第45話 横に立つまで
王都へ戻った時には、空の色がすでに夜へ傾きかけていた。
馬車の車輪が石畳へ戻る音がする。土の道を進んでいた時よりも硬く、規則的で、どこか現実へ引き戻されるような響きだった。
王都の門を抜ければ、人の数も音の種類も一気に増える。露店を片づける声、酒場へ向かう男たちの笑い声、荷車の軋み、遠くから聞こえる鐘。ファルケン領の森砦跡でグリフォンと向き合っていた時間が、急に少し遠いもののように感じられた。
だが、終わってはいない。
ナタリアは馬車の中で、膝の上に置いた依頼票の控えを一度見た。
討伐は終わった。
現地への指示も出した。
素材処理の区分も決めた。
だが、ギルドへ戻って報告書を出すまでは、仕事として閉じていない。
レオナは隣で少し首を回していた。戦闘で大きな怪我はしていないが、グリフォンの爪を何度か受け流したせいで、肩と腕には疲労が残っているはずだった。
ポンタは馬車の床で丸くなっている。
ただ、眠ってはいない。
時々、耳だけ動く。
「肉は忘れておらぬな」
馬車の揺れの中で、ポンタが急に言った。
ナタリアは依頼票から目を上げない。
「忘れてないわ」
「ならよい」
「まだ届いてもいないけれど」
「約束は約束じゃ」
レオナが窓の外を見たまま笑った。
「今日の締めがそれなの?」
「肉は大事じゃ」
「グリフォン、あまり美味しくないんじゃなかったの?」
「美味いとは言っておらぬ」
「じゃあ、なぜそこまで欲しがるのよ」
「肉は肉じゃ」
ナタリアは小さく息を吐いた。
「その理屈、強いわね」
「主も分かっておる」
「分かってはいないわ。分類として否定しづらいだけよ」
「それを分かっていると言うのじゃ」
レオナは声を立てずに肩を揺らした。
馬車は王都ギルドの前で止まった。
日が落ちかけた時間帯のギルドは、朝とは違う熱を持っている。依頼から戻った冒険者たちが報酬の精算を待ち、酒場側からは早くも酒と肉の匂いが漂っていた。負傷者の手当てをする者、今日の獲物を誇る者、失敗を苦く吐き出す者。そういうざわめきの中へ、ナタリアたちは入っていく。
扉を押し開けた瞬間、いくつかの視線が集まった。
Aランクになってから、そういう視線は増えた。
だが今日は、それだけではない。
グリフォン上位個体の依頼が出ていたことを知る者は、ギルド内に何人もいる。帰ってきた三人と一頭を見て、結果を読もうとしているのだろう。
ミリアは受付の奥からすぐに顔を上げた。
「お帰りなさいませ」
「戻ったわ」
「ご無事で何よりです」
その声には、受付としての落ち着きと、個人的な安堵が混じっていた。
バルドは奥の机から顔を出した。
「終わったか」
「終わったわ」
「討ったか」
「ええ」
それだけで、周囲の空気が少し動いた。
誰かが小さく息を呑む。
だが、ナタリアはその反応を広げない。受付へ近づき、依頼票の控えと現地代官の署名、ロイドの証言記録を机へ置いた。
「報告書を書くわ」
ミリアが一瞬だけ目を瞬かせる。
「今からですか」
「記憶が鮮明なうちに書く方が早いわ」
レオナが横で肩を落とした。
「先に食事じゃないの?」
「報告が先」
床でポンタが顔を上げる。
「肉は?」
「報告が先」
「主は順番に厳しいの」
「順番を間違えると後で手間が増えるのよ」
ミリアはすぐに紙とインクを用意した。
ナタリアは受付横の記録机へ向かう。椅子へ腰を下ろすと、手袋を外し、紙を引き寄せた。
レオナはその隣へ立ったまま、少し呆れた顔で見ている。
「本当にすぐ書くのね」
「あとで思い出しながら書く方が面倒でしょう」
「あなた、疲れてないの?」
「疲れているわ」
「じゃあ休めばいいのに」
「疲れているから、余計な後回しを増やしたくないの」
レオナはそこで小さく笑った。
「理屈としては分かるけど、実行するのはあなたくらいよ」
ナタリアは返事をせず、筆を取った。
報告書は、ただ「討伐完了」と書けばよいものではない。
今回の依頼は、Aランクとしての判断も含まれていた。
だから、まず状況から書く。
ファルケン領外縁、森砦跡周辺にて家畜被害。
