第1話 惜しい侯爵令嬢
王立アルビオン学院の朝は、いつもよく磨かれていた。
石畳の広い前庭は夜露の気配を残しながらも曇りなく、正門から本館へ続く緩やかな道の両脇には、季節ごとに植え替えられる低木と花壇が一列に整えられている。馬車寄せに並ぶ家紋入りの馬車は、どれも磨き上げられた車体に朝の光を受けていたし、降り立つ生徒たちもまた、その家の格と財力をまとうように、仕立てのよい制服と身のこなしを見せている。王都の空気に触れたことのない地方の者なら、この学院そのものをひとつの宮廷だと思ったかもしれない。
その中で、ナタリア・ヴォルディアが正門をくぐると、空気の流れがわずかに変わった。
彼女がそれを意識したことは一度もない。ただ視線というものは、自分の意思とは関係なく集まることがある。学院でもっとも美しいと噂される顔立ち。冷ややかというより、整いすぎていて人を寄せつけにくい端正さ。光沢を抑えた銀色に近い金髪をきっちりと編み上げた上品な髪型。よく切れる刃のような印象を与える灰青の瞳。豊かな胸元は制服の上からも隠しようがなく、歩けば視線を集めない方がおかしいほどの存在感があったが、だらしなさは一切なかった。胸が大きい女にありがちな重たげな印象もない。腹も腰も引き締まり、首筋から肩の線、背筋の通り方、脚の運びまで、無駄なゆるみが見当たらない。女として完成された身体をしているのに、その全体は妙に静かで、立っているだけで剣の鞘を思わせた。
十八歳。ヴォルディア侯爵家の長女。十五で第ニ王子エドワードとの婚約が定まり、十七の時点で王子妃教育を前倒しで修了した女。
学院に通う最上級生でありながら、もはや学院の外に半分足を置いているような存在だった。
「おはようございます、ナタリア様」
廊下へ入る手前で、少し緊張した声が飛んだ。準男爵家の下級生令嬢が、両腕いっぱいに書物を抱えて立ち止まっている。彼女は見れば分かる程度に慌てていた。抱える冊数が多く、視界が狭くなっている。歩幅も速い。しかも廊下の曲がり角の内側を取りすぎている。向こうから来る上級生とぶつかる位置だと、ナタリアが考えるより早く、下級生の足がわずかにもつれた。
本の束が崩れる。
落ちるより先に、ナタリアの手が伸びていた。
一番上の本の角を押さえ、傾いた束を腕ごと安定させる。大仰ではない。助けたというより、ただ落下を止めただけの動作だった。
「前を見なさい。抱えすぎよ」
低いがよく通る声でそう言うと、下級生は真っ赤になって目を潤ませた。
「も、申し訳ありません……っ。ありがとうございます、ナタリアお姉様」
お姉様、という呼び方に、周囲の何人かが小さく笑う。からかいではなく、ああまただ、というような空気だった。低位の爵位家や地方から来ている下級生たちは、いつからか彼女をそう呼ぶようになっていた。ナタリアが自分から許したことはないし、求めたこともない。ただやめさせもしなかったので、そのまま定着しただけの話だ。
ナタリアは本を抱え直した下級生に一瞥をくれただけだった。
「次からは一度に持ちすぎないことね。見えないまま急ぐと、いずれ本では済まないわ」
「は、はい……っ」
すぐ隣にいた友人らしい少女が、ほっとしたようにその子の肘を引く。二人は何度も頭を下げながら去っていった。去り際、もう一人の方がこっそり囁いた声がナタリアの耳にも届く。
「やっぱりナタリアお姉様って怖くないわよね」 「怖くはあるけど……ちゃんと見てくださるもの」
そんな小声をいちいち拾う趣味はない。だが耳に入るものは入る。お姉様、という響きが妙にひっかからず、すとんと落ちるのが少しだけ不思議だった。可愛がるつもりも、面倒を見るつもりも、特別あるわけではない。ただ、危ないものは危ないし、詰まるところは詰まる。見えたものをそのまま口にしているだけだ。
それだけだと、自分に言い聞かせるまでもなく、彼女はもう次の角を曲がっていた。
