第2話 善意の査定
王立アルビオン学院では、噂が形を持つまでにそう時間はかからない。
前日の放課後、剣術場の端で交わされた会話など、本来ならその場にいた数人の胸のうちで薄まって消える程度のものだったはずだ。けれど、学院という場所は、家名と立場と若さが一つの檻に詰め込まれているぶん、わずかな引っかかりが思っている以上に長く残る。しかもそれが、第ニ王子の婚約者と、聖女認定を受けた伯爵令嬢に関わる話ならなおさらだった。
朝、登校した時点で、ナタリア・ヴォルディアはすでに視線の質が昨日と少し違っていることに気づいていた。
多くの視線は、相変わらず美貌や家格や婚約という、分かりやすいものに向いている。けれどその中に、ひとつ余計なものが混じっている。好奇心だ。あれだけ強いらしい。聖女様が少し怖がったらしい。殿下が何かおっしゃったらしい。そういう断片が、まだ言葉になる前のぬるい熱を帯びて漂っている。
それをわざわざ拾い集める気はなかったが、目に入るものは入るし、聞こえるものは聞こえる。
本館へ向かう石畳の脇で、二人の下級生が慌てて距離を開けた。そのうちの一人は、ナタリアが近づいたことに気づくと、ぱっと顔を赤くして深く頭を下げる。
「お、おはようございます、ナタリアお姉様」
侯爵令嬢に向けるには少しくだけた呼び方だ。だが低位爵位の下級生たちの間では、もうこの呼び名がかなり広がっていた。怖い。厳しい。近寄りがたい。そういう印象がまったくないわけではないのに、それでも「お姉様」と呼ばれるのは、彼女が下の者を雑に扱わないからだろう。助ける時に恩を着せず、正す時に感情を乗せない。困っている者へまず必要なことだけを置く。そういう人間は、立場の低い側からすると妙に頼りやすい。
ナタリアは視線だけを向けた。
「おはよう。今日はそんなに急がなくていい時間でしょう」
言われた方の少女は、抱えていたノートの束を慌てて抱え直した。自分が少し小走りになっていたことに気づいたらしい。
「は、はい。つい……」
「階段で転ぶと、本だけでは済まないわよ」
「気をつけます……!」
それで終わりだ。だが少女の顔つきは、叱られたというより、ちゃんと見てもらえたことへの安堵に近かった。彼女の隣の友人までが、ほっと息をついている。
二人が去ったあと、ナタリアは歩きながら、自分の中にほんの薄く浮かぶ感覚を見つけた。お姉様、という呼ばれ方は、本来なら侯爵令嬢として少し曖昧すぎるし、軽すぎる。正させてもいい。やめさせても構わない。そうしないままここまで来ているのは、別段その必要を感じなかったからだが、それだけではない気もする。
妙にしっくり来るのだ、その位置が。
きっちり距離を取りながら、それでも頼られる。上から振り下ろすのではなく、手が届く範囲で支える。そんな在り方に対して、彼女はどこかで違和感を持っていなかった。
理由までは考えない。考えたところで、今はただの学院の朝だった。
昇降口の手前で、学院付きの下男が書類箱を三段に重ねて運んでいた。視界がほとんど塞がれている。しかも右上の箱だけが少し浮いている。ナタリアはすれ違いざまに一言だけ言った。
「上、一つ下ろしなさい。次の角で落とすわ」
下男は反射的に足を止め、箱を一つ抱え直した。そのまま曲がり角へ差しかかったところで、前から来た生徒を避けようとして重心がぶれ、危うく上二段が滑りかける。だが一つ減らしていたぶん、崩れずに済んだ。
「……あぶねえ」
思わず漏れた声を、自分で慌てて呑み込む。下男は振り向き、ナタリアの背中へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ナタリア様!」
ナタリアは手だけ軽く上げた。
「礼はいいわ。落としたら面倒でしょう」
その程度の応酬でも、使用人たちの間では十分に語り草になるらしい。侯爵令嬢なのに思っていたよりずっと話が早い。怖いが理不尽ではない。怒鳴らない。必要な時だけ口を挟む。そういう評価が、学院内の侍女や下男の間でも既に固まりつつあるのを、ナタリアは薄々察していた。
察してはいたが、別に好かれようとしているわけではない。見えている危険を放置したあとの方が厄介だから口にしているだけだ。そう考えると、自分の行動のほとんどは驚くほど簡単に説明できる。