初期被害は羊二頭。死骸なし。
次に山羊一頭。首と脚部一部のみ発見。
現地Cランクパーティ確認時、グリフォン系上位個体と接触。重傷一、軽傷二。撤退判断は妥当。
ナタリアの筆は止まらない。
砦跡上部に巣材あり。
個体は単なる通過ではなく、狩場および営巣地として周辺を認識し始めていた可能性が高い。
追い払いの場合、再来の可能性大。
そのため討伐を選択。
バルドがいつの間にか横へ来ていた。
邪魔はしない。
だが、書かれていく文字を上から読んでいる。
ナタリアは続ける。
戦闘時、個体は偵察行動、降下攻撃、風圧による攪乱、嘴への魔力集中を確認。
飛行継続能力を削ぐため翼部を優先損傷。
討伐完了後、首部を討伐証明対象として確認。
魔力核、風切羽、鉤爪、嘴、翼膜良品を高位素材として回収対象。
肉および損傷素材の一部は現地補填分。
廃棄部位、血を吸った巣材、傷み羽根、内臓部は焼却処分指示。
さらに続く。
砦跡周辺三日封鎖。
放牧範囲一時縮小。
見張りは二人一組。
処分場所は風下、水場近辺不可。
一週間後に再確認推奨。
最後に、現地Cランクパーティの撤退判断について書いた。
接触初期時点で個体識別困難。
上位個体相手に戦闘継続していれば死者が出た可能性が高い。
撤退および報告を優先した判断は妥当。
そこまで書き終え、ナタリアは筆を置いた。
インクが乾くのを待つ間、バルドは黙って報告書を読んでいた。
読み終えてから、低く笑う。
「討伐報告ってより、現場管理報告だな」
「討っただけでは戻せないでしょう」
「そうだな」
バルドは報告書の端を指で軽く叩いた。
「Aの報告書だ」
その言い方には、皮肉ではない重みがあった。
ナタリアは肩を少し回す。
「それなら結構」
ミリアが横から覗き込み、丁寧に頷いた。
「現地への追加連絡はこちらで処理します。再確認依頼も、一週間後に組めるよう仮登録しておきます」
「お願い」
「素材の方も確認しますね」
ミリアは別の紙を出した。
「グリフォン上位個体の素材記録です。現地からの一次報告とロイドさんの立ち会い記録が届き次第、正式処理になります」
紙面には素材名が並んでいた。
魔力核。
風切羽。
鉤爪。
嘴。
翼膜良品。
毛皮一部。
肉。
損傷素材。
廃棄部位。
レオナが横から覗く。
「こうして見ると、やっぱり高位魔物って素材の塊ね」
「危険も塊だけれど」
「まあね」
ミリアが確認する。
「全て売却されますか?」
ナタリアは即答しなかった。
紙面を見たまま、少し考える。
「現金化する分と、預ける分を分けるわ」
バルドが片眉を上げた。
「堅いな」
「高位素材は、金に替えるより使った方が高い場合があるでしょう」
「分かってるじゃねえか」
「売るなら後でも売れるもの」
「それもそうだ」
ミリアは筆を持ち直す。
「では、仮で区分します。魔力核は?」
「ギルド預かり。フォルティウスの調整に使えるか確認したいわ」
ミリアが頷く。
「風切羽は?」
「半分預かり。残りは売却候補。ただし価格を見てから」
「鉤爪と嘴は?」
「良品を一組ずつ残して、残りは売却。加工先の候補も見せて」
「翼膜は?」
ミリアがそこで少しだけレオナを見た。
「翼膜と風切羽は、レオナさんの外套や軽防具にも使えます」
レオナが目を瞬かせる。
「私の?」
ナタリアは当然のように答えた。
「横に立つなら、装備も横に合わせる必要があるでしょう」
レオナは一拍置いてから、軽く額へ手を当てた。
「そういうこと、さらっと言うのやめない?」
「必要なことを言っただけよ」
「だから、その必要なことをさらっと言うのよ」
「言い方を変えればよかった?」
「たぶん変わらないわね」
バルドが小さく笑う。
「いい判断だ。Bになったなら、装備も一段上げた方がいい」
レオナは少し困ったように肩を竦めた。
「急にB扱いが増えたわね」
「実際Bだろ」
「そうなんだけど」
ナタリアはレオナを見る。
「嫌?」
「嫌じゃないわ」
レオナは少しだけ視線を逸らした。
「ただ、慣れないだけ」
その声は軽かったが、完全な冗談ではなかった。
ポンタが床から顔を上げる。
「妾の装備は?」
