第44話 斬るかどうかを決める仕事
石樽亭の朝は、昨日より少しだけ静かだった。
静かと言っても、宿そのものが静かなわけではない。階下ではいつも通り鍋の蓋が鳴り、女将の声が飛び、孫娘がポンタの名前を呼んでいる。下働きの少年が桶を運ぶ音もするし、食堂では早立ちの客が椅子を引いている。
ただ、部屋の中の空気が少し違った。
レオナが移ってきてから、部屋には二人分の朝がある。
ナタリアは窓を開け、王都の朝気を入れた。春先の空気は冷たすぎず、まだ昼の熱もない。石畳と土と、遠くのパン屋の匂いが薄く混じっている。
レオナは寝台の上で片腕を額へ乗せていた。
「起きてる?」
「起きてるわよ」
声だけは返ってくる。
ナタリアは髪をまとめながら横目で見た。
「なら起きたら?」
「起きてると言っただけで、動くとは言ってないわ」
「面倒な言い方ね」
「朝は少し面倒でいたいの」
床ではポンタが窓際を占領していた。灰銀の毛並みが朝の光を受けて、少しだけ白く見える。耳だけ動かし、目は半分閉じている。
「主らは朝からよく喋るの」
「あなたも喋ってるでしょう」
「妾は必要な時だけじゃ」
「今のは必要だったの?」
「朝の確認じゃ」
レオナが寝台の上で笑った。
「ポンタちゃん、ほんと偉そうよね」
「事実、妾は偉い」
「はいはい」
支度を済ませて階下へ降りると、女将が二人と一頭を見て、いつものように皿を置いた。
「今日は三人で行くのかい」
「ええ」
ナタリアが答えると、女将はスープを盛りながら少しだけ目を細めた。
「昨日あたりから、ギルドの方が少し騒がしいね」
「何か来てるのかしら」
「さあね。あたしは宿の飯を作るだけだよ」
そう言いながら、女将はナタリアの皿に具を多めに入れた。
聞かない。
だが察してはいる。
石樽亭はそういうところがいい。
孫娘がポンタの前へ小さな肉片を置いた。
「ぽんた、きょうもおしごと?」
「仕事じゃ」
「がんばる?」
「肉次第じゃ」
「おにく、だいじ?」
「非常に大事じゃ」
ナタリアは匙を止めた。
「仕事の基準を肉にしないの」
「では何にする」
「依頼内容」
「それは主が見るものじゃ」
「開き直ったわね」
レオナが肩を揺らして笑いながらパンをちぎる。
「いいじゃない。ポンタちゃんは肉担当で」
「そんな担当はないわ」
「作ればいいのよ」
「作らない」
朝食を終えると、三人は王都ギルドへ向かった。
王都の通りはいつも通りだった。荷車が動き、露店が火を入れ、店先の掃除をする女が水を撒いている。だが、ギルドへ近づくにつれ、冒険者たちの視線が少し変わる。
ナタリアはもう、それに慣れつつあった。
Aランク。
その札は、実際の重さ以上に周囲の目を変える。
若い女だから見られるのではない。
綺麗な顔だから見られるのでもない。
Aの札を持つ者として見られる。
その変化は、時々鬱陶しい。
だが、便利でもある。
ギルドに入ると、ミリアはすぐに顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
レオナも軽く返す。
ミリアはいつもより表情を引き締めていた。
「バルドさんが奥でお待ちです」
「来て早々ね」
「はい。A向けの依頼です」
その一言で、近くにいた冒険者がちらりとこちらを見た。
声に出して何か言う者はいない。
だが空気が少しだけ変わる。
A向け。
その言葉だけで、依頼棚の下の方とは違う重さが生まれる。
奥の机にはバルドがいた。
ガレスも壁際にいる。腕を組み、あまり表情を動かさないままこちらを見ていた。
バルドの前には、広げられた地図と依頼票が置かれている。
「来たか」
「ええ」
ナタリアは机の前に立つ。
レオナは一歩横に。
ポンタは当然のように机の下へ潜り込みかけたが、ナタリアが視線だけで止めると、渋々横へ出た。