ただ、それにしては下からの好意がやや厚い気もした。
教室へ入ると、空気はきちんと侯爵令嬢へ戻る。学院付きの使用人や低位爵位の下級生たちとは違い、同格や上位の生徒たちは彼女へ向ける視線に必ず少しの距離を残す。敬意はある。羨望もある。だが同時に、少しばかりの息苦しさもそこに混じる。
ナタリア・ヴォルディアは完成されすぎているのだ。顔も、立ち居振る舞いも、成績も、婚約も。しかも彼女は十五歳で第ニ王子エドワードとの婚約が決まったあと、王と第一王子の意向で王子妃教育を前倒しされ、十七歳の時点でほぼ修了している。学院では同級生でも、立っている場所は少しだけ先だ。もうこの学院で何かを“目指している”というより、“不足がないか確認している”ような位置にいる。
そこが、同世代には重い。
午前の政治学の講義では、隣国との通商条件について講師がいくつかの例を挙げていた。架空の交易協定において、譲歩の優先順位をどう決めるか。ほかの生徒たちは、自国の利益や相手国との友好関係、あるいは形式的な国威を中心に答える。どれも間違いではない。だが、授業という枠にきれいに収まりすぎている。
講師が、念のため確認するようにナタリアへ視線を向けた。
「ヴォルディア侯爵令嬢、あなたならどう見ますか」
教室の何人かが、少しだけ身構える。模範解答が来る、とでも思うのだろう。
ナタリアは手元の紙を見たまま答えた。
「先方の条件が変わらない前提であれば、譲歩の優先順位は港湾使用権ではなく、搬送時の検査権限から詰めます」
「見かけの収益率より、止まった時の損失が大きいので」
一瞬、教室が静かになる。
講師は満足そうに頷いた。
「そうですね。見える利益より、止まった場合の損失を優先している」 「講義の範囲を少し越えていますが、現実的です」
現実的。その言葉に、後方の席で誰かが小さく息をついた。ナタリアの返答はいつもこうだ。正しいだけでなく、妙に“回す側”の視点が混じる。だから余計に、同年代らしい軽さから遠ざかる。
講義が終わると、二つ後ろの席にいた伯爵令嬢が、友人へ囁いた。
「やっぱり、あの方は少し違うのよね」 「違うというか、もう終わっているのよ。私たちみたいに、これからではなくて」
それは悪口ではなかった。ただ、どこかで距離を置くための言い方だ。完成しているから、近い場所へ置きづらい。ナタリアはそれにも慣れていた。
午前の終わり近く、回廊の先で少しだけ人だかりができているのが見えた。学院では珍しくもない。第ニ王子か、聖女か、その両方か。中心になりやすい者はだいたい決まっている。
ナタリアが近づくと、やはりその中心にいたのはエドワードとセラフィナ・ルミエルだった。
セラフィナは今日もよく目立っている。背は低く、丸みを帯びた身体は全体に柔らかそうで、立っているだけで守られる側の輪郭を作る。小柄なのに胸元の存在感だけは妙に大きい。顔立ちは愛らしい方へ寄っていて、見る者がつい庇護欲を抱くのも分からなくはなかった。本人もそれを武器として自覚しているわけではないのだろう。ただ、上位に向けて無意識に最適な距離と表情を取ってしまう。
「……ですから、わたくし、少し申し訳なく思っているのです」
セラフィナの声が、回廊にいる数人へ届く程度の柔らかさで続いていた。エドワードはそれを余裕のある顔で聞いている。彼女の前では、王子はいつもより少し軽い。気楽とも言うし、締まりがないとも言う。
ナタリアが視界へ入ると、周囲の生徒たちがわずかに道を開けた。
セラフィナがぱっとこちらへ向く。
「ヴォルディア侯爵令嬢、ごきげんよう」
「ごきげんよう、ルミエル伯爵令嬢」
礼は正しく返す。ナタリアは一歩も急がず、いつも通りの速度で近づいた。そこへエドワードが少し気まずそうな顔を混ぜて言う。
「ちょうど、昨日のことを話していた」
昨日。剣術場でのことだろう。セラフィナが「少し怖い」と口にした、あの件だ。ナタリアは返答を急がない。ただ一度、二人の表情を見た。セラフィナは本当に申し訳ないと思っているらしい。エドワードは彼女を庇う側へ立っている。状況の輪郭は、それだけでほぼ足りる。
「そうでしたの」
セラフィナは一歩だけ前へ出た。
「昨日は、失礼なことを申し上げてしまったかもしれません」