本館へ続く広い回廊では、学院付きの侍女や下男たちが朝の支度の後始末に忙しく行き来していた。王立学院は学ぶ場所であると同時に、貴族社会の縮図でもある。生徒たちの背後には、それぞれの家の侍女や従者がつき、学院側にも専属の使用人が大勢いる。彼らがいることで、この世界の秩序は見える形を保っていた。
銀盆にインク瓶と封蝋道具を載せた侍女が、別の上級生に呼ばれて慌てて振り向く。持ち方が片寄り、瓶が一つ滑りかけた。
「左へ寄せなさい」
ナタリアが足を止めずに言う。侍女は反射的に従った。瓶が元の位置へ戻る。
「あ……ありがとうございます、ナタリア様」
「礼はいいわ。落とした後の方が余計な手間になるもの」
言って、もう振り返らない。侍女の方は恐縮したあと、むしろほっとした顔をしていた。怒鳴られるより遥かに楽なのだろう。ミスに名前をつけて責められるより、直し方だけ示される方が、現場では助かる。そこまで言葉にしたことはないが、使用人たちが自分に向ける目が、同格の令嬢たちとは違うことくらいはナタリアにも分かっていた。怖がられていないわけではない。ただ、話が通ると思われている。
教室へ入ると、空気が少し変わった。ここでは彼女は、下級生に慕われるお姉様ではなく、まずヴォルディア侯爵令嬢として見られる。第ニ王子の婚約者であり、十七で王子妃教育を終えた完成品。失敗しない女。正しく整えられた女。そういう視線が先に来る。
「おはようございます、ナタリア様」
高位貴族の令嬢たちは礼儀を崩さない。だがその目の奥には、尊敬と羨望と、少しばかりの息苦しさが混ざっていた。彼女たちにとってナタリアは眩しい存在というより、比較対象にしてはいけない存在だった。顔立ち、家格、婚約、成績。何ひとつ並べる気がしない。その代わり、ほんの小さな欠点を見つけて「惜しい」と言いたくなる。人間とはそういうものだ。
午前の授業は魔術実技だった。王立学院では、王家や高位貴族の子女に必要とされる一通りの教育が施される。礼法、政治学、歴史、舞踏、軍学、魔術、剣術。どれも中途半端では許されない。
実技棟の広い魔術演習室は、半円状に座席が組まれ、その中央に複数の発動用円が刻まれている。教師の合図で、生徒が順番に中央へ出て術式を見せていく。火、水、風、土。基礎術式の精度から応用の制御まで、一つ一つが評価の対象になる。
ナタリアの順番が来ると、教室のざわめきは自然に静まった。
彼女は中央に立ち、短く息を整える。詠唱は必要最低限。無駄に声を響かせることもなく、術式を素直に通していく。炎は形を崩さず、風刃は逸れず、水幕は薄く均一に張られた。出力も制御も、同学年では頭ひとつ抜けている。教師が満足げに頷くのも当然だった。
「見事です、ヴォルディア侯爵令嬢。やはりあなたほどの素質があれば、正統派魔術の道でも、かなりの高みへ届くでしょう」
拍手が起きる。だがそれは称賛一色ではない。拍手に混じる視線のいくつかは、まただ、と言っている。優秀すぎるのに、進む方向を間違えている。そんなふうに見ている。
教師が少しだけ残念そうな笑みを浮かべた。
「ですが、あなたは相変わらず、身体強化と武器付与へ傾ける。惜しいことです。これだけの才がありながら」
その言葉は、周囲の心の声を代表していた。
もったいない。惜しい。どうしてそちらへ行くのか。侯爵令嬢として、王子妃候補として、王都に必要なのはもっと見栄えのする魔術だと、皆どこかで思っている。
ナタリアは一礼した。
「お褒めいただき光栄ですわ。ですが、私はこちらの方が性に合っておりますの」
返答は完璧だった。誰の顔も潰さない。穏やかで、品があって、反抗的でもない。
それでも教室の後方で、誰かが小さく囁く。
「性に合う、ね」 「ヴォルディア家らしいわ。結局は軍閥の娘ってことじゃない」 「正統派の魔術師になればもっと綺麗なのに」
聞こえたところで、胸は波立たない。そう見えるならそれでいい。広く展開して見栄えよく制圧するより、自分の身体と剣に魔力を通して前へ出る方が、自分には速い。ただそれだけの話だった。
