第3話 一度目
午後の合同実技は、いつもより整いすぎていた。
王立アルビオン学院の剣術場は、平時であればもっと雑多だ。木剣のぶつかる音があちこちで重なり、教師の注意は広く散り、生徒たちも自分の番が来るまでは思い思いの場所で肩を回し、雑談し、時に見学席へ流れていく。だがこの日は違った。中央に大きく取られた模擬戦用の円の外側だけが、まるでそこだけ別の催しの舞台であるかのように、妙にきれいに空いている。
教師たちは平静を装っていたし、生徒たちも露骨には騒いでいない。けれど、静かなことと平穏であることは同じではなかった。
婚約者同士の模擬戦。
第ニ王子エドワードが、ヴォルディア侯爵令嬢の剣を直々に確かめる。
その言葉だけ切り取れば、学院内の一行事として十分に成立する。だからこそ厄介だった。誰もあからさまに悪意は出さない。むしろ、教育的で、礼に適い、もっともらしい顔をして、その場を整えていく。
ナタリア・ヴォルディアは、控えの小部屋から剣術場へ出る直前に、一度だけ木剣の重さを手の中で確かめた。
軽い。
学院の木剣だから当然だ。模擬戦で怪我人を増やさないため、重量も素材も安全側に寄せられている。柄の太さも微妙に馴染まない。手に吸いつく感じがない。だが文句を言うほどではないし、言ったところで変わるものでもない。
軽くて、少し頼りない。そう感じた瞬間、自分の中に奇妙な既視感が走った。扱う人間のことをろくに考えず、安全基準と見映えだけで選ばれた道具。そんなものを前に、少しだけ鼻で笑いたくなるような感覚。けれど、それが何に由来するものなのかまでは、まだ霧の向こうだった。
「ナタリア様」
学院付きの侍女が、小声で呼びかける。襟元を最後に整えたその手は、先ほどよりもいくらか落ち着いていた。控え室に入った時には、留め具を落としそうなくらいに震えていたのだ。ナタリアが「あなたが戦うわけではないでしょう」と言ってから、ようやく呼吸が整ったらしい。
「始まります」
「ええ」
それだけ返して扉を開ける。
視線が集まる。普段の学院の視線とは少し違う。美しさを眺める視線でも、婚約者としての格を見る視線でもない。もっと直接的だ。見る側のまなざし。測る側のまなざし。誰もそれを露骨にしていないのに、その場にいる全員が、どこかで結果を待っている。
円の向こうには、すでにエドワードが立っていた。
第ニ王子エドワード・アルセイン。十七歳。背丈は彼女とほとんど変わらない。体重だけ見れば決して軽くはないはずだが、締まりが足りない。王族らしく丁寧に育てられた身体で、姿勢も悪くない。立っているだけなら見栄えもする。だが、鍛えられた者の身体が持つ沈みはない。重さが芯へ落ちていない。形はきれいだが、どこか余裕のある場所で保たれてきた身体だった。
もっとも、その程度の差が見えるのは、見慣れた者に限る。周囲の大半は、王子らしい立派さしか見ていない。
エドワードはナタリアが出てきたのを見ると、わずかに顎を引いた。今日はいつもの気安い笑みではない。王子としてきちんと立とうとしている顔だ。緊張もしている。だが、それ以上に、自分が見られる側であると同時に、見る側でもあるつもりの顔だった。
その斜め後ろ、見学用にしつらえた椅子の近くには、セラフィナ・ルミエルがいる。小柄な身体を伸ばし、両手を揃え、少し不安そうにしている。だがその不安は、ナタリアへ向けたものというより、この場がうまく収まるかどうかに向いているようにも見えた。本人は本当に、安心したいだけなのだろう。悪意がないことは、だからこそよく分かる。
教師の一人が前へ出る。武官上がりの剣術教師、レイモンド・フェルン。学院でもっとも声がよく通り、余計な言い回しを好まない男だ。
「本日の模擬戦は学院規則に則り行われる。勝敗に酔うためのものではない。礼を守り、技を学ぶ場であることを忘れるな」
誰に向けた言葉かは、あえて曖昧にされている。だが剣術場の空気は、その曖昧さごと飲み込んだ。勝敗に酔うためのものではない。そう言われた瞬間に、勝敗を見る気でいる人間の数が、むしろくっきりする。