「今回の依頼は?」
ナタリアが訊くと、バルドは地図の一点を指した。
「王都から北東へ半日強。ファルケン領の外れだ」
地図には、森と古い砦跡が記されていた。
「森砦跡?」
「昔の見張り砦だ。今は使っちゃいねえ。周辺は牧場と小村、あと細い街道が一本通ってる」
バルドは次に、依頼票を押し出した。
「家畜が攫われてる。最初は狼か、大型鳥だと思われていた」
「違った?」
「現地のCが一組、確認に出た。追い返された」
レオナの眉が少し動く。
「死者は?」
「一人重傷。二人軽傷。撤退はできた」
「それで?」
「羽根が出た」
バルドは机の上に包みを置いた。
布を開くと、大きな羽根が一本入っていた。
長い。
ただの鳥の羽ではない。根元に硬い魔力の残りがある。
ポンタが鼻をひくつかせた。
「獣と鳥が混じった匂いじゃ」
「グリフォン系?」
ナタリアが言うと、バルドは頷いた。
「上位個体の可能性がある」
周囲の空気がさらに重くなる。
グリフォン。
獅子の胴に猛禽の頭と翼を持つ魔物。
空を使い、爪で攫い、巣を作ればその周辺を狩場に変える。
一体なら小規模に見える。
だが、放置すれば街道が死ぬ。牧場が死ぬ。村が外へ出られなくなる。
バルドは指で地図を叩いた。
「強い魔物が一体いる」
短く言う。
「だが、問題は強さだけじゃねえ」
ナタリアは黙って続きを待つ。
「飛ぶ。逃げる。戻る。家畜を攫う。人を覚えれば狙う」
バルドの声は低い。
「斬れる奴じゃなく、斬るべきか、どう斬るかを決められる奴が要る」
ナタリアは依頼票を取った。
討伐依頼ではある。
だが、文面には「現地危険度確認」「討伐可否判断」「周辺封鎖指示」「必要時討伐」と書かれている。
ただ倒せばよい依頼ではない。
Aランクが求められているのは、剣の腕だけではない。
判断だ。
「Aの仕事ね」
ナタリアが言うと、バルドは短く返した。
「そうだ」
レオナが地図を覗き込む。
「私は同行していいの?」
「Bだ。問題ねえ」
バルドはレオナへ視線を向けた。
「ただし、判断はナタリアだ。お前は横で支えろ」
レオナは少しだけ目を細め、それから笑った。
「分かってるわよ」
その返事は軽い。
だが、どこかに引っかかりがあった。
Bとして扱われる。
同行を許可される。
役割を明確に置かれる。
そのことが、レオナの中で何かに触れたようだった。
ナタリアはそれに気づいたが、その場では何も言わなかった。
ミリアが必要書類を整える。
「現地には代官と、撤退したCパーティの一人が残っています」
「現地案内ね」
「はい。ただ、戦闘には参加させない方がよいかと」
「見てから決めるわ」
「承知しました」
ガレスが壁際から声を投げた。
「今回は、派手にやればいい仕事じゃねえぞ」
「分かってるわ」
「本当に分かってる顔だな」
「顔で判断しないで」
「顔以外も見て言ってる」
ナタリアは依頼票を畳み、腰の袋へ入れた。
「出るわ」
「早いな」
バルドが言う。
「飛ぶ相手に時間を与えていいことは少ないでしょう」
「その通りだ」
ギルドを出る時、レオナが横に並んだ。
「A向けって、やっぱり説明から重いわね」
「そうね」
「あなた、平気そう」
「平気ではないわ」
「そう?」
「重いと分かっているだけよ」
レオナは少しだけ黙り、それから笑った。
「あなたらしいわ」
ファルケン領までは馬車を使った。
王都を出ると、道の空気は少しずつ変わっていく。石畳が減り、土の道になり、左右に畑が広がる。さらに進めば、牧草地と林が混ざるようになった。
ポンタは馬車の床で丸くなっていたが、時々鼻を上げて外の匂いを確かめている。
「匂う?」
「まだ遠い」
「ならいるのね」
「大きい鳥獣の匂いはある」
「グリフォンで合っていそう?」
「近づけば分かる」