速い方を選ぶ。それのどこがそんなに不思議なのか、彼女にはよく分からない。
だが、その疑問に名前をつけるほどでもない。まだ、その程度の違和感だった。
魔術実技のあとは剣術だった。
屋外の対練場には、午前の光が真横から差し込んでいた。訓練用の木剣が並ぶ棚の前で生徒たちが待機し、教師が組み合わせを決めていく。貴族の子女にとって剣術は、武官のように極めるものではなく、護身と教養の一部として扱われることが多い。だからこそ、ナタリアの立ち姿は少しだけ浮いていた。
木剣を取った時の手つきが、余分に綺麗すぎるのではなく、無駄なく速い。構えは小さく、踏み込みに迷いがない。剣を持つと、彼女の身体は美しさより機能へ寄る。その変化に気づく者は少ないが、気づく者には嫌なほど分かる。
対練相手は同学年の男子生徒だった。そこそこに腕が立ち、学院内では評判も悪くない。彼はナタリアに礼をしてから、正面に立った。周囲は、また綺麗に勝つのだろうと見ている。見せ場になるような派手さはなくても、結局ナタリアが取ると分かっている。
教師の合図で始まった。
相手が一歩目を出すより先に、ナタリアの中ではもう終わっていた。視線が先に落ちた。肩がわずかに開いた。踏み込む足の角度が甘い。そこまで見えれば、次に来る剣筋も重心の流れも、ほとんど答えのようなものだ。
ナタリアは半歩だけ外した。木剣を受け流すというより、相手の手元をずらす。次の瞬間には踏み込み、相手の体勢の芯を崩していた。大きな音は出ない。ただ勝負だけが終わる。
相手の木剣が地に触れる寸前で、ナタリアの剣先が喉元に止まった。
「……参った」
男子生徒が苦笑すると、見物していた下級生たちから小さな感嘆の息が漏れた。
剣術教師は一度だけ眉を上げ、それから静かに言う。
「美しい。ですが、やはり前に出すぎますね。もう少し余裕を残しなさい」
これもまた、褒めているようで枠に収まっていない評価だった。
見ていた低位爵位の女子たちは、教師の評よりも別のものを見ていた。
「すごい……」
「ナタリアお姉様って、やっぱり本当に強いのね」
「怖いというより、なんだか安心するのよね」
安心、という言葉に、ナタリアはほんの少しだけ耳を止めた。自分に向けられる評価としては妙だった。怖いなら分かる。近寄りがたいも、正しいも、固いも、よく知っている。だが安心は珍しい。
木剣を返しながら、彼女は何も言わなかった。
昼休み、中庭の回廊でエドワードと顔を合わせた。
第ニ王子エドワード・アルセイン。十七歳。長身ではないが貧相でもなく、王族らしく整った顔と、同年代の中で自然に中心へ立てる軽やかさを持っている。人当たりも良く、笑えば場が和む。そこに悪意はない。ただ、物事を軽く受け取る癖がある。父王と第一王子はそこを危ういと思っていたし、そのためにナタリアが傍へ置かれたことを、エドワードだけが本当の意味では理解していなかった。
「今日の実技も見事だったな、ナタリア」
回廊の手すりに片肘をついたまま、気安い声音で言う。ナタリアは形式を崩さず一礼した。
「ありがとうございます、殿下」
「だが、少し怖いぞ。あれでは対練というより、処理みたいだ」
周囲に他の生徒もいる場だ。王子の軽口としては許される範囲だし、笑って流す令嬢も多いだろう。ナタリアは微笑を崩さなかった。
「止めるべきところで止めているだけですわ。曖昧な終わり方は、訓練でも再発しますもの」
再発、という言葉に王子が小さく瞬く。
「君は本当に、そういう言い回しをするな」 「どういう、でしょう」 「役人か監督官みたいな」
監督官。ナタリアは一瞬だけ、妙なひっかかりを覚えた。何に対してかは分からない。ただ、否定する気にはならない。
「殿下が軽く済ませがちなことを、私は軽く済ませたくないだけですわ」
「ほら、そういうところだ。君は正しいが、少し息が詰まる」