ナタリアは定位置へ進みながら、その場にいる顔を一つずつ拾っていく。
高位の貴族子女たちは、よく整えた好奇心を隠している。低位爵位の下級生たちは、不安を隠しきれていない。学院付きの侍女や下男たちは、露骨に顔を上げはしないが、気配だけで分かる。勝っても面倒だ、と。
自分も同じことを思っているのだから、そこは少し可笑しかった。
円の中央へ入る前に、ナタリアとエドワードは互いに礼をした。
「よろしく頼む、ナタリア」
「こちらこそ、殿下」
声音は穏やかだ。周囲には、婚約者同士の美しい礼として映るだろう。だがエドワードの「頼む」には、わずかに“見せろ”が混じっていたし、ナタリアの返答には“承知した”より“受ける”が混じっている。
木剣を構える。
最初から本気で潰すつもりはなかった。少なくともナタリアの理性は、そのつもりで立っている。
少し差を見せる。危うさは伝える。けれど、恥をかかせすぎない。婚約者としての体面は最低限残す。教師たちも、周囲も、聖女も、それで落ち着くならそれが一番楽だ。
その程度の着地を考えるのは、別に甘さではない。場を荒らさずに済むならそうする。仕事でもそうだった――と、そこまで思って、ナタリアは一瞬だけ自分の思考の行き先に引っかかった。仕事。何の。どこで。問いは立つが、すぐ消える。今必要なのはそこではない。
開始の合図が落ちた。
エドワードの構えは、やはりきれいだった。
学院で叩き込まれる王族の剣として、申し分のない形をしている。姿勢は崩れず、手首にも癖が少ない。踏み込みも教科書通りだ。彼が王族として恥ずかしくない程度には鍛えられてきたことはよく分かる。だから見物している高位の生徒たちには、それだけで「さすが」と映る。
ただ、ナタリアには一目で見えた。
綺麗すぎる。
崩れた後を想定していない剣だ、と。
一手目が通る前提で整えられた型。踏み込みの角度、肩の落とし方、視線の置き方。どれも悪くない。だが、それゆえに次が読める。実地の泥や焦りや、思い通りにいかない場の重さを知らない剣は、たいがい最初の一手がきれいすぎる。
綺麗ね。
内心で、そう呟く。
でも、崩れた後を知らない。
最初は少し付き合うつもりだった。真正面から叩き潰すのではなく、形を見せながら軽く止める。王子の面子を残し、周囲にも“よい確認だった”と思わせる程度に収める。それで終わるなら、一番楽だ。
だが一手目を見た瞬間、考えが変わる。
エドワードの木剣が、まっすぐに来た。
学院剣術としては正しい。だが浅い。相手がその場にいてくれることを前提にした踏み込みで、崩れた時の逃げ道がない。このまま形よく付き合ってやる方が危ない、とナタリアは判断した。受けて流し、王子の格好をつけさせながら終えるには、相手が最低限、自分の崩れを自分で拾える必要がある。エドワードにはそこが薄い。
なら、付き合わない方が安全だ。
ナタリアは半歩だけ身体を外した。
正面から受けるのでも、はっきり避けるのでもない。剣が最も通る位置から、自分をわずかにずらす。エドワードの一手は木剣の腹を掠めるだけになり、その瞬間に王子の体勢はごく小さく前へ流れた。
たったそれだけのことで、剣術を知る者の顔が変わる。
ナタリアは木剣を返さず、王子の手元へ軽く触れるように当てた。打ち込むというより、芯をずらすだけの動きだ。だが、受け手には十分に重い。安全側に振られた学院の木剣であることなど、この一瞬ではもう関係なかった。
エドワードの表情が揺れる。
思った位置へ相手がいない。受けたはずの感触が違う。立て直そうとした時には、もうナタリアが一歩入っている。
そこまでだった。
木剣の先が、喉元に止まる。
本当に、一拍のことだった。
周囲の息が止まる。
高位の令嬢たちは、何が起きたのかすぐには理解できない。速かった、ということしか分からない。低位の下級生たちは逆に、先に終わっていた。止まった瞬間に分かる。あ、終わったのだ、と。
エドワードは動けない。
動けないというより、動く意味を見失っている顔だった。ここから何をすれば自分の形が保てるのか、答えがない。王子として、学院生として、婚約者として、いくつもの立場が一瞬にして空白になった顔。