レオナは窓の外を見ていた。
風に揺れる草。遠くの牧場。ところどころに見える柵の壊れ。羊の群れがやけに低い場所に寄せられている。
「放牧を下げてるわね」
「ええ」
ナタリアも見ていた。
「被害が出てから動いたのでしょう」
「もっと早く分かれば?」
「それができないこともあるわ」
レオナが横目で見る。
「珍しく優しい言い方」
「現地に来ていないうちから責めても意味がないもの」
「それもそうね」
領地の小さな詰所へ着くと、代官が出迎えた。
四十前後の細身の男で、顔色は悪い。だが服装は整えている。無能というより、寝不足と緊張で削られている顔だった。
「王都ギルドより派遣の方々でいらっしゃいますか」
「ナタリア・ヴォルディアです」
名乗ると、代官の目がわずかに大きくなった。
貴族名に反応したのか、Aランクの名に反応したのか、あるいは両方か。
すぐに彼は頭を下げた。
「ファルケン領代官、オルド・ベルナーです。お待ちしておりました」
「状況を」
「はい」
詰所の中へ案内される。
簡素な卓に、現地の略図が広げられていた。
代官は指で場所を示す。
「最初の被害は七日前です。羊二頭が消えました」
「死骸は?」
「見つかりませんでした」
「二度目は?」
「四日前。山羊一頭。首と脚の一部だけが林で見つかりました」
「三度目」
「昨日未明です。牧夫が影を見たと。大きな翼があったそうです」
ナタリアは地図を見る。
被害地点は、森砦跡を中心に弧を描いている。
「巣を作るなら砦跡ね」
代官の顔が強張る。
「やはり、そうでしょうか」
「まだ断定はしないわ」
ナタリアは顔を上げた。
「現地冒険者は?」
奥にいた男が一歩出た。
右腕に包帯を巻いている。年は三十前後。顔には疲労と悔しさが残っていた。
「Cランクのロイドです」
「怪我は?」
「腕を裂かれました。骨は無事です」
「見たの?」
「一瞬だけです」
ロイドは唇を噛んだ。
「上から来ました。影に気づいた時には、もう一人が倒されていました。爪で持っていかれかけたのを、どうにか引き戻して……」
「撤退判断は?」
「俺です」
「正しいわ」
ロイドが驚いたように顔を上げる。
「え?」
「そのまま粘っていたら死んでいたでしょう」
ナタリアは淡々と言った。
「撤退できたなら、判断は間違っていない」
ロイドの顔が、少しだけ歪んだ。
悔しさを抱えたまま、それでも救われたような顔だった。
レオナがその表情を見て、ほんの少し視線を落とした。
ナタリアはそこも見ていたが、まだ触れない。
「案内はできる?」
「できます」
「戦闘には入らないで」
「分かっています」
「分かっているならいいわ」
森砦跡へ向かう道は、細かった。
牧場の柵を越え、林の中へ入る。地面には枝が落ち、馬車は途中から使えなくなった。そこからは徒歩になる。
ロイドが先導し、その後ろをナタリア、レオナ、ポンタが続く。代官は詰所に残した。現場で足手まといを増やす必要はない。
森の中は静かだった。
静かすぎるほどではない。
鳥の声はある。虫の音もある。
だが、ある範囲から急に小動物の気配が薄くなる。
ポンタが鼻を低くする。
「ここからじゃ」
「匂いが濃い?」
「獣。血。羽。古い石」
「砦跡ね」
ナタリアは足を止め、地面を見る。
折れた枝。
落ちた羽毛。
土に深く入った爪痕。
爪痕は大きい。
ただの大型鳥ではない。
レオナがしゃがんで、爪痕の長さを指で測った。
「大きいわね」
「ええ」
「上位個体で間違いなさそう?」
「たぶん」
ナタリアは木の幹に残る傷を見た。
高い位置に、爪が引っかいた跡がある。
その下に血の擦れ。
家畜をここへ一度下ろしたか、運ぶ途中でぶつけたか。
「ただ狩っただけじゃないわね」
ロイドが顔を強張らせる。
「どういう意味ですか」
「運ぶ先を決めている」