「わたくし、ヴォルディア侯爵令嬢のお力を軽んじたわけではないのです」
「ただ、その……強い方を見ると、少し身がすくんでしまって」
言い訳というより、本当にそう感じているのだろう。悪意はない。本人の中ではそのことが何より大きいのだと分かる。だから余計に厄介だった。悪意なら処理しやすい。善意の方がよほど扱いづらい。
ナタリアは表情を変えずに聞いていた。
セラフィナは言葉を選びながら続ける。
「ですから、安心したいだけですの」
「殿下のように、正しい剣をご存じの方が一度ご覧になれば、わたくしも変に怖がらずに済むと思って……」
回廊にいる何人かの生徒が、その言葉で顔を上げた。声の大きさのわりに、意味はよく通る。
安心したいだけ。
それは、ずいぶん便利な言い方だった。相手を責めず、自分の弱さを前面に出し、その上で“確認”を求める。誰が悪いわけでもない形で、人を査定の台へ乗せる時の言葉としては、かなり出来がいい。
だが、そこまで考えて口にしている様子はセラフィナにはない。そこがまた、始末が悪い。
ナタリアは穏やかに微笑んだ。
「そうでしたの」
「それはまた、ずいぶん率直なお言葉ですわね」
やわらかい返答に聞こえる。実際、礼を欠いてはいない。だがセラフィナはほんの少しだけ、胸の奥を撫でられたような居心地の悪さを覚えたらしかった。言葉の面だけを撫でると優雅なのに、その下に冷たい芯が通っている。
その気配を、エドワードが先に受け取った。
「ナタリア。気を悪くしたなら、代わりに詫びよう」
「だが、セラフィナ嬢に悪意がないのは分かるだろう」
王子らしい、そして少し軽い庇い方だった。場を丸く収めるつもりなのだろう。だがその言葉は、ナタリアを一段低い位置へ押しやってもいる。庇われるセラフィナ。取りなされるナタリア。そういう構図だ。
ナタリアはそれも理解した上で、淡々と返した。
「もちろんですわ」
「悪意がないことと、意味がないことは別ですけれど」
セラフィナが小さく目を見開く。エドワードも少し眉を動かした。強い皮肉ではない。ただ、気持ちよく流して終われなくなる程度の棘はある。
セラフィナはそれを受け止めきれず、焦りの方へ少しだけ傾いた。
「わたくし、本当に安心したいだけですの」
「ヴォルディア侯爵令嬢ほどお強い方なら、殿下が一度きちんとご覧になれば、それで済むことだと思いますし……」
その一言で、周囲の空気が変わった。
誰かが小さく息を呑み、誰かが視線を上げる。いかにももっともらしい形ができるからだ。婚約者同士の手合わせ。聖女の不安を解くための確認。第ニ王子が直々に見る、礼を失しない場。
高位貴族の男子生徒が、楽しげに言った。
「なるほど。婚約者として、一度お互いの実力を知っておくのは自然かもしれませんね」
別の令嬢がすぐに続く。
「ええ。ヴォルディア侯爵令嬢ほどのお力ですもの。殿下がご確認なさるのは、むしろ当然ではありませんこと?」
確認。ずいぶんと整った言葉だ。責めてもいないし、押しつけてもいない。だがその実、もう流れは一つしかない。
ナタリアは、そこで少しだけ心の中で線を引いた。
これは自分一人の気分で断れる話ではなくなりつつある。王子の面子。聖女の善意。周囲の体裁。婚約者という立場。学院の規則。すべてが、模擬戦を“嫌がる方が不自然”な方向へ押している。
本当に、こういう流れはなくならないものだ、とほんの一瞬だけ思う。結論が先にあり、確認の顔をして近づいてくるもの。名前はいろいろあるが、中身はだいたい同じだ。
その感覚に、うっすらとした既視感があった。
だがそれを掘り返す暇もなく、エドワードが口を開いた。
「ナタリア」
「一度、手合わせをしてもらおう」
王子の声は穏やかだった。高圧的ではない。むしろ、きちんとした提案の形を取っている。だから余計に断りづらい。
「婚約者として、君の剣を知らぬままというのも不自然だろう」
「それに、昨日から少し話題になってしまっている」
話題になっているから。なるほど、それはずいぶん便利な理由だ。王子の意思だけではなく、周囲の空気を理由に使える。さすがに本人がそこまで計算しているわけではないだろうが、使い方としては実に無難だった。
ナタリアは王子を見る。彼の顔には、少しばかりの気遣いと、少しばかりの気負いと、そして少しだけ“見てやる側”の安堵が混じっている。自分は正しいことを言っている、と思っている顔だ。