ナタリアは、その喉元から一寸も押し込まず、ただ止めている。木剣の先は軽いはずなのに、そこへあるだけで動けない。少しでも押せば危ないと分かるからだ。
「……そこまでです」
声は高くない。よく通るが、冷えすぎてもいない。教師へ向けた確認のような声音だった。
レイモンド・フェルンが、一拍遅れて口を開く。
「勝負あり」
そこでようやく空気が動く。
ざわめきは広がらない。むしろ逆で、音が薄くなる。どう受け止めていいか決まっていないからだ。派手に打ち倒したわけではない。王子が無様に転んだわけでもない。なのに、完璧に終わっている。だからこそ、見ていた側が言葉を持てない。
ナタリアは木剣を引き、静かに一歩下がって礼をした。
「これ以上は不要かと」
ほんの少しだけ冷たいが、無礼ではない。むしろ正しい言葉だ。そうであるからこそ、王子の側に逃げ場を残さない。
エドワードはようやく息をつき、喉元から木剣が外れたことを確認してから、遅れて木剣を下ろした。頬にわずかに熱が浮いている。怒りというより、理解が追いつかない熱だ。
「……今のは」
言いかけて、言葉が止まる。
何と言えばいいのか、自分でも分からないのだろう。様子見だった。油断した。間合いを測っていた。どれも言えそうでいて、どれも言い切るには苦しい。見ていた者たちの目がある。
周囲の高位側は、そこで助け舟を出そうとする。
「最初の一手でしたし」
「殿下もまだ本格には……」
「ヴォルディア侯爵令嬢がかなり踏み込まれましたから」
もっともらしい言葉が、いくつか飛ぶ。だがどれも、核心には届かない。届かないからこそ余計に空気が濁る。
レイモンドが、それを短く切った。
「いえ。勝負はついております」
教師の口から明確にそう言われたことで、言い訳の輪郭だけが残った。
セラフィナは、唇をきゅっと結んで立っていた。彼女は本当に、こんな空気を望んではいなかったのだろう。自分が安心したい、そのために一度見てみたい。きっとそれだけのつもりだった。だが実際に起きたのは、自分の不安を晴らすどころか、学院中の空気が一歩深く重くなることだった。
その顔を見て、ナタリアは少しだけ思う。
だから言ったでしょう、というほど露骨ではない。むしろ、これでもまだ本人は自分を善意の側に置くだろうな、という冷静な理解に近い。セラフィナはここで、自分の一言が何を呼んだかを認めるより先に、「そんなつもりではなかった」と思うだろう。それは事実だ。だが事実であることと、結果に責任がないことは同じではない。
エドワードは礼を返した。形だけは崩さない。
「……見事だった」
褒めているのではない。今はそう言うしかないから言っているだけだ。ナタリアにも分かる。彼の中では、まだこの一戦は“負け”として収まっていない。理解不能な速さに押し切られたことを、まだ自分の現実として受け取っていない。
「恐れ入ります、殿下」
返す声はどこまでも整っている。勝って高ぶることも、王子の前でわざわざ控えめになることもない。ただ、あくまで婚約者として礼を守っている。それがかえって、差を鮮明にする。
模擬戦は一度止められ、場はいったん解散の空気を取ることになった。だが人の気配はすぐには散らない。小さなざわめきが、あちこちに根を作る。
「何が起きたの?」
「殿下の剣、見えなかったわけではなかったのに」
「ヴォルディア侯爵令嬢が速かった……いえ、速いだけでは……」
低位側の下級生たちは、もっと単純な声を上げていた。
「終わった……」
「やっぱりナタリアお姉様、すごい」
「でも、これで終わらない顔してたよね、殿下」
それは正しかった。
ナタリアも同じことを思っている。王子の顔を一目見れば分かる。これは一度で終わる顔ではない。今の一戦は、エドワードにとってはまだ“分からなかった”に近い。何が起きたのか把握できていない以上、納得もしない。納得しない限り、勝負は彼の中で終わらない。
ナタリアは木剣を戻しながら、少しだけ肩の力を抜いた。