ナタリアは砦跡の方を見る。
「この森を狩場として覚え始めているわ」
レオナが静かに訊く。
「討つの?」
ナタリアはすぐには答えなかった。
風を見る。
枝の揺れを見る。
匂いの流れをポンタに任せる。
「まず、追い払って済む相手かを見るわ」
「追い払えるなら?」
「その方が安く済む場合もある」
「あなた、そういうとこ本当に実務よね」
「仕事でしょう」
森砦跡は、半分崩れていた。
石壁の一部だけが残り、見張り台だったらしい高所が斜めに傾いている。苔と蔦が絡み、地面には古い瓦礫が散らばっていた。
その上部に、枝や草、獣毛が集められている。
巣材だった。
ナタリアはそれを見上げる。
「始めてるわね」
レオナが剣に手をかける。
「巣作り?」
「ええ」
ポンタが低く唸った。
「来るぞ」
その声と同時に、森の空気が変わった。
上から影が落ちる。
ロイドが反射的に身を縮める。
ナタリアは彼の襟首を掴み、横の石壁の陰へ押し込んだ。
「下がって」
言い終えるより早く、風が叩きつけた。
大きな翼。
獅子の胴。
鉤爪。
猛禽の頭。
グリフォンだった。
通常よりも大きい。羽の根元に濃い魔力があり、目が妙に澄んでいる。飢えた個体の乱暴さだけではない。こちらを見ている。観察している。
グリフォンはすぐには襲ってこなかった。
砦跡の上を旋回する。
人間の位置を見ている。
逃げ道を見ている。
誰が前に出るかを測っている。
ナタリアはその動きを見て、決めた。
「追い払っても戻るわね」
レオナが横に立つ。
「なら?」
「討つ」
声は静かだった。
その瞬間、レオナの顔から笑みが消える。
ポンタの毛がわずかに逆立つ。
ロイドは石壁の陰で息を殺していた。
グリフォンが翼を打った。
砂と小石が巻き上がる。
視界が薄く揺れる。
ナタリアはフォルティウスを抜いた。
刃が薄く光る。
まず、風を通す。
風は斬るためだけではない。羽ばたきの流れを見るために、刃先から薄く広げる。グリフォンの翼がどちらへ空気を押し、どこで浮きを作り、どこで高度を保っているのかを拾う。
剣が手の中で応えた。
次に、刃の芯へごく細い雷を通した。
焼くほどではない。
ただ、触れた時に一瞬だけ筋を狂わせる程度の痺れ。
火はまだ使わない。
水もまだ置かない。
まずは相手の癖を見る。
「レオナ、左を開けて」
「了解」
「落とす場所を作るわ」
「どこ?」
「崩れた石壁の前」
レオナは一瞬だけ地形を見た。
すぐに理解する。
崩れた石壁の前は開けている。だが足元は完全な平地ではない。グリフォンが爪を下ろせば、着地の時に一瞬だけ姿勢が崩れる。
「ポンタ」
「分かっておる」
「まだよ」
「妾に指図が多い」
「仕事中よ」
「知っておる」
グリフォンが降下した。
狙いはレオナだった。
体格があり、前に出ている。爪で引っかけやすいと見たのだろう。
レオナは真正面から受けない。
一歩引き、さらに半歩横へ流れる。剣で爪を止めるのではなく、角度を変えて受け流す。
火花が散った。
重い。
爪の一撃だけで、地面に線が走る。
だが、レオナは飛ばされない。
「っ、重いわね」
「下がりすぎないで」
「分かってるわよ」
ナタリアは横薙ぎにフォルティウスを振った。
風の刃はグリフォンの胴を裂くほど深くは入れない。進路を少しだけずらす。翼が空気を掴む位置を狂わせ、着地の角度を乱す。
グリフォンの右翼がわずかに落ちた。
その翼端へ、ナタリアは刃先から小さな雷を飛ばした。
白い光が一瞬走る。
グリフォンが鳴いた。
痛みではない。驚きに近い声だった。
羽ばたきが乱れ、再上昇が半拍遅れる。
「効くわね」
ナタリアが言うと、ポンタが鼻を鳴らした。
「鳥のくせに高く飛びすぎじゃ」
「鳥じゃないわ」
「翼があるなら似たようなものじゃ」
グリフォンは上へ戻る。