王子は笑っている。責めているわけではない。本音を軽く口にしているだけだ。ナタリアにもそれは分かる。だから彼女も礼を崩さないまま、ほんの少しだけ返した。
「殿下が軽すぎるのです、と申し上げても?」
エドワードは一瞬だけ目を丸くし、それから声を出して笑った。周囲にいた上級生たちも曖昧に笑う。冗談として処理できる範囲だった。
しかしその軽い笑いの中に、ナタリアはいつものものを見る。王子は自分といると、楽しさより先に試されている気分になるのだ。何を言っても、どこかで正される。間違ってはいない。だが心地よくもない。そのことを王子は、彼女を責めるほど深く自覚していない。ただ「固い」と感じているだけだ。
そこへ、柔らかな声が差し込んだ。
「エドワード殿下、ごきげんよう」
二人が振り向くと、淡い金茶の髪を肩口で揺らした少女が立っていた。セラフィナ・ルミエル。伯爵家の令嬢で、最近、聖女認定を受けたことで学院内でもひときわ注目を集めている十六歳。背は低く、全体に丸みがあり、胸元だけは年齢にそぐわぬほど豊かで、立っているだけで柔らかそうに見える。守られることに違和感のない体つきだった。
「先ほどの実技、拝見しました。とても素敵でした」
その声の柔らかさは、言葉そのもの以上に距離の取り方にあった。畏れすぎず、近すぎず、けれど相手を気持ちよくさせる位置を無意識に知っている。エドワードが少し気をよくするのが見て取れた。
「ありがとう、セラフィナ嬢」 「いえ。わたくしにはあのような剣は到底……」
言いながら笑う。その笑みは王子へ向いている時間が一拍長い。それからようやく、ナタリアにも視線が移った。
「ヴォルディア侯爵令嬢も、ごきげんよう」
礼は完璧だった。無礼など一片もない。だが温度は違う。王子にはやわらかく寄り、ナタリアにはきちんと整えた礼で留める。そこに悪意はない。ただ無意識に向く方向が決まっているだけだ。
ナタリアはその違いをあっさり理解した。上に向くのだ、この娘は。いや、上位にというより、上位を気分よくさせる方向へ自然に最適化されている。本人はきっとそう見えていることに気づいてもいない。
「ごきげんよう、ルミエル伯爵令嬢」
返しながら、ナタリアはほんの少しだけ冷えた目で二人を見る。恋敵を見る目ではない。感情の輪郭がそこにはない。あるのは配置の確認に近かった。
なるほど。殿下はこちらの方が楽だろう。まず受け入れてくれて、否定から入らず、場が軽い。自分のように言外で止める者より、気持ちよく話が流れる相手の方が、十七の少年には心地いいに決まっている。
そこへ学院付きの侍女が近づき、セラフィナの持っていた薄いノートを受け取ろうとした。セラフィナはにこやかに差し出す。
「お願い」 「かしこまりました」 「ありがとう。もう下がっていいわ」
礼儀正しい。だがそこで関係が終わる。相手は役割であり、それ以上ではないという線引きが自然だった。
ほぼ同時に、近くを通った下級生の一人が腕に抱えた資料を取り落としかける。ナタリアは視線だけで資料の崩れる方向を見て、一言だけ落とした。
「右手から支えなさい。下を抱えるの」
下級生は慌てて従い、ぎりぎりで資料を持ち直した。
「ありがとうございます、ナタリアお姉様!」
セラフィナが、その呼び方に少しだけ目を丸くする。エドワードはそれを見て、どこか面白がるような顔をした。
「君は下級生に人気だな、ナタリア」 「そう見えますか」 「怖がられていると思っていた」 「それは否定いたしかねますわね」
さらりと返す。エドワードはまた笑い、セラフィナもつられて微笑む。その微笑みは優しい。だが下級生へ向いていたときとは違って、王子がそこにいることで輪郭が少しだけ甘くなる。
その甘さは、ナタリアにはよく見えた。
少しして、エドワードが自分の指先を見て顔をしかめた。昼前の魔術演習で生じたかすり傷が、今ごろになってひりついたらしい。たいしたものではない。治癒担当を呼ぶほどでもない。ナタリアは一歩だけ近づきかけ、そこで止まった。手順としては、学院側の治癒担当に任せるのが正しい。
