには。


なぜならここで「いや、終わりだ」と言えば、自分が二度目まで望んだ意味がなくなる。

逆に「続ける」と言えば、今度は何を根拠にするのかが問題になる。

剣では二度負けた。

その事実だけは、もうどうにも薄めにくい。


周囲もまた、その空白に言葉を探している。

そしてたいてい、最初に見つかるのはもっともらしい逃げ道だ。


「殿下は魔術もお使いになるのに」

「剣だけで全てとは言えませんわ」

「そうですわね。学院の実技でも、魔術と剣は別々に評価されますもの」


誰が言い出したか、はっきりしない。

高位貴族の一人か、王子に近い男子生徒か、あるいは距離を取っていた令嬢の一人か。

とにかく、その言葉は一度訓練場へ落ちると、すぐに形を持ってしまう。


剣だけでは測れない。

王子は魔術も使える。

なら、次は条件を変えて。


セラフィナが、はっとしたようにそちらを見る。

止めるべきだと、ようやく思ったらしい。

だがもう遅い。

言葉は出る前に周囲へ広がっている。


ナタリアはそれを聞いて、ほんのわずかに目を伏せた。


そう。

今度はそちらへ逃げるのね。


怒りではない。

呆れでもない。

ただ、流れの先を見ているだけだ。


剣で二度。

それでも止まらないなら、次は条件変更。

最後の逃げ道を、自分で口にすることになる。


レイモンドの顔がさらに険しくなる。

教師たちも、さすがに三度目は止めたい。

だが、その“止めたい”が一歩遅いことも、もう全員が分かっていた。


エドワードは沈黙の中で、自分の呼吸を整えようとしていた。

だがうまくいっていない。

胸の内にあるのは敗北の自覚ではなく、押し込めきれない未練だ。

このまま終われば、二度負けたことだけが残る。

なら、まだ変えられる条件がある。

そう思ってしまった時点で、もう止まれない。


ナタリアは木剣を下ろし、静かに待つ。


こういう時、言葉は相手に選ばせた方が早い。

どうせ、自分で口にしない限り納得しないからだ。


訓練場の上を、少しだけ風が渡った。

傾き始めた午後の光が、円の縁を淡く照らしている。

景色だけ見れば、相変わらず学院は上等で、平和で、整っていた。


その整った景色の中で、崩れていくものはたいてい、やはりもっともらしい形をしている。


ナタリアは、次に来る言葉をほとんど確信しながら、静かに王子を見ていた。

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