今度は距離を取った。
頭がよい。
一度触れた雷を覚えた。次は同じ角度では来ない。
ナタリアはフォルティウスを軽く下げ、足元へ魔力を流す。
水を薄く作る。
地面を濡らすほどではない。砦跡の崩れた石と砂の間に、わずかな湿りを置く。光れば気づかれる。だから見えない程度に薄く。
その水の筋を、風で散らさず留める。
足を取るための罠ではない。
着地の踏ん張りを、一瞬だけ遅らせるためのものだ。
レオナが横目でそれを見た。
「今、何か置いた?」
「滑る場所を少し」
「性格悪いわね」
「褒め言葉として受け取るわ」
グリフォンが二度目の降下に入った。
今度は真正面ではない。
上から来ると見せて、途中で翼を返し、横から風だけを叩きつけてくる。
砂が巻き上がる。
ロイドが石壁の陰で顔を伏せる。
レオナが前へ出ようとする。
「出ないで」
ナタリアが止めた。
「誘われてる」
グリフォンは上空で鳴いた。
甲高く、耳に刺さる声。
ポンタが牙を見せる。
「癪に障る声じゃ」
「同感」
ナタリアはフォルティウスの刃先へ火を灯した。
炎ではない。
赤く細い熱の筋。
それを瓦礫の脇へ走らせる。
燃やすためではない。グリフォンが次に爪を置ける場所を、熱と光で嫌わせるためだ。目のよい魔物ほど、急な火を嫌う。
グリフォンは一瞬、その火筋を避ける動きを見せた。
その動きで、落とせる位置が少し絞れる。
「レオナ、半歩右」
「はいはい」
「その先は開けないで」
「開けない」
グリフォンが三度目の降下に入った。
今度は本気だった。
爪はナタリアへ。
嘴はレオナへ。
翼でポンタを払うつもりだ。
まとめて崩しに来ている。
「ポンタ」
「ようやくか」
「まだ吠えない」
「またか」
「翼が下がったら」
「注文が多いの」
ナタリアは踏み込まず、逆に半歩引いた。
グリフォンの爪が地面を裂く。
その足が、先ほど薄く水を置いた石へ乗った。
一瞬だけ滑る。
本当にわずかだ。
普通の相手なら気づかない程度。
だが、空を使う魔物にとって、着地の一瞬の遅れは大きい。
翼が開く。
体勢を戻すために、大きく空気を掴む。
「今」
ポンタが前へ出た。
小さな身体から、似つかわしくない圧が広がる。灰銀の毛がざわりと立ち、青い目が深く光る。
次の瞬間、咆哮が森砦跡に響いた。
仔犬の声ではない。
森そのものが一瞬怯むような、低く古い咆哮だった。
グリフォンの翼が乱れた。
風を掴むはずの羽ばたきが、一瞬だけ空を逃す。
ナタリアはその隙に、火の筋をさらに横へ走らせた。
進路を塞ぐ。
追い込む。
逃げ道を一つずつ消す。
レオナが左へ抜け、グリフォンの着地点を誘導する。剣で爪を真正面から受けず、斜めに滑らせる。爪が石に噛み、火花が散る。
その爪の根元へ、ナタリアはもう一度雷を飛ばした。
細い雷が走る。
爪の力が一瞬抜ける。
「ナタリア!」
レオナの声が飛ぶ。
十分だった。
ナタリアは踏み込んだ。
全身に強化を通す。
フォルティウスの風を刃へ纏わせる。
刃の芯には、まだ薄い雷が残っている。
風で斬る。
雷で鈍らせる。
水で崩した足場を、火で逃げ場ごと縛る。
グリフォンは立て直そうとした。
翼を広げる。
だが、その翼の付け根へナタリアの刃が入った。
まず翼を断つ。
グリフォンが絶叫する。
巨体が傾く。暴れる爪が地面を抉る。
レオナが二撃目の爪を受け流し、ポンタが後脚へ噛みつく。正確には噛みつく寸前で圧をかけ、動きを止めた。
「首」
ナタリアの声は短い。
レオナが反対側を塞ぐ。
逃げる筋が消える。
グリフォンが嘴を開いた。
風が集まる。
魔力を帯びた突風を吐くつもりだ。
ナタリアは火を小さく弾いた。
炎そのものではなく、熱と光を顔の前で散らす。
グリフォンの視界が一瞬揺れる。