セラフィナは不安そうに二人を見比べている。だがその不安が、すでにこの場をここまで押し流してしまったことには気づいていない。
「私と、ですか」
ナタリアの確認に、エドワードは頷いた。
「ああ。学院の規則に則った模擬戦だ」
「勝ち負けにこだわるものではない。あくまで確認だ」
勝ち負けにこだわらない。そういう言葉を先に置くあたり、なおさら勝ち負けの匂いが濃くなる。周囲もそれを察している。察していて、見物人の顔をしている。
ナタリアは一拍だけ黙った。
その沈黙のあいだに、断った場合の面倒までほとんど見えてしまった。拒否すれば、後ろ暗いことがあるように見える。王子の面子を潰す。聖女は傷つく。周囲は余計に騒ぐ。教師たちも扱いに困る。そして結局、別の形でもう一度持ち込まれる。なら、ここで受けた方がまだ早い。
その判断は、感情より先に下りた。
「承知いたしました」
その瞬間、回廊のあちこちで小さく息が動く。受けるのか。そういう空気だ。
ナタリアはそのまま続けた。
「学院の規則に沿うのであれば、お受けいたします」
「皆さまがそれで安心なさるのでしたら」
最後の一言だけが、ほんの少し冷たかった。セラフィナはそれを聞いて、自分が“安心”を理由にしていることを急に見つめ返された気分になる。だが抗議できるほどの言葉でもない。
エドワードは頷いて、ほっとしたように笑う。
「ありがとう。では、午後の合同実技の中で設けよう」
「教師にも話を通しておく」
話を通す。まるで最初から、その段取りも王子の仕事であるような顔だ。ナタリアはその顔を見て、怒るでも呆れるでもなく、ただ心の中で短く切った。
断った方が面倒。だから受ける。ただそれだけだ。
周囲はすぐにざわめき出した。だがそれも表向きは上品に抑えられている。
「婚約者同士の模擬戦ですって」
「殿下が直々にご覧になるのね」
「ヴォルディア侯爵令嬢ほどのお力なら、よい機会かもしれませんわ」
“よい機会”。その言葉に、ナタリアは少しだけ目を細めた。誰にとっての、何に対する、よい機会なのか。そういう問いは口にしない。言ったところで、どうせまた綺麗な言葉が返ってくるだけだ。
昼休みが終わる頃には、話は学院内をかなりの速さで回っていた。
高位貴族の子女たちは、面白い催しを見るような軽い熱を帯びている。婚約者同士の確認。王子の正しい剣。軍閥侯爵令嬢の力。話題としては十分だ。誰も露骨に悪い顔はしない。だが全員が、自分の見たい形をそこへ乗せている。
一方、低位側の下級生たちはもっと不穏を早く察していた。
廊下の片隅で、小さく集まっていた一年生たちの声が風に乗る。
「ナタリアお姉様、大丈夫かしら……」 「大丈夫って、負ける気はしないけど」 「そうじゃなくて。勝っても嫌なことになりそうなの」
その言葉に、ナタリアは歩きながらほんの少しだけ足を緩める。低い位置にいる者の方が、こういう空気の濁りには敏いことがある。理屈が整っている時ほど、その理屈の外へ押し出される側は嫌なものだ。
「ナタリアお姉様……」
呼び止められて振り向くと、昨日本を落としかけた準男爵家の下級生令嬢が、おそるおそる近づいてきた。彼女は何か言いたそうにして、でも何を言えばいいのか分からないらしい。
「どうしたの」
「その……模擬戦のことを、お聞きして」
「余計なことでしたら申し訳ありません。でも、わたくし、なんだか……」
言葉がうまく続かない。ナタリアは少しだけ視線を落とした。こういう時、下手な慰めはむしろ相手を困らせる。
「なんだか、嫌な感じがするのでしょう」
少女ははっとして頷いた。
「……はい」
ナタリアは口元を少しだけ和らげた。優しく見せるためではなく、これ以上相手を硬くさせないために。
「それなら、あなたの感覚はたぶん間違っていないわ」
「けれど、今はあなたがどうこうすることではないでしょう。授業へ戻りなさい」
少女は目を瞬かせ、それから少しだけ落ち着いた顔になった。
「……はい。ありがとうございます、ナタリアお姉様」
去っていく背中を見送りながら、ナタリアは思う。こういう時に求められているのは、大丈夫と言い切ることでも、安心させるための空約束でもない。ただ、自分が感じた不穏が馬鹿ではないと認めてもらうことだ。そこから先は各自の役割がある。