「首輪?」
ナタリアが即答すると、ポンタの耳がぴんと立った。
「断固拒否じゃ」
「似合うかもしれないわよ」
「妾を犬扱いするでない」
「犬ではないものね」
「当然じゃ」
レオナが笑いを堪えきれずに吹き出した。
「ポンタちゃん、肉の次は装備なのね」
「戦う者には相応の扱いが必要じゃ」
「首輪は嫌なのに?」
「首輪は違う」
ミリアも口元を押さえている。
素材の区分はそのまま決まった。
魔力核はギルド預かり。
風切羽の半分も預かり。
翼膜の良品はレオナ装備候補として保留。
鉤爪と嘴は一部加工候補、一部売却。
毛皮とその他の使いやすい部分は換金。
現地補填分はそのまま処理。
ポンタ用の肉は少量確保。
最後の項目をミリアが真面目に記録した時、レオナはまた笑った。
「本当に記録に残るのね、ポンタちゃん用」
「依頼処理でしょう」
ナタリアが答える。
「主は分かっておる」
ポンタは満足そうだった。
「分かってはいないわ。あとで騒がれると面倒なだけよ」
「それでも肉は来る」
「そこは否定しないわ」
報告と素材処理が終わる頃には、ギルドの中は完全に夜の空気になっていた。
酒場側からは笑い声が強くなり、受付の混雑も少し落ち着いている。依頼の報酬精算は仮で済み、素材の正式査定は翌日以降に回ることになった。
ミリアが最後に確認する。
「今日はこのままお帰りですか?」
「ええ」
ナタリアが答えると、レオナが横から言った。
「軽く飲まない?」
「ギルドで?」
「宿でもいいわ」
ナタリアは少しだけ考えた。
ポンタがこちらを見る。
「肉は?」
「宿で聞くわ」
「なら宿じゃ」
レオナが呆れたように笑う。
「決定権、ポンタちゃんに寄ってない?」
「寄せたつもりはないのだけれど」
「でも今、完全に肉で決まったわよね」
「気のせいよ」
バルドが奥から声を投げた。
「明日は来られるか」
「午前中には」
「素材の正式査定を回す。あと、加工屋の候補も出しておく」
「助かるわ」
「Aになったんだ。金の使い方も考えろ」
「考えているわ」
「そういう顔だな」
ギルドを出ると、王都の夜気が肌に触れた。
戦闘後の疲労、報告書を書き終えた後の少し鈍い頭、素材処理まで済ませた安心感。そういうものが、夜の空気で少しずつほぐれていく。
石樽亭へ戻ると、女将は三人と一頭を見て、すぐに眉を上げた。
「遅かったね」
「報告を書いていたの」
「だろうと思ったよ」
女将はポンタを見る。
「で、その顔は何だい」
「肉じゃ」
「本当に持ち帰ったのかい」
女将がナタリアを見る。
ナタリアは少しだけ肩を竦めた。
「約束してしまったので」
「主は約束を守る」
ポンタが誇らしげに言う。
レオナが隣で吹き出した。
「肉の約束で誇らしげにしないで」
「重要な約束じゃ」
「重要の基準が肉なのよね」
女将は呆れながらも、厨房へ顔を向けた。
「高位魔物の肉なんて、うちで雑に焼けるもんじゃないよ。少しだけなら火を通してやるけど、変な味でも文句言うんじゃないよ」
「文句は言わぬ」
「本当かい?」
「肉は肉じゃ」
「ああ、そういう子だったね」
女将は苦笑して、奥へ引っ込んだ。
席に着くと、すぐに温かい料理が出てきた。煮込み、焼いた肉、黒パン、香草を散らした野菜。ナタリアには軽い酒、レオナには少し強めの酒が置かれる。
ポンタには、別皿で小さく切った肉が出た。
グリフォンの肉ではない。
まずは宿の肉だった。
「本命は後じゃ」
「今あるものを食べなさい」
「食べる」
ポンタは素直に肉へ向かった。
レオナは杯を持ち上げ、一口飲む。
「ようやく終わった感じがするわ」
「報告が終わったから?」
「それもあるけど、宿に戻ったからかしらね」
「あなたも馴染んできたのね」
「そうかも」
レオナは少しだけ笑った。
ナタリアは軽く酒を含む。
疲労した身体へ、熱が静かに落ちていく。強い酒ではない。けれど、仕事を終えたあとにはこれくらいでちょうどいい。
しばらくは、今日の戦闘や素材の話を軽くした。
風切羽がいくらになるか。
翼膜で外套を作るなら、どの程度軽くできるか。
鉤爪を短剣にするのは実用的か。