だがセラフィナは躊躇なく距離を詰めた。
「殿下、じっとしていてください」
細い指が王子の手をそっと取る。聖女の力は大げさなものではなく、ひと撫でするような光とともに、指先の赤みをきれいに消した。
「ありがとう、セラフィナ嬢」 「このくらいなら、すぐですもの」
王子の声が柔らかくなる。周囲の空気も和む。誰の目にも微笑ましい光景だ。ナタリアはその横で、婚約者としての言葉だけをきちんと置いた。
「お加減はいかがですか、殿下」 「問題ない。心配をかけたな」
形式としては、それで十分だった。
ただ、場の温度はもう決まっている。手順より手触り。正しさより近さ。誰が悪いわけでもないが、その差は明確だった。
ナタリアは二人を見て、感情の代わりにひとつの整理だけを胸の中に置いた。役割分担としては綺麗だ。軽い王子の隣に、まず否定せず寄り添う聖女。自分のように、正しいが重い婚約者とは噛み合わないのも当然だった。
放課後、訓練場の隅でナタリアは一人、軽く木剣を振っていた。
日課というほどでもない。身体を緩め直すための、ほんの短い時間だ。だがそれでも見ていれば違いは分かる。無駄がない。振りかぶらない。足音がほとんどしない。剣が空を切るたび、訓練場の空気だけが細く裂けていくようだった。
少し離れた回廊から、エドワードとセラフィナがそれを眺めていた。
「ヴォルディア侯爵令嬢は……とてもお強いのですね」
セラフィナの声は本当に感心していた。そこに嘘はない。だが次の一言もまた、彼女にとっては正直だった。
「でも、その……少しだけ、怖く見えてしまいました」
エドワードは苦笑する。
「軍閥の家だからな。少し固いところがある」
セラフィナは、悪意なく、少し考えるように続けた。
「殿下のように正しい剣を知る方がご覧になれば、きっと、わたくしの感じ方が偏っているだけだと分かるのかもしれません」 「そうかな」 「ええ。きっと……きちんと見ていただければ、安心できると思うのです」
それは模擬戦を直接望む言葉ではない。提案ですらない。けれど、王子の虚栄をくすぐるには十分だった。見てやろう。測ってやろう。そういう種を、柔らかい善意の形で落とすには。
ナタリアはそれを聞いていた。
振り向きもしない。剣を止めもしない。だが最後の一振りを収める時だけ、手首の角度がほんのわずかに鋭くなる。
怖い、ね。
胸の内でその言葉を転がしてみる。怒りはなかった。ただ、ずいぶん丁寧に値踏みしてくれるものだ、と少しだけ思う。王子は自分を固い婚約者と思っている。聖女は怖いと言う。どちらも間違いではないのだろう。問題は、その二つの見方がどこから来ているかを、本人たちがほとんど理解していないことだけだった。
木剣を棚へ戻し、ナタリアは回廊の二人へ視線を向けないまま、その場を離れた。
夕方の訓練場には、まだ日が残っていた。整えられた学院の景色は相変わらず美しく、誰の目にも平穏だった。けれどその均衡は、もうわずかにずれ始めている。見えている者は少ない。ナタリアだけが、ひとつ外れたところからその流れを見ていた。
それでも彼女は、まだ侯爵令嬢の顔を崩さなかった。まだ、この時点では。
新シリーズ始めました。
今回は断罪される侯爵令嬢ものですが、学院での婚約や断罪劇はあくまで序盤の土台になります。
この部分は少し丁寧めに積んでいますが、その先は冒険者登録、依頼、現場処理といった実戦寄りの流れへ入っていきます。
いわゆる「断罪で終わる話」ではなく、断罪されたあとに本人の適性が本領を発揮していくタイプの作品です。
タイトルどおり、戦場で完成していく女の話として、ハイファンタジーの本筋はもう少し先からしっかり動き出します。
序盤はやや助走長めですが、断罪を越えたあたりで空気が変わっていきます。
そこまでお付き合いいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。