学院付きの下男たちの間でも、似たような空気が流れていた。
「殿下がお相手だそうだ」
「ナタリア様なら負けはしないだろうが」
「勝っても面倒だな、ありゃ」
「だから嫌なんだよ。身分高い連中の“確認”ってやつは」
彼らはあくまで私語として囁く。だが使う言葉の方が、上位貴族たちよりずっと正確だった。勝ち負けではなく、勝っても負けても後が厄介。まさにその通りだとナタリアは思った。
午後の合同実技までのあいだ、彼女は普段通りに講義を受けた。だが周囲は普段通りではない。視線がやや多く、会話が一拍だけ途切れ、遠巻きに様子を見られる。いずれも露骨ではない。だからこそ面倒だ。露骨なら切れる。露骨でないから、いちいち受け流すしかない。
教室を出ると、学院付きの侍女が控え室へ案内した。模擬戦そのものは学院の規則に則るが、相手が王子であり、しかも婚約者同士とあって、形式だけは妙に丁寧になるらしい。
控え室は小さく静かだった。淡い色のカーテンが下り、簡素な姿見と椅子、整え台が一つ置かれている。学院の侍女が二人、実技用の軽装を整えるために待っていた。
「失礼いたします、ナタリア様」
侍女の一人が、襟元の留め具に手をかける。だが指先がわずかに震えている。もう一人も似たようなものだ。学院中がざわついているのだから、彼女たちだけ平静でいられるはずもない。
ナタリアは姿見越しにそれを見た。
「そんなに緊張しなくていいわ」
侍女がはっと顔を上げる。
「申し訳ございません……」 「あなたが戦うわけではないでしょう」 「ですが……」
言い淀む相手を、ナタリアはわずかに眉を上げて見た。
「留め具を落とす方が余計に面倒よ」
「落ち着きなさい」
たったそれだけ。なのに侍女たちの肩から少し力が抜けた。必要以上に優しくしなくても、やるべきことを指示された方が落ち着くことはある。ナタリアはそのことを、誰に教わったわけでもなく自然に知っていた。
軽装へ着替え、髪を実技用にまとめ直し、最後に木剣を受け取る。手の中に収まる重さは、やはり軽い。学院の木剣ではどうしてもそうなる。折れる心配のない範囲で作られているから当然だが、少しだけ頼りない。
侍女たちが整え終え、頭を下げて下がっていく。扉が閉まると、小部屋には静けさだけが残った。
遠くで、人のざわめきが波のように続いている。模擬戦の準備が進んでいるのだろう。教師たちの声、移動する足音、どこかで鳴る金属音。それらを聞きながら、ナタリアは木剣の柄を片手で軽く回した。
確認。
セラフィナはそう思っている。安心したいだけ。自分が怖がるのは失礼だから、一度きちんと見たい。本人の中では、それで話が通るのだ。
査定。
周囲はそう受け取っている。第ニ王子が直々に見る。婚約者に相応しいか、どれほどのものか、正しい形を知っているか。そういう意味を勝手に乗せる。
矯正。
もっと遠回しな者たちは、そう期待している。固い侯爵令嬢に、少し力を抜かせる機会。王子の剣が、軍閥の女を“正す”場。口にはしないが、顔に書いてある。
言葉だけはいくらでも綺麗に変えられる。だが中身は驚くほど変わらない。
結論だけ先にあって、確認の顔をして寄ってくる。
その感覚が胸の底に落ちた瞬間、ナタリアはほんのわずかな既視感に目を細めた。会議室。資料。もっと別の匂い。何か、乾いた蛍光灯の下で、似たような顔つきの人間を見た気がする。誰だったのか、どこだったのか、まだ形にならない。ただ「こういうのはある」とだけ、妙に知っている。
彼女はその感覚を追わない。今は追う必要がない。
木剣を握り直す。
断った方が面倒。なら、受ける。
それだけのことだ。
「……まあ、いいわ」
誰に聞かせるでもなく、小さく言葉が落ちる。上品でもなく、乱暴でもなく、ただ短い。
見るつもりなら、見せてあげる。
その決着だけが、すでにナタリアの中では済んでいた。
扉の向こうで、実技開始の呼び声が上がる。彼女は姿見に映った自分を一度だけ見た。十八歳の侯爵令嬢。王子妃教育を終えた婚約者。比類なき美貌を持ち、学院では完璧と呼ばれる女。
けれど鏡の奥にいるそれが、今日これから晒されるものの全部ではないことを、彼女だけがまだよく知らない。
木剣を携え、ナタリアは扉へ向かった。