魔力核をフォルティウスの調整に使うなら、王都のどの職人がいいか。
レオナはその話を聞きながら、時々自分の肩や胸元へ手をやった。
ナタリアはその動きを見逃さない。
「気になる?」
「何が?」
「装備」
レオナは少しだけ苦笑した。
「まあね。今まで、身体に合うものを選べたことがあまりないから」
「でしょうね」
「でしょうねって、さらっと言うわね」
「見れば分かるもの」
レオナは杯を置いた。
「今日は、やっぱり少し静かだったわね」
ナタリアが言うと、レオナは目を細めた。
「そういうの、見逃してくれないのね」
「見えたものは仕方ないわ」
「便利な言い方」
「事実よ」
レオナは少し黙った。
酒場のざわめきが、二人の周りに薄く流れている。女将の声、皿の音、ポンタが肉を噛む音。どれも遠くはないのに、その席だけ少し内側へ沈んでいるようだった。
レオナは杯の縁を指でなぞった。
「私、男爵家の三女なのよ」
「そう」
ナタリアは驚かなかった。
レオナが少しだけ眉を上げる。
「驚かないの?」
「貴族出身だとは思っていたわ」
「でしょうね」
レオナは苦笑する。
「隠してたつもりもないけど、言うほどでもなかったのよ」
「男爵家の三女」
「そう」
レオナは杯の中身を見た。
「家を継ぐわけじゃない。政略的にすごく価値があるわけでもない。嫁ぎ先が決まるまで、それなりに大人しくしていればいい。そんな感じ」
「あなたが?」
「無理があるでしょう?」
「ええ」
「即答ね」
「見れば分かるもの」
レオナは少しだけ声を立てて笑った。
「男爵家の三女なんて、家にいても置き場所に困るのよ」
「嫁ぎ先が決まるまで大人しくしていればいい、って顔をされる」
「でも、私は大人しく飾られてるには、少し大きすぎたのよね」
ナタリアは一瞬だけ黙った。
「少し?」
レオナが目を細める。
「そこ?」
ナタリアの視線が、ほんの少しだけ下へ落ちた。
「その胸で?」
レオナは一拍置いて、吹き出した。
「あなた、そういうところ本当に噛むわよね」
「淑女の噛み癖でしょう」
「便利に使いすぎじゃない?」
「使えるものは使うわ」
そこでナタリアは、少しだけ真面目な顔に戻った。
「でも、冗談抜きで面倒だったでしょう」
「何が?」
「令嬢としては目立つ。騎士としては装備が合いにくい。胸当てが浮けば刃を受けた時に逃げが悪いし、締めすぎれば呼吸が浅くなる。動けば揺れる。視線も集まる」
レオナの笑みが、少しだけ薄くなった。
「……そこまで見る?」
「見るわよ。戦う身体でしょう」
ナタリアは淡々と続ける。
「昔から、身体に合わない装備ほど面倒なものはないと思っているだけよ」
レオナが、今度はナタリアの胸元へ視線を落とした。
「あなたも?」
「自分もそれより大きいから分かるのよ」
レオナは少し間を置いてから、肩を震わせた。
「そこでさらっと勝ってくるの、やめてくれない?」
「勝負ではないわ」
「今のは勝ちに来た言い方だったわよ」
「事実確認よ」
「あなたの事実確認、時々とんでもないわね」
ナタリアは何もなかったように酒を口へ運んだ。
レオナは笑っていたが、その笑いには少しだけ別の色が混じっていた。
からかわれたから笑ったのではない。
見られたから笑ったのだ。
胸の大きさも、体格も、剣の扱いも、装備の不都合も。
レオナ自身が長く持て余してきたものを、ナタリアはただの女らしさとしてではなく、戦う身体の問題として見た。
それが、妙に楽だった。
レオナは少しだけ杯を傾ける。
「学園を出てから、騎士団に入ったの」
「家に残らず?」
「残っても、嫁ぎ先を待つだけだったもの」
「剣で立つ方を選んだ」
「そう」
レオナの目が少し遠くなる。
石樽亭の食堂にいるはずなのに、彼女の声だけが少し前の時間へ戻っていく。
「最初は、悪くないと思ったわ」
騎士団に入った頃、レオナはまだ自分の身体と剣の置き場を信じていた。
男爵家の三女として家にいるより、剣を持って立つ方が自然だと思った。
稽古は嫌いではなかった。
型を覚えるのも、体を鍛えるのも、命令系統の中で動くのも、最初はむしろ分かりやすかった。