同時に、ナタリアは足元の水を風で跳ね上げた。血と土を含んだ水が羽の残った根元に散り、重くまとわりつく。
ほんの一瞬、首の振りが鈍る。
その前に、ナタリアは剣を振った。
風を纏い、雷を薄く走らせたフォルティウスが、首筋へ通る。
刃が抜けた瞬間、音が遅れて来た。
大きな頭部が地に落ちる。
巨体が崩れ、森砦跡の土を揺らした。
しばらく、誰も動かなかった。
レオナが息を吐く。
「……一体でこれね」
「一体だから厄介なのよ」
ナタリアは剣を下げた。
「群れなら分かりやすい。単独の上位個体は、逃げて戻る」
「放っておけば?」
「ここを狩場にしたでしょうね」
ポンタが死骸の周りを一度回って、鼻を鳴らした。
「肉は?」
「まず討伐確認」
「肉は?」
「順番」
「主は時々冷たいの」
「仕事中よ」
石壁の陰からロイドが出てきた。
顔色は悪い。だが、目は逸らしていない。
「……討伐、確認しました」
「まだ終わりじゃないわ」
ナタリアが言うと、ロイドはすぐに姿勢を正した。
「何をすれば」
「ギルドの記録を。首は討伐証明。魔力核は確認後、こちらで預かるわ」
ロイドが慌てて記録板を取り出す。
ナタリアは死骸を見下ろした。
「風切羽と鉤爪も剥ぎ取り対象。翼膜は傷みの少ない部分だけ。嘴も使えるでしょうね」
「素材も取られるのですね」
ロイドが一瞬だけ目を丸くした。
「高位魔物よ。放置する方がまずいわ」
レオナが血のついた爪を見下ろしながら、少し笑った。
「今回は全部寄贈じゃないのね」
「理由が違うわ」
ナタリアは淡々と答えた。
「ハルヴェインは街の復興を優先した。今回は通常の討伐依頼。素材を正規に回収して、必要分を現地へ補填する」
「冒険者らしいわね」
「冒険者でしょう」
ポンタが死骸の周りをもう一度回って、鼻を鳴らした。
「肉は?」
「一部は現地へ」
「妾の分は?」
「交渉しなさい」
レオナがグリフォンの巨体を見下ろし、少し顔をしかめた。
「美味しくないんじゃなかったの?」
ポンタはレオナの方へ顔だけ向けた。
「美味いとは言っておらぬ」
「じゃあ、なぜ欲しがるのよ」
「肉は肉じゃ」
ナタリアが剥ぎ取り箇所を確認しながら、何でもない顔で言った。
「まあ、肉は肉かしら」
「あなたまで?」
「食べるかどうかは別よ。分類の話」
「分類で肉を見ないでくれる?」
ポンタは今度はナタリアを見上げた。
「主」
「何」
「妾の分は?」
ナタリアは少しだけ息を吐いた。
「仕方ないわね。ポンタの分もよけてもらうわ」
ポンタの耳が立つ。
「分かっておるではないか」
「分かってはいないわ。依頼中に肉のことで騒がれると面倒なだけよ」
レオナが呆れたように笑った。
「そこまでして肉が欲しいのね」
「肉は肉じゃ」
「便利な言葉にしてない?」
ロイドはそのやり取りを聞きながら、どういう顔をすればいいのか分からない様子だった。だが、記録は止めていない。
ナタリアは死骸の状態をもう一度確認する。
「剥ぎ取りはギルド立ち会い。代官にも確認させて」
「はい」
「現地補填分は肉と、傷みのある毛皮の一部。保存が利くように処理できるなら、村へ回して」
「分かりました」
「魔力核、風切羽、鉤爪、嘴、翼膜の良品は淑女の噛み癖の取り分として王都ギルドへ」
ロイドは頷きながら書き込む。
「それと、廃棄部分は早めに処分して」
「焼却で?」
「ええ。羽根や内臓の傷んだ部分、血を吸った巣材も一緒に。放置すると匂いで別の魔物が寄るわ」
ロイドの顔が引き締まる。
「すぐ手配します」
「処分場所は風下に。水場の近くは避けて」
「風下、水場を避ける、ですね」
「あと、見張りを一人では置かないで。匂いにつられた小型が来た時に、連絡役がいないと遅れるわ」
「二人一組で置きます」
「ええ」
ナタリアは剣を拭い、ようやくフォルティウスを鞘へ戻した。