最初は、形を作って終えるつもりだった。少し差を見せる程度で。しかし実際に剣を合わせれば、そんな余裕は消える。付き合う方が危なかった。変に王子の面子を立てようとして受ければ、崩れた身体がどう転ぶか分からない。だから安全に止めただけだ。結果として、それが完封になった。それだけの話。
だが、それだけで済む相手ではない。
「ナタリアお姉様」
呼ばれて振り向くと、準男爵家の下級生令嬢が、少し離れた柱の陰からこちらを見ていた。声をかけていいか迷った末の呼び方だと分かる。
「……何かしら」
「すごかったです」
それだけ言って、少女は自分でも恥ずかしくなったのか頬を染めた。褒めたいだけではない。さっきの場を見て、何か言わずにはいられなかったのだろう。
ナタリアはその子を少しだけ見て、口元を和らげた。
「そう」
素っ気なくも、突き放しもしない一語。少女はそれだけでほっとしたように頭を下げる。
「はい!」
去っていく背中を見送りながら、ナタリアは自分の中の違和感へもう一度触れた。お姉様、と呼ばれること。下からのこういう眼差し。正面から礼賛されるより、どこか落ち着くのはなぜなのか。まだ答えはない。だが、嫌ではないという事実だけが先にある。
見学席の近くでは、セラフィナがエドワードへ何か言いかけ、言葉を飲み込んでいた。今の彼に「大丈夫です」と言うのは違うと、さすがに分かったのかもしれない。王子は表向き平静だが、視線の置き場所が定まっていない。自分の剣が通ると思っていた。少なくとも、ここまで何もさせてもらえないとは思っていなかった。その現実が、まだ彼の中で形になっていない。
レイモンドが教師たちと短く話し合っている。学院側としては、ここで終えたいのだろう。終えられるならそれが一番穏当だ。だが、穏当であることと、実際に収まることは違う。
エドワードがこちらを見た。
その目にあるのは、怒りよりも先に屈辱と困惑だった。そして、その二つをまとめて“今のは違う”へ押し込みたいという気配がある。ナタリアはそれを見て、確信に近いものを得る。
一度では足りない。
そういう顔だ。
彼は今、自分に言い聞かせているはずだ。最初の一手だった。様子を見ていた。木剣が軽かった。間合いが合わなかった。何でもいい、とにかく“まだ本気ではなかった”という逃げ道を探している。探せる限り、彼はそれを手放さない。
なら、次が来る。
面倒だ、とナタリアは思う。
でも驚きはない。むしろ、そうなる方が自然だと思う。こういう場は、一度できると簡単には閉じない。確認のために始まり、納得のために続き、最後は意地の問題になる。名前だけ変えても、中身はだいたい同じだ。
再びあの奇妙な既視感が胸の底を撫でた。
蛍光灯の白い光。書類の束。誰かが言う、「一応、確認なんだけど」。それは確認ではなく、最初から戻しを前提にした顔だった。誰かが苦い顔でそれを受ける。断る方が面倒だから。そういう空気。
そこまで浮かんで、像はまた霧に沈む。
ナタリアはその感覚を追わない。ただ、今ここで必要なことは分かっている。
次に来る。
勝ったこと自体より、その後に何が来るかの方が、よほど見えている。
レイモンドが一度だけ手を打ち、生徒たちへ解散を促す。模擬戦場は表向きには片づいていく。だが人の視線まではそう簡単に片づかない。学院中に広がる噂は、先ほどまでの「手合わせらしい」から、もうひとつ先へ進むだろう。
殿下が、あんなふうに止められた。
ヴォルディア侯爵令嬢は、やはり普通ではない。
聖女様のお望みになった“確認”は、これで終わるのか。
そういう言葉が広がる。
ナタリアは訓練場の端で立ち止まり、空を一度だけ見上げた。午後の光は少し傾き始めている。風は穏やかだ。学院の景色だけを切り取れば、何もかもが上等で、平和で、きれいだった。
そのきれいな景色の中で、いちばん汚いものはたいてい形を整えて近づいてくる。
彼女は目を伏せ、静かに踵を返した。
面倒なこと。
心の中でだけ、短くそう言う。
だがその短さの裏には、もう次へ向けた準備が薄く始まっている。
一度目は終わった。
だからこそ、二度目が来る。