ただ、すぐに分かった。
騎士団は、剣だけでできている場所ではない。
家格。
上官。
派閥。
男の目。
女の目。
どこまで前へ出るか。
どこまで控えるか。
そういうものが、剣よりも先に来る時がある。
「女にしては強い、って何度も言われたわ」
レオナは笑う。
だが、その笑いは明るくなかった。
「褒め言葉のつもりなんでしょうけどね」
「分かるわ」
「でしょうね」
「それで?」
「前に出すには目立つ。後ろに置くには強すぎる。男爵家の三女だから、上の方の面子に混ぜるには軽い。でも、現場では便利」
「扱いづらいわね」
「そう。扱いづらい女だったのよ」
レオナは自分でそう言った。
騎士団には、悪人ばかりがいたわけではない。
きちんと教えてくれる者もいた。
女だからと侮らず、剣の筋を見てくれる老騎士もいた。
装備の不具合に気づいて、胸当ての締め方を少し変えてくれた女性騎士もいた。
だから、全部が嫌だったわけではない。
ただ、場所が合わなかった。
レオナの背丈も、胸も、剣も、口も、判断も。
少しずつ、騎士団の用意した場所からはみ出していた。
「二年半くらいいたわ」
レオナは言う。
「思ったより長いのね」
「私も最初は、続けるつもりだったのよ」
転機は、ある護衛任務だった。
地方視察に出た小貴族の一行を護衛する仕事。
大きな任務ではない。
騎士団の中でも若手や下位の者が回されるような、ありふれた仕事だった。
だが、道が崩れていた。
雨で足場が緩み、荷車が細い道で詰まった。
そこへ小型魔物の群れが寄った。
数は多くない。
落ち着いて配置を変えれば退けられた。
けれど、上官の判断が遅れた。
前を守るか。
荷を捨てるか。
貴族本人を逃がすか。
その判断の間に、後方が崩れかけた。
レオナは動いた。
命令を待たず、後方の二人を下げ、荷車の片側を切り離し、道を塞いでいた木材を斬った。
魔物の侵入路を一つ潰し、負傷者を出さずに済ませた。
結果だけ見れば、正しかった。
だが、その場を仕切っていた上官の面子は潰れた。
「命令を軽んじた、と言われたわ」
レオナは静かに言った。
「被害は減った。でも、そういう話じゃなかった」
ナタリアは黙って聞いている。
「その時に分かったの」
「正しい判断でも、誰が言ったかで潰されることがある」
レオナは杯の中身を揺らした。
「そんなこと、貴族の家にいれば知っていたはずなのにね」
「現場で見ると違うわ」
「そう。違った」
それで、退団した。
逃げたのではない。
泣いて飛び出したのでもない。
しばらく考えた。
残って上を目指す道もあった。
別の隊へ移る話もあった。
だが、レオナは見切った。
騎士団の看板で剣を振るより、自分の名前で依頼を受ける方がまだ息がしやすい。
「それで冒険者に?」
「ええ」
「すぐ馴染んだ?」
「まさか」
レオナは笑った。
「騎士崩れの女よ」
冒険者になってからも、楽ではなかった。
騎士団を辞めた女。
男爵家の三女。
長身で、胸が大きく、顔も目立つ。
剣は使えるが、どこか騎士の癖が残っている。
そういう女は、冒険者の中でも目立った。
守ってやると言われたこともある。
前衛に立てと便利に使われかけたこともある。
逆に、女が目立つと面倒だと嫌がられたこともある。
レオナは一つずつ断った。
剣で黙らせることもあった。
笑って流すこともあった。
必要なら組み、合わなければ離れた。
半年ほど、そうして依頼をこなした。
Dランクとして立てるようにはなった。
だが、まだ場所はなかった。
「前に押し出されるか、後ろに置かれるか」
レオナは呟く。
「どっちも嫌だった」
「横がなかったのね」
「そう」
ナタリアの言葉に、レオナは少しだけ笑った。
「それで、あなたと初めて組んだ」
ナタリアは思い出す。
隣街への小規模輸送護衛。
元騎士の女。
長身で、鍛えた体のまま女でいる人間特有の厚み。
立ち方に型が残っていて、けれど儀礼用の堅さは薄い。
あの時、ナタリアはレオナを見て、現場で戦う女だと思った。
レオナもまた、ナタリアを見ていた。
話している顔で荷と退路を見ている令嬢。