詰所へ戻ると、代官は討伐の報を聞いて心底安堵したようだった。
だが、ナタリアの指示を聞くにつれて、少しずつ困惑が混じる。
「砦跡周辺は三日封鎖」
「はい」
「死骸の処理はギルド立ち会い」
「はい」
「巣材は焼却」
「家畜の放牧範囲を一時的に下げる」
「空を見張る者を二人一組で置く」
「一週間後に再確認」
代官はそこで、とうとう口を挟んだ。
「あの、討伐されたのに、まだ封鎖を?」
ナタリアは顔を上げた。
「討ったことと、戻していいことは別です」
代官は黙った。
「魔物が使った場所には、匂いと痕跡が残ります。砦跡は高所もあり、次の個体が来てもおかしくない」
「ですが」
「三日で済ませたいなら、今日中に巣材を焼き、血と肉片を残さないこと。死骸の処理場も決めてください」
代官は背筋を伸ばした。
「承知しました」
「それから、撤退したCパーティの判断は責めないで」
ロイドが驚いて顔を上げる。
代官も目を瞬かせた。
「撤退は正しい判断です。報告が上がったから、今回この段階で処理できた」
「……分かりました」
代官は深く頭を下げた。
「そのように扱います」
レオナはそのやり取りを黙って見ていた。
ナタリアは戦った。
討った。
そして今、戻し方を決めている。
現地の人間はその言葉を聞いて動く。代官も、負傷したCランクも、領兵も。
Aランクの仕事。
その重さが、ようやく目の前の形になって見えた気がした。
帰りの馬車の中、レオナはしばらく静かだった。
窓の外には夕方の牧草地が流れている。行きよりも空が広く見えた。家畜はまだ低い場所に寄せられているが、人の動きには少しだけ安堵が戻っている。
ポンタは床で丸くなっていた。
「今日の肉は持ち帰れるのか」
「処理が終わってからね」
ナタリアが返す。
「忘れるでないぞ」
「忘れないわよ。あれだけ言われたら」
「主は約束を守る」
「肉の約束で信用を測らないの」
レオナはそれを聞いて、少しだけ笑った。
だが、すぐにまた窓の外を見る。
ナタリアはその横顔を見た。
「疲れた?」
「少し」
「怪我は?」
「ないわ」
「なら別の疲れね」
レオナが横目で見る。
「あなた、そういうところ鋭いわよね」
「今日は静かだったもの」
「いつも喋りすぎみたいな言い方」
「違うの?」
「否定しづらいわね」
少し沈黙が落ちる。
馬車の車輪が、土の道を一定の音で進む。
レオナは指先で膝を軽く叩いた。
「昔を思い出しただけよ」
「騎士団?」
レオナの手が止まる。
「……そこまで聞く?」
「聞かれたくないなら聞かないわ」
「そういうところも、あなたよね」
レオナは小さく息を吐いた。
「私、昔はああいう現場で、ただ邪魔にならないようにするだけだったのよ」
ナタリアは黙って聞いた。
「前に出れば目立つ。下がれば役に立たない。口を出せば生意気。黙れば飾り」
レオナの声は軽くなかった。
「どこに立っても、少しずつ場所がずれてる感じだった」
「今は違うわね」
ナタリアは静かに言った。
レオナは少し間を置いて、笑う。
「そうね」
窓の外を見たまま続ける。
「そこまでは来たのね」
ポンタが床から顔を上げた。
「横に立つなら、足場は大事じゃ」
「急にまともなこと言うのね」
「妾は常にまともじゃ」
「肉の話をしてたくせに」
「それもまともじゃ」
レオナが吹き出した。
重くなりかけた空気が、少しだけ緩む。
ナタリアは窓の外を見る。
Aランクの依頼は終わった。
強い魔物は討った。
だが、それだけではない。
今日、レオナが何かを思い出した。
そこには、まだ聞いていない話がある。
ナタリアはそれを急いで掘り返す気はなかった。
ただ、横に立つ相手がどこから来たのかを、いずれ知ることになるのだろうとは思った。
馬車は王都へ向かって進む。
夕方の光が、二人と一頭の影を長く伸ばしていた。