人を斬る判断が異様に早い女。
崩れる場所を先に見る女。
そして、レオナを便利な前衛とも、騎士崩れとも、飾りとも見なかった。
必要な位置に置いた。
ただ、それだけだった。
「私、誰かの後ろに置かれるのも、前に押し出されるのも、どっちも嫌だったのよ」
レオナは静かに言った。
「でも、あなたの横は不思議と楽なの」
ナタリアは少しだけ考えるように瞬きをした。
「横にいるなら、横の仕事をしてくれればいいわ」
レオナは声を出して笑った。
「ほんと、あなたってそういう返しよね」
「変だった?」
「変じゃないわ」
レオナは杯を持ち上げる。
「だから楽なのよ」
少しだけ、沈黙が落ちた。
今度の沈黙は重くなかった。
ポンタが皿の肉を食べ終え、顔を上げる。
「話は終わったか」
レオナが振り向く。
「ポンタちゃん、聞いてたの?」
「肉を食いながら聞いておった」
「どんな器用さよ」
「妾は器用じゃ」
「そこは否定しないけど」
ナタリアはポンタの皿を見た。
「グリフォンの肉はまだよ」
「待っておる」
「本当に食べるのね」
「肉は肉じゃ」
レオナが笑ってから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、うちの四女があなたのことをよく話してたわ」
「四女?」
「妹。今、学院にいるの。あなたを“ナタリアお姉様”って呼んでた一人」
ナタリアは少し考えた。
学園の外縁で会った下位貴族の少女たち。
図書室で重い本を抱えていた子。
礼法で視線の置き方に迷っていた子。
男爵家の四女。
「顔を見れば分かると思うわ」
「でしょうね」
「あなたの妹なら、少し大きいの?」
レオナが目を細める。
「そこ?」
「参考までに」
「胸の参考を何に使うのよ」
「装備と人生設計」
「混ぜないでくれる?」
レオナは呆れたように笑ってから、少し肩をすくめた。
「まあ、あの子もそれなりにあるわよ。私ほどじゃないけど」
「モテる?」
「モテてるようよ。男爵家の四女なのに、縁談はよく来るもの」
「男爵家の四女で?」
「そう。普通なら、そこまで選べる立場でもないんだけどね」
「本人は?」
「あの子はまだ決めてないようだけど」
レオナは杯の中身を少し揺らした。
「私と違って、家にいてもちゃんと場所があるのかもしれないわね」
ナタリアはレオナを見る。
「羨ましい?」
レオナは少し考えた。
「少し」
素直な声だった。
「でも、あの子にはあの子の面倒があるんでしょうね」
「胸があると、縁談が増えるの?」
レオナは吹き出しかけた。
「あなた、そこ本当に拾うわね」
「因果関係の確認よ」
「たぶん、顔と家と性格と胸、全部よ」
「分析が雑ね」
「酔ってるのよ」
「それなら仕方ないわね」
「仕方ないの?」
「酔った人間の分析に精度を求めても無駄でしょう」
「あなた、そういうところほんと容赦ないわ」
レオナは笑いながら杯を置いた。
その顔は、過去を語る前より少しだけ軽くなっていた。
ナタリアはそれを見て、何も言わなかった。
慰める必要はない。
救う必要もない。
レオナは自分で騎士団を出た。
自分で冒険者になった。
半年、一人で剣を振った。
そして今、ナタリアの横にいる。
拾われたわけではない。
救われたわけでもない。
ただ、自分の足で立てる横の場所を見つけただけだ。
ポンタが満足そうに口元を舐めた。
「横に立つなら、飯も横で食うものじゃ」
ナタリアは即座に返す。
「それは違うと思うわ」
レオナが笑った。
「でも、今日はそれでいいわ」
石樽亭の夜は、いつも通りに続いている。
皿の音。
女将の声。
遠くの客の笑い声。
ポンタが肉を待つ気配。
その中で、レオナは杯をもう一度持ち上げた。
「横に立つまで、ずいぶんかかったわ」
ナタリアも杯を持つ。
「今、立っているなら十分でしょう」
「ほんと、あなたらしい」
「褒め言葉として受け取るわ」
「ええ。褒めてる」
二つの杯が、軽く触れた。
救済の音ではなかった。
同情の音でもない。
ただ、同じ場所に立つ者同士が、今日の仕事を終えた音だった。